Saraの人生右往左往

『人生は長い旅路である』
Saraの“あっちふらふら、こっちふらふら”な由無しごと

More than enough is...too much...

2008-05-03 09:32:17 | 
新しい人に出会うとき、あまりに自分の鏡写しで驚くことがある。
良いことも悪いこともそっくり。
その人の一部が自分の反映だったりもする。
そこに自分の課題を見ることもあるし、全体性の中で見ることもある。
あまりにパワフルな気付きに、疲れきって辟易してしまうこともしばしば。
今回も、そんなことがあった。

あたしは基本的に疑い深いのだ。
スピリチュアルな教えとされているものだって、
自分なりに納得できなければ受け入れない。
だからこそ、聞いたものをすべて受け入れるのではなく、
直感が拒否しなかったものを追いかけていくことにしている。

はず…なのだが…
もしかしたら、どこかでそんな基本姿勢からずれてしまっていたのかも。
そんなことを改めて考えさせられた。

いるかが見えたのは、【アタシタチヲ】祝福するためだ。
ハレマウマウが噴火しているのは【アタシタチニ】意味がある。
今の時期にいるはずのない鯨が見えたのは、【アタシタチニ】会いに来たのだ。
彩雲がかかったのは、【アタシタチヲ】祝福しているからだ。

本当にそう?

いるかは常にそこにいる。
いるかは人間、ましてあたし達だけを癒すために存在するのではない。
常にいるのに、たまたま気がつく心の余裕があったのだ。

ハレマウマウだって、噴火している間にどれだけ多くの人が見たのだろう。
あたし達だけが見たのではない。

鯨は4月には本当にいないの?
水温の関係で4月にカウアイ島近辺にいることだってあるはず。

彩雲だって、たまたま気がついただけ。
それは、あたし達に空を見上げる心の余裕があったから。

いるかも虹も火山も鯨も、彼らなりの理由で存在する。
それを美しいと思える心が、調和を生むのじゃないだろうか。
常に起こることに対してあるがままに受け止めるのではなく、
いちいち理由を探すことに疲れきってしまった。
そして、意味を探すことは無意味だとひとりで主張すれば、
意味を探したがっている人たちの中では、どんどん孤独に陥ってしまう。

自分の主義でないものをどう受け止めて受け入れるか。
これが4月15日~29日までの、
ハワイ島~カウアイ島でのあたしの学びだったのだろうか。

起こることすべてに意味を探すのではなく、ただそこにいることに感謝すること。
それを最近忘れていたのかも知れない。

そして、現在のスピリチュアル好きにありがちな、
『スピリチュアル的には正しいけれど、人を平気で傷つける説教』を、
平気でするようになってしまっていたのかも知れない。

出会う人は自分の鏡写しである。
なんとも残酷な法則である。