故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

二宮忠八の誕生日」

2013年06月09日 08時41分12秒 | 日記

今朝は曇り空で あまり汗が出てこなかった5時から2時間余りの歩きで14,888歩。やはり行先は丸亀城に。帰りに蓮池公園も歩いてみた。ここも以前はよく歩いていたが、訳あり夜は歩かなくなった。この蓮池公園は1周が1000m、約5分と距離感や足にやさしいコース。私はここは朝の歩き場と決めて、夜は他で歩く。皆さんも是非蓮池で運動してください。私と会えるかも?  夜は会えることは無いけどね。 朝のうちに、ここで緑の中歩きます。

 

今日は午後から県立図書館へ。

 

今日は、飛行器を考案し、ゴム動力の「模型飛行器」を製作した、二宮忠八が生まれた日だ。慶応2年6月9日の事である。   八幡浜市矢野町に生まれた。 明治20年、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊。ある日、忠八は野外演習(まんのう町追上の樅ノ木峠)の休憩で昼食を取っているときに滑空したカラスを見て、羽ばたいていない事に気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた。それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。「烏型飛行器」である。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。明治24年4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。2年後の明治26年10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型を作成した。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。自分で資金を作り独力で研究することにし、大日本製薬に入社した。業績を挙げ明治39年には支社長にまで昇進する。が、この時期は資金を蓄えられず、ほかにスポンサーもいなかったため飛行器の開発は停滞した。この間、明治36年12月17日にライト兄弟が有人飛行に成功した。  ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開。従軍当時に新聞記事でオートバイのガソリンエンジンを知り、12馬力のエンジンを自作する構想を立てた。その矢先にライト兄弟の飛行機を知る。忠八は、動力源以外完成していた飛行器の開発を諦め、製薬の仕事に打ち込むとともに、明治42年にマルニを創業。この時の忠八の製作していた機体は重量が重過ぎるため、完成しても飛べたかは長らく疑問視されていたものの、理論的には正しかったことが現在では認められている。後に軍部は忠八の研究を評価し、大正11年、忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。大正14年9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、大正15年5月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を受章、昭和2年勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪したという。

今、まんのう町の国道32号線沿 もみの木峠に、二宮忠八飛行館がある。入場料300円です。是非どうぞ!   って事で今日はこれまで、じゃ~またネ



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