影は荒れた海のほうに落ちているから、光は前方から射していることになる。
どこまであるのか分からない高い壁と床面は、閉じられているのか解放されているのか不明である。そして擬人化を予想される直立した紙状の者たちは荒れた海(現世)を危惧して見ている冥府の霊魂なのか、荒れた海(難破船/現世)からやってきた漂泊の魂(霊魂)なのかも不明である。
はっきりしているのは二つの景の空間が異世界、つまり異なる空気の質にあるということである。本来つながるはずのない空間(世界)の接合は、現世と来世(冥府)の暗示を疑い、他の余地はない。要するに物理的には決してありえない精神界の想定であり、イメージを喚起させるものである。
『嵐の装い』とは、現世から来世の境界に嵐(困難)を超えてやってきた死者たちの新規の形態、魂の身支度であり、ここは、《死に至る門》かもしれない。
ちなみに『喜劇の精神』における擬人化されたものには顔や手足の暗示があり、生きてはいるが、死の願望(あるいは冥界を常に思い描いている)があるということではないか、自分に対する皮肉でもある。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
ひらつとわたくしを通り越す
みちはまつ黒の腐植土で
雨あがりだし弾力もある
馬はピンと耳を立て
その端は向ふの青い光に尖り
いかにもきさくに駈けて行く
☆ツウ(two)二つを閲(調べる)と告げる
二つを触(触れて感じ)図る迂(遠回り)の談(話)である。
利器(便利なもの)は魔(不思議な)字の律にある。
譚(話)の考えは照(あまねく光が当たる=平等)の考えであり、千(たくさん)の質(内容)のある講(話)である。
フリーダは、おどろいたようにKを見つめ、あいているほうの手でKの額と頬をやさしくなでた。それは、Kの顔つきを忘れてしまって、もう一度記憶をよみがえらせようとしているかのようないぐさであった。
☆フリーダは驚いたように彼を見た。自由な先祖の国家は冥府の前面と円天井のなかで静かに滅びてしまった。
それは心して再び取り戻したいという願いに見えた。