長谷川如是閑が昭和21年の『人間』に「戦争と文学者の責任」というのを書いているのであるが、――こういう穏当なことをいうおじさんをどういう風に扱うか我々の社会はよく分からないのではあるまいか。
如是閑が言っていることは、文学は、社会に対する認識を「個性的に」把握して具体的なかたちで表現するものであって――、その個性に我が国特有の傾向はやはりある。その点、戦争での抑圧はあったが、まあ、それなりの我が国の傾向を示しておった。「傾向文学」をものしていた人の我慢強さもわれわれのものだ。そういうわけで、個性の力による反抗もユーモアも出てくるわけはなかった。というわけで「酌量の余地がないではない」、「執行猶予」が穏当だ、というのである。
教科書的な把握だとは思うし、そりゃ犯人の身内が「執行猶予」と叫んでも裁く方はそんな事情は関係なく裁くべきだと思う――けれども、確かに如是閑みたいに伊勢や源氏に触れているというこんなかんじにみえてこなくはないのかもしれない。戦後文学者たちや国文学・民俗学者たちのがんばりのあとではこんなところで留まっていてはいけないのであるが、如是閑が言うように、speculative な態度というのはこの時期に限らず多く見られ、さまざまな輸入物の概念で盛り上がっている。とりあえず、彼のような把握は大事だと思うのである。文学の教育が必要なのはそういうこともある。例えば戦争の計画は、机上では合理的にやっていた面がある。しかし、人々が実際にどのように動くかというところでかなり勘違いがあったのではなかろうか(それは所謂インパール云々の現実からの遊離のことではなく、竹槍訓練で協同性が高まるとかいう勘違いのことである)。戦後いろいろあって、左翼の勘違いについてはかなり言われてきているのであるが、わたくしが注目しているのは右側の勘違いについてである。これをきちんと矯正しないと、国際関係上、ナショナリスティックにならざるを得ないときにまた大ファールを打ってしまう可能性がある。とにかく、我々は自分に対する把握に異常な勘違いがあり……これでは、国際上、「強い」訳がない。
確かに長谷川如是閑の言ったとおり東京裁判でも日本は根本的には「執行猶予」であった。しかし、次はどうかな……