吉田松陰は、安政の大獄を断行する幕府から政道批判を咎められ死罪となりました。30年に満たない短い生涯でした。
しかしながら、幕末・明治維新期に彼の与えた影響は華々しく、それだけに松陰を描いた著作は数多く公刊されました。
それらの著作上の松陰像は、明治・大正・昭和(昭和は、戦前・戦後)と時勢に呼応する形で様々に変転しました。「革命家」「憂国忠君の士」「理想の教育者」・・・。
本書は、その変化の様を辿った書です。
まずは、明治17年に刊行された芝山居士纂輯の「近古慷慨家列伝」による松陰像が記されています。
(p23より引用) ここでの松陰伝では、世界の大勢を察し、海外に心を馳せ、「下田踏海」を決行した松陰像は描かれているが、とくに愛国者松陰像のようなものはない。・・・また、教育者松陰像もないことは、松下村塾の名すら登場していないことに象徴的である。
われわれは歴史を、あとからつくられた枠組みのみでみてはならない。
その後の松陰を描いた書は、まさに「あとからつくられた」ものと言わざるを得ないようです。
徳富蘇峰による書「吉田松陰」の初版本と改訂版に描かれた松陰像の大きな変化はまさに象徴的です。
それは、日清・日露戦争を境にした時勢の激変を如実に映したものでした。
(p44より引用) 時代と時代思潮の変化が、著者の思想の転回をもたらし、その描く人物像のイメージを大きく変えるという、時代と歴史上の人物像との相関関係が、ここにはみごとに浮き彫りにされているではないか。
その後の戦時下の「松陰主義?」の熱狂は異常であり異様です。
一人の人物を著した書が数多く世に出るということは、それほど稀ではないと思います。しかし、これほどまでに時代によってその描かれる人物像が千変万化しているというのは尋常ではありません。
松陰の素の姿はどういうものだったのでしょうか。
著者の田中氏は、本書の「第5章 人間・吉田松陰」において彼の一面をこう紹介しています。
(p143より引用) 松陰は、人間が罪を犯したからといって、「何ぞ遽かに禽獣草木に劣らんや」という。「一事の罪何ぞ遽かに全人の用を廃するを得んや」ともいうのである。
松陰にとっては、罪というのは「疾」のごときものであった。それは治癒させればよい。「疾」さえ治せば、人は真っ当な人間として蘇るのだ、と。松陰は性善説の上に立っていた。
また、こうも記しています。
(p144より引用) 相手の立場にわが身をおき、相手の心になってわが身を考えようとするのが松陰である。それは同情ではない。相手の喜怒哀楽を松陰自身の喜怒哀楽にしようとしていたのである。松陰は老若男女を問うことはなかった。それは相手がつねにみずからと同じ人間であるという考え方を根底にもっていたからである。
まさに、身分出自に関係なく志ある人々が松陰を慕い松下村塾に集った所以です。
(p17より引用) かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂
江戸の獄に下る途中のこの感慨は、志すところと現実とを重ね合わせつつ、なお自らの魂の燃焼をどうすることもできない松陰の気持ちを端的に表明している。
伝えられる松陰像は、到底?代の若者には見えません。
吉田松陰―変転する人物像 価格:¥ 735(税込) 発売日:2001-12 |