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シベリア抑留5(厳しい作業)

2020年10月07日 05時06分37秒 | シベリア抑留の記録

ろうということで整列していると、ロシア人が大声で何か叫んでいました。小隊長が手真似で聞いていたが、どうもまだ帰ることはできないということらしい。全員が落胆していた。小隊長とロシア人のやりとりを遠くで見ている内に、今度は、大バラスを積んだ貨車が入ってきました。今度はこのバラスを下ろせと言っています。この時は空腹と寒さで頑張る気迫など全くなくなっていました。でも夜明けまでには、そのバラスを下ろす作業を終わらせることができました。それでも帰営させてくれませんでした。時間がすぎ7時頃にやっと収容所に帰ることができました。交代要員が来るまでは、帰させてくれなかったのです。収容所にやっと帰ることができ、横になって休みました。しかし、空腹と南京虫、シラミのかの痒みで眠れません。夕方になってやっとどろどろのトウモロコシのスープが飯ごうの蓋一杯だけ支給されました。

一瞬で飲み干すと、私たちは夜間の鉄道敷設作業なので17時には、作業現場に行かなければならないので招集がかかりました。寒空の下整列していましたが、誰一人として口を開く人はいませんでした。それから9日間同様の作業が続きました。バラスの敷設作業は本当に大変なものでした。しかし、10日後には日中の作業に変更になりました。日中の作業は、機関車で焚く薪作りでありました。ロシアでは機関車の燃料に薪を使っていたので大量の薪が必要なのです。夜の鉄道の敷設作業、昼の薪作り作業が不定期で小隊毎交換されながら、2ヶ月ほどここで作業を行いました。





 2ヶ月後位たって大隊移動がありました。多分11月頃だったと思います。雪の舞う氷点下30度の寒さの中で、大バラスを積んでいた空の無蓋車に乗せられての移動でした。寒くてお互いに体を寄せ合ったり足踏みをしたりしながら、体を動かしていないと寒さに参ってしまいます。20時頃には、収容所の近くに着いたというので全員汽車から降ろされました。しかし、その収容所に向かいましたがそのラーゲルには別の部隊が入っていて、私共の入る収容所ではないことが分かりました。ロシア人連絡不足で私共の収容所を間違えていたのです。そこから2時間雪の降る中を、そこより10kmも先にある収容所に向けて歩いて行かされました。汽車はすでに出発していたからです。私たち初年兵には隊の状況がつかめないまま、ただついて行くだけでした。先が全く見えないため、頭は不安でいつも一杯でした。いつ着くとも分からない夜道を、本当に空腹と寒さの中で線路伝いで歩き続けました。どうにもならず歩き続けやっと私共の収容されるラーゲルに着きましたラーゲルは日本兵が建てたらしく新しいものでしたが、いくら火を焚いても暖かくならず寒くてどうしようもありませんでした。やっと落ち着いたと思ったら整列の声です。機関車でくべる薪作り作業が延々と続きました


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