《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

小熊英二氏はなぜ「轢死説」を唱えるのか――本の紹介(下):10・8山﨑博昭プロジェクト編『かつて10・8羽田闘争があった 山﨑博昭追悼50周年記念〔寄稿篇〕』

2018-02-16 20:31:07 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって
小熊英二氏はなぜ「轢死説」を唱えるのか
本の紹介(下):10・8山﨑博昭プロジェクト編『かつて10・8羽田闘争があった 山﨑博昭追悼50周年記念〔寄稿篇〕』
ブログ「新鬼の城」から転載:https://blogs.yahoo.co.jp/kugayama322

(承前)
三 『1968【上】』で検証抜きの悪意ある情報操作

 小熊英二氏は『1968』上下巻(二〇〇九年、新曜社)を世に問うた。同書は、一九六八年とそれを前後する過程の日本の社会運動の全貌を描き出そうとした意欲的な大作である。きわめて膨大な史料を渉猟した重要な史料集成でもある。著者の並々ならぬ努力の賜である。

 同書において小熊氏は、一見したところ政治学・歴史学による研究の基本である客観性に基づく姿勢を打ち出している。つまり、主観を排除して当時の史料・証言により客観性を徹底しつつ当時の「出来事」を検証し再現しているような姿勢である。だがよく読むと、この小熊氏の姿勢は実は、用いる史料などを自己の都合に合わせて利用するという手法を取り入れていることがわかる。それは自己都合による史料操作に外ならず、冤罪裁判でも見られる手法であり、極めて悪質なものであると言わざるをえない。慶応大学教授の社会的職責のある小熊氏には、およそ研究者としての節度を欠いているのではないかと根本から疑問視せざるをえない。それを最も端的に露呈している箇所が、山﨑博昭さんの死因についての記述なのである。

●佐藤訪べト阻止闘争を「ハプニング」とする小熊氏の歴史観

 小熊氏は『1968【上】』において「山﨑博昭さんは学生が運転する機動隊の装甲車で轢死した」とする説を支持しているのである。以下、小熊氏の見解を同書上巻から引用する。
 同書第8章「「激動の七ヶ月」―羽田・佐世保・三里塚・王子」において随所で小熊氏にとり適度に心地良い史料引用による記述をしているが、ここでは羽田闘争に関する部分に限定する(下線は引用者)。

 まず、藤本敏夫氏の言葉として「ヘルメットは〔六七年二月から七月の〕砂川闘争のときに頭蓋骨陥没の重傷者が大量に出たことの教訓で使い始めたのだが、学生のほとんど全員がこれをかぶったのは『10・8第一次羽田闘争』が始めてであった」として、さらにその藤本氏の回想を補強するために「中核派シンパだった中野正夫も、六七年九月の法政大での中核派と民青の内ゲバのさい、ヘルメットをかぶっている者が多数いたが、『当時はヘルメットをかぶるのは〔デモの〕先頭三、四列ぐらいまでだった』と述べている」と記している。つまり、いずれにせよデモなどでの闘争現場ではヘルメットを使用するのは当時常態化していたと言うのである。

 そして、それを受けて小熊氏は「ゲバ棒とおなじく、ヘルメットも内ゲバではすでに日常化していたが、機動隊を相手にほぼ全員がヘルメットをかぶったのは一〇月八日だったという点では、各人の回想は一致している」と言う。
 だが、藤本氏と中野氏の回想のどこが一致しているというのだろうか。明らかに食い違っている。まして、「各人の回想」というが、引用されているのは前記二氏だけである。そこから、どうして「一〇・八でほぼ全員がヘルメットをかぶっていた」となるのだろうか。実際には、ほとんどの参加者がヘルメットをかぶっていなかった。そのことは残されている数々の写真で確認できる。

【弁天橋の闘いの写真】

 それらの写真で見えるのは、前夜編成された少数の行動隊のヘルメットだけである。だが、小熊氏は事実を曲げてまでもなぜ「参加者ほぼ全員にヘルメット」をかぶせる必要があったのだろうか。
 それは次の小熊氏の文章に現れている。「内田雅敏は後年、『権力もゲバ棒やヘルメットを学生がもっていることは知ってはいた。ただし、それを自分ら機動隊を相手に使うとはまさか思っていなかったようだ』と述べている。機動隊相手のゲバ棒使用が、事前の計画だったなら警察も対応を準備していただろうが、内ゲバの延長のハプニング的行動だったことがかえって幸いした」と記す。内田氏の言葉からどうして「一〇・八が内ゲバの延長のハプニング的行動だった」という話になるのだろうか。その叙述にはあまりの断絶と飛躍があり過ぎる。それは、内田氏の言葉を用いての小熊氏の意見操作である。

 実際には警察権力の側は、三派全学連が実力阻止方針を打ち出し、羽田空港突入をめざしていることを、全学連および所属党派の声明やデモ申請から完全に把握しており、それゆえ全学連の羽田周辺デモを全面的に禁止し、首都の機動隊の総力を羽田現地周辺に投入していたのである。
 六七年九月の全学連大会で「佐藤訪ベト実力阻止」の方針を打ち出したことを受けて、全力で闘争を組織し実行した一〇・八の闘いを「ハプニング的行動」と呼ぶとは何事だろうか。しかも、党派闘争(ブルジョア新聞では「内ゲバ」と言う)の「延長」に一〇・八闘争を位置づけるのはほとんどデマに等しい。一〇・八闘争をめぐる党派闘争があり、テロ・リンチという否定すべき事態があったことは事実である。だが、まず内ゲバがあり、その延長上に対権力の一〇・八があったという小熊氏の所論は歴史の偽造であり、あらかじめ悪意に満ちた偏見をもって事態を見ているとしか考えられない。この小熊氏のデマには許し難い怒りが込み上げる。
 だが、この小熊氏のデマは「山﨑博昭さん轢死説」肯定の伏線なのである。

●小熊氏が依拠する大野明男氏は現場にいたのか

 小熊氏は山﨑博昭さんの死をこう述べる。

「大野(明男、評論家)によれば、午前一一時半に山﨑の死の情報が流れたあと、秋山委員長は混乱しながら『ひかれた後で、敵にとどめを刺されたのではないか』と述べ、中核派幹部も警察による『撲殺』を主張していなかった。また大野は給水車のタイヤを洗っている学生を目撃し、理由を聞くと『〔セクト幹部に〕洗えといわれたから』と返答されたという。
 大野は以上のことから、山﨑が『ひかれたのはほとんど確実』だと述べ、ただし『山﨑君がどうして倒れたのか、なぜ車を避けきれなかったか、警棒でなぐり倒されたためではなかったか、という点は何ともいえない』と記している。現在となっては真相は不明だが、現場で直接に見聞した大野の証言は傾聴に値する。」

 要は、現場で直接に見聞した大野明男氏の意見=轢死説は正しい、と大野氏の言葉をすべて借りて小熊氏は述べているのだ。

 そこで小熊氏の論理の根拠となった大野氏のレポートを見てみよう。大野氏は『中央公論』一九六七年一二月号に「羽田事件と全学連の内幕」と題するレポートを掲載している。まず最初に押さえるべき点は、大野氏は、「現場にいた」とか「現場で直接見聞した」とかは、実はどこにも書いていないことである。大野氏が一〇月八日当日に現場の羽田弁天橋に行っていなかったことは、すぐに読み取れる。
 具体的には、大野氏は「今は、調べたかぎりの『事実』を私自身が書いていかねばならない」と書いているのである。現場で直接見聞したなら、こうは書かない。あるいは、小熊氏が引用した箇所は、実は次のような文章である。「ひかれたのはほとんど確実だし、それが致命傷になったという確率もかなり高い――私なりに集めた情報では、そう判断される。」という文章である。明らかに、後日、諸情報を集めたと言っているのである。こうした肝心の箇所を小熊氏は何故消すのか。そこを消したのは、意図的ではないのか。
 さらにまた、「その少し後で、車のタイヤを洗っている学生がいた。『何で洗っているのか』と聞いた人にその学生は、『洗えと言われたから』とだけ答えていた。」というのが、大野氏の原文である。つまり、学生に尋ねて聞いた人は、大野氏ではない。大野氏はあくまでもそれをマスコミ記事から拾ってきただけなのである。それが小熊氏にかかると、前出のように、「大野は給水車のタイヤを洗っている学生を目撃し、理由を聞くと『〔セクト幹部に〕洗えといわれたから』と返答された」となるのである。これは、もう読み間違いなどではなく、意識的、作為的な史料偽造ではないか。

 大野氏は、後から新聞や雑誌の記事の情報――こと山﨑さんの死に関して言えば、マスコミ記事はことごとく警察情報なのであり、マスコミの独自取材によるものは皆無である――をかき集めて、しかもほとんど補強取材もせずに、レポートを書いている。大野氏の文章には自らの努力による新しい情報はほとんどと言っていいほど、何もない。
 すなわち、現場で直接見聞した、と言う小熊氏の大野氏の評価は全くの虚偽である。この点、小熊氏のあまりにも意図的な偽造と歪曲、度し難い粗雑さ、検証作業の放棄については、驚くばかりだ。

●初めに轢殺説ありき、そこから勝手な想像

 次に、大野氏は、山﨑博昭さんの死の真相を次のように結論付ける。

「京大生山﨑博昭君(一八歳)の死については、れき殺説、虐殺説が渦を巻いており、『週刊朝日』十一月三日号の現場写真発表後も一定の結論は出いいままのようである。私自身は、事件直後にこう書いた。「運動側にしても、『撲殺』説が説得力を持っていない以上、それに直接の関係を持つ学生をかくまっていては、広範な学生の支持を受けることも不可能であろう」
「このときである(筆者註:学生が奪取した装甲車が動いた時)。逃げ遅れた何人かの学生は、機動隊員とぶつかりながら戻ろうとしていた。いちばん遅れたのが山﨑君らしい。誰も見ていなかったが、彼は道に倒れた
 つまずいてころんだのか、なぐり倒されたのか、機動隊とぶつかったのか、車のバンパーにふれたのか――どうしたのかわからないが、彼は倒れた。ほとんど同時に、一人の機動隊員がつまずいて倒れた。そこに車が来た。
 ブレーキは踏んだのだろうが、重い車だから惰性でも前に進む。結果的に機動隊員はタイヤにふれずにすんだが、山﨑君はひかれた
 近くでの目撃者は、ほとんどいないといっていいだろう。『週刊朝日』の写真が示しているとおり、車より前にいる機動隊員は前方を見ているし、車より後ろにいては、大きなボデーの陰になって、見通せない。
 ひかれたのはほとんど確実だし、それが致命傷になったという確率もかなり高い―私なりに集めた情報では、そう判断される」

 大野氏は「誰も見ていなかったが」とか「近くでの目撃者は、ほとんどいないといっていいだろう」とか「どうしたのかわからない」と書きつつ、何と平然と「いちばん遅れた山﨑君は道に倒れた」「山﨑君はひかれた」と断定するのである。大野氏はなにゆえにそのような断定ができるのか。その根拠は何も示されていない。「私なりに集めた情報では」どこをどうすれば、轢死説になるのか、さっぱり説明できていない。「講釈師見てきたような
嘘をつき」という言葉があるが、大野氏は「見てきたような話」もひねり出せていない。
 それは、大野氏が《初めに轢殺説ありき》という権力サイドに立ったレポートを書いているからである。「轢殺説」から勝手な想像をしているにすぎないからである。

●小長井弁護士証言や牧田院長談話を意図的に排除

 加えて、大野氏の「轢殺説」が事実究明を無視した政治主義的なものであることは、撲殺を示す証言や事実を意図的に抹殺していることでも明らかである。大野氏は記す。「山﨑君の死因をめぐる小長井弁護士の発言や、伝えられる『牧田院長談話』については、ことが医学的問題に及ぶし、ふれている余裕もないので、ここでは取り上げない。」と、露骨な態度を示している。何をかいわんや、である。

 小長井弁護士の記者会見での発言および朝日ジャーナル掲載論文と、山﨑さんが運び込まれた牧田病院での死体検案書およびそれにもとづく牧田院長談話は、山﨑博昭さんの死因究明を客観的に公正に行う上で、決定的な証言である。このことはマスメディアも否定できず、警察・検察側も無視することができない。だから、その真実を相殺・抹殺せんと企図してさまざまな情報――根拠のないうわさ話や作り話の類――を流したわけである。ところが、大野氏は、死因についてあれこれと論じているにもかかわらず、この小長井弁護士発言と牧田院長談話を取り上げないというのだ。意図的に排除してしまっている。そのことは、死因を論ずる資格がないということではないか。しかも言うに事欠いて、「医学的問題に及ぶから取り上げない」とは、暴論、愚論、非常識の最たるものである。撲殺か轢死かという死因問題は、現実的にも最終的にも医師や法医学者によって解明され判断されるものとなっており、そのまま医学的問題ではないか。

 さらに看過できないのは、大野氏が、「乱闘用の武装をしながら『一人でも多くの学友』に参加を呼びかけるという堕落した戦術は、この『目的』の引きずり下ろしとまさに照応する」と述べていることである。
 大野氏は、「乱闘用の武装」と決めつけるが、当日の学生たちが一部のヘルメット装着および角材使用を除けば多くが無帽、素手であり、午前一一時過ぎに弁天橋先端に進み出た山﨑さんら先頭部隊は無帽、素手であったというのが、事実である。そんなイロハ的なことについて事実に反することを記し、あまつさえそれを「堕落した戦術」と記すなど、大野氏は、はっきりと権力・マスコミによる「暴徒」キャンペーンに掉さしている。

●客観性も公正さもない小熊氏の「轢殺説」

 問題は、このようにずさんで、権力に寄り添う立場に立ち、政治的な悪意が強く、客観性のない大野レポートを、小熊氏が「現在となっては真相は不明だが、現場で直接に見聞した大野の証言は傾聴に値する」などと持ち上げていることである。とんでもない姿勢である。ここにおいて、小熊氏は歴史社会学者としては、致命的な過ちを犯しているのである。
 前述したように、「参加者全員がヘルメットと角材で武装」するという小熊氏のデマは、この大野氏の文章が基底となっていることは明らかである。つまり、小熊氏の心情は、推測するに、「武装している集団」であるから、弾圧は当然である。また、山﨑さんが車で「轢死」したことも当然の帰結である、ということなのではないだろうか。このような悪意ある恣意的な心情が大野氏=小熊氏に通底するものである。
 これが、大野氏の「轢死説」の根拠ならざる根拠であり、小熊氏はこの大野氏のレポートに沿って「轢死説」を踏襲しているにすぎないのだ。

 さらに指摘するならば、大野氏に依拠した轢死説を唱える小熊氏は、当時、社会的にも公にされた「機動隊による撲殺説」を十分に知っていたということである。
 小熊『1968』には、朝日ジャーナルに掲載された小長井良浩「山﨑博昭君の死因について」が参考資料として挙げられており、また司法解剖をめぐる警察・検察の不審な対応や「轢殺犯」として逮捕された二学生が釈放された事実についても触れられている。すなわち、撲殺説を知りながら、何の検証もせず、あえて轢死説を打ち出したのである。どうしてそういうスタンス――歴史社会学者にあるまじき、客観性に反し、まさに不公正きわまる、一方にだけ偏ったスタンス――をとるのだろうか。

●小括――『1968』が犯した大きな過ち

 山﨑博昭さんの死の真相を数十年後に究明する場合、「機動隊による撲殺説」と「学生運転の装甲車による轢死説」をどちらとも虚心坦懐に俎上に並べて、あらゆる諸資料にもとづき、事実と照合しつつ、客観的に検討しなければならない。まさしく『かつて10・8羽田闘争があった[寄稿篇]』の第四章は、そのようにして真実に肉薄することができたのである。

 そして第四章で明らかにされたことは、まず、当日の闘いでの機動隊との激しい攻防の事実として「撲殺=虐殺」があり、これを糊塗するために「轢死説」を権力はさまざまな卑劣な手段を駆使して捏造したということである。それがために山﨑さんの遺体を遺族、医師、弁護士、国会議員から隔離して、解剖を行い、そればかりか脳、内臓の全てが引き抜かれた遺体が遺族の元に帰ったのである。この事実を見ても、「轢死説」を何が何でも押し付けようとする権力の意図が確認できる。
 それにも関わらず小熊氏は、大野氏レポートを無批判的に踏襲し、「撲殺説」を何ら検討することもなく、権力とマスコミの大合唱に迎合するだけの、でたらめな大野「轢死説」を採用したのである。
 これは、山﨑博昭さんを三度虐殺するに等しい所業ではないのか。一度目は弁天橋での機動隊による肉体的虐殺であり、二度目は警察・検察権力あげての「轢死説」のフレームアップと大弾圧であり、三度目が数十年後の小熊氏の本での「歴史社会学」の名を騙った、でっち上げの追認という「精神的虐殺」である。小熊『1968』は研究者が、いや歴史を引き継ぐべき次世代の人間の誰もがけっしてやってはならない大きな過ちを犯したのだ。

 小熊氏は一見リベラルで政府批判をしているポーズをとり、近年の安保法制をめぐる国会前集会の主役を演じたシールズを積極的に応援するなどの運動もしている。だが、この小熊氏が『1968』で述べていることは、山﨑博昭さんの死の真相の曲解にとどまらず、全篇を通して当時の政治闘争や個別学園闘争の曲解、とりわけ新左翼運動への《罵倒》と《否定》なのだ。

おわりに

 本書は、一九六七年一〇月八日に佐藤訪ベト実力阻止闘争として、羽田において闘われたデモ、その過程で権力により虐殺された山﨑博昭さんを追悼し、その闘争の意義を改めて記録し、共有する目的で刊行された。六一篇の寄稿文は、半世紀という長い時間を超えて記されたものであり、その形は「平面形」ではなく、立方体であり、それを言うなら六一面体とでも言う球体に限りなく近いものである。つまり、半世紀という時間帯が、それぞれの人の「角を取り」、その集合体も球体という形となった。

 そして、一八歳という若さで亡くなった山﨑博昭さんの心が、半世紀という時間帯のなかで、再び多くの人と邂逅して、その団結形態が「球体」という強固なものとなったのだ。本稿の後半で記した小熊批判は、今でも執拗に流されている「轢死説」に対する批判でもある。権力犯罪を隠蔽し、その返す刀で事実無根の「轢死説」を垂れ流すことは、断じて許されることではない。

「一〇・八山﨑博昭プロジェクト」は、闘争現場の近くにモニュメントを建てること、ホーチミン市に「一〇・八」および関連資料の展示を行うこと、そして本書の刊行を行うことを目的として立ち上げた運動体である。その三大目的は多くの人々の賛同と協力を得て達成された。さらに付け加えると、戦後最大の大反動の時代である現在、本プロジェクトの運動が切り開いた地平を踏まえ、その大反動の流れに抗する運動に竿さすことになることを期待して擱筆とする。

 なお、本稿を記すにあたり「山崎」と「山﨑」との表記の違いは、山﨑博昭さんの本名である「山﨑」で統一した。また、引用文献はその引用個所に記した。

2018年2月1日
ブログ「新鬼の城」

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