昨日(1月14日)NHKスペシャルで「”冒険の共有”栗城史多の見果てぬ夢」を見た。
栗城さんにはそれほど関心はなかったし今もそれほど関心はない。
「登山家としては2流」だとか「3流」だとかいう批判がある。批判する人が栗城さん以上の登山家であれば、そのような批判も構わないだろうが、8千メートル峰の登頂を経験したことがない私としてはそのような批判をする立場にはない。
映像を見るとエベレストのノーマル・ルートを数珠繋ぎになって登る登山者の姿が映っていた。これを観てエベレストは体力さえあれば誰でも登山可能なのだ、と思う人がいるかもしれないが、多少なりとも高所登山を経験したものであれば、高度との闘いが生易しいものでないことはわかると思う。
登山方法などの問題は別としてチョーオユーなど8千メートル峰を登った栗城さんは凄いな、と私は思っている。
ただ栗城さんが亡くなったエベレスト南西壁を単独で登るというのはまったく成算のない登山だった。明らかに体力や技術の限界を超えていた。
もし一流の登山者の定義に「己の実力を見極めている」ということを加えるならば、彼は明らかに一流の登山家ではなかった。
彼は本当に自分の実力を見極めていなかったのか?
それとも自分の実力は分かっていたが何か別の要因で無謀な挑戦を行わなければならなかったのか?
私はどうも後者ではないか?と考えている。つまりSNSを通じて発信していた「冒険の共有」という幻影の重圧から南西壁に追い込まれたのだろう。
栗城さんから我々が学ぶことがあるとすれば、登山者には己の実力を謙虚に見極めることが大事ということなのだ、と私は考えている。