横須賀美術館で、新宮晋先生の『絵本をつくる講座』の参加している。
本日は、昼過ぎからその成果を公表する時間が設けられているので、出かける予定。(今日の海はきっと素敵だと思う。
スケッチブックを利用し、そのまま絵本に仕立ててみた。孫が家に来た時のいたずら書きを切り抜いたわたしとのコラボ。
〇と✖をテーマに考えながら作ったのだけれど、〇は太陽・月・地球と原初から存在しているけれど、✖に関しては探せど見当たらない。
気づいたことは、✖は人間が頭の中で作りだした記号であり、罰・制止・間違い等々、否定の意味である。
しかし、✖があって〇に辿りつく、✖を重ねて真実を探求する。そして、✖(否定)をいう勇気も必要だと叫ばれている。
✖があって初めて〇という応えを得られるのであり、〇と✖は共存関係である。
もっとも、絵本だからこんな面倒なことは言わず、それぞれの景で楽しくページを綴ってみた。
ほかのメンバーはどんな風に仕上げて来たのか、とても楽しみ!
そんなわけで、この絵本は我が家の記録になります。
『凌辱』
女体のトルソーを、乳房は目・臍は鼻・陰部が口というように顔を想起させるものとして描いている。
即ち、凌辱である。怒り心頭、女性の性を露わにして眺め尽すという暴挙は耐え難い。女性に恥をかかせた暴力的な犯罪でさえある。女性の性を犯す…どういう意味があるのだろう。
醜悪・怪奇である女体が無限に見える空間(景)のなかにある。
しかし、恥ずかしさはなく、堂々と誇らしげである。澄み切った青空、どこまでも続く地平…ヴィーナスの誕生とも思える出現は、威風堂々、人間としての尊厳を誇示しているかのように見える。
凌辱…犯されるのではなく、見る者を犯すような脅威も感じられる。女体は犯されるものだったろうか。
犯されるものであるという古い想念からの解放、隠すことなくわたくしは在るという尊厳の主張、(この通りのわたくしであります)という宣言ではないか。
マグリットは、男の側からの凌辱を跳ね返す女の側の主張を潜ませたのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「いゝえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ、ぼくには一昨日大へん元気な便りがあったんだが。
☆套(被われ)逸(隠れている)策(企て)の実(中身)は、題(テーマ)の源である鬼(死者)を弁(明らかに知らせること)である。
それで、わたしどもは、みんないっしょに腰をっけ、窓をしめたまま、七月と八月の暑さのなかで蟄居していました。なにも起こりませんでした。呼び出しもなければ、通達や報告や訪問もなく、音沙汰なしでした。
☆それで、一つ所にすわり、閉ざされた食(死の入口)にユダヤ人と仲介者が気持ちを昂らせていたのです。何も起こりませんでした。