《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

“ジュッパチ”の全貌と真実が浮き彫りにされた――本の紹介(上):10・8八山﨑博昭プロジェクト編『かつて10・8羽田闘争があった〔寄稿篇〕』

2018-02-14 22:14:48 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって

“ジュッパチ”の全貌と真実が浮き彫りにされた
本の紹介(上):10・8山﨑博昭プロジェクト編『かつて10・8羽田闘争があった 山﨑博昭追悼50周年記念〔寄稿篇〕』

ブログ「新鬼の城」から転載:https://blogs.yahoo.co.jp/kugayama322/65984510.html

 



はじめに

 一九六七年一〇月八日の三派全学連・反戦青年委員会による「佐藤訪ベト阻止羽田現地闘争」は、機動隊の戒厳令的支配を突破する闘争であり、羽田空港周辺にわたって長時間におよぶ大衆的実力闘争で闘われた、日本階級闘争史上に記されるべき一大政治闘争である。この闘争は羽田空港突入を目的として闘われて、空港へと繋がる弁天橋、穴守橋、稲荷橋、首都高から空港へと突入する鈴ヶ森ランプを主な「戦場」にして闘われた。それは《ジュッパチ》として語り継がれてきた。

 三派全学連・反戦青年委員会は行動隊を組織し、一部の者がヘルメット、角材で身を守り、投石などで機動隊の壁を実力で突破せんとする闘争戦術を用いた。そして、早朝から夕方まで闘い抜かれたのである。この闘争の過程で三派全学連の実力闘争に恐怖した機動隊が京大生・山﨑博昭さんを頭部集中乱打で虐殺したことを、渾身からの怒りを持って記憶するべき闘争である。実際に機動隊による闘争弾圧が《殺人》という許しがたい方法でなされたのは、六〇年六月安保闘争において国会前で虐殺された樺美智子さんの死以来の暴挙である。

 本書『かつて10・8羽田闘争があった――山﨑博昭追悼50周年記念[寄稿篇]』は六七年から五〇年を時間的画期点として、山﨑博昭さんの闘争を基軸として構成された。そしてそれは山﨑さんの実兄、高校・大学の友人、知人、関係者などを中心にして立ち上げられた「一〇・八山﨑博昭プロジェクト」により刊行されており、全六一六ページとなる大作である。私も一文を寄稿し、本書刊行に協力でき、また同プロジェクトに参加できて、心から感謝している。私は本書の筆者の一人であるが、本書全体を読むと、私の理解をはるかに超える豊かな経験や知見や思いが詰まっており、実に新鮮な気持ちにさせられた。そのため、本書をより多くの人に紹介したいと思った次第である。

一 本書の概観――画期的な生きた歴史の証言集

 本書は、まず「山﨑博昭の生涯」と題するページを冒頭にして、それに続く「第一部 一〇・八から五〇年を経て」では主に当プロジェクト発起人を中心にし、山﨑プロジェクトの発起人になった理由などを寄稿文で構成する。また、山﨑博昭さんに纏わるエピソードも記されており、山﨑さんを身近に感じることができる。
 次に「第二部 一九六七年一〇月八日 羽田」は、一〇・八当日の参加者による寄稿文で構成する当日の闘いのドキュメントである。もちろん、執筆者個々人がそれぞれ事前に協議して記した文章ではない。それ故に、記している内容が重複する箇所があるが、それはそれで当日の闘争現場の臨場感に迫り来るものがある。
 続けて「第三部 同時代を生きて――山﨑博昭の意志を永遠に」は、必ずしも一〇・八当日の闘争には参加せず、あるいは参加できなかった故に「一〇・八ショック」と言われる言葉に集約されるように「山﨑博昭さんの死」という重い現実を受け止め、爾後の人生に大きく影響を受けた個々人の寄稿文で構成される。

 実際に一〇・八以降ベトナム反戦闘争は燎原の火の如く、大都市はもとより全国津々浦々で職場・学園・地域において広がり、特に米軍基地がある地域ではベ平連などの市民団体による「反基地闘争・反戦米兵との連帯行動」などが広範に展開された。このベトナム反戦闘争はヨーロッパ各国、アメリカ本国で広範に闘われた。さらにチェ・ゲバラが第三世界で「第二・第三のベトナムを!」と提唱し実際にコンゴ・アンゴラ・ボリビアで武装闘争を組織し闘い抜き、折しも六七年一〇月九日にボリビアで戦死している。このような「世界同時闘争」の一角を東アジアで最大の米軍が駐留する日本において「一〇・八」闘争として闘われたことは、現代史的且つ今日的に見ても大きく評価できるものである。

 加えて、六五年末~六六年早稲田大学、六七年明治大学で学費値上げ阻止闘争が学生の大衆的決起で闘われていた。その学園闘争がそれぞれの大学で闘争課題は異なるが、六七年から六八年において全共闘運動として全国で一挙に拡大した。まさに全国学園闘争が圧倒的な学生大衆の決起で日大・東大全共闘を頂点として高揚したのだ。それらの「個別学園闘争」と「一〇・八」とは直接的には繋がらないが、国家権力による「山﨑博昭さん轢殺」でっち上げ攻撃の的となった学生が三派全学連に結集していた日大生であったこと、六八年日大闘争が対右翼・対機動隊との闘争でヘルメットと角材で自衛武装したこと、東大闘争で対民青・対機動隊との闘争で日大と同じく自衛武装したこと、つまり「一〇・八」の闘争形態がそれ以降、必要性に迫られて受容されたことは、その後の運動とそれに伴う闘争の質的飛躍に大きく寄与した。つまり、大衆的実力闘争の原点が「一〇・八」にあったと総括できるのだ。このことは日大闘争に限って言えば、必ずしも政治性・思想性を持たない学生が全共闘運動の過程において「一〇・八」闘争が切り開いた大衆的実力闘争を継続し貫徹する中で、主体的に政治性・思想性の飛躍的獲得をなしたこととして大きな意義があると言える。

 つまり「一〇・八」は一過性の闘争ではなく、その運動内実と闘争形態が国家権力・マスコミの「暴力学生キャンペーン」を完全に粉砕して大衆性・継続性を獲得した闘争であったのだ。事実そのことは、「第三部 同時代を生きて――山﨑博昭の意志を永遠に」の寄稿文が各自の立場で「一〇・八」を踏まえてその後の人生を生き抜き、継承したことを物語っていることでも、確認できよう。

 そして、「第四部 歪められた真実」では、国家権力・マスコミが山﨑博昭さん虐殺を隠蔽し、装甲車を奪取した学生の運転による「轢死説」の一大キャンペーンを張った問題に関して、事実関係の確認作業と、当時弁天橋にいた学生の証言、虐殺された山﨑博昭さんの遺体確認(検死)をした医師の証言、弁護士の証言、さらに東京都監察医務院の医師による「死体検案書」という公文書の公開などで、如何にして「轢死説」が根も葉もないねつ造であるのかを完膚なきまでに暴いている。なお、この件は事実関係の確認と権力犯罪の暴露という意味で決定的に重要な要件であり、詳細的且つ具体的な内容は次章にて改めて検証する。

 このような流れで本書は記載されており、「一〇・八」の意義、参加者・関係者の思い、山﨑博昭さん虐殺の真相に亘るまで本書の内容の深さと重さは、今後とも比肩するものは出ないものと思われる。

二 ついに明らかにされた山﨑博昭さん虐殺の真相

 ここでは「第四部 歪められた真実」で纏められた内容を改めて検証すると共に、それの関係する問題にも波及して記したい。
 まず、鈴木道彦さん(フランス文学者)が「「一〇・八山﨑博昭プロジェクト」のために―権力とメディア―」と題する一文を書かれている。「一〇・八」当時マスコミが権力の意を体して、その闘争を罵倒し、御用学者が「民主主義に反する行為」であると断定するなどの反動の嵐が吹き捲った。この反動の嵐は、山﨑博昭さんの死因を意図的・恣意的に操作するものであり、翌日の新聞などの報道で警察発表である「轢死説」を恰も「事実」であるが如く徹底的に公布していることに、鈴木さんは怒りを持って言及されている。しかもこの「事実」が、権力による「山﨑さん虐殺」を隠蔽し、問題を根本からすり替えて「既成事実化」へと突き進む、まさに権力犯罪として指弾される。
 ことここにおいてメディアは権力報道の道具となり、仮にもメディアの存在理由である「不偏不党」という立ち位置が根本から揺らぎ、権力の「山﨑さん虐殺」を隠蔽するシステムとして成り果てた犯罪性を、鈴木さんは糾弾する。

 次に「一〇・八山﨑博昭プロジェクト」の発起人の一人であり、本プロジェクト事務局長の辻恵氏(弁護士)による「五〇年目の真相究明―山﨑博昭君の死因をめぐって」と題する事実関係究明のレポ―トが収められている。このレポートは、論理的であり且つ諸情報に基づききわめて具体的であり、まず一〇・八の弁天橋上の三派全学連の動きを再現し、その中で山﨑博昭さんの動きを確認する。諸情報とは闘争の参加者の証言、マスコミ・関係者の写真・映像による弁天橋上の三派全学連と機動隊の動きの確認、証言との擦り合わせ作業などで《あの時のあの場所での出来事》を時系列で詳細に復元している。さらに、警視庁・検察が山﨑さんの遺体を弄び、事実関係を隠蔽して行く所業を浮き彫りにさせ、腐りきった権力犯罪として徹底的に追及している。
 また、六〇年安保闘争で虐殺された樺美智子さんの事例を権力犯罪の過去の事例として併せて検証している。この権力の手口も衝撃的なものであり、許されざる事例として改めてしっかりと記録されている。

 では、「五〇年目の真相究明」の記述を「見出し」で紹介しよう。

はじめに―再現証言聴き取りに取り組む
第一章 再現ドキュメント―山﨑君はいかに闘い、斃れたか
全学連は機動隊の壁を突き破った/弁天橋で装甲車を奪い猛進撃/山﨑君は最前線で弁天橋を越えた/動転した機動隊が歯止めのない暴力行使/山﨑君死亡の目撃証言は記録されている/山﨑君が死亡した現場状況が明らかに/警棒で頭を殴打された学生たち/「女子学生死亡」のニュースが流れた/再び突入、催涙弾の乱射
第二章 山﨑君の死亡究明の核心は頭部
一 検死前に「轢殺説」を流す
警視庁は山﨑君の頭部受傷を隠した
二 検死結果を示す「死体検案書」の真実性
牧田病院の死体検案と食い違う警視庁発表/遺体確認を拒否し、秘密裏に検死を強行/監察医らは「頭がい底骨折、脳挫減が死因」と発表/映像に記録された牧田院長所見
三 「解剖記録」、「鑑定書」を開示せず
遺族指定医師の立ち合いを拒否/執刀医によらない「解剖所見」の発表/「轢死」と断定する根拠は?/解剖記録と解剖鑑定書を遺族に示さず
四 警察首脳陣の国会答弁は核心問題を語れず
後藤田、三井が辻褄の合わない国会答弁/取り残された装甲車には学生を轢けない/「轢死場面を見た」との現認報告書なし/車両に血はついていたのか、いなかったのか/嘘に始まった答弁
五 都議会答弁では一八〇度逆に訂正
初めに「轢殺説」ありき/なぜ即死の現場保存をしなかったのか
六 逮捕した二学生を「轢殺」の証拠なく釈
七 一〇・八裁判、死因を争点から外す
起訴状記載を借用した判決/運転者の特定なし、血痕合致なし、現認・撮影なし
八 樺美智子さんは警棒で突かれ扼殺され
脾臓頭部出血と前頸部筋肉内出血で死亡/女子学生三人がデモの内にいた/中館教授鑑定書は書き直させられた/警視庁検死官が事実を隠蔽
まとめ―数々の素材が山﨑君撲殺の可能性を示す

 以上である。
 ここにおいて、「山﨑博昭さんが機動隊により撲殺された」ことは明確な事実であると確信できる。

 また、本書で縷々展開された辻恵氏のレポートにあるように、「山﨑さん轢死説」は、機動隊の権力犯罪を隠蔽し、恰も「虐殺」と「轢死」との二説が対立的にあるが如く演出することを目的とした極めて欺瞞的な権力の言論操作である。事実、一部のマスコミで「虐殺」と「轢死」とが「一〇・八」を語る際に並立的に述べられることがある。その限りにおいて権力の陰湿な工作は「成功」したのだろう。だがしかし、本書が公刊されるに至って権力の意図は完全に粉砕され、「山﨑さん虐殺」の事実関係は不動のものとなったと言っていいのではないだろうか。そのことは本書が持つ最大の意義と言える。

2018年2月1日
ブログ「新鬼の城」
(続く)


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