こういう問題をあまり議論はしたくないのだが、今回の憲法記念日に問題となったのは、社会権のあり方である。
これは特に、共産党や社民党が「憲法を暮らしの中で生かす」ということで主張しているのだが、いわゆる社会権(生存権、労働権、教育権)を「権利」以上のものにしようという試みである。
例えば、日本国憲法では日本国民に「勤労の権利」を保障しているのだが、日本にはこの権利を享受できない人、つまり、失業者が300万人以上おり、この数は今後さらに増加する傾向にある。
また日本国憲法は、すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障しているが、日本には、何万人もの“路上生活者”がおり、最低限度の生活を維持することすら困難な人がおり、なかには餓死や凍死する人すらいる。残念ながら、この人数もしだいに増加していく傾向がある。(餓死や凍死は行政の“不作為”による殺人であり、行政の長に刑事罰を科して取り締まる必要があるが、そのような法律が制定されるようなことはないであろう)
また日本国憲法はすべての子どもたちに教育を受ける権利を保障しているが、学校は国や資本の意思を子どもたちにたたき込む場となり、子どもたちの強制収容所へと変わりつつある。
日本国憲法が日本国民に約束していることと、現実のあまりにもすさまじい格差に対して、共産党や社民党はそれは憲法が暮らしのなかで生かされていないからであるという。
しかし、この憲法が生まれた日本の敗戦直後の日本の社会は現在よりも、もっと社会的な格差は開いており、労働者の圧倒的多数は、人々は健康で文化的な生活どころか、餓死線上をさまよっており、貧困は切実な問題として人々の前にあった。
むしろそういう現実こそが、ワイマール憲法なり、日本国憲法を生みだしたのである。第一次世界大戦敗戦後のドイツの革命運動の高揚や敗戦直後の労働運動や社会主義運動の高揚がこのような憲法を必要とした(階級的な怒りに震える人々を慰撫するために必要であった)のであり、革命運動の退潮とともにその必要性が喪失し、形骸化が避けられないものとなった。
だから、ワイマール憲法からナチスの第三帝国が生まれ、日本国憲法の骸(むくろ)のなかから新日本軍国主義国家が生まれようとも決して不思議ではないのである。
資本主義的な生産関係そのものから必然的に生まれる労働者の貧困状態と多くの困難は、生産関係を変更することなくして除去することは不可能であり、法律なり、憲法によって除去できるものではない。
法律なり、憲法といったものは、現実の単なる投影であり、それが宗教のように逆転して投影されている、つまりこの世の地獄があの世の天国として逆転して投影されている場合がある。特に憲法はそうだ。
このあの世の天国をこの世の天国に引き戻すためには、現実そのものを変革する必要がある。したがって「世界を変革せよ、世界は変革を要する」という言葉こそが労働者の憲法にならなければならないのである。
これは特に、共産党や社民党が「憲法を暮らしの中で生かす」ということで主張しているのだが、いわゆる社会権(生存権、労働権、教育権)を「権利」以上のものにしようという試みである。
例えば、日本国憲法では日本国民に「勤労の権利」を保障しているのだが、日本にはこの権利を享受できない人、つまり、失業者が300万人以上おり、この数は今後さらに増加する傾向にある。
また日本国憲法は、すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障しているが、日本には、何万人もの“路上生活者”がおり、最低限度の生活を維持することすら困難な人がおり、なかには餓死や凍死する人すらいる。残念ながら、この人数もしだいに増加していく傾向がある。(餓死や凍死は行政の“不作為”による殺人であり、行政の長に刑事罰を科して取り締まる必要があるが、そのような法律が制定されるようなことはないであろう)
また日本国憲法はすべての子どもたちに教育を受ける権利を保障しているが、学校は国や資本の意思を子どもたちにたたき込む場となり、子どもたちの強制収容所へと変わりつつある。
日本国憲法が日本国民に約束していることと、現実のあまりにもすさまじい格差に対して、共産党や社民党はそれは憲法が暮らしのなかで生かされていないからであるという。
しかし、この憲法が生まれた日本の敗戦直後の日本の社会は現在よりも、もっと社会的な格差は開いており、労働者の圧倒的多数は、人々は健康で文化的な生活どころか、餓死線上をさまよっており、貧困は切実な問題として人々の前にあった。
むしろそういう現実こそが、ワイマール憲法なり、日本国憲法を生みだしたのである。第一次世界大戦敗戦後のドイツの革命運動の高揚や敗戦直後の労働運動や社会主義運動の高揚がこのような憲法を必要とした(階級的な怒りに震える人々を慰撫するために必要であった)のであり、革命運動の退潮とともにその必要性が喪失し、形骸化が避けられないものとなった。
だから、ワイマール憲法からナチスの第三帝国が生まれ、日本国憲法の骸(むくろ)のなかから新日本軍国主義国家が生まれようとも決して不思議ではないのである。
資本主義的な生産関係そのものから必然的に生まれる労働者の貧困状態と多くの困難は、生産関係を変更することなくして除去することは不可能であり、法律なり、憲法によって除去できるものではない。
法律なり、憲法といったものは、現実の単なる投影であり、それが宗教のように逆転して投影されている、つまりこの世の地獄があの世の天国として逆転して投影されている場合がある。特に憲法はそうだ。
このあの世の天国をこの世の天国に引き戻すためには、現実そのものを変革する必要がある。したがって「世界を変革せよ、世界は変革を要する」という言葉こそが労働者の憲法にならなければならないのである。