革マル派の機関誌『新世紀』7月号のなかで、革マル派の諸君が、中核派に対して「前衛党」のお説教をたれている。
革マル派といえば、「反スターリン主義」を売り物にしていただけに、そういう人々からこういう話を聞くのは大きな違和感を感じる。
一般的に言えば、「前衛党」という概念自体が、ことがらの本質を言い表す言葉ではない。労働者党がプロレタリア革命の総司令部であるとするなら、総司令部は前線ではなく、敵の手がおよばないところに設けられるべきであって、前線に総司令部を置いて、敵の奇襲で総司令部が壊滅したら何とするのか?
したがってこの言葉はもともとプロパガンダ的な性質をもっているのである。
革マル派の諸君はレーニンの「外部注入論」(社会主義の理論は、外側から労働者のなかに持ちこまれなければならない、というある意味当たり前の話)を根拠に「前衛党」の必要論を説くのだが、「外部注入論」が意味することは、労働者階級が階級闘争の最高の形態である政治闘争を闘い抜くには自前の政党が必要であるという、これまた当たり前の話に帰着するだけである。
確かに、レーニンは「われわれボリシェヴィキは唯一の政権政党である」ということを何度も語っているが、それは「他の連中は全部逃げ出してしまって自分たちだけが残った」という意味でしかない。
ロシア革命当初の革命政府はボリシェヴィキとエス・エル(社会革命党)左派との連立政権だったのである。ところが、続いて起こった内戦の過程でロシアの左翼(エス・エルとメンシェヴィキ)はソビエト政権に武力とテロで対立する道を選択したのである。
1918年に帝国主義諸国の内乱への軍事的な介入と白軍への軍事的な支援が本格化すると、マルトフらのメンシェヴィキ左派は自己批判してソビエト政府支持に回った時にはレーニンはマルトフらをソビエトの代議員にしている。
レーニンは最初から最後まで、ボリシェヴィキだけで権力を維持するつもりはなかったが、それを許さなかったのは当時すでにロシア共産党の書記長になっていたスターリンである。
スターリンはマルトフが革命前のボリシェヴィキの非合法時代にスターリンが指示した現金輸送車の襲撃事件を暴露したことを恨んでおり、彼を逮捕して裁判にかけようとしたためにレーニンはマルトフを亡命させ、マルトフが病気になると彼に資金援助をしようとしたがこれもスターリンによって拒まれている。
やがて、マルトフは病死するがクルプスカヤはそれを病気療養中のレーニンに隠していた。しかし、レーニンはマルトフ病死の新聞記事を読んでおり、黙ってそれをクルプスカヤに差し出したという。クルプスカヤはレーニンは何も言わなかったがその目は怒っていたと手記に書いている。
この話は、レーニンとマルトフとの「個人的な友情」ということで伝えられているが、そうではないであろう。レーニンは個人的な感情で動く人では断じてない。ここにはロシア革命の大きな悲劇が象徴的に表されている。
レーニンが病に倒れた時、すでにロシアはレーニンが建設しようとした「社会主義」とは違う道を歩み始めていた。レーニンが、内戦を勝ち抜くために、仕方なく認めた大規模な旧軍隊とツアーリ官僚とブルジョアの「専門家」としての登用は、国家と資本主義が融合した独自な支配体制を生みだしはじめていたが、書記長となったスターリンはこの体制を解体して、社会主義的なものに改編するのではなく、この支配体制と共産党を融合させ、共産党の幹部が国家の支配層となり、共産党の幹部であると同時に国家と産業の高級官僚でもあるノーメンクラトゥーラ(特権階級)が労働者農民を専一的に支配して搾取・収奪行うという独特の国家資本主義(スターリン体制)を発展させていく。
この共産党による労働者・農民の専一的な支配を正当化する理論こそが「前衛党」理論なのである。「反スターリン主義」を一枚看板にしている党派が、スターリン主義そのものを信奉しているのは理解に苦しむが、革マル派の諸君はマルクスの『共産党宣言』まで持ちだして、マルクスもレーニンもそうだったというのであるから、われわれも『共産党宣言』にもどらなければならないだろう。
『共産党宣言』の2章ではマルクスはつぎのようにいっている。
「共産主義者は、一般のプロレタリアにたいしてどういう関係にあるか?
共産主義者は、他の労働者党に対立する特別な党ではない。
彼らは、全プロレタリアートの利害と別個の利害を何も持っていない。
彼らは、特殊なセクト的な原理をかかげて、プロレタリア運動をその型にあてはめようとするものではない。
共産主義者が他のプロレタリア党派と異なるのは、ただ次の一点においてである。共産主義者は、一方では、プロレタリアのさまざまな一国的闘争において、国の別にかかわらないプロレタリア全体の共通の利益を強調し、主張する。他方では、プロレタリアとブルジョアジーとの闘争が経過するさまざまな発展段階において、つねに運動全体の利益を代表している。
だから、共産主義者は、実践的には、すべての国の労働者諸党のうちで、もっとも断固たる、たえず推進していく部分である。理論的には、プロレタリア運動の諸条件、その進路、その一般的結果を理解しているという点で、残りのプロレタリア大衆に先んじている。
共産主義者の目的は、他のプロレタリア諸党の目的と同じである。すなわち、プロレタリアートを階級に結成すること、ブルジョアジーの支配を打倒すること、プロレタリアートの手に政治権力を獲得すること、これである。」(マルクス、『共産党宣言』、全集4巻、P487~488)
マルクスは、自分たちは「すべての国の労働者諸党の部分である」と言っているのだから、これ以上説明する必要はないであろう。
現在、全世界の労働者階級は非常にきびしい情況におかれている。このなかで労働者階級全体の利益を代表する労働者党の必要性はますます高まっている。
2004年に、地の底からわれわれが呼び出されたように、社会に本当に必要なものは地の底から、わき上がるように生まれてくるものである。しかし、それは20世紀の亡霊のような「前衛党」ではないであろう。
革マル派といえば、「反スターリン主義」を売り物にしていただけに、そういう人々からこういう話を聞くのは大きな違和感を感じる。
一般的に言えば、「前衛党」という概念自体が、ことがらの本質を言い表す言葉ではない。労働者党がプロレタリア革命の総司令部であるとするなら、総司令部は前線ではなく、敵の手がおよばないところに設けられるべきであって、前線に総司令部を置いて、敵の奇襲で総司令部が壊滅したら何とするのか?
したがってこの言葉はもともとプロパガンダ的な性質をもっているのである。
革マル派の諸君はレーニンの「外部注入論」(社会主義の理論は、外側から労働者のなかに持ちこまれなければならない、というある意味当たり前の話)を根拠に「前衛党」の必要論を説くのだが、「外部注入論」が意味することは、労働者階級が階級闘争の最高の形態である政治闘争を闘い抜くには自前の政党が必要であるという、これまた当たり前の話に帰着するだけである。
確かに、レーニンは「われわれボリシェヴィキは唯一の政権政党である」ということを何度も語っているが、それは「他の連中は全部逃げ出してしまって自分たちだけが残った」という意味でしかない。
ロシア革命当初の革命政府はボリシェヴィキとエス・エル(社会革命党)左派との連立政権だったのである。ところが、続いて起こった内戦の過程でロシアの左翼(エス・エルとメンシェヴィキ)はソビエト政権に武力とテロで対立する道を選択したのである。
1918年に帝国主義諸国の内乱への軍事的な介入と白軍への軍事的な支援が本格化すると、マルトフらのメンシェヴィキ左派は自己批判してソビエト政府支持に回った時にはレーニンはマルトフらをソビエトの代議員にしている。
レーニンは最初から最後まで、ボリシェヴィキだけで権力を維持するつもりはなかったが、それを許さなかったのは当時すでにロシア共産党の書記長になっていたスターリンである。
スターリンはマルトフが革命前のボリシェヴィキの非合法時代にスターリンが指示した現金輸送車の襲撃事件を暴露したことを恨んでおり、彼を逮捕して裁判にかけようとしたためにレーニンはマルトフを亡命させ、マルトフが病気になると彼に資金援助をしようとしたがこれもスターリンによって拒まれている。
やがて、マルトフは病死するがクルプスカヤはそれを病気療養中のレーニンに隠していた。しかし、レーニンはマルトフ病死の新聞記事を読んでおり、黙ってそれをクルプスカヤに差し出したという。クルプスカヤはレーニンは何も言わなかったがその目は怒っていたと手記に書いている。
この話は、レーニンとマルトフとの「個人的な友情」ということで伝えられているが、そうではないであろう。レーニンは個人的な感情で動く人では断じてない。ここにはロシア革命の大きな悲劇が象徴的に表されている。
レーニンが病に倒れた時、すでにロシアはレーニンが建設しようとした「社会主義」とは違う道を歩み始めていた。レーニンが、内戦を勝ち抜くために、仕方なく認めた大規模な旧軍隊とツアーリ官僚とブルジョアの「専門家」としての登用は、国家と資本主義が融合した独自な支配体制を生みだしはじめていたが、書記長となったスターリンはこの体制を解体して、社会主義的なものに改編するのではなく、この支配体制と共産党を融合させ、共産党の幹部が国家の支配層となり、共産党の幹部であると同時に国家と産業の高級官僚でもあるノーメンクラトゥーラ(特権階級)が労働者農民を専一的に支配して搾取・収奪行うという独特の国家資本主義(スターリン体制)を発展させていく。
この共産党による労働者・農民の専一的な支配を正当化する理論こそが「前衛党」理論なのである。「反スターリン主義」を一枚看板にしている党派が、スターリン主義そのものを信奉しているのは理解に苦しむが、革マル派の諸君はマルクスの『共産党宣言』まで持ちだして、マルクスもレーニンもそうだったというのであるから、われわれも『共産党宣言』にもどらなければならないだろう。
『共産党宣言』の2章ではマルクスはつぎのようにいっている。
「共産主義者は、一般のプロレタリアにたいしてどういう関係にあるか?
共産主義者は、他の労働者党に対立する特別な党ではない。
彼らは、全プロレタリアートの利害と別個の利害を何も持っていない。
彼らは、特殊なセクト的な原理をかかげて、プロレタリア運動をその型にあてはめようとするものではない。
共産主義者が他のプロレタリア党派と異なるのは、ただ次の一点においてである。共産主義者は、一方では、プロレタリアのさまざまな一国的闘争において、国の別にかかわらないプロレタリア全体の共通の利益を強調し、主張する。他方では、プロレタリアとブルジョアジーとの闘争が経過するさまざまな発展段階において、つねに運動全体の利益を代表している。
だから、共産主義者は、実践的には、すべての国の労働者諸党のうちで、もっとも断固たる、たえず推進していく部分である。理論的には、プロレタリア運動の諸条件、その進路、その一般的結果を理解しているという点で、残りのプロレタリア大衆に先んじている。
共産主義者の目的は、他のプロレタリア諸党の目的と同じである。すなわち、プロレタリアートを階級に結成すること、ブルジョアジーの支配を打倒すること、プロレタリアートの手に政治権力を獲得すること、これである。」(マルクス、『共産党宣言』、全集4巻、P487~488)
マルクスは、自分たちは「すべての国の労働者諸党の部分である」と言っているのだから、これ以上説明する必要はないであろう。
現在、全世界の労働者階級は非常にきびしい情況におかれている。このなかで労働者階級全体の利益を代表する労働者党の必要性はますます高まっている。
2004年に、地の底からわれわれが呼び出されたように、社会に本当に必要なものは地の底から、わき上がるように生まれてくるものである。しかし、それは20世紀の亡霊のような「前衛党」ではないであろう。