《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

政治学に関する必須文献(全7本)

2015-09-14 08:59:52 | 書評:『革共同政治局の敗北』
政治学に関する必須文献(全7本)
燻製クラウン
mixi「日記」から転載
2015年5月19日~6月12日

《管理者コメント》『革共同政治局の敗北』をめぐってmixiでもいろいろと書き込まれている。その中でも燻製クラウン氏がmixi「日記」で同書について何回にもわたってかなり突っ込んで論じているので、そこから7本を転載、紹介する。元の見出しは同書の書名が充てられているが、転載にあたっては、勝手ながら管理者が新たにつけた。【 】内は管理者による註。一部の誤記は直した。
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政治学に関する必須文献
2015年5月19日 『革共同政治局の敗北』

 『革共同政治局の敗北』を帰宅途中の電車内で開いてみた。初見の印象は「政治学に関する必須文献」ということだろうなというものだ。全国委員会の決定、指揮系統がつまびらかにされて、その上で論が展開されている。こういうものは見たことが無い。

 部外者である私には三・一四2(=アンデス)以降の複雑な動きは分からないので、大まかに冒頭に目を通して、2部をチラリと見た。

 長年の疑問がいくつか解けている。

1)1967年10月の高橋孝吉(解放派)に対するリンチについて。これは小野田【襄二】が遠回しに書いていることだが、この本では、直前に法政大学で中核派280人逮捕という事件が起きた。そこから解放派とブントによる三派主導権奪回の動きがあり、10・8【佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田現地闘争】総指揮から秋山【勝行】を降ろすという動きになった。このために10月はじめに中核派に対する暴力が発生していた。
 本多【延嘉】書記長は、党的危機であると考えた。もうひとつは1966年初夏の砂川から書記長自身が急進化していた。砂川をめぐって早稲田で革マルとの対決も起きていた。一方で解放派は1965年の協会派に対する暴力事件で社青同から閉め出されようとしていた。そこで高見圭司らを使って社会党回帰をさぐる動きがあった。解放派が右に寄るのを恐れた。(ということと旧労農系をめぐるせめぎ合いがあったのじゃないかと思うが)。書記長は解放派を叩くことが重要だと考えた。そこで全学連事務局のある法政大に高橋を誘い出してリンチを加えた。このリンチは徹底的なもので水【丈夫】がガリ版の鉄板をつかって高橋の頭を打った(=割った)ところから、多数がガリ版の鉄板で高橋の足を攻撃し、骨折させた。(というよりも滅多打ちにして血の海に沈めた。ガリ版ならただでは済まない怪我になる)。
 陶山【健一】が10・8の早朝、ゲバ棒にかるくプラカード版を打ち付けた武器を製造して、弁天橋に持ち込んだ。(その後は、秋山が最前線で「一歩も引くな」と言って督戦した事態になる)。
 高橋に対するリンチは水がと言うよりも、隣室にいた本多が直接指示したもので、これ以降、中核派と他の党派の統一戦線は不可能になる。(これは小野田が言ってきたこと【『革命的左翼という擬制 1958~1975』】と一致する)。

 小野田の記述では陶山が11月は緊張度を低めようという話もしたが、本多書記長は聞く耳がなかった。10・8以降は攻撃路線になり、1月の前進新年号論文で逡巡を捨て去った。この過程で関西の竹中明夫、浜野哲夫が離脱。北川登、小野田も同様であろう。

 10・8というのは偶発的なものだと言われることが多いが、そうではなくて、本多書記長の計画したことだというのが正解だろう。

 280人逮捕(9月だったかなあ)という事件がなければ、もう少し三派は続いたかも知れないと思った。続いてどうなるものでも無いけれどもだ。

 というわけで、すごく重い、重い本だ。

●付記 5月20日

 いくつか、記憶に残っている1967年の政治。まず中核派の選挙【東京都議会議員選挙に北小路敏が立候補。同時に都知事選に立候補した美濃部亮吉に投票集中の方針をとった】があったはずで、小野田が、中核派は全国から学生活動家を集めて選挙活動をさせてなかなか戻さなかったこと。ふたつめは5月からの砂川闘争で、学生の周りに反戦を配置して、かなり機動隊を混乱させることに成功したこと。(これは都内のデモではサンドイッチ規制になり、身動きがつかないが、闘争主体が開放空間の戦場で運動する場合は、彼我の力関係が変わるという現地闘争主義の有効性を見いだしたこと。)3つめに夏以降、学生同盟員に対する活動費の納入など、党の管理が強化されていること。ことに10月にかなり強力な内部通達が出されている(これは三一書房版『資料 戦後学生運動』にも文章が収録されている)。

 というわけで1967年に選挙から全国結集という1962年以来の本多書記長の組織政治が動いていた。その延長にベトナム反戦を主軸とする運動目標の転換があり、1965年以来の学生運動の歴史的転換(学園闘争とベトナム反戦)をめぐっての流動化があり、その上で三派全学連統一、明大7・2事件斉藤【克彦】委員長交代、中核派秋山の選出、という「日本学生運動史上の2月革命(ロシア革命の第一革命→次は革命派のクーデター)」がそろったという認識があったのではないかと思う。
 竹中や浜野は統一戦線志向ではなかったか、だからそれを食い破って革命に突進するという決意は持たなかった。もっとも竹中は関西派機関紙『火花』でバクーニン全集発刊によせて、バクーニンを読むときがきたとアジっている。本人は、すぐ来るとは思っていなかったわけだ。

 さて、『前進』【第2681号、5月18日付】の批判の一部を引用しておこう。
 「彼ら(岸、水谷、岩本)は「党の革命」における関西の労働者同志の闘いを「凄惨(せいさん)なテロ・リンチ」と悪罵する。三里塚闘争破壊の1983年「3・8分裂」との闘いを「第4インターへのテロ・リンチ」だと言いなし、67年10・8羽田闘争も「前夜の解放派へのテロ・リンチ」から描く許しがたい階級闘争史の偽造を行う。対カクマル戦は「テロ・リンチの海老原事件」が始まりであるかのように悔やみ、国家権力にアピールして保護を求めている」。

 ここにはテロ・リンチといった暴力が客観的に主体の側の決断の現れと、現在への裁ち切りであるという常識を隠蔽させている。頭がおかしくない限り、暴力は断絶の対外的表現(対内部的粛党でもある)であろう。

普遍主義と近代主義は相容れない
●5月21日 『革共同政治局の敗北』つづき

 この本を寝床で夜中まで読んでいた。その後で、すさまじい悪夢に襲われた。それから奇妙な夢を見た。大学のゼミらしきところにいて、私だけが社会人学生みたいな設定だった。教授がテストをした。簡単な3問の質問で、はい、か、いいえを書けば良いだけだった。しかし、解答できない。結局「否」という評価をつけられて、教室をでながら、「ここにはもうこないなあ」と思った。そういう夢だった。朝方にまた奇妙な夢を見た。不動産を売っているらしい。そこで言い値よりもずいぶん高い値段で買ってくれる人が出てきたというので、仲介業者の事務所にでかけた。子細は略するが、それも売ることができなかった。もうろくしたなあと思った。

 早朝にすさまじい雷がなった。手元のタブレットで確認したら、すごい豪雨が帯状に首都の上を通過していた。

 これは読書記録では無い。ならない。が、そういう朝を迎えたことは記録しておこうと考えた。

 終わりの二章を先に読んで、それから後半の2部を読み、さらに前半の1部を読んだ。
それぞれ、別個に読めば、それなりに読めるが、それを通して読んでしまうと、なんとも悲哀が漂ってくる。通読すると劇薬になる。

 三全総から激動の羽田、7月の日比谷まで。そして8月の六角校舎。
 関西大学襲撃【71年12月4日、カクマル派による中核派・辻敏明、正田三郎の虐殺】、ミッドウェイ作戦【カクマル派による73年10・20武装襲撃のコード名】から反攻逆襲の75年。三・一四Ⅰ【カクマル派による本多書記長虐殺】から三里塚十字路、天皇決戦。
 五月テーゼから中野【洋】・水密約(社民化)と血債論の対立。血債論と橋本【利昭】らの対立。アンデスから中野、天田【三紀夫】のクーデター。

 全体を通して、なにか言うということもできない。

 1970年7月に世界が変わっていて、それまでの近代主義と普遍主義の入れ替わりがあった。その場合に近代主義をかかえたまま普遍主義を取り込むことは不可能だったのではないかというのが、とりあえずの吐露である。

 日本型ボグダーノフ主義(建神派)=マッハ主義と三二テーゼから発する近代主義は相容れない。同じように普遍主義と近代主義も相容れない。マッハ主義は普遍主義に対して鈍感で済む。
 スターリンの民族主義的偏向について考えてみないといけない。

 感想でもなんでもないが、そこまでの現状である。

 もう少し、読んで見る。

血債論と5月テーゼをめぐって
●5月22日 『革共同政治局の敗北』つづき

 革共同の7・7論は「入管闘争の中間的総括」(前進506号論文 清水丈夫選集)に詳述されている。ここで「闘うアジア人民との連帯」の思想と実践を綱領的次元の問題として位置づけたとされる(選集解説)。

 この解説の中で「血債の思想」という説明が出てくる。選集の本文の中には血債という文言は無い。血債という文言が、日本社会の中で、いつごろから流通したのかということが問題となるが、私はよく知らない。先日書いたように、1971年11月の朝日ジャーナルに新川明の血債をテーマにした論文があったことを記憶しているくらいだ。今日ネットをみていると1971年2月の『現代の眼』に蟻論文というのがあって、そこで魯迅を引用したあとで、われわれは被抑圧民族であると書かれているらしい。

 これは当時の入管問題をめぐる運動の盛り上がりの記憶が甦ってくるが、では、中核派の分裂の中で問題化してくる血債論との関係が、1970年から続いているとも続いていないとも、よく分からないところがある。

 血債論が再び問題化してくるのは指紋押捺に対する反対運動であって1989年まで下ってくる。
 ここでの文脈は1970年当時とは切れたところにあるような気がする。1970年の血債論が日韓闘争の総括という側面をもっていたということと、90年ころに焦点化するのは、少し離れたところがあると思った。

 ふたつめは、これが天皇代替わりの闘争とつながっているところにある。それと、国内的に言えば多文化共生論とつながっている。

 1990年の天皇決戦はとうぜん、代替わりの後の闘争を視野に入れるから、出口戦略として血債論が再び焦点化したという可能性があるのではないかと思う。

 1991年に水議長が中野動労千葉委員長と「密約」を交わし、中野側の条件を呑んで、動労千葉の革共同に対する支援を受け入れたということが言われており、それと血債論との、ふたつの流れに引き裂かれるという可能性があり、5月テーゼに玉虫色で記述されるという流れがあるという。

 そうすると1990年代に、動労千葉の主張する労働運動路線と、戦線側の主張する血債論が次第に対立してきたという構図になる。それと軍の着陸問題がある。軍の着陸問題と秋山問題は関連している。91年5月のテーゼから、秋山の腐敗が露見して失脚する1994年まで3年間あり、そこに水議長の病気休養期間がある。

 天田書記長が秋山の子飼いの活動家だったということは本書で初めて知った。

 書き出したら、不勉強なばかりが明らかになって、流れがまとまらない。そこから先に革共同50年史や関西派の主張まで追えば良いのだけれども、そういう余裕は物理的に無い。

 一応、血債の思想が提示された1970年と、1990年代の党内論争としての血債論の間を区別することと、おそらくは、党派の外側の状況にも規定されているということと、血債論が出口戦略として焦点化したのではないかという発想を覚えたのでメモしておく。

補足
 マル共連をみていたら、すえいどん氏が昨年の10月に革共同50年史を入手して「ちょっとびっくりしたのは全国連の発足自体に否定評価だったこと。 血債主義・糾弾主義の源をそこに見ているのか」と書き込んでいた。全国連の発足は1981年【正しくは1992年3月】になる。荒本をめぐる実力闘争があり(暴力団の殴り込みと解同主流と荒本の対立)、茨城、長野などと全国連を結成することになる。

歴史として再構成できるのでは
●5月22日 『革共同政治局の敗北』についてささやかな思い

 『革共同政治局の敗北』について。これについては、腐敗分子がたくさんいたみたいな、場末の週刊誌のような卑近な見方が多い。こうした党派内部のもめ事記録という見方が普通だろうと思う。
 しかし、一方では中核派が歴然として大きな勢力であったことは事実で、いまもそれなりに影響力を左派市民主義に持っていた。また1990年ごろまでは大量のカンパに支えられていた。

 私は、ひとつは純粋趣味者として興味を持っている。
 しかし、もうひとつは、やはり急進市民主義者が1970年から、2006年まで、どういう問題意識を持っていたのか、何が党内闘争の火種になったかである。
 さらに言えば、P2【先制的内戦戦略の第二段階】のような「無謀な」ゲリラ戦をやった政治的経済的意味を知りたいと思っている。

 せっかくに、敗北【『革共同政治局の敗北』】と党史観からする50年史が発行されている。こういうものと元中核派の人たちが、そのときどきに言っていたり暴露してきた事実があり、それを外部のものはうまく位置づけられてこなかったが、こうして史料が出てくると、そういうものも、歴史として再構成できるのではないかと思っている。

 壮大な夢が崩壊して公安の謀略で内ゲバに引きずり込まれ、危機的状況で、それなりに一定の勢力を維持してきたのはなぜかということ、それは日本の1970年から2006年の歴史のネガというか、地下水脈を明らかにする可能性もあるだろうと思う。できれば、誰かが分析再整理して、後から続く後学のために解釈の注釈くらいは残しておけば、後世に役立つ気がする。そうしないと模索舎最奥の棚のパンフレット類は紙くずになっていく。

 そういう意味で、誰か『ふたつの党史』でも書かないかなあと期待している。

動労千葉の位置づけとは
●5月24日 「革共同政治局の敗北」

 まったく他人の問題だということで、口をはさむ筋合いに無いが……
 ものすごく単純化してしまうと、7・7と血債論問題というのは、直接関係が無い。

 1971年の12・4で仕切ってしまう必要がある。それ以前の7・7と、それ以降と。それ以降に問題となるのは対カクマル戦争の戦闘員で、ここで俄然、戦闘同志会【全国青年戦闘同志会】の意味が出てくる。

 戦闘同志会が、その実力ゆえに澤山【保太郎】粛清以降も指導権を譲らないままに革共同に合流することになったのだと思う。その指導権を7・7の、つまり506号論文から意味づけて、特殊に重要な位置づけをしたのだろうと考える。

 1990年が迫って、出口戦略を練ったときに、この指導の特殊性が浮上してきて、血債論的な発想が強化された。

 諸戦線派というのは、実体としては関西の与田の指導権掌握と一体だった。だから与田が打倒されることが諸戦線派の整理と結びついている。

 動労千葉は内ゲバの期間中も特殊な位置づけにあったということを考えると、1990年という時期に動労千葉の存在が非常に大きくなった。

 地区党と諸戦線、地区党と動労千葉を並べて考えれば、どちらも実際には地区党体制を超え出るものとしてある。全国の労働者が動労千葉精神に学ばなければならないとすれば、その時点で、地区党を越える権力を動労千葉が握っていることになる。

 三全総への螺旋的回帰と言っても、回帰のあとでは動労千葉の位置づけがまったく違うだろう。

 70年代中期高揚が離陸できなかったから、ずるずると1980年まで持ち越して、P2に強引に入ったという風に理解してみる。

追記
 党の50年史の序文では清水議長は、ほぼ坊主懺悔的な自己批判をしている。完全にアウトですと言っている。高木【徹】処分というのは完全な追い打ちになっている。清水の身代わりということだと理解できるのではないか。

中核派の分裂はきわめて日本的な、日本企業的な経過をたどった
●5月25日 『革共同政治局の敗北』その3

 『革共同政治局の敗北』のこと。毒が強いので、いったん棚に入れて頭を冷やしています。

 まったく運動と関係なかったサラリーマンからすると、この話はごく普通にある話だという感想もあります。

1)1980年代まで、市場が限定されていて、ノウハウの根本的革新も無かった時代は、物理的にマーケットのシェアを拡大することが企業の方針で、テレビコマーシャルをバンバン打つとか、営業で地道に競争相手から顧客を奪うという内ゲバ戦略が一般的だった。

2)1990年にバブルが崩壊して、それまでの負債が露出してきたために、負債の飛ばしを行って、それをやっているグループが企業の秘密を握って、主流派を維持した。

3)1998年にアジア経済危機が勃発して、ゾンビ企業の淘汰がはじまった。

4)そこから企業の選択としてa)BtoBに行くか、b)BtoCに行くか、つまり労働組合で対企業でやっていくか、諸戦線で被差別大衆を発見して顧客に加えていくかという二つの方針が求められた。

 単純に言えば、対企業ニーズの発見か、顧客ニーズの発見に行くかという選択を迫られた。

 a)の道は労働組合主義、b)の道は諸戦線派になる。aから見ると、bはクレームも多く利益が薄い。bに言わせれば市場参入が限定されていて、営業の大半をリストラする必要がある。どっちも存在がかかっているので決着がつかない。

 詳しく見れば、bと言われているが実際にはBtoG(対ガバメント)という解放運動があった。ここはグロスで利益があがる。

 さらに言えば、同和事業の縮小で、解放同盟自体が多文化主義と称して、在日問題やアイヌ問題に枠組みを拡げて、なおかつ官庁内で自分たちの仕事領域として確保するという意味がある。

 つまり、与田問題はBtoCの皮をかぶっているが、実際には既得権益を守り、かつ事業領域を広げるBtoG戦略である。

 解同と全国連と関西派の対立の根には、こういう複雑な問題がある。東京から見ているとBtoGが見えにくいので、一般的な急進左派運動に見えるが、大阪で見れば実体はことなる。

 中核派の分裂はBtoB(=主流派)、諸戦線派(BtoC)、関西(BtoG)の企業戦略の方針対立以外の何物でも無く、きわめて日本的な、日本企業的な経過をたどったのだと思う。

 極左ゲリラ集団としてみるとおどろおどろしいが、中身は普通の日本企業のバブル後の経過と大差ないと思った。

清水議長の不適格性
●6月12日 『革共同政治局の敗北』……たぶんメモ

 『革共同政治局の敗北』の特徴はレフト関係文書の公開人の感想が述べるように、非常に政治的な文章である。

 その政治的な核心は清水議長の不適格性というところにつきる。非常に詳細な事実経過が記されているが、そこに人間的感情を見いだすことは不可能であり、それらはすべて清水議長の不適格性を示すものとなっている、

 著者らは岸書記長→岸政治局という空想の正統系譜を観念的にもっており、そこからの逸脱、および清水議長の優柔不断と危機回避本能による政治的タイミングの喪失、二枚舌による組織把握を、ありとあらゆる現象の背景に見ている。

 非常に政治的な文章で、清水議長の不適格性から、あれだけの膨大な著書を書き上げた才能には感服する以外に無い。だが、未来も見えてこない。

 著者と岩本【慎三郎】の関係について言えば、岩本は3・14Ⅱに賛成し、その後も天田体制で残っていたが、最終的に甘糟【義信】らとツンドラ【2012年秋のいわゆる「四人組」除名問題】として排除されたのだから、著者らとは政治的立場を異にする。また著者らがスパイだとする荒川【碩哉】を甘糟は擁護している。

 大量のシンパ(と言っても準党員)たちは、そんなこととは関係なく、党の実体を知りたいわけで、これを封じることは不可能だろう。

(ひとまず以上)

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1 コメント

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日本における資本主義廃絶の革命を流産させた輩 (革命党)
2019-05-05 01:34:48
中核派など日本における資本主義廃絶の革命を流産させた輩。新左翼や左翼といわれる奴らは皆そう。
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