論語の有名な一節で、私が特に今でも人口に膾炙していると思うものを1・2挙げてみます。
まず、「子曰く、君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む(衛霊公)」
この節について竹内均氏は、「すべて自分のことと考えれば問題はおのずから解決する」とリードをつけています。
本節は今流に言えば「自責と他責」の話です。
自分が存する環境下において何らかの事が起こったとき、その事に対してまったく自分に関係がない(自分に責任がない)ということはまずありません。程度の差はあれ何がしか事に影響を与えているはずです。少なくともそうである以上、その関わっている部分については「自己責任」が生じます。
真に他者の責任である部分まで負う必要はありません。ただ、自己の責任部分をどれだけ我が事として認識し、それをトリガーにしてどんな能動的なアクションをとるかが君子と小人の大きな差になるのです。
もうひとつ、「子曰く、それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すことなかれ。(衛霊公)」
(p312より引用) 己の欲せざるところは、人に施すことなかれということは、裏返せば、己の欲するところは人に施せということになり、このように解釈すれば、西洋流の積極的道徳の意味と一致する。
渋沢氏も講釈の中でこのように述べていますが、この点は、ほぼ同時代の漱石の言う「近代個人主義」と一脈通じるところがあります。
しかしながら、私は、根本ではやはり異なるように思います。
「自己の個を尊重するのであれば、同じく他者の個も尊重すべき」というのが漱石の「個人主義」だと私は理解しています。その意味では、「自己」と「他者」の明確な峻別がその前提にあります。
他方、孔子はその前提を「恕」においています。「恕」とは「思いやりの心」であり、これは「他者との同化」といった感覚に近いものだと思うのです。