採録されている400を超えるコラムの中から、さらに、私の興味を惹いたコメントの紹介を続けます。
まずご紹介するのは、「作曲家古関裕而氏による戦時歌謡」をテーマにした小文です。
(p93より引用) 試みに、古関が敗戦間際に作った『嗚呼神風特別攻撃隊』でも聴きましょう。この歌は実に悲痛です。捨て身の体当たり攻撃をやるまでに追い詰められた日本人の絶望感が、この歌を聴くことでたちまち五十年の垣根を越え、現在生きる者の胸にひしひしと迫るのです。・・・
ところが世の中には、『嗚呼神風・・・』とか言うと単に悪しき時代のシンボル、平和の敵と考え、そういう曲を歌うのは、軍国主義的で言語道断と決めつける人が多いのですね。そんな輩は結局、日本人が平和を考えるための前提とすべき戦争の記憶、戦時の情念の記憶にフタをしようとするのだから、実は彼らこそが真の平和の敵なのです。
これは「短絡思考」を諌める一理ある指摘だと思います。
次は、「オリンピック」の本質をシニカルに指摘したコラム。
(p185より引用) そもそもスポーツ一般には、人間に根っこから備わる野蛮さや暴力性を、ルールというきれいごとの鋳型にはめて、制度化している面がある。
その意味で、あらゆるスポーツをテンコ盛りにしたオリンピックとは、オブラートにくるまれているが、実は立派な暴力の祭典でもあるのだ。
にもかかわらず、そういうオリンピックなるものを、世間は、平和とか愛とか感動とか、妙な美辞麗句で粉飾しすぎるのではないか?
「暴力の祭典」とまでの形容はどうかとは思いますが、「粉飾」されているという感覚は多かれ少なかれ感じられるところですね。ある種「偽善的」という感覚に近いものがあります。
著者は、さらに、こう続けます。
(p185より引用) それでも、あくまでオリンピックを非暴力的なものとしてイメージしたいなら、こうしたらいかが?
暴力を内に抱えたスポーツ一般とは一線を画する、非スポーツ的なもの-たとえば禅やヨガを、競技としてオリンピックに加え、実際にオリンピックの性格を変えていく。
思わずニヤッとするような提案ですね。
さて、最後のひとつは、「IT革命とちはやぶるもの」とタイトルされたコラムから、超高速化時代における「社会の歪」の指摘です。
(p431より引用) 人の生を巡る、幾らでも加速できる領域とそれができない領域とのギャップが、際限なく大きくなる。そしてその中でバランスを崩した人々の精神が、どんどん壊れてゆく。それが今なのだと思う。
速ければいいわけではありません。そのスピードについていくことができなくても構わないはずです。そういう人々を最後救い上げるネットが、今、なくなりつつあります。ITではカバーできない「人と人とのかかわり」の次元です。
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