風邪をひいた孫をつれて息子が来ている。
息子が会社に出かけているあいだ、わたしも洗濯やアイロンがけで忙しい。孫はゲームのやり放題で超機嫌、風邪も昨夕来た時より俄然よくなり、今日は鼻歌の余裕。
「おばあちゃん、ぼくコマ回しができるんだよ」といい、一人前に紐を回すと床にコマを回して見せた。
「最初はね、コマと紐を両方放り投げていたんだけどね」と愉快そうに笑った。
「こんど、学童保育で『コマ回し大会』があるんだ、だから、もっと練習しなくちゃ」という。
学童保育なんて少々気の毒に思っていたけど、いろいろお世話して頂き、孫も楽しそうなので安堵。
どんどん成長していくね、こちらはどんどん劣化していくわけだわ・・・。
「おばあちゃん、おばあちゃん」で、わたしにくっついていた孫も、今回はゲームに夢中。
(忙中閑あり)って感じ。(淋しいな)
『透視』
被写体の見え方が正常ではない。卵の乗ったテーブルの側面に影が出来るとしたら正面の上下の線は平行にはならず、平行になるとすれば、影の出来る側面は見えないはずである。つまりこのテーブルの面は平らではなく傾いているということであり、乗っている卵は落下してしかるべきものである。
卵を見て、成鳥を描くこともあり得ないが、その前にキャンバス自体が前面に傾いており画家はさりげなく指で押さえているのかもしれない。
左側からと右側からの視線が交錯している奇妙な空間設定である。
この絵画空間自体が奇妙な幻想空間であって、静止状態は仮想の域を出ない。
時間の循環、落下すべき物や倒壊すべき物が、そうはならない瞬間を捉えるという有り得ない状況を描いている。
卵が落下すれば、すなわち破損であり、《死》の予兆を孕んでいる。描いている鳥は飛んでいるように見えるがこんな飛び方をするだろうか。
卵から鳥になり鳥が卵を生むというサイクルは普遍の真理であり、画家(男)の真摯な眼差しによって、この絵の中にある不条理も正当化されるような幻想を抱く。
しかし、この絵に隠された真実は《死滅を通した親和性/物質の変化》であり、空間の交錯《あり得ない状況/企み》への実験的な透視である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
〔瀬川先生の授業〕
「来年1月8日に久里浜の「どんど焼き」を見学に行来ます。どんと焼きの「どんと」とは、年徳神・歳神(ご先祖様)や子供が囃す「尊い尊い」が訛って「どんど」となってと言われていますが詳細は不明です。
ドンド焼き・御幣焼き(おんべやき)左義長(三本の木の柱)さいと焼き等とも言われ多くは子供中心の行事です。
農耕の予祝いであり、正月飾りを集めて焼き、丸い石(ご神体として)や餅なども焼きます。
おんべの火にああると風邪をひかないなどといわれ、燃え残った松を持ち帰り戸口に差し厄除けにするという風習もあります。
年中行事には
1、年占い(オビシャ、粥占い)筒にお粥を入れて炊き、作物ごとに数を数えて占うというものです。(0~9)
2、歩射ビシャ
3、邪霊除け(鳥追い・モグラ打ち)
4、神霊の訪れ(なまはげ/秋田)(スネカ/岩手)
5、火祭り(ドンド・おんべ焼き)などがあります。
道祖神からご神体(玉石)を運び出し、どんど焼き(もしくはおんべ焼きなど)で、石が焼けた後はお神酒を注いで五穀豊穣を祈ります。」
「須軽谷のおんべ焼き」のビデオを鑑賞。
一年両分性説(年神棚・盆棚)
三戸浜のおしょろ流しは早朝行われ、大人たち舟を作り子供たちが曳航します。(現今の実施は不明です)
道具の供養~写真・人形供養の事例には、天嶽寺/越谷、勝願寺/鴻巣市などが有名です。
写真の供養としては、鎌倉の浄智寺の写真供養などがあります。
これらは浄焚といいます。
等々の説明を受け来春(1/8)は、いざペリー公園に集合。
年中行事などまるで無関心のわたし、こういう機会にご先祖様を敬う風習に、思いを馳せたいとおもいます。心の拠り所としての風習は成るべくして生活の要として息づいてきたに違いありません。
瀬川先生ありがとうございました。