形之医学・しんそう療方 小石川院長 エッセー

昭和の頃、自然と野遊び、健康と医療のことなど。

ガキ探検家

2011-09-26 13:29:48 | 昭和の頃

子どもの頃、一番なりたかったのは探検家だった。それはボロボロに
なるほど読み返した、ウィースの「スイスのロビンソン」や、デフォーの
「ロビンソン漂流記」、「リビングストン物語」などの本の影響だと思う。

夏が終わり、秋になると私の大好きな遊びがあった。夏、私の家では、
隣家との境の板塀に、細い竹をたくさん斜めに立てかけ、それに朝顔を
這わせていた。 板塀は20メートルぐらいの長さがあった。

私はボール紙の箱に小さな窓を空け、そこにセロファンを貼り付け、
頭からかぶる。 今ならフルフェースのヘルメットだ。
半ズボンの腰のベルトには棒切れを一本差し、手にも棒を持つ。
棒はジャングルを切り開く山刀のつもり。

枯れた朝顔ジャングルの前に立つと、夢想する少年は完全に、未知の
ジャングルに勇敢に踏み込む、探検家になりきっている。

板塀と立てかけた竹の隙間を、棒をメチャメチャに振り回しながら前進する。
枯れた朝顔のツルが、箱にバシバシと当たる。(これがたまらない
快感なのだ!) 
それはジャングルの中で、行く手を阻む木のツタだ。 探検家になり
きっている私は、鼻血が出そうになるほど興奮しながら前進する。
実際に興奮し過ぎて、鼻血を出したこともあった。

私はあのときの自分が懐かしく、鳥瞰図のように見てみたいと思う。 
秋まで待ちきれず、朝顔のまだ咲いているうちにやろうとして、
オヤジに頭を殴られたこともあった。

小学6年の頃になって、授業で担任の先生から大きくなったら何になり
たい?と聞かれたとき、私は躊躇なく、探検家になりたいと答えた。
先生から、おまえなぁ、そんな職業はないんだよと言われ、がっかり
したおぼえがある。

未知の世界を見たい、踏み込んでみたいというのは、話が違うが、さま
ざまな分野の科学者なども同じではないだろうか。 女性にこういうの
ってわかるのかなぁ? その頃の友達にも探検家志望は何人かいたけど、
女の子では聞いたことがなかった。    


形之医学・しんそう療方 東京小石川
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山伏があらわれた!

2011-09-10 13:55:22 | Weblog

小学生の頃の、夏の土曜日の夜店。 
裸電球のゆらめきの下をゆく人々のそぞろ歩き。 
ところどころ、大道に置かれたアセチレンガス灯の匂い。

あるとき、夜店に山伏が現れた。 黒っぽい山伏の装束に
高下駄を履き、錫杖(しゃくじょう)という金具の輪っかが
いくつも付いた杖を、ガシャンガシャンと鳴らして大道に立った。 
口上は、自分は羽黒山で長年修行をしてきた山伏である。 
修行の結果、ついに千里眼になった。 だから、みんなの
探し物、知りたいことを当ててやろうというのだ。

これだけでは、長年のインチキに鍛えられた見物人からは
信用されない。 これからが不思議なのだが・・・・・ 
山伏は持っていた、1メートルほどの、木の枝の片方の端に、
拳ほどの石を縛りつけたものを地面に無造作に立てると、
パッと手を離した。 なんと、てっぺんに石を縛った枝は
斜めになって地面に立った。

これには見物人がびっくりした。 そしてタネも仕掛けもないぞ
と言わんばかりに、杖を振り振りそのまわりを回ってみせた。 
見物人の、見えないような糸でもついてるんじゃないの? 
という疑いは、木っ端微塵に吹き飛ばされた。

みんなのド肝を抜いた山伏は、そこから商売に入る。
代金を払って、知りたいことや探しものを紙に書いて山伏に渡すと、
山伏はその答えを紙に書いて渡すという。 質問も答えも見物人には
わからない。 値段がいくらだったかおぼえていないが、頼むのは
大人ばかりで、子どもが頼めるほど安くはなかった。

私たちにはそれはどうでもよく、ひたすら、あの斜めに立った木の棒に
興味があった。 夜店が終わったあと、友だちと山伏が枝を立てた
ところに行き、地面に穴があけてあるんじゃないかと、顔をくっつけ
るようにして探してみた。 でも商店街のその道路は舗装されていて
穴はなかった。

今でもあれは不思議だ。 山伏はそっとバランスをとって枝を立てた
のではなく、ごく無造作に立てたのだ。 あとで、???だらけになった
友だちと、木の棒っきれに石をくくりつけて試してみたが、そっとやった
ところで、とてもじゃないが立たないのだ。 トリックがあるのかな~?
それともほんとうに神通力で立てちゃったのかな。
                       

形之医学・しんそう療方 東京小石川
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鉢巻きをした青大将

2011-09-05 18:21:42 | Weblog

小学校の夏休み。 オフクロの郷里、桑名でのこと。 
叔母一家は二列に並ぶ、市営の棟割長屋の一角に住んでいた。 
その真ん中の道はわりと広く、道を進むと、墓地のそばを通り過ぎ、
小さな川と広い原っぱがあった。 そこには東京ではめったに捕まらない
銀ヤンマが、ずいぶん飛んでいて、トンボ捕りをする子供たちの
格好の遊び場だった。

片方の家並みの裏が、その川の上流で、よくそこを眺めていた。 
川の両側にはアシや菖蒲が茂っていて、流れはゆるいが深そうだった。 
そこに時折、雷魚(ライギョ)がボカッと浮いてくるのだ。

雷魚は迷彩服のような模様の魚雷型の魚で、なぜか今ではほとんど見ることが
なくなった。 アジア産の外来魚だが、その頃の桑名の川にはそこらじゅうにいた。

鋭い歯をもつ獰猛な魚で、普通の川魚の雰囲気と違い、勇ましく見える
ので男の子たちにとても人気があった。 かなり大きくなる魚で、
1メートルぐらいのを釣ったり、網で捕ったという話を聞いた。 
捕った雷魚の口に触ろうとして、危ないと、叱られたことがある。
それほど歯が鋭い。

濁った水の中から雷魚が浮き上がってきて、なにをしているのか、
しばらく浮いている。 それからまたスッと潜っていく。 
それを飽きもせずに、半日も眺めていたこともある。

あるとき、その川沿いの、高くほとんど人の通らない草ボウボウの小道を歩いて、
原っぱのほうに行った。 原っぱに出たところで、私よりずっと年上の、
兄貴分のマサシちゃんに会った。

「そこは歩いたらいかん」
「なんで?」
「青大将が出る」
「アオダイショウって何?」
「ヘビの大将だ。 頭にショウブの葉っぱで鉢巻してる、青い大きなヘビだ」
「エーッ!!鉢巻してんの?」
「そう、鉢巻して、こうやって、(と、手首を曲げて、鎌首をもちあげた
 ような格好をしてみせて)もの凄い早さで追いかけてくる」
「・・・・・・・」

すっかり頭の中に、鉢巻をして鎌首を持ち上げた、緑の大蛇のイメージ
がこびりついてしまい、二度とその道を歩かなくなった。

あとで考えれば、川に落ちると危ないからと脅したのだろうが、それ以来、
青大将と聞くと、鉢巻をしたヘビの姿が頭に浮かんできてしょうがない。

                    
からだの形は、生命の器
形之医学・しんそう療方 東京小石川
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弘法浜漂流記(1)

2011-09-03 14:42:14 | 昭和の頃

まだ学生だった二十代始めの頃、夏休みに仲間たちと、伊豆大島で三週間
ほどの長逗留をした。 逗留といっても海岸の片隅でのテント暮らしだった。 
場所は大島の弘法浜。 浜の右側は元町港、左側は大きな岩が、ごろごろ
転がって長く続く岩場になり、弘法浜はそのあいだにある海水浴場になって
いる。

始めのうちは、バイトで貯めたお金が少しあったものの、じきに全員が帰る
船賃には足りなくなり、心細いことになってしまった。 そんな頃、朝早く
テントの入り口の前で、「そら、食え!」という声がして、何かがドサッと
投げられた。 出てみると、コブシほどもある、大きなサザエが一個、
テントの前に投げだしてあった。 それから、サザエをくれた三十代ぐらいの
漁師と話すようになった。  浜に朝早く浜に来てみろというので、まだ陽も
昇らない、青く暗い浜に出て待っていると、一人で小さな舟に乗って漁から
もどって来た。

舟を岸につけると、獲ってきた魚を箱に整理し、数のそろわない半端な
小魚をくれた。 しばらくのあいだ、私たちはその漁師から魚をもらい
おかずにしてご飯を食べた。

やがて米まで少なくなり、食べる量も加減しないとならなくなった。
困り果てて、町でアルバイトを探した。 やっと喫茶店でアルバイト募集の
張り紙を見つけて行っても、どこの馬の骨かわからない、真っ黒いのを
雇ってはくれず途方に暮れた。

あるとき、岩場で水中メガネをつけて潜ったら、オカズにぴったりの、 
大きな赤い蟹を見つけた。 必死で捕まえようとして獲りそこない、
一本の足だけ、やっともぎ取って水から出して見たら、割り箸ほどの
細さでがっかりした。 水中メガネをつけて、水の中で見ると大きく
見えるのだ。

はじめは楽しく泳いだり、潜っていた海水浴場の片隅で、私たちは空腹を
かかえ、にぎやかに騒いでいる海水浴客を見ながら座り込んでいた。

そういう日が何日か続いた頃、弘法浜の遠くのほうから、何か大声で
叫びながら歩いてくるオヤジがいた。 
顔がわかるほどに近づいてきたそのオヤジは、でっぷりと太っていて、
カンカン帽をかぶり、着ている派手なアロハシャツの前ボタンは全部
外していた。 手にはウチワを持ち、バタバタと忙し気に扇ぎながら
歩いてくる。

大声で言っているのは、「誰かバイトをする者はおらんかー!!」 と
叫んでいたのだ。 私たちは誰ともなく立ち上がり、オヤジに向かって
走り出していた。
 
  -続く- 
                       

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弘法浜漂流記(2)

2011-09-02 18:54:18 | Weblog

アロハのオヤジのところに、私たちは夢中で「やる!やる!」と
叫びながら走り寄っていった。 さいわい、大島まで遊びに来て、
アルバイトなどする人がいるはずもなく、4人全員をその場で雇って
くれた。 バイト代もありがたいことに日払いでくれるという。 
いくらだったか記憶にないが、東京で土方のバイトをするより、
なぜかずっといい額だった。

すぐ用意をしてくれというので、テントで服を着替え、車に乗せられて
三原山に向かった。 仕事は山の中腹に作る、牛舎の基礎をつくる
仕事だった。 その日は根切りをするという。 根切りというのは、
コンクリートの基礎を打つために、地面に凹型に溝を掘っていく作業だ。

さほど大きくない牛舎だったが、土の中には、三原山の火山岩らしい
大小の石がつまっていて、掘るのは容易ではない。 スコップの先が
石にガチガチ当たって入らないのだ。 手でいちいち石を除いたり、
ツルハシを使って作業をしなければならなかった。 
向こうの人はのんびりしているのか、まだじゅうぶん陽のあるうちに、
作業は途中で終わって町に帰り、オヤジからバイト代をもらった。 
私たちは待望のお金を手にした。

突然金持ちになったような気分で、どこに食べに行こうかと、うれしい
相談をして、まず銭湯に行こうということになった。 オヤジから伊豆
七島で唯一の銭湯が、波浮(はぶ)の港にあると聞いていた。

バスに乗り、ささやかな成金一行は波浮の港に向かった。 銭湯はすぐに
わかった。 小さいがこぎれいな銭湯で、流木で湯を沸かしているという。 
私たちは番台のおばさんから、タオルと小さな石鹸を買い、久しぶりの
風呂に入った。 それまでは海水浴場にある水道で体を流すだけだった
から、最高の風呂だった。



銭湯から出た私たちは、すぐ近くにあった鮨屋に入った。 
目の回りそうな空腹をかかえて、鮨を腹いっぱい食べた。 
オマケで出してくれた、地の物だといういろいろな海草の盛り合わせ
に舌鼓を打ち、たらふくビールを飲み、また弘法浜のテントに帰った。

その日から二週間ほど、基礎工事の続きや漁礁をつくるアルバイトをして、
私たちは東京に帰ることができた。 帰る前の日に、アロハのオヤジから、
自分の店で飲ませてやるから来いと招待され、出かけていった。
それがまさかの大きな民謡酒場だったので驚いた。  
舞台までついている広い畳敷きにテーブルを並べ、客に飲ませるのである。

アロハのオヤジは手配師でも何でもなく、土建屋の友だちに頼まれて
アルバイトをさがしていたらしい。 土建屋のおやじさんから聞いた
ところによると、私たちに払っていた日当も、ピンハネもせず、全部
渡してくれていたそうだ。 酒場にたまたま遊びに来ていた、浅草で
ヤクザをしているというオヤジの弟と、その兄弟分という人相の悪いのが
4、5人いたのにも驚いた。 弟にはオウッとアゴの先で挨拶された。


その数年後、風のたよりにオヤジが何をしでかしたのか、
警察に捕まって東京に送られたと聞いた。

     ― 続く ―
                      

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弘法浜漂流記(3)・銃剣道の達人?!

2011-09-01 13:01:46 | 昭和の頃

その日、バイトの作業は浜で漁礁の型枠を清掃する仕事だった。
漁礁というのは、海に沈めておく魚の住む家のこと。
コンクリートでできた、2メートル四方ぐらいの大きさで、枠だけで、
壁のないサイコロのような形をしている。 これをたくさん海に沈め、
魚の家にする。 型枠を組み立て、中に鉄筋を組んでコンクリートを
流し込み、固まったら型枠をバラすと出来上がる。 バラした木の型枠は
繰り返し使うので、こびりついたコンクリートを、ケレンという、1、5メートル
ぐらいの棒の先に、小さな鉄板のついたもので、コンクリートをかき落す。

一緒に仕事をしながら現場の作業を指示する、若頭と呼ばれた、
三十代はじめぐらいの、体格も元気もいい人がいた。
昼休みにみんなで休んでいるとき、
「 オレは東大の剣道部を出たんだ 」 といって、みんなを笑わせた。
「 法学部とかじゃなく?」
「 いや、剣道部。 誰か、剣道教えてやろうか? 」 とケレン棒を、
竹刀のように構えながら言い出した。 誰も取り合わずに笑っていると、
「 どうだ藤助爺さん、一丁教えてやろうか? 」  と、
一緒に休んでいたお爺さんに声をかけた。

そのお爺さんは、六十代半ばぐらい。 背筋はシャンとしているが、
短い髪に小柄でほっそりしていた。 とても無口な人でいつも黙々と
仕事をしていた。 その藤助爺さん、そばに置いてあったケレン棒を
持つと、スッと立ち上がった。

そして槍をもつような格好で構え、棒を構えている若頭に対すると、
軽快なフットワークで、小さな鋭い突きを繰り出しながら、砂の上を
滑るようにように前進した。
若頭は、おっ?!おっ?! と、驚きの声をあげ、後退しながら
突きを返す。 藤助爺さん、突き出されたケレン棒を小さく弾くと同時に、
凄まじい突きを入れる。 たちまち若頭は追い込まれ、後ろにあった
型枠に足をとられて、両足を宙に跳ね上げひっくり返った。 
みんな唖然としていた。 仕事をしているときの藤助爺さんとは、
まるで別人だった。

若頭は起き上がって砂をはたきながら、
「 爺さん、なにかやってたのかい? 」 とあきれて聞いた。
藤助爺さんは、
「 昔、銃剣道の教官をしていたことがある 」 と答えた。
藤助爺さんの過去は知らないが、いろいろなところに、
いろいろな人が埋もれているものである。 そのときから、
みんなの藤助爺さんを見る目が、変わったのはいうまでもない。

いまでも藤助爺さんの颯爽とした姿は目に残っているが、
その顔は陰のようになって浮かんでこない。 もう何十年も前のこと。
                 

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