チョコレート粉砕機は生産のプロセスであるが、ここでのそれは「絵画の粉砕」とでも言うものである。
チョコレート粉砕機を模しているが、以って非なるものではないか。
しかし、チョコレート粉砕機を模して描かれたものを見て、チョコレート粉砕機ではないと決定を下すまでには少々時間を要する。なぜなら、鑑賞者は受容すべく作品の前に立つからである。自ずと身についた…教育された鑑賞法は、タイトルと作画(作品)の関係を肯定的に考えるので疑念の入りこむ隙を与えない。
まさかの意図、その関係を粉砕するという隠れた本意を看破できるだろうか。
微妙に不均衡な機械、静止画ゆえに落下崩壊の危機は絶対に有り得ないが、力の方向(ベクトル)の逆行は一目瞭然であるし、中心軸のズレ、猫足の軟弱も滑稽である。
重量を感じる作画でありながら床に着地という安定感にも欠け、宙に浮いているようである。
ここまで念の入った不具合を(絵画の世界の不条理)と一括りに承認するか否かは鑑賞者の自由であるが、明らかに《反逆》である。
絵画への信奉を否定して脱却を図る未来志向、見えないものへの挑戦、見えるものを否定した後の肯定。
アートは視覚芸術の域を超え、世界(哲学)と結びつくべきであり、単にそれが自然であると『チョコレート粉砕機』は秘かに挑発している。
写真は(www.tauschen.com)より
「何をひけと。」
「トロイメライ、ロマンチックシューマン作曲。」猫は口を拭いて済まして云ひました。
「さうか。トロイメライといふのはかういふのか。」
セロ弾きは何と思ったかまづはんけちを引きさいてじぶんの耳の穴へぎっしりつめました。それからまるで嵐のやうな勢で「印度の虎狩」といふ譜を弾きはじめました。
☆化(教え導く)策(方法)の極(きわみ)を描く講(話)である。
済(救い)を運(めぐらせている)。
談(話)には化(教え導く)詞(言葉)が隠れている。
覧(見渡すと)隠れた図りごとに拠り、趣(狙い)が浮かぶ談(話)である。
主たる権限などという言いかたをしましたが、これですらも、言いすぎなのです。どんなに小さな権限であっても、それだけでもう全体に関係をもってはいないでしょうか。ここで大事なのは、事件をつかみとる情熱ではないでしょうか。
☆主な領域と言いましたが、言い過ぎなのです。すでにすべて全体が氏族の領域というわけではありません。ここでの決定はどんな本題(核心)に心を打たれたかという受け身にあります。