特上カルビの記のみ気のまま

韓国語教育を韓国の大学院で専攻した30代日本人男性が、韓国ソウルでの試行錯誤の日々を綴りました.

“外国語が出来る”とは?

2005-05-27 15:15:30 | 韓国留学記
 晴れ。最低気温14度。最高気温27度。

 昨日私が大学で日本語を教えている経験に基づいて、先生は「サービス業」であるという話しをした。

 以前、とある番組で著名な外国人俳優へのインタビューの際、インタビューワー(interviewer)であるタレントさんが「英語が下手ですみません」と言ったら、すかさず「大丈夫!僕の日本語より遥かに上手いよ!」とウィット(wit)ウィットに富んだコメントを返していたのが今でも印象に残っている。

 私も含めて何故、日本人(日本語話者)は英語(外国語)に対してコンプレックスを抱いているのだろうか?
 一体、「英語(外国語)が話せる」ということはどいういうことなのか?

 安達洋(あだちひろし)著『日産を甦らせた英語-その学習法、活用法、思考法』(光文社)を読んだ。
 この本はビジネス英語を身につけるノウハウが散りばめられている。学習者のみならず、語学教師にとっても有益な本だ。
 この本の中に「英語力における初級者と上級者の大きな違いは何か?それは、わからない部分に対する逃げ方や、捨て方が、上級者のほうがうまいという点にある」(p171)という記述があった。この部分を読んで、「なるほど、上手いこと言うなぁ」と思った。

 良く考えて見ると、私も韓国のドラマや映画を観ている時には、解からない部分があってもそのまま聞き流してしまうことが多い。解からなかった部分はメモをしておいて後で辞書で調べるなり、ネイティヴ(母語話者)に質問すれば良いのだ。私たちも日本のテレビを見ていて解からない言葉に出くわし、聞き流してしまうことは実際幾らでもある。ただ、それに気づいていないだけだ。母語である日本語は“適当に”聞き流せるのに、何故、外国語になると一字一句知らない単語を調べようとするのだろうか?

 もし“外国語が出来る”ということは“知らない語彙が無いこと”であると定義したとすれば、永遠に外国語は出来ないままだ。

 大学時代の四年間、第二外国語として学んだ朝鮮語(韓国語)の“楽しみ”と“奥深さ”をつねに説いてくださった先生ある論文の中で次のように述べている。
 
 単語は(意味を)調べるために存在しているのではない-辞書がなくとも学べる入門書を―
 全ての単語の意味は教材の中で提示しなければならない。初級段階で学習者に解からない単語を辞書で引かせるのは学習効率が大変低下する。初級段階では教材に出てきた単語の意味は、全て説明されていなければならない。それも可能な限り、単語の意味を本文と同じページで確認できるのが理想的だ。
 単語を辞書で調べるのが言語学習だと思ったら、それは間違いである。単語は辞書を引くために存在するのではなく、“覚えて使うために”存在するのだ。辞書に親しむというのと、機械的に辞書を引くことにより時間を過ごすということとは、全く違うことだということを肝に銘じなければならない(原文は朝鮮語 翻訳・文責:特上カルビ)。
 
 また、同じく先生が編まれた初級・中級者向けの教室用テキストの前書きにも次のような記載がある。。―『朝鮮語への道 길(キル)』有明学術出版社(1988)p(1).「まえがき」より。

 辞書無しで学べること―言語学習の入門期には辞書は不要である。語の意味はもちろん、文の意味さえも教本の中に与えられているべきである。機械的な辞書引き作業で貴重な人生の一瞬一瞬を失うのは愚かである。重要なのは語を辞書の中から探しだすことではなく、語を我がものとすることである。辞書を引く暇があったら、語彙を、文を、覚えなければならない。語は、引くためにあるのではなく、覚えて使うためにこそあるのである。

 もちろん十人いれば十通りの学習方法があるだろう。辞書を何度も何度も引いているうちに単語を覚えた人も多いだろう。実際、私もその一人だ。学生時代に使っていた辞書は見事なまでにボロボロになった。しかし、韓日や英和辞典を使えば使うほど、その訳語や例文が、実際使われている意味と微妙に違っていたり、ネイティブが見ると不自然な例文が多いことに気づくはずだ。

 そのためにも、韓国語であれば韓国で出版されている国語(韓韓)辞典を手元に一冊備えておかれることをお薦めする。自分の知らない単語を他の単語を使って説明出来るようになれば、語威力は格段に増えること間違い無しだ。

 外国語を覚えることが“目的”と考えている人が余りに多い気がする。外国語を含め言葉は他人とのコミュニケーションを行う為の“手段(道具)”であるという基本を忘れてはならない。いくら沢山の語彙を知っていても、全く使いこなせなければ意味が無いのだ。

 では、「外国語が話せる」ということはどういうことか?
 つまりその言語を使って他人とコミュニケーションが出来るということではないだろうか?
 「英語(外国語)が下手ですみません」なんて謝る必要は無いのだ。何故なら“下手だからこそ”一生懸命勉強しているのであって、ネイティブ並みに上達することはあっても、ネイティブ以上になることは決してあり得ないからだ。

 だからと言って、決して卑屈になる必要は無い。
 特に韓国語の場合は、文章全体としての発音(イントネーション)を徹底的に習得すれば、日本語話者はかなりのレベルまで到達することが可能だ。そのためには多くの文章を読んで(音読する)、沢山聴いて、沢山書く、そして間違いを恐れず、積極的に覚えた韓国語を使ってみることだ。「自分が聞き取れない単語は、正確な発音が出来ない」という外国語学習における壁を克服する為にも、聞き取りは何よりも一番重要である。何故なら、相手が言っていることが理解できてこそ初めて、その相手とコミュニケーションすることができるからだ。

 私は学習者に日本語を教える時、なるべくネガティブな言葉は教えないように心がけている。
 例えば、日本語が少ししか話せない学生には「私は日本語が少し話せます」と教える。そしてネイティブから「日本語が上手ですね!」と言われたら「ありがとうございます」と答えなさいと指導している。
 「私は日本語が少ししか出来ません」とか「いや、まだまだです」といった謙遜の表現は日本語の“美徳”であるかもしれない。しかし、私は学習者一人一人に何よりも“日本語が話せるんだという自信”を持ってもらいたいのだ。
 
 そしていつの日か「えっ?○○さん、こんな日本語も知らないんですか?」とネイティブから言われるようになれば、その学習者の日本語能力は大したものである。