形之医学・しんそう療方 小石川院長 エッセー

昭和の頃、自然と野遊び、健康と医療のことなど。

ギシギシを食べてみた

2011-05-27 13:59:50 | 自然と野遊び

以前から食べられる野草の本にのっている、ギシギシを食べてみようと
思っていた。 だが原っぱに生えている身近な野草は、どうも山菜という
感じもなく、今までに食べたものはごく少ない。

ギシギシはたいていの人は見たことがあると思う。 成長すれば草丈
1メートルはあるタデ科の大型の植物。 多年草で、地上部を刈っても
刈っても出てくる丈夫な植物だ。 和名を羊蹄(ようてい)といい、
根っこは、羊蹄根(ようていこん)で生薬に入っている。 古くから
民間で皮膚病に使われてきた。 掘り出すと、頑丈なゴボウのように
太い根が出てきて、それを割ると中は黄色い。



家の裏の草むらに数本出ていたギシギシの若芽を採って食べてみた。 
丸まって薄い膜に包まれた芽は、ジュンサイのようなぬめりがある。 
ギシギシはシュウ酸を多くふくむので、生で食べるのは避けたほうがよく、
茹でてオヒタシにして食べることにした。 



茹でると鮮やかな緑色が色あせてしまうが、ぬめりはそのまま残る。 
味はほろ苦い。 うまいか? と聞かれれば、特別うまくはない。 
それじゃマズイのか? と聞かれても、それほどマズクもない。 
風味が少ないかな。 5点満点で3点!
                     

形之医学・しんそう療方 東京小石川
http://www.shinso-tokyo-koisikawa.com/


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毒草・狐のボタン

2011-05-20 13:59:56 | 自然と野遊び
今まで、狐のボタンの「ボタン」は、服のボタンのことだとばかり
思っていた。 とくに理由はなく、お菓子の金平糖(こんぺいとう)
のような実が、狐のボタンというイメージにぴったりだなと思っていた。 
ボタンにしては丸い実だが、昔の人がおもしろがって、狐のボタンと
つけたのだろうと。 

ところが調べてみたら、葉が牡丹の葉に似ているからつけられたらしい。 
なので「狐の牡丹」が正しいようだが、どうも腑に落ちない。 
牡丹の葉に似ているだけで、牡丹とつけるかな? 

葉にはキンポウゲ科特有の切れ込みが入っていて、見慣れると、
これは毒草の多いキンポウゲ科じゃないかなと見当がつく。 
だが毒草は同時に薬草になっているものも多い。 
毒と薬は使い方によって表裏一体だ。  



キツネノボタンは湿地や田の畦などによく見かける野草で、水気の
多いところを好む多年草。 毒草で、草汁が皮膚につくとかぶれる。 
またセリが出るところと同じようなところに生えるので、間違って採り、
誤食して口内や胃に炎症を起こす例もあるようだ。 



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春の潮・ファーブル昆虫記から

2011-05-19 18:56:44 | Weblog


  ことのなりゆきはこんな具合だった。
 我々は5人か6人だった。
 私は一番年上でみんなの先生であったが、
 それ以上に仲間であり、友達だった。

 彼ら少年たちは燃えやすい心と楽しい空想とを持ち、
 我々に好奇心をそそり、知識欲にかりたてる、
 あの人生の春の潮に満ち満ちていた。

 一同はあのことこのことを語り合いながら小径を歩いていくと、
 道ばたに生えた草ニワトコやサンザシの花の上では、
 もう金ハナムグリが強い匂いに酔いしれていた。

 我々はレ・ザングルの砂土の高台に、
 聖タマコガネがもう姿を見せて、
 古代のエジプト人が地球の像とした、
 糞の団子を転がしているかどうか見に行くところであった。

 また我々が調べようとしていたのは、
 丘のふもとの小川では、敷きつめたような浮き草の下に、
  珊瑚の小枝に似たエラのある、若いイモリが隠れていないか、
 小川の華奢な小魚のトゲ魚は、
 藍と緋の婚礼の首飾りをもうつけたかどうか、

 ・・・・略・・・・

 いや、まあこのくらいにしておこう。
 要するに、単純で素朴で、生き物と一緒に暮らすことに、
 心の底から喜びを感ずる我々は、
 春の生命の目醒めという楽しい饗宴のうちに、
 朝の幾時間を過ごそうと出かけたのだ。    』

             「ファーブル昆虫記」 (岩波書店刊)より。


この冒頭の一節を読むと、友達と遊んだ小学生の頃を思い出す。
私たちも多摩川に出かけていくとき、道草を食いながら歩く途中、
途中で見つける生きものたちに心を躍らせていた。

いつも同じ家の、海中にさらしたような小さな穴が沢山空いた木の
門柱には、きまったようにトカゲが日向ぼっこしていた。 ガイシと
呼ばれていた、大量のレンガが散乱した、崩れた工場の廃屋の周りの
水溜りには、小エビが素早く動いている。
今日は何がいるかな ・・・・ 私たちはそれらを見つけることを
期待しながら多摩川に向かって歩いていった。 子どもたちは生きものを、
その姿のむこうにある、小さな命を見つめる眼差しで見ていたように思う。


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万年筆売り

2011-05-17 18:20:56 | 昭和の頃

幼稚園の頃からずっと、蒲田の隣り駅、目蒲線、矢口の渡に
住んでいた。 目蒲線は、大田区蒲田と目黒を結ぶ東急の電車で、
現在は目黒線と多摩川線に分割され、その名前は消えている。

矢口の渡では毎週土曜日に、駅近くの商店街沿いに夜店が出た。 
それは子どもたちの、土曜日の大きな楽しみの一つだった。

そこに時折、万年筆売りが来た。 香具師(やし)である。
香具師というのは縁日などで物を売ったり、興行をする人のことだ。
私は中でも、万年筆売りが大好きだった。 このインチキ万年筆に
何度もだまされた。 でもなぜかまた買ってしまう。

夜店の中でも万年筆売りは、口上が面白くて人気があり、そのまわりは
黒山の人だかりになった。 道に大きな風呂敷を広げ、その上には
青っぽい泥が山のように盛られている。 泥の中には、一本一本油紙に
包まれた万年筆がいっぱい埋まっているのだ。 

香具師の口上はだいたい決まっている。 自分は万年筆工場で働いていたが、
工場が火事になって会社がつぶれてしまった。 そこで社長から給料の代わりに、
火事場からさらったこの泥まみれの万年筆を渡された、というのがその口上だ。 
だからこの万年筆は、ちゃんとした工場で作られていたんだぞ、というわけ。

今考えると、工場で万年筆にインクを入れるわけがないのに、なんで
青い泥なのか、ヘンなのだが・・・・。 だが聞いているほうはそこまで
考えない。 火事になっている工場と、消防隊が水をかけている光景が
目に浮かび、泥まみれになった万年筆が目の前にあった。

万年筆売りは、泥の中から油紙に包まれた万年筆をおもむろに取り出し、
雑巾で一拭きする。 なんとそこから、ピッカピカの万年筆が出てくるのだ。
この汚い泥の中から、ピカピカの万年筆が出てくるところが最高の見せ場で、
子どもたちの大好きなところだった。

見物人のあいだから、驚きのまじった、オ~ッ!という声がもれる。 
香具師はその万年筆の先をインク壺につけて、白い紙にサラサラと線を
書いて見せる。 どうだ、見たか!である。 たしかに見た!ちゃんと
書ける!おまけに安い! たしか2、3百円ぐらいで、文房具屋で
売ってる万年筆の、10分の1ぐらいじゃないかと思う。 夜店に行くのに
2百円も親からもらっていないから、家に飛んで帰って、貯めたこづかいを
持って買いに行った。

そんな週明けの、月曜日の学校の教室には、きまって、情けない顔で
万年筆を手にしてる、何人かの級友がいた。 私もその中の一人だった。

その万年筆、インクを入れて書こうとすると、ペン先からボタボタ、インクが
ノートに滴り落ちて、まともに使えないのだ。 だからペン先をインク壺に
つけつけ書くハメになる。 それも付けペンほどもインクがもたず、
しょっちゅう壺につけないとダメで、とうてい万年筆とはいえない代物だった。

あるとき、多摩川園遊園地の出口で売っていたのは、万年筆の端に
小指の先ほどの水晶!! がハメ込んであるというものだった。 
たしかに透明で、きれいな水晶がついていた。 だが買ったらやっぱり、
インク、ボタボタで、腹立ちまぎれに水晶をマッチの火であぶったら
燃えちゃった! というのもあった。

時代とともに万年筆は廃れてしまい、
夜店の万年筆売りはどこかに行ってしまった。
                    

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ガスを噴射する虫

2011-05-02 19:15:22 | 自然と野遊び

昭和30年代、東京にもいたるところに原っぱがあった。 ただの雑草の
生えた空き地で、そこには大きな石や板切れ、コンクリートの塊など、
いろいろなものが放り込まれていた。そこは絶好の子どもたちの遊び場だ。
大人の考え出した遊具を、整然と並べてある公園より、子供たちには
ずっとおもしろい場所だった。

落ちているものをかき集め、自分たちで工夫して、いろいろな遊びを作り出した。
ときには、集めた板切れや丸太ん棒を、石ころを金づち代わりにして、拾った
錆び釘を伸ばして打ちつけ、犬小屋のような小さな家を建てたこともあった。

そんな原っぱに仲間たちと行くと、まずやることは落ちている板や石を、サッと
どかすことだった。 その下にはいろいろな生きものが潜んでいて、突然差し込ん
できた陽の光に、右往左往して逃げ出す。

その中に、ガスをお尻から噴射する虫がいる。 子供たちが真っ先に探す虫だ。
逃げ出すこの虫の背中を小枝で押さえると、まるでスカンクのように、お尻から
タバコの煙のような、薄紫のガスをキュッと音をたてて噴射するのだ。
発射できるのはせいぜい3、4回ぐらいで、ガス欠になると、それまで余裕の
よっちゃんみたいな虫は、おかしいほどあわてて逃げ出す。

ただ誰もこのガスの匂いを嗅いだ子供はいなかった。 きっと臭いに違いなく、
いかにも体に悪そうで、子どもたちは鼻をつまみ、息を止めて虫の背中を
押して遊んでいた。 

調べてみたら、やはりガスは毒性と悪臭のあるもので、なんと100度もの
高温があるそうだ。カエルなどがエサにしようと舌を伸ばすと火傷するらしい。 
東京ではこの虫も見かけなくなった。ミイデラゴミムシという、ゴミムシの仲間。


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