★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

佐藤春夫へ

2019-06-15 23:41:55 | 文学


大久保典夫氏の「「『風流』論」をめぐる断想」という佐藤春夫論があるが、確か昔読んだはずなのに全く記憶に残っていなかったので、――再読してみると、本題に入るまでが長くエンジンがかかってきて直ぐ終わる。これが記憶に残っていなかった原因ではなかったかと、人のせいにしてみた。

この世代の学者のよいところは、近代文学の作家たちが現役なので、彼らの内実との内的対話が必要だったことだと思う。上のように、本題に入るまでが長いのは、ファイティングポーズをとらなくてはならなかったからであろう。

そして、このポーズによって、なんだかとりあえず氏の主張の本体だけは認めざるをえないような気がしてくる。大久保氏の言いたいのは、ひたすら自らに忠実たらんとした漱石の系譜が佐藤春夫であるということだ。そのために谷崎とか中村光夫みたいな西洋かぶれは退けられなければならない。そして、佐藤が晩年その輝きを失った理由を仄めかしている(はっきり言っていない)。で、我々は佐藤春夫をもう一度読み返してみようと考える。

最近、若手の研究者には、大久保氏のような主張に近づいている者がいる。他ならぬわたくしがそんな傾向があった気がする。研究というのは、あっちへ行ったり上がったり下がったりを繰り返すものであるのでそれもいいと思う。ただ、氏にあったような文学への義務感みたいなものとは遠く離れているのかもしれない。

そんなとき、文学のテキストは逆に障碍にみえはじめるということがあり得る。直接コミットできるのは、むしろ文学ではなく、政治や哲学であるような気がするからだ。――逆に、哲学者、東氏や千葉氏などが、小説という形態に乗り出して、現実へのコミットはむしろ文学によってあり得ると主張したりする。