OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

主権者のいない国 (白井 聡)

2022-03-12 11:46:09 | 本と雑誌

 いつも利用している図書館の新着書リストの中で見つけていたのですが、長い長い予約待ちで、手にするのが遅くなってしまいました。

 白井聡さんの著作は以前「永続敗戦論」を読んだことがありますが、本書のスコープは “現代” によりウェイトがかかっています。

 本書においても、白井さんはとても明晰で鋭利な立論を展開していますが、まずは、その手始めとして、「主権者のいない国」になり下がった日本の近年の状況(≒安倍一強体制)を、政治学者中野晃一氏が提起した「2012年体制」という概念を紹介しつつ、こうコメントしています。

(p51より引用) その「体制」の内容は不正・無能・腐敗の三拍子が完全に揃った権力であり、一部の官僚によって独善的に支配され、ほぼ完全に支配機構のパーツと化したメディアのために監視と批判を免除されている。だから、この「体制」によって支配されたこの八年間が、完全なまやかしと欺瞞によって覆い尽くされたのは、全く当然のことであった。

 辛辣な書きぶりですが、さらに白井さんは、本質的な問題をこう設定しました。

(p53より引用) 安倍晋三の超長期政権にせよ、二〇一二年体制にせよ、その成立を許したのは他の誰でもなく日本国民である。逆に言えば、安倍はこの間の日本国民の感情なり願望なり精神態度にマッチした存在として君臨してきたからこそ、長期政権を維持することができた。
 ならば、問われるべきは、次の事柄である。なぜ日本国民は「安倍的なるもの」を好んできたのか。「安倍的なるもの」に体現された国民の精神は何であったのか。

 こちらも今の国民に対するかなり強烈なメッセージですね。そして、こう議論は進んでいきます。

(p54より引用) 根本的な問題は「政治システム」にあるのではなく、戦後七五年を経た日本人の精神の危機的状況にあるのではないか、ということだ。これほどに腐敗し、政治の常識を破壊し堕落させ、法治主義を崩壊させ、三権分立を踏みにじり、嘘と欺瞞の上に開き直る権力―これに対して、積極的にせよ消極的にせよ支持を与えてきた国民精神には、巨大な闇がある。

 まさに、この課題設定とその回答が本書の核となっています。
 その「闇」とは、「戦前天皇制国家から引き継がれた臣民メンタリティに内在する奴隷根性」だと白井氏は喝破するのです。
 この「奴隷根性」は、現下の新型コロナ禍という社会状況のもとでは、たとえば、こういう形で表出してきます。

(p90より引用) 日本を苦しめてきた二重の奴隷化構造(新自由主義的包摂と天皇制の桎梏)は、コロナ危機にどのように現れているだろうか。一方では「何が何でも経済を回せ!」という資本の至上命令が腐敗した利権構造と結びつき(GoToキャンペーン等)、他方では新型コロナウイルスという「忖度空間の外部」と政府に招集された専門家の政権への忖度との葛藤、というかたちで現れている。結果、この国では感染症や医療の専門家が、専門外であるはずの経済の問題に配慮するという珍風景が広がる。

 もう一点、私の興味を惹いたテーマが「反知性主義」でした。
 この「反知性主義の思考様式」について、白井さんは、日本人の特性と言われる「同調圧力」から議論をスタートさせます。

(p145より引用) 「日本社会は同調圧力が強い」とは、非常にしばしば指摘されてきた事柄であるが、一体われわれは何に同調させられるのか。その核心にあるのは、「敵対性の否認」にほかなるまい。・・・
 要するに、この国には「社会」がない。社会においては本来、その構成員のあいだで潜在的・顕在的に利害や価値観の敵対関係が存在することが前提されなければならない。しかし、日本人の標準的な社会観にはこの前提が存在しない。・・・
 ゆえに、社会内在的な敵対性を否認する日本社会では、「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず、その結果、侵害された権利の回復を唱える人や団体が、不当な特権を主張する輩だと認知される。ここではすべての権利は「利権」にすぎない。・・・まさにこうした「敵対性の否認」に基づく思考様式にどっぷりつかった層が今日の反知性主義の担い手となっているのは、実に見やすい道理である。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 ひと言でいえば、前に読んだ「永続敗戦論」と同様、白井さんの論考はとても刺激的で首肯できるものでした。(ただ、ところどころ“哲学的思索”が登場すると、私の理解力がまったくついて行けなくなるのが情けないのですが)

 一点、強いて付言すると、白井さんの著作は、自らの思索の表明という意味では十分にその役割を果たしているものだと思いますが、本書でもしばしば指摘しているような “現下の「戦後の国体」を維持しようとする支配層とそれを支持する群衆” という構造の変革を求めるのであれば、こういった著作とはまた別の手立てが必要だろうと感じました。

 白井さんは、本書の終章でこう叫んでいます。

(p317より引用) 内政外政ともに数々の困難が立ちはだかるいま、私たちに欠けているのは、それらを乗り越える知恵なのではなく、それらを自らに引き受けようとする精神態度である。真の困難は、政治制度の出来不出来云々以前に、主権者たろうとする気概がないことにある。安倍超長期政権に功績があったとすれば、そのことを証明してくれたことであった。そして、主権者たることとは、政治的権利を与えられることによって可能になるのではない。それは、人間が自己の運命を自らの掌中に握ろうとする決意と努力のなかにしかない。私たちが私たち自身のかけがえのない人生を生きようとすること、つまりは人として当たり前の欲望に目覚めること、それが始まるとき、この国を覆っている癪気は消えてなくなるはずだ。

 ただ、今の社会状況に対して問題意識を持っていない人々は、そもそも本書を手に取ること自体、稀だと思うんですね。
 “人として当たり前の欲望に目覚めさせる”役割は、また別のアプローチに委ねるざるを得ないのでしょうか。その有力候補は“マスコミ”であり“メディア”のはずですが、今はそれらへの信頼性は絶望的なほど揺らいでいます・・・。

 だとすると、「ひとりひとりが、自らの“主権者としての決意”を何らかの行動という形で地道に継続することで、諦めることなく周りを感化していく」という道程を重ねるのでしょうね。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする