「知る」ということについて、プラトンは「知識(思惟によるイデアの把握)」と「知覚」を峻別する立場をとっています。
プラトンにおける「知覚」とは以下のような事態だと説明されています。
(p171より引用) 知覚とは、どのような事態として示されたか。さしあたってそれは、次のように素描される。
例えばいま私に、石の白い色が見えているとする。この白い色という視覚される性質は、私の目の外にそれ自体で別箇のものであるのではないし、さりとて私の目の中にあるのでもなく、両者の間に各人各様に生じるものであって、私にとってのその色の現われと、他の人にとっての現われは同じでない。さらに、私の状態もたえまなく変動しているから、私自身にとってさえ、それが正確に同じものとして現われることはない。
どことなく、ちょっと前に読んだ本(「だまされる脳」にあった「バーチャルリアリティ」の解説のような感じです。
(p173より引用) すなわち、知覚という事態において、「白い石」といういわゆる“対象”も、「目」という“感覚器官”も、知覚の現場を離れてあらかじめ独立に存在するような「或る何ものか」として、固定的に考えることはできないということである。
また、藤原氏は、この本の最終章において、
昨今の「物質一元」的な「科学技術」推進の動きは、いつか、切り捨てられていた他の精神的諸価値と衝突して「価値摩擦」を起こすことになるだろう
と、現代の「自然科学」「科学技術」の状況に言及しています。
(p216より引用) 自然科学は、・・・活力としての〈プシューケー〉と、「形」を与えて秩序づける要因としての〈ヌース〉(知性)と〈イデア〉を基本原理とする-そして〈物〉を二次要因とする-プラトンの自然万有の基本描像との同型性を、しだいに示し始めているといえるだろう。
と、このあたりの解説は、私の理解が全く及んでいないのでよくわかりませんが、延命医療に関して、生命の質を論じた「現代におけるソクラテス(プラトン)の意味」に係る以下の文脈は、なるほどと思います。
(p220より引用) 「ただ生きることでなく、よく生きることをこそ、何よりも大切にしなければならない」という、プラトンがソクラテスから受けとめた根本原則そのものであり、われわれがいま、このソクラテスの言葉がかつてなかったほど重い意味をもつようになった時代に生きていることを告げている。
科学技術の進展という「生き延び原理(快適志向)」の追求は、現実社会において、先の医療問題に限らず、遺伝子操作・地球環境問題等、種々の問題を現出させています。こういった事態への対抗力としては、何らか「精神的価値」に基づく営みが必要となるでしょう。
こういった状況に関しては、ご都合主義に対する「倫理のぼやき」も聞こえてきます。
(p221より引用) もし「倫理」が口をきくことができたなら、こんな理不尽な話があるものかとぼやくだろう。“純粋”で“客観的”な研究の邪魔になるからと追い出され、そのあとに出て来た科学技術の猛進のために生じたトラブルの始末を、いまになって押しつけられるとは何たることか、と。・・・
プラトンの哲学 価格:¥ 777(税込) 発売日:1998-01 |