形之医学・しんそう療方 小石川院長 エッセー

昭和の頃、自然と野遊び、健康と医療のことなど。

駄菓子屋・続き

2012-12-01 13:30:00 | 昭和の頃

懐かしの店というのか、小さな店がたくさん入るビルの片隅で、
昔の駄菓子屋の店をやっていることがある。 のぞいて見ると、
もうないものもある。

たとえば、今の駄菓子屋ではニッキの小枝などは見たことがない。
ニッキはマッチ棒ぐらいのものが、5、6本赤い紙で束ねてあった。 
砂糖がまぶしてあったのか、それをかじると、ほんのり甘かった。 

他にも、細長いガラス管に入った色つきゼリーもなかった。 
このガラス管、たっぷりゼリーが入っているように見えるが、
厚いガラスの錯覚で、中が細くてゼリーは少ししか入ってない。
一瞬チュルッと吸って、あっけなくおしまいだった。 
ガラス管は返していた。

お正月は大きな箱クジを店先に置いた。 
大きな箱を縦横に仕切ってあり、全面に紙が張ってある。
どこに何が入ってるのか見えないようになってる。 
それをお金を払って、指でズブリと破って中の景品を取り出す。 
障子紙を指に唾をつけて破ると、なぜか知らないが面白い。
あとで怒られるのがわかってても、つい誘惑にかられてズブリと。 
ここでは大威張りでズブリ、ズブリとやっていた。
仕切りの中にはコマやメンコ、ベーゴマなどが入っていた。

駄菓子屋は私の住んでいたあたりでは、お爺さんやお婆さんが
やっていることが多かった 。 店の名前は、モリなどの姓で
呼ばれたり、じじばばの店などと呼んでいた。
「学校が終わったら、じじばばの店に行こうぜ!」 と誘いあった。

駄菓子屋にはお菓子だけじゃなくて、いろいろなものが置いてあった。
細引きのロープがあったり、夏は虫取りに使うトリモチ、虫獲り網、
竹の釣り用一本竿、壁にぶつけるとパーンッと破裂するカンシャク玉、
ブリキのおもちゃのピストルや、それに使う巻紙状の火薬。
お正月は空に上げるタコも置いていた。 ゴチャゴチャいろんなもの
があって見ているだけで楽しかった。


からだの形は、生命の器 
形之医学・しんそう療方 東京小石川
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2色だけのカラーテレビ

2012-11-30 16:55:39 | 昭和の頃

日本に白黒テレビが普及し始めた頃、
家にテレビのない子は、夜、近所に見せてもらいに行っていた。 
私の家も買ったのは遅かったので、隣近所をハシゴして歩いた。 
行くと部屋の明かりを消してテレビを見る。 
みんな映画館で映画を見るような気分なのだ。 
違いは映画館のように、始まりのブザーが鳴らないだけだった。

怖い番組もあった。 「怪猫、黒猫丸」 という時代劇は、顔を猫の顔で白塗りし、
口は真っ赤に、耳まで裂けた俳優が、歌舞伎の白い獅子毛を被って出てきた。 
夜中に、部屋の行灯の油を舐めているシーンなど、私たちは恐ろしくて見て
いられなかった。 ペチャペチャと舐めていたと思うと、クルッと振り向いた顔は、
身の毛もよだつというやつだ。 
私たちは恐くなって下を向いていた。 まだ出ているかわからないので、
「おまえ、見てみろよ」 「イヤだよ」 などと押し問答し、見ている大人に
「まだいる?」 と聞いていた。 もういないと聞くと、ホッとしてまた見ていた。

近所にお豆腐屋さんがあって、朝よく鍋を持って豆腐や納豆を買いに
やらされた。 ある朝、豆腐を買いにいくと、「うちの、カラーテレビに
なったから、見においで」 と誘ってくれた。 夜がくるのが待ち遠しく、
夜、弟とワクワクして出かけていった。 
見てビックリだった。 白黒テレビの画面に、上半分が赤、下半分が青の、
1枚の色つきプラスチックを、バコンとはめこんであるだけのテレビだった。 
人でも景色でも、いつも画面の上半分が赤、下半分が青になっちゃうのだ。
カラーといえばカラーだが、見づらくて弟と目を回していた。


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駄菓子屋

2012-11-26 14:33:08 | 昭和の頃

大人になってから、なんとなく昔の駄菓子屋のある町を歩いて
みたくなり、荒川の下町のほうにふらりと行ってみた。 
裏通りを路地から路地へと歩いていると、遠くに何か白いものが
散らばっているのが見えた。 そのとき、昔の駄菓子屋の、
店先の光景が目に浮かんだ。

昔、駄菓子屋の前には、よく小さな白い紙切れが散らばっていた。
子どもたちが、なめクジを引いてハズれ、捨てたものだ。 
なめクジというのは、小さな四角い紙切れの束の中から、
1枚選んで取りなめると、当たりとか、ハズレという字が
浮かび上がってくるクジだ。  当たりなら大きな飴玉、
ハズレは小さい飴をくれた。 

行ってみると案の定、そこは駄菓子屋だった。 
店をのぞくと、小さなお婆さんが、子どもたちの相手をしていた。 
私もその中の一人のような気持ちになって、お婆さんの顔を見ていた。


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ままごと遊び

2012-09-04 16:53:06 | 昭和の頃

小学生の頃、休みの日の雨は、外で遊べない私には退屈でもだえるほどだった。
部屋の中で、どうやって遊ぼうか、悩んじゃうのだ。 
そんな雨の日の午後、隣の家の一つ年下の幼なじみ、平ちゃんに、
遊びにおいでよと誘われた。 どうせまた、トランプかなんかやるんだろう
なと思いながら遊びに行った。

平ちゃんには、私より四つぐらい年上のお姉さんがいる。 
行くとそのお姉さんが家にいて、おままごとしましょうと誘われた。 
ままごとなんてやったことがない。 
用意するからと、私と平ちゃんは隣の部屋で待たされた。

いらっしゃい!の黄色い声でいってみると、畳の上に小さなゴザを敷き、
その上に化粧品の見本なのか、小さな瓶が所狭しと並べられていた。
小瓶のいくつかには、赤や青、緑の色のついた水が入っていて、
私たちは "お客さん" 役らしい。

お姉さんは、口に手をあてて、オホホッなどと笑いながら、緑の水を
小さなオモチャの茶碗に入れて、「お茶をどうぞ」とすすめてくれた。 
その間、私たちはお客なので、正座をしてないといけないらしい。
アホらしいというか、なんというか・・・・でもそれは、初めての
新鮮な遊びだった。 ままごと遊びをしているうちに、私は"お姉さん"
というものに憧れた。 オレもお姉ちゃんが欲しいと。

ある日おふくろに、お姉ちゃんを生んでくれと頼んだ。 
鼻水をたらして笑っているだけの弟より、なんぼいいことか。 
ところがおふくろの話だと、「バカだね、これから生んだら、おまえより
年下だから、妹になっちゃうんだよ」 と笑われた。 
とたんに、そばで笑っている弟の丸い顔が、お下げ髪の女の子の顔に
見えて、 「そんなら、いらないや・・・・」と答えた。  

                  
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蛇苺(ヘビイチゴ)

2012-04-05 18:15:58 | 昭和の頃

タンポポの咲き始めている、城址公園の草むらを歩いていた。
そこに混じって、同じ黄色い蛇苺の、五弁の花が咲き始めていた。 

小学校の頃、日曜日に友達4、5人と、多摩川の上流のほうに
探検に行くことになった。 前の日に母親に頼んでおいた、おにぎり
と水筒を持って、私たちは歩いて多摩川沿いの道を上流に向かって
いった。 道は時折、川から離れ、また一緒になる。

多摩川園に近づき、通りを外れて住宅街の中の小道を入っていくと、
立派な庭のある大きな屋敷が並ぶところに出た。 それは私たちが
住んでいた町とは違っていた。 右に左に小道を分け入って、
その先に何があるんだろうと小さな探検を楽しんだ。

屋敷の中には、誰も住んでいないような、庭の草がぼうぼうになった
洋館もあった。 たくさんある窓を見てると、暗い部屋のどこからか、
ワシ鼻でトンガリ帽子をかぶった魔法使いのおばあさんが、こちらを
じっと見ているような気がしてくる。

「これお化け屋敷じゃないかな~」
「ちょっとだけ庭に入ってみようか?」
「オレ、イヤだよ」

さんざん小道を歩いていると、蛇苺がたくさん出ている草むらがあった。
地面を這うように広がって、赤い小さな実をたくさんつけていた。

それが蛇苺という名前で、毒はないというのは遠足のときに学校の
先生に教えてもらって知っていた。 名前を聞いたとき、私は蛇が
食べる苺かな~と思った。 地面を這うヘビが、赤い蛇苺をうまそうに、
パクリ、パクリと食べる姿が頭に浮かんだ。



そこで私も一粒採って口に放り込んでみた。イチゴなんだから、
少しはその味がするだろうと思ったのだ。 ところがイチゴとは
名ばかりで、そんな味は全然しなかった。

指でやわらかい実を割ってみると、中は苺のみずみずしい果肉など
なくて、フカフカの白いスポンジみたいなものが入っていた。
それこそ味も素っ気もないイチゴだった。 バラ科の多年草。

                    
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キスとセロファン

2012-03-26 18:25:09 | 昭和の頃

中学1年のとき、大の仲良しSくんは、映画好きで石原裕次郎の
大ファンだった。 大きなSくんは、裕次郎のように、よくポケットに
両手を突っ込んで歩いていた。 
学校からの帰り道、
「おまえさぁ、俳優が映画でキスするとき、どうやるか知ってるか?」
と聞いてきた。
「知らない」
「あのなぁ、俳優はキスするとき、口と口の間にセロファンはさんでするんだ」
「なんで?!」
「あのな、セロファンはさんでやらないと、赤ん坊ができちゃうんだ」
「ヘーッ!!」

その日、家に帰った玄関先で、弟が木箱を押して電車ごっこをしていた。
「あのなぁ、映画俳優ってのは、どうやってキスするか知ってるか?」
弟は鼻水を垂らしたままキョトンとしていた。
アホらしくなって説明はやめた。


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昭和30年代の多摩川(1)

2012-01-24 15:15:15 | 昭和の頃

小学校の頃、私の住んでいたあたりでは、多摩川は子供たちの格好の
遊び場だった。 低学年の頃は川の水もまだわりあいきれいで、仲間と
釣りや網を使っての魚獲りもした。 河川敷きも整備されてなく、まったく
自然のまま、草ぼうぼうだった。

私の住んでいたあたり(東急目蒲線、矢口の渡)から真っ直ぐ多摩川に
向かうと、ちょうど多摩川大橋のあたりに着く。 時には友達と連れ立って、
母親から作ってもらったおにぎりと水筒を持ち、遠くは、二子多摩川園を
過ぎ登戸まで魚獲りにいった。 獲れる魚は、クチボソやコブナ、ハヤ、
牛ガエルの大きなオタマジャクシ、ときにはウナギの子どもが釣れること
もあった。

多摩川園の堰近くの土手を通ると、小舟に乗ったおじさんが、よく岸の
近くに舟をとめて巨大な四角形の網で魚を獲っていた。 川底に沈めた網を、
大竹をテコのようにして獲る。 何が獲れるか面白いので大勢の人が集まり、
獲った魚を見物人に売っていた。

水を滴たらせて引き上げられた網には、大きな鯉やナマズ、マルタと呼ばれて
いた大型の魚が入っていた。 マルタは名前のとおり、丸太みたいなかたちの
魚で、やたらに小骨が多く泥臭いので、かなりマズイ。 近所の人が多摩川で
釣ったのを何度かもらい、それをオフクロが煮て食べさせられたことがある。


台風が来ると、それが去ったすぐ後に、男の子たちの絶好の遊びが待っている。 
みんなで、それぞれ傘を持ち、自転車に乗って多摩川の土手に行った。
土手の上で傘を広げて自転車に乗ると、ヨットのように傘が風を受け、
走るのだ。 傘が逆さにチョコになるのはザラだったが、それはとても
愉快な遊びだった。
                      

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昭和30年代の多摩川(2)

2012-01-23 14:01:06 | 昭和の頃

多摩川には、別の楽しみもあった。
土手のいたるところに捨てられた、どこかの工場の雑多なゴミの中から、
宝物をみつけることだった。 今なら不法投棄とされてしまうだろうが、
その頃の多摩川の土手は、零細工場のゴミ捨て場みたいなものだった。
ペンキの空き缶の山から、何に使うのかわからない部品のようなものまで、
いろいろなものが大量に捨てられていた。

土手を歩いていると、ガラスのレンズが、小山のように捨てられている
こともあった。 レンズ工場が捨てたものだ。 私たちは喚声をあげて
走り寄り、いいレンズだけ拾い集め、ズボンのポケットいっぱいに詰め
込んだ。

大小の凹凸レンズの中には、いろいろな大きさや厚さのものがあった。
ぶ厚い小さなレンズ、きっと顕微鏡のレンズだよ!
大きいのは天体望遠鏡のかな?
レンズの一つ、一つに私たちは想像をめぐらせた。

使いみちの見当がつかないものも、ずいぶん捨てられていた。
その一つに、大人になってもずっと持っていたものがある。
それは石膏を固めたような、7、8センチぐらいの厚さの石を磨いて、
その表面に銅版画のような微細な線で彫られた、野ウサギの細密画だった。
本職が描いたような絵で、石の端はあちこち欠け、三分の一は割れて
無かった。 インクをのせて版画のように使うのか、そのまま置物に
するのかまったくわからなかった。 眺めては首をかしげ、捨てるに
捨てられず、今の所に引っ越すときに失くすまでとっていた。

男の子たちの家の、机の引き出しには、だいじにしている宝物を入れて
いる場所が、たいてい一つはあった。 友達の家に遊びにいくと、
引き出しを開けて宝物を見せてもらったし、私も見せていた
私のは多摩川で拾い集めた、わけのわからないガラクタや、沢山のレンズ、
メンコ、ビー玉、セミの抜け殻などだった。


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昭和30年代の多摩川(3)

2012-01-21 18:32:05 | 昭和の頃

小学校高学年から中学生の頃には、多摩川の水は黒いほど澱むように
なった。 日本の高度成長期の頃である。 川の近くに立ち並ぶ工場群は、
巨大な煙突からモクモクと黒い煙を吐き出し、工業排水をそのまま川に
流していた。

ときどき大量の鯉やフナなどの魚が白い腹を見せ、黒い水の中をゆっくり
川下に向かって流されていくのを見た。 子どもたちは好奇心でそれらの
死んだ魚を網ですくったりしていたが、誰も食べようなどという気は起さな
かった。 それほど多摩川の水は汚れ、ドブのような悪臭がしていた。

家に下宿していた大学生のいとこに、日曜日、多摩川に遊びに連れて
いってもらい、一緒にボートに乗ることがあった。 オールが跳ね飛ばす、
汚れた水が口に入ると、慌てて吐き出していた。 多摩川大橋のあたりでは、
釣りをする人もいなくなっていた。

あれから四十年近くたち、テレビで多摩川に鮎の稚魚がもどってきたのを、
水中カメラが写していた。 あの黒い水の記憶が強く残っていたので、
自然の押し流していく力の凄さに驚かされた。


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ガキ探検家

2011-09-26 13:29:48 | 昭和の頃

子どもの頃、一番なりたかったのは探検家だった。それはボロボロに
なるほど読み返した、ウィースの「スイスのロビンソン」や、デフォーの
「ロビンソン漂流記」、「リビングストン物語」などの本の影響だと思う。

夏が終わり、秋になると私の大好きな遊びがあった。夏、私の家では、
隣家との境の板塀に、細い竹をたくさん斜めに立てかけ、それに朝顔を
這わせていた。 板塀は20メートルぐらいの長さがあった。

私はボール紙の箱に小さな窓を空け、そこにセロファンを貼り付け、
頭からかぶる。 今ならフルフェースのヘルメットだ。
半ズボンの腰のベルトには棒切れを一本差し、手にも棒を持つ。
棒はジャングルを切り開く山刀のつもり。

枯れた朝顔ジャングルの前に立つと、夢想する少年は完全に、未知の
ジャングルに勇敢に踏み込む、探検家になりきっている。

板塀と立てかけた竹の隙間を、棒をメチャメチャに振り回しながら前進する。
枯れた朝顔のツルが、箱にバシバシと当たる。(これがたまらない
快感なのだ!) 
それはジャングルの中で、行く手を阻む木のツタだ。 探検家になり
きっている私は、鼻血が出そうになるほど興奮しながら前進する。
実際に興奮し過ぎて、鼻血を出したこともあった。

私はあのときの自分が懐かしく、鳥瞰図のように見てみたいと思う。 
秋まで待ちきれず、朝顔のまだ咲いているうちにやろうとして、
オヤジに頭を殴られたこともあった。

小学6年の頃になって、授業で担任の先生から大きくなったら何になり
たい?と聞かれたとき、私は躊躇なく、探検家になりたいと答えた。
先生から、おまえなぁ、そんな職業はないんだよと言われ、がっかり
したおぼえがある。

未知の世界を見たい、踏み込んでみたいというのは、話が違うが、さま
ざまな分野の科学者なども同じではないだろうか。 女性にこういうの
ってわかるのかなぁ? その頃の友達にも探検家志望は何人かいたけど、
女の子では聞いたことがなかった。    


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弘法浜漂流記(1)

2011-09-03 14:42:14 | 昭和の頃

まだ学生だった二十代始めの頃、夏休みに仲間たちと、伊豆大島で三週間
ほどの長逗留をした。 逗留といっても海岸の片隅でのテント暮らしだった。 
場所は大島の弘法浜。 浜の右側は元町港、左側は大きな岩が、ごろごろ
転がって長く続く岩場になり、弘法浜はそのあいだにある海水浴場になって
いる。

始めのうちは、バイトで貯めたお金が少しあったものの、じきに全員が帰る
船賃には足りなくなり、心細いことになってしまった。 そんな頃、朝早く
テントの入り口の前で、「そら、食え!」という声がして、何かがドサッと
投げられた。 出てみると、コブシほどもある、大きなサザエが一個、
テントの前に投げだしてあった。 それから、サザエをくれた三十代ぐらいの
漁師と話すようになった。  浜に朝早く浜に来てみろというので、まだ陽も
昇らない、青く暗い浜に出て待っていると、一人で小さな舟に乗って漁から
もどって来た。

舟を岸につけると、獲ってきた魚を箱に整理し、数のそろわない半端な
小魚をくれた。 しばらくのあいだ、私たちはその漁師から魚をもらい
おかずにしてご飯を食べた。

やがて米まで少なくなり、食べる量も加減しないとならなくなった。
困り果てて、町でアルバイトを探した。 やっと喫茶店でアルバイト募集の
張り紙を見つけて行っても、どこの馬の骨かわからない、真っ黒いのを
雇ってはくれず途方に暮れた。

あるとき、岩場で水中メガネをつけて潜ったら、オカズにぴったりの、 
大きな赤い蟹を見つけた。 必死で捕まえようとして獲りそこない、
一本の足だけ、やっともぎ取って水から出して見たら、割り箸ほどの
細さでがっかりした。 水中メガネをつけて、水の中で見ると大きく
見えるのだ。

はじめは楽しく泳いだり、潜っていた海水浴場の片隅で、私たちは空腹を
かかえ、にぎやかに騒いでいる海水浴客を見ながら座り込んでいた。

そういう日が何日か続いた頃、弘法浜の遠くのほうから、何か大声で
叫びながら歩いてくるオヤジがいた。 
顔がわかるほどに近づいてきたそのオヤジは、でっぷりと太っていて、
カンカン帽をかぶり、着ている派手なアロハシャツの前ボタンは全部
外していた。 手にはウチワを持ち、バタバタと忙し気に扇ぎながら
歩いてくる。

大声で言っているのは、「誰かバイトをする者はおらんかー!!」 と
叫んでいたのだ。 私たちは誰ともなく立ち上がり、オヤジに向かって
走り出していた。
 
  -続く- 
                       

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弘法浜漂流記(3)・銃剣道の達人?!

2011-09-01 13:01:46 | 昭和の頃

その日、バイトの作業は浜で漁礁の型枠を清掃する仕事だった。
漁礁というのは、海に沈めておく魚の住む家のこと。
コンクリートでできた、2メートル四方ぐらいの大きさで、枠だけで、
壁のないサイコロのような形をしている。 これをたくさん海に沈め、
魚の家にする。 型枠を組み立て、中に鉄筋を組んでコンクリートを
流し込み、固まったら型枠をバラすと出来上がる。 バラした木の型枠は
繰り返し使うので、こびりついたコンクリートを、ケレンという、1、5メートル
ぐらいの棒の先に、小さな鉄板のついたもので、コンクリートをかき落す。

一緒に仕事をしながら現場の作業を指示する、若頭と呼ばれた、
三十代はじめぐらいの、体格も元気もいい人がいた。
昼休みにみんなで休んでいるとき、
「 オレは東大の剣道部を出たんだ 」 といって、みんなを笑わせた。
「 法学部とかじゃなく?」
「 いや、剣道部。 誰か、剣道教えてやろうか? 」 とケレン棒を、
竹刀のように構えながら言い出した。 誰も取り合わずに笑っていると、
「 どうだ藤助爺さん、一丁教えてやろうか? 」  と、
一緒に休んでいたお爺さんに声をかけた。

そのお爺さんは、六十代半ばぐらい。 背筋はシャンとしているが、
短い髪に小柄でほっそりしていた。 とても無口な人でいつも黙々と
仕事をしていた。 その藤助爺さん、そばに置いてあったケレン棒を
持つと、スッと立ち上がった。

そして槍をもつような格好で構え、棒を構えている若頭に対すると、
軽快なフットワークで、小さな鋭い突きを繰り出しながら、砂の上を
滑るようにように前進した。
若頭は、おっ?!おっ?! と、驚きの声をあげ、後退しながら
突きを返す。 藤助爺さん、突き出されたケレン棒を小さく弾くと同時に、
凄まじい突きを入れる。 たちまち若頭は追い込まれ、後ろにあった
型枠に足をとられて、両足を宙に跳ね上げひっくり返った。 
みんな唖然としていた。 仕事をしているときの藤助爺さんとは、
まるで別人だった。

若頭は起き上がって砂をはたきながら、
「 爺さん、なにかやってたのかい? 」 とあきれて聞いた。
藤助爺さんは、
「 昔、銃剣道の教官をしていたことがある 」 と答えた。
藤助爺さんの過去は知らないが、いろいろなところに、
いろいろな人が埋もれているものである。 そのときから、
みんなの藤助爺さんを見る目が、変わったのはいうまでもない。

いまでも藤助爺さんの颯爽とした姿は目に残っているが、
その顔は陰のようになって浮かんでこない。 もう何十年も前のこと。
                 

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池に落ちたターザン

2011-08-23 17:51:59 | 昭和の頃

私がまだ幼稚園の頃、子供たちはよく集団で遊んでいた。 
あるとき近所で、中学生ぐらいの子が隊長になって、
名前は忘れたがかっこいいグループがつくられた。 
7、8人ほども集まっていただろうか。 月々5円か
10円の会費を積み立てて、いろいろな遊びに使うという、
ワクワクするような話だった。

ある日、隊長から池上本門寺でターザンごっこをやるから、
連れてってやるといわれた。 日曜日にみんなが集まり、
一列縦隊になって池上本門寺に向かった。 しんがりは、
その中で一番幼い私だった。

途中で駄菓子屋に寄り、きれいに巻かれた白い綿の
ロープを、積み立て金で買った。 細いロープだった。 
その頃の駄菓子屋には、そんなものまで売っていた。 
みんなのロープ! それだけでもワクワク感は高まった。

30分ほど歩くと池上本門寺に着く。 広い本門寺の境内の
裏手には、林の中に小さなプールほどの大きさの池がある。 
現在あるのとは、少し位置が違うように思う。 池は大きな
石や木々に囲まれ、さほど深くない。 そこで池の上に張り
出している木の枝にロープを掛け、それにつかまって、池の
端の大きな岩の上から、ターザンよろしく雄叫びをあげながら、
反対側に渡るのである。

少年たちの頭には、密林の王者、ワイズ・ミューラー扮する
ターザンの姿が自分と重なっていたに違いない。 
その頃、あのほれぼれするような、ジャングルに響く叫びは、
少年たちを夢中にさせていた。

隊長から始まり、次々に雄叫びを上げながら渡っていった。
最後に一番小さな私の番がきた。 私も真似をしてロープにつかまり、
「あ~ あ~ ア~ッ!!」 とぶら下がった。ところが、雄叫びの
最後の 「ア~ッ!!」 は、みんなと違って悲鳴だった。
小さな私は握力がなく、ロープをつかんでいられずに、池に落ちていった。 
池の水はあまり落ちたくない色をしていたが仕方ない。 
隊長はすぐ池に飛び込み、ずぶ濡れの私を助けにきてくれた。

あの頃はみんな貧しかったが、今よりもずっと、
ほんとうは豊かだったように思う。


からだの形は、生命の器
形之医学・しんそう療方 東京小石川
http://www.shinso-tokyo-koisikawa.com/


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錆びたジェットコースター

2011-08-18 12:45:50 | 昭和の頃

小学校の頃、多摩川園の次に遊びにいった遊園地は、
二子玉川遊園地だった。 こっちは家から少し遠く、
たまにしか行かなかったが、多摩川園より規模が大きく、
古いジェットコースターがあった。

今のジェットコースターに比べたら、オモチャみたいなものだが、
私たちはそれで十分にスリルを楽しんでいた。 ゴトンッ ゴトンッと
最上部にゆっくり上がると、近くの多摩川がはるか眼下に見え、
とても高く感じる。 そこから思わせぶりに、ゆっくり進んでから、
ドーンッと一気に下ってぐるぐる回り、あっというまに終わってしまう。


ある日曜日、友達と連れ立って二子玉川園に遊びに行き、ジェットコース
ターに乗るために列をつくって並んでいた。 待っている途中で友だちが、
ジェットコースターが走る鉄骨が、あっちこっち錆びているのに気づいた。
止めてあるボルトも真っ赤に錆びている。

「これさぁ、錆びてるから、折れるんじゃないかな~」 とつぶやいた。

みんなは鉄骨を目で点検し始めた。 それまで気にもしなかったが、
よく見れば凄い錆び方で、ペンキなんかあっちこっち剥げている。

「このボルト、もしかして、外れるかもしれない・・・・」

ジェットコースターがテッペンまでいったとき、鉄骨と一緒にガラガラ
崩れる落ちる光景や、急カーブで脱線して、空中を吹っ飛んでいくのが
頭に浮かんだ。

私たちは並んで待っているあいだに、妄想で口数が少なくなり、
ほんとうは逃げ出したい気分。  ついに順番がきたときは、
もうこの世の終わり、母ちゃんサヨナラー!みたいな。     
でもオンボロコースターは、軋みながらも、私たちを無事
終点まで運んでくれた。


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お化けが止まった!

2011-07-14 17:30:53 | 昭和の頃

小学校の頃、日曜日にときどき友だちと、多摩川園遊園地に遊びに行った。
(この遊園地はずっと後に、廃園になる。) 家から電車に乗って20分
ぐらいと近く、子ども向けの遊園地なので入園料も、乗り物も安かった。 
今の大型の遊園地のようなすごい乗り物はなく、いつもほとんど決まった
乗り物しかなかった。

夏になると、遊園地の一番奥にある建物で、お化け屋敷をやる。 
これはやっていれば、ほとんど行くたびに入った。 何度も入っているから、
どこでどんなお化けが出るかわかっているのだが、それでもちょっと恐い。

あるとき友だち3、4人で遊びにいって、このお化け屋敷に入った。
場内は足元が見えないほど暗く、通路は迷路のように曲がりくねっている。 

入るとすぐに、後ろを向いて木魚を叩いているお坊さんが、
クルッと振り向くと一つ目小僧という、よくあるのが置いてある。
こっちは知っているから、「あれ、もうじき振り向くんだよね」などと
おしゃべりしながら歩いていた。

上から、ヒモで下げられた人形の首が落ちてくるところも無事通過して、
半分ほど行ったとき、友だちの一人が、
「オレ、オシッコしたい」 と言い出した。
「出るまで我慢できないのかよ~?」
「もれちゃう・・・」

それで、勝手知ったるお化け屋敷で、暗いのをいいことに、
近くの、ワラのムシロで壁を作っている隅っこでオシッコすることになった。
「ここなら、お化け、出ないよ」 というわけだ。

友だちが壁に向かってオシッコをするかしないかのうちに、
すぐ頭のテッペンから、大音声の怒鳴り声がした。
「だれだー!! こんなとこでショーベンするヤツは!!」

これには全員ビックリ仰天。 友だちのオシッコもピタッと止まった。
と、同時に屋敷内のモーターや滑車の音が消えて静かになり、
お化けが全部止まった。 そして薄暗い灯りがついた。

声のする後ろを振り向くと、なんとさっき通ったばかりの通路をまたいで、
高いやぐらが組まれている。 そこには、あっちこっちからロープがきていて、
さっき颯爽と空中を飛んでいた、白い着物のお化けがだらしなく
ロープにぶら下がっていた。

上でおじさんが手すりにつかまって、仁王立ちになっている。 
それまで暗くて、やぐらがあるなんて知らなかった。
そのそばで、オシッコしちゃったのだ。

私たちは薄灯りを頼りに、脱兎のごとく出口に向かって逃げ出した。
オシッコ中断の友だちも、ズボンのチャックを閉め閉めあとから逃げてくる。
お化け屋敷から飛び出すと、夏空の広がる外は明るく、目がチカチカする
ほどまぶしかった。
                    

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