

(註)3月15日に開かれた「本多延嘉追悼50年の集い」の記事のつづき。呼びかけ人の発言のうち、槇(水谷)けい子のものを転載します。
革共同における性暴力問題
槇(水谷)けい子 2025年3月15日
今日、私がいいたいことは、革共同中央指導部は、「七・七自己批判=血債の思想」といいながら、党内の性暴力、女性差別の問題を解決する資質も、能力もなかった、ということです。
私は、1969年、横浜国大中核派の全学キャップ・福田政夫からひどい性暴力を受けました。バリケード闘争のさなかに、何度も暴力的にレイプされかかったのです。
加えて、1973年6月、夫である水谷が下獄した直後、古参の中央指導部の吉羽忠(印刷局長、元東京南部地区委員長)が私を狙ってきました。
当時、非公然政治局の白井朗さんのもとで資金調達のⅯ作戦がありました。吉羽は、白井さんの指示と称して、「2人での会議」をやろうと画策しました。私のアジトに押しかけ、自分の愛人にするためだ、と私は判断していました。
私は上司のFOB議長の佐藤路世(ペンネーム:田島優子)と前進社社責の高木徹(政治局員候補、元マルクス主義学生同盟中核派委員長)の2人に、私の判断の根拠を説明し、「私を危険な目に遭わせないでくれ」と、吉羽の来訪を強く拒絶しました。その後また、すでに失敗していたM作戦の中止を決定させました。
ところがその2週間後、午後11時に、吉羽が社の車で突然来て、社車を帰らせ、私一人の部屋にむりやり押し入ってきたのです。私の抗議、追及に、吉羽は、「高木の許可を今日はとっていない。出ていけといわれても、社車の迎えがないので、カクマルに襲われるから居させてくれ」と、居座ったのです。
吉羽は、離婚して悩んでいる、と同情を引こうとしました。そして、「オレは狙った女性は、夫がいようと奪うのだ」などと脅迫して露骨にレイプしようとしました。私は恐怖の一夜を過ごしました。私の拒絶で、レイプには及びませんでしたが、これは密室での性暴力でした。
私はただちに佐藤と高木に報告し、二人が私の疑念を知りながら、吉羽の行動を許可したことを弾劾しました。2人は以後、逃げ回り、一切沈黙しました。
2人は、吉羽の性暴力の事実上の共犯者といわなければなりません。
福田の件も、同年4月に佐藤のもとでの当事者確認会の設定を決めさせたのですが、開催直前に、「今、カクマルとの戦争がたいへんだから…」と潰されたままです。
女性解放戦線を担ってきた私は、1980年にFOB議長に任命されました。
槇(水谷)けい子 2025年3月15日
今日、私がいいたいことは、革共同中央指導部は、「七・七自己批判=血債の思想」といいながら、党内の性暴力、女性差別の問題を解決する資質も、能力もなかった、ということです。
私は、1969年、横浜国大中核派の全学キャップ・福田政夫からひどい性暴力を受けました。バリケード闘争のさなかに、何度も暴力的にレイプされかかったのです。
加えて、1973年6月、夫である水谷が下獄した直後、古参の中央指導部の吉羽忠(印刷局長、元東京南部地区委員長)が私を狙ってきました。
当時、非公然政治局の白井朗さんのもとで資金調達のⅯ作戦がありました。吉羽は、白井さんの指示と称して、「2人での会議」をやろうと画策しました。私のアジトに押しかけ、自分の愛人にするためだ、と私は判断していました。
私は上司のFOB議長の佐藤路世(ペンネーム:田島優子)と前進社社責の高木徹(政治局員候補、元マルクス主義学生同盟中核派委員長)の2人に、私の判断の根拠を説明し、「私を危険な目に遭わせないでくれ」と、吉羽の来訪を強く拒絶しました。その後また、すでに失敗していたM作戦の中止を決定させました。
ところがその2週間後、午後11時に、吉羽が社の車で突然来て、社車を帰らせ、私一人の部屋にむりやり押し入ってきたのです。私の抗議、追及に、吉羽は、「高木の許可を今日はとっていない。出ていけといわれても、社車の迎えがないので、カクマルに襲われるから居させてくれ」と、居座ったのです。
吉羽は、離婚して悩んでいる、と同情を引こうとしました。そして、「オレは狙った女性は、夫がいようと奪うのだ」などと脅迫して露骨にレイプしようとしました。私は恐怖の一夜を過ごしました。私の拒絶で、レイプには及びませんでしたが、これは密室での性暴力でした。
私はただちに佐藤と高木に報告し、二人が私の疑念を知りながら、吉羽の行動を許可したことを弾劾しました。2人は以後、逃げ回り、一切沈黙しました。
2人は、吉羽の性暴力の事実上の共犯者といわなければなりません。
福田の件も、同年4月に佐藤のもとでの当事者確認会の設定を決めさせたのですが、開催直前に、「今、カクマルとの戦争がたいへんだから…」と潰されたままです。
女性解放戦線を担ってきた私は、1980年にFOB議長に任命されました。
自由恋愛主義と「一杯の水」論の克服、政治局員・田川和夫の愛人の存在の公然化、男性指導部の性暴力といった、屈辱の歴史を転覆しようと格闘してきました。しかし、夫も含めた指導部の馴れ合い主義、臭いものに蓋主義、官僚主義、権威主義の壁をうち破れませんでした。
1979年(31歳のとき)に卵巣の全摘出手術を行い、その後遺症のひどさは相当のものでした。1985年10月に完全療養に入るまで、悪戦苦闘の日々でした。このことは、ほんとうに悔しく、無念でなりません。
1979年(31歳のとき)に卵巣の全摘出手術を行い、その後遺症のひどさは相当のものでした。1985年10月に完全療養に入るまで、悪戦苦闘の日々でした。このことは、ほんとうに悔しく、無念でなりません。
本多さんは1971年の自らの結婚に際して、プロレタリア単婚主義の立場を明らかにしました。私は、この本多さんの思想と人間性に最後の信頼を求めたのですが、本多さんは虐殺されました。
革命党は、党内性暴力問題を解決する資質と能力と組織体制をもたなければなりません。それがない党にプロレタリア世界革命を実現することはできません。ただただ時代遅れの党に堕落するだけです。このことを提起して、私の発言を終わります。
(※当日発言の元になる、より詳細な事実経過と論及の原稿は別途アップの予定)
(つづく)







やはり革共同は変革できないのですね