日本監査役協会のオンライン講義で岡本浩一氏(東洋英和女学院大学教授)の講演を聞いたのですが、その中で「価値観の整備」のための参考図書として推薦されていました。
以前から気になっていた著作ですが、かなりの大作なので手を付けるのに二の足を踏んでいたものです。日本航空をモデルにした物語で山崎豊子さんの代表作のひとつですね。
小説なので、ネタバレになるような引用は控えますが、確かに重厚な力作です。
1995年から1999年に「週刊新潮」で連載された小説とのことですが、舞台となったのは1980年代でしょう(日本航空123便墜落事故の発生は1985年(昭和60年)8月12日)。だとすると私が社会人になったころですが、その頃、この小説の舞台となった会社では、ここまで前近代的な企業風土を持って動いていたのかと、まずはその点で大いに驚きました。(とはいえ、私が入社した会社でも休日に上司の引っ越しの手伝いとかに駆り出されたことはありましたが・・・)。
そして、何よりショッキングだったのは、主人公の境遇をはじめとしたこの物語が実話に基づくものだということです。数々のエピソードのディテールまで詰めた切ったリアリティは、私を含め読者の心を揺さぶるには十分でしょう。
まだ読んでいない方の差し障りにならない程度に、1か所だけ私の関心を惹いたくだりを書き留めておきます。
“アフリカの女王”と呼ばれたミセス耀子・ヒギンズの昔話を聞いての主人公の感慨を記した箇所。
(2 p248より引用) 一見、華やかで、差別などとは無縁の人のように思っていたアフリカの女王が、自ら差別に遭い、生きぬいて来たことをはじめて知った。恩地自身、職場の不平等や差別と闘って来た道程と思い合せ、今さらのように差別は、人間の哀しい性だと思った。
さて、この作品、文庫本で全5巻の大作ですが中弛みもなく、読み進むに連れてぐいぐいと山崎ワールドに惹き込まれていきます。
ただ、最後の最後まで、あまりにも理不尽な仕打ちや正義にもとる営みがまかり通っていて、気持ちがどんどん沈み込んでしまうんですね。私の好みに沿わないせいではあるのですが、ちょっと救いが無さ過ぎるような印象を持ちました。
望むべくは、完結編の第6巻として、フィクションでいいので、数々の巨悪が裁かれていく様を描いて欲しかったですね。もちろん、そこまで予定調和的な終わり方にしないところが“プロフェッショナル”な作家たる所以なのでしょうが。
笑福亭鶴瓶さんのラジオ番組に浅田美代子さんが出演されていて、この本が話題になっていました。
樹木希林さんとの思い出を中心に、浅田さんの若い頃からのエピソードもふんだんに盛り込まれた内容ですが、ともかく浅田さんのとても素直で純朴な人柄そのままに“爽やかテイスト”のエッセイです。
早速、本書で私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、樹木希林さんの「整形」談義。
浅田さんは、ときに、樹木さんとワイドショーを見ながら、登場する女優さんの整形をネタに話し込んだそうです。フランクなお付き合いの深かった浅田さんならではの“情報”ですね。
(p36より引用) 希林さんは、整形そのものを否定していたわけではない。「役者が整形すること」に反対していただけだ。・・・様々な人間を、様々な人生を演じる役者を生業とするならば、「整形はよくない」と、何度も話していた。・・・
「整形したら、整形した人の役しかできなくなっちゃうよね。市井を生きている人を演じても、嘘っぽくなってしまうじゃない。この仕事をしながらも、その役を生きることよりも、自分が美しく見られたいから整形するだなんて。私にはさっぱり理解できないよ」
樹木さん流の “役者論” の一端です。
もうひとつ、「何で私には役のオファーが絶えないんだと思う?」と尋ねた樹木さんの答え。
(p38より引用) 「そう?それよりもね、単純な理由があるんだよ。それはね、私がちゃんと歳をとっているから。日本には幾つになっても、その歳に見えない美人女優さんが多いでしょう。でも私は、歳相応のおばあちゃんに見えるおばあちゃんだから、おばあちゃん役はみーんな私のところに来るの!」
(p39より引用) 「歳をとることを面白がらなきゃ!」が希林さんの持論だ。
「人間って、経年とともに変化していくから面白いんだよね。若い頃の美しさに固執している人は面白くないし、50歳を過ぎたら50歳を過ぎたなりの、60歳を過ぎたら60歳を過ぎたなりの、何かいい意味での人間の美しさっていうのがあると思う。それにね、70歳近くにもなって、40代に見えたところで、40代の役は来ないよ」
“老い”に向かう自然体の心の持ち方、そして、この言い様もまさに樹木さんらしさ満開です。(とはいえ、樹木さんがTBSドラマ「寺内貫太郎一家」でおばあさん役を演じたのは31歳のときでしたが・・・)
さて、自らの半生を振り返りつつ、樹木さんとの思い出を語った浅田さんですが、本書の「あとがき」にこう記しています。
(p191より引用) 大切な人の死は乗り越えたりするものではなく、生涯付き合っていくものなのかもしれないとも思えるようになった。私は、この先の人生も、希林さんと生きていく。
次のステージも“樹木さんとともに歩み続ける”という心情でしょうか。
なるほど、お二人のお付き合いならきっとそうなんだろうなと、心に沁み入った言葉でした。
講談社のpodcastで紹介されていたので手に取ってみました。
著者の平田オリザさんは日本の劇作家、演出家です。
本書でのコミュニケーションに関する議論の出発点として、平田さんは、最初に「企業が求めるコミュニケーション能力はダブルバインド(二重拘束)状態にある」と規定します。「ダブルバインド」とは、“二つの矛盾したコマンドが強制されている状態”をいいます。
(p16より引用) 現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。・・・
「異文化理解能力」とは、おおよそ以下のようなイメージだろう。
異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる。
(p17より引用) 日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。
以前私も企業の採用活動で学生さんの面接に携わった経験があるのですが、確かに「コミュニケーション能力」は採用判断にあたっての重要なファクタでした。しかしながら、そこでは、本書で著者の平田オリザさんが指摘しているような「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見はいわない」といった従来型のコミュニケーション能力?は全く求めていませんでしたが・・・。
ただ、現実の会社内の様々な場においては、重視するかどうかはともかく、いわゆる「空気を読む」とかちょっと前の流行りでいえば「忖度する」とかの行動スタイルが、時折顔を出すことはありましたね。そういうスタイルの現出は、まさに忖度する側の意図を反映したものであると同時に、そういった態度を望ましいものとして求めるその場のリーダーの考え方(姿勢・価値基準)に拠るように思います。
さて、話を戻して、この「異文化理解能力」と「日本型同調圧力」のダブルバインド状態は、企業に止まらず、家庭、ひいては日本社会全体に存在し、そのために「日本社会全体が内向きな引きこもり状態にある」と平田さんは指摘しています。そして、この“ダブルバインド状態”を解きほぐしていく方策のひとつが「演じる」「演じ分ける」という能力を身に付けることだと説いているのです。
(p221より引用) 日本では、「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは、自分を偽ることであり、相手を騙すことのように思われている。・・・
人びとは、父親・母親という役割や、夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。多くの市民は、それもまた自分の人生の一部分として受け入れ、楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや、そのような市民を作ることこそが、教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。ならばまず、主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。
さて、その他、本書を読んで私の関心を惹いたところをいくつか覚えとして書き留めておきましょう。
ひとつめは「会話・対話・対論」の違いについての平田さん流定義。
(p95より引用) 「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。
(p102より引用) 「対論」=ディベートは、AとBという二つの論理が戦って、Aが勝てばBはAに従わなければならない。Bは意見を変えねばならないが、勝ったAの方は変わらない。
「対話」は、AとBという異なる二つの論理が摺りあわさり、Cという新しい概念を生み出す。AもBも変わる。まずはじめに、いずれにしても、両者ともに変わるのだということを前提にして話を始める。
だが、こういった議論の形にも日本人は少し苦手だ。・・・
「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見いだす態度だと言ってもいい。
この“弁証法的”な対話的精神が相互理解や融和によるシナジー(グローバル・コミュニケーション)を築く礎となるのだと思います。
そして、もうひとつ、平田さんの「学ぶ学生たちへの想い」を語ったくだり。
(p183より引用) しかし、私は、これからの時代に必要なもう一つのリーダーシップは、こういった弱者のコンテクストを理解する能力だろうと考えている。
社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い。いや、理路整然と伝えられる立場にあるなら、その人は、たいていの場合、もはや社会的弱者ではない。
社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。私は、自分が担当する学生たちには、論理的に喋る能力を身につけるよりも、論理的に喋れない立場の人びとの気持ちをくみ取れる人間になってもらいたいと願っている。
この発想には、私も全く思い至りませんでした。なるほど、そうですね。
本書には、こういった今まで気づいていなかった“コミュニケーションの実像”がいくつも紹介されています。なかなかに刺激的な内容でしたよ。
スティーヴン・スピルバーグの監督作品ということで気になって観てみました。
かなり以前の“マトリックス”をはじめとしてヴァーチャルな世界と現実世界とを行き来するプロットは珍しいわけではなく、ストーリーもこれといって独創的でもありません。
私のようにゲームは全くやらず関心もないものにとっては親近感が沸くはずもなく、観終わっても「最近はこういったテーストの作品も話題になるんだなぁ」という程度の感想が残っただけですね。
正直なところ私にはまったく合いませんでした。まあ、唯一、そんな私でもちょっとビットが立ったところといえば、「メカゴジラ」と「機動戦士ガンダム」が登場したところぐらいでしょう。