続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

ネガティブ返上!

2019-06-18 06:57:03 | 日常

 新聞の投書に「おばあちゃんはいつ死ぬの?」と聞かれ困惑したという話が載っていた。
 それを読んでから、時々「いつだろうねぇ」と自分自身に問う。
(そんなに長くない、もうすぐだよ)と自身に言い聞かせる。

 先日、今年99才を迎えるはずの近所のKさんが庭で摘んだ花をもってきた。わたしが外にいるのを見かけて急いで来てくれたらしい。
「元気で羨ましいよ」というと「ダメだよぉ、このごろは」と言う。

 だって小走りだもの、凄いわ。(わたしなんか筋肉痛で足を引きずっているっていうのに)

 うちのヒマワリの葉を見て「これいいねぇ、わたしも植えたいから小さいのをおくれよ」というので、即、差し上げたら「すぐ植えれば着くよね」と喜んでくれた。
「楽しみだよ」というつぶやきを聞いて、すぐマイナー思考に陥る自分を恥じることしきり…。

 ポジティブ、ポジティブ・・・これで行く!


🈞デュシャン『自転車の車輪』②

2019-06-18 06:26:33 | 美術ノート

 自転車の車輪に美的価値はあるだろうか、個人の感想にもよるが敢えて鑑賞に堪えうる対象となるとは思えない。
 作品としての提示は、鑑賞者との間に不思議な溝を作らざるを得ない。さりとて(解るだろう)という媚びも感じられず冷淡なまでに孤立している。有るとすれば一種の無常感である。
 無用の長物、廃棄だろうか、製作途中のパーツだろうか・・・死(廃物)の影がちらつくが、破壊されたものでもない。しかしこれだけでは決して役に立つことはない。

 役に立つ、有効であることが存在の条件である。未来への期待、しかし車輪は車輪でしかないゆえに時間は止められている。
 回せば回る、しかし、回転による効果、有効性はゼロに等しい。

 笑止…この物への愛着、確かに存在しているが、存在価値のない物である。美しい形態であり人力の形跡も認められる。何かの比喩としても考えられないこともない。
 しかし、究極、ガラクタである。

 回転という無為な努力(エネルギーの放出)、デュシャンはこれを見て《自分のようだ》と感じたのではないか。自分を見るごとく、自分に触れるがごとく『自転車の車輪』との関係を甘受したのではないか。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)


『セロ弾きのゴーシュ』41.

2019-06-18 06:14:54 | 宮沢賢治

十二時は間もなく過ぎ一時も過ぎ二時を過ぎてもゴーシュはまだやめませんでした。それからもう何時だかもわからず弾いてゐるかもわからずごうごうやってゐますと誰か屋根裏をこつこつと叩くものがります。


☆答えは普く字を換(入れ替えること)である。
 何が逸(隠れているのか)、字を普く示し、仮の字で推しはかる也。
 渾(すべて)理(物事の筋道)の講(話)である。


『城』3206。

2019-06-18 06:06:34 | カフカ覚書

それに、そういう経験をした秘書がはたしてそれを打明けるかどうかということも、きわめて怪しいですからね。なんと言ったって、こんなことは、非常に個人的な事柄であり、いわば役所の沽券にかかわる問題です。


☆先祖の秘書は、このような事件は全く個人的にも公にも不名誉であり解決すべき事件として望んでいた事案です。