形之医学・しんそう療方 小石川院長 エッセー

昭和の頃、自然と野遊び、健康と医療のことなど。

昭和30年代の多摩川(1)

2012-01-24 15:15:15 | 昭和の頃

小学校の頃、私の住んでいたあたりでは、多摩川は子供たちの格好の
遊び場だった。 低学年の頃は川の水もまだわりあいきれいで、仲間と
釣りや網を使っての魚獲りもした。 河川敷きも整備されてなく、まったく
自然のまま、草ぼうぼうだった。

私の住んでいたあたり(東急目蒲線、矢口の渡)から真っ直ぐ多摩川に
向かうと、ちょうど多摩川大橋のあたりに着く。 時には友達と連れ立って、
母親から作ってもらったおにぎりと水筒を持ち、遠くは、二子多摩川園を
過ぎ登戸まで魚獲りにいった。 獲れる魚は、クチボソやコブナ、ハヤ、
牛ガエルの大きなオタマジャクシ、ときにはウナギの子どもが釣れること
もあった。

多摩川園の堰近くの土手を通ると、小舟に乗ったおじさんが、よく岸の
近くに舟をとめて巨大な四角形の網で魚を獲っていた。 川底に沈めた網を、
大竹をテコのようにして獲る。 何が獲れるか面白いので大勢の人が集まり、
獲った魚を見物人に売っていた。

水を滴たらせて引き上げられた網には、大きな鯉やナマズ、マルタと呼ばれて
いた大型の魚が入っていた。 マルタは名前のとおり、丸太みたいなかたちの
魚で、やたらに小骨が多く泥臭いので、かなりマズイ。 近所の人が多摩川で
釣ったのを何度かもらい、それをオフクロが煮て食べさせられたことがある。


台風が来ると、それが去ったすぐ後に、男の子たちの絶好の遊びが待っている。 
みんなで、それぞれ傘を持ち、自転車に乗って多摩川の土手に行った。
土手の上で傘を広げて自転車に乗ると、ヨットのように傘が風を受け、
走るのだ。 傘が逆さにチョコになるのはザラだったが、それはとても
愉快な遊びだった。
                      

からだの形は、生命の器 
形之医学・しんそう療方 東京小石川
http://www.shinso-tokyo-koisikawa.com/


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昭和30年代の多摩川(2)

2012-01-23 14:01:06 | 昭和の頃

多摩川には、別の楽しみもあった。
土手のいたるところに捨てられた、どこかの工場の雑多なゴミの中から、
宝物をみつけることだった。 今なら不法投棄とされてしまうだろうが、
その頃の多摩川の土手は、零細工場のゴミ捨て場みたいなものだった。
ペンキの空き缶の山から、何に使うのかわからない部品のようなものまで、
いろいろなものが大量に捨てられていた。

土手を歩いていると、ガラスのレンズが、小山のように捨てられている
こともあった。 レンズ工場が捨てたものだ。 私たちは喚声をあげて
走り寄り、いいレンズだけ拾い集め、ズボンのポケットいっぱいに詰め
込んだ。

大小の凹凸レンズの中には、いろいろな大きさや厚さのものがあった。
ぶ厚い小さなレンズ、きっと顕微鏡のレンズだよ!
大きいのは天体望遠鏡のかな?
レンズの一つ、一つに私たちは想像をめぐらせた。

使いみちの見当がつかないものも、ずいぶん捨てられていた。
その一つに、大人になってもずっと持っていたものがある。
それは石膏を固めたような、7、8センチぐらいの厚さの石を磨いて、
その表面に銅版画のような微細な線で彫られた、野ウサギの細密画だった。
本職が描いたような絵で、石の端はあちこち欠け、三分の一は割れて
無かった。 インクをのせて版画のように使うのか、そのまま置物に
するのかまったくわからなかった。 眺めては首をかしげ、捨てるに
捨てられず、今の所に引っ越すときに失くすまでとっていた。

男の子たちの家の、机の引き出しには、だいじにしている宝物を入れて
いる場所が、たいてい一つはあった。 友達の家に遊びにいくと、
引き出しを開けて宝物を見せてもらったし、私も見せていた
私のは多摩川で拾い集めた、わけのわからないガラクタや、沢山のレンズ、
メンコ、ビー玉、セミの抜け殻などだった。


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昭和30年代の多摩川(3)

2012-01-21 18:32:05 | 昭和の頃

小学校高学年から中学生の頃には、多摩川の水は黒いほど澱むように
なった。 日本の高度成長期の頃である。 川の近くに立ち並ぶ工場群は、
巨大な煙突からモクモクと黒い煙を吐き出し、工業排水をそのまま川に
流していた。

ときどき大量の鯉やフナなどの魚が白い腹を見せ、黒い水の中をゆっくり
川下に向かって流されていくのを見た。 子どもたちは好奇心でそれらの
死んだ魚を網ですくったりしていたが、誰も食べようなどという気は起さな
かった。 それほど多摩川の水は汚れ、ドブのような悪臭がしていた。

家に下宿していた大学生のいとこに、日曜日、多摩川に遊びに連れて
いってもらい、一緒にボートに乗ることがあった。 オールが跳ね飛ばす、
汚れた水が口に入ると、慌てて吐き出していた。 多摩川大橋のあたりでは、
釣りをする人もいなくなっていた。

あれから四十年近くたち、テレビで多摩川に鮎の稚魚がもどってきたのを、
水中カメラが写していた。 あの黒い水の記憶が強く残っていたので、
自然の押し流していく力の凄さに驚かされた。


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絶品、揚げ餅の大根おろしがけ

2012-01-19 17:48:32 | 男の料理

揚げ餅に大根おろしをかけて食べるなんて、誰でも考えそうなものだが、
意外に知らない人が多いみたいだ。 私の家でも餅といえば、雑煮や
納豆餅、海苔餅、きな粉やあんころ餅ぐらいなもので知らずにいた。

中学生のとき、両親が栃木県出身の友だちの家に、正月、遊びにいき、
初めてこれをご馳走になった。 びっくりするほどうまく、それに大量に
作るのがじつに簡単なので、下宿人もいる多人数の家族だった私の家でも、
おふくろが大喜びで取り入れた。

この料理は餅の食べ方として、友人たちにも大好評の料理だ。
大根おろしさえ作れば、ただ餅を素揚げするだけなのでとても簡単。

<つくり方>

*、大根おろしを多めに作っておく。

1、餅を油で素揚げする。 ゴマ油を少し入れると香ばしい。
  餅はふくらんでも、もう少しキツネ色になるまで揚げ続ける。

2、冷たい大根おろしで、餅が少し固くなるので器をレンジで温めておく。
  揚がった餅を器に入れ、大根おろしをたっぷりのせる。
  
3、カツオ節をかけ、生醤油をかけて食べる。
  (カツオ節はなかったら、なくてもよい。)

たったこれだけなのだが、うまい!
大根おろしが入って消化がいいから、食べ過ぎにご用心。


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折りたたみスパイク付き雪靴

2012-01-17 13:56:15 | Weblog

このあいだの雪でやっと、持っているスパイク付き雪靴を試すことができた。
4、5年前の冬、仙台に行ったとき、思いがけず雪が降り積もっていた。 
そのとき革靴を履いて行ったので、ツルツル滑って歩くのにとても難儀した。 
帰ってからすぐ靴屋で探して買ったもの。

写真のように踵部分が凹みここにスパイクが付いていて、 
使わないときは折りたたんでおける。 
店で見たとき、この折りたためるというのが気に入って買った。 
ところがせっかく買ったのに雪が積もらず、下駄箱でずっと眠っていた。
それがいよいよ活躍する日がきたのだ。



使ってみると、スパイクが雪を噛んでなかなかいい感じだ。
軽いアイスバーンでも有効のようだ。 
靴底もしっかり作られているが、スパイクの摩耗がどれぐらい
もつかは不明。


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激突!ポーランド騎兵隊

2012-01-13 15:13:58 | Weblog

『 私たちとドイツ軍とのあいだには、約2キロ半にわたって森が
  広がっていた。 部隊から部隊に進軍ラッパが伝わり、私たちは
  攻撃にかかった。 先頭集団にいて落馬した騎兵たちは、二度と立ち
  上がらず、馬たちはいななきながら倒れ込み、後続の騎兵たちが
  それを飛び越えていった。・・・ 
  騎兵隊の攻撃が憑かれたような気配を帯びてきた。 それが騎兵にも
  軍馬にも同じように伝染した。 その狂躁、その重圧、その打撃力は
  すさまじく、恐怖を誘うほどの激しい集中砲火を浴びせねば止まらぬ
  勢いだった。 』


『 脱出記 』 (スラグォミール・ラウィッツ著)から。
著者は元ポーランド陸軍、騎兵隊中尉。
  
この本の副題は、『 シベリヤからインドまで歩いた男たち 』。
かつて、ソビエト連邦ではシベリヤの強制収容所で使う労働力を
確保するために、多くの無実の人々を不当な裁判で有罪にし、
シベリヤに送り込んだ。

ポーランド人、ラウィッツもその中の一人だった。 
仲間7人で収容所を脱走し、その途中、別の収容所から脱出してきた
少女1人と合流、8人でのサバイバル行が始まった。 シベリヤから
ゴビ砂漠を抜け、ヒマラヤを越えインドまでなんと約6500キロを歩いた。 
ゴビ砂漠で始めに少女が死に、最終的に残ったのは4人だった。


形之医学・しんそう療方 東京小石川
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