先に芳沢光雄氏の「数学的思考法」という本を読みました。
今回の森毅氏の本は、タイトルとしては「法」が取れただけの一文字違いなのですが、取っつきやすさという点では大いに差がありました。
この本を理解するには、ある程度の高等数学の知識と最低限の数学史の素養は不可欠です。(私の場合、その双方とも不足していたので難渋しました)
ひょっとすると数学の専門家からみると、お二人とも本質的には同じ趣旨のことを主張されているように見えるのかもしれません。
いずれの著作も、現代の「数学教育」に対する問題意識は共通です。
この点については、私は「数学」についても「教育」についても門外漢なので深い議論はできませんが、素人の立場では以下のように思います。
本テーマの議論は、「数学教育の目的」の置き方により大きく論点が異なってくると思いますし、その目標次第では、「教育方法の問題点」の所在も変わるように思います。
すなわち、
・教えるべき対象に問題があるのか
・対象は正しいが、教育体系に問題があるのか
・教育体系は正しいが、教育方法に問題があるのか
という具合です。
たとえば、「数」は「時間的概念である序数(一番目・二番目・・・)」と「空間的概念である基数(ひとつ・ふたつ・・・)」があるとされ、それを統一するのは「運動」であるという古典的な教えがあるそうです。
私なりの例でいえば、X軸に経過時間(時間)、Y軸に移動距離(空間)をとったグラフは「運動」を表わしているという感じです。この運動の性質としての変化量(速度)は、グラフ上の1点における微分値となります・・・
ということですが、さて、こういった内容は、教えるべき必要な事項かということです。ここで「教えるべきか否か」の判断基準として、何のためにという「目的」が重要になります。
本書では数学にまつわる「迷信」としていくつか掲げ論述しています。
・数学は諸学の根源である
・数学はものの役にはたたない
・数学は純粋形式による観念の産物である
・数学は生産技術の道具であればよい 等々
こういった「迷信」についての個々人の考え方が目的の多様化の根源にあり、その状況が「数学教育の体系や方法」のブレに連なっているのだと思います。
ある人にとっては「算術」でよいし、また別の人にとっては「数学」でなくてはならないのです。
こういった異なる目的の人が混在している段階の集団に対して、同じ内容を教えるという場(たとえば、高校の数学の授業)がある限り「数学教育の最善解」を見出すのは困難です。
ただ、願わくば、「機械的な『術』」の記憶や技能訓練に終始するのは回避したいものです。