黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

里見兄弟の事、付けたり落城の事・その1

2024-07-24 21:35:07 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんのお昼は、サツマイモご飯でした。

スーパーに出始めた細めの新サツマイモを白米にのせて普通に炊くと、ほどよくよく火が通ります。

サツマイモをほぐしてご飯を少々、2人とも完食です

 

元記事のころ、七海ママも元気に娘たちとお散歩していました

 

小次郎パパも「ののこねーちゃん」も、元気にお散歩していました

 

 

 

 

里見兄弟の事、付けたり落城の事・その1


目次では、「里見系図の事、付けたり、落城の事」ですけど、本文では「里見系図の事、諫言□言状の事、付けたり落城の事」となってます。

本日の検討部分です。

其の頃、仁田山城主新田大炊之介殿三男、里見太郎義俊二十六代の末孫、里見上綱の源勝弘と申しけるは、先年甲州山梨郡の人なり。武田信虎に横領せられ、天文三年甲子の春、桐生に浪人なられし所、桐生殿日頃御念頃になられ、殊に新田の□伝お頼もしく思し召して、桐生搦手の押さえの為に、赤萩へ在城せられ、仁田山、谷来原二ヶ所知行せしめ、住居なされ程なく兄弟の男子を設け、随見勝平、平四郎勝安とて、文武に勝れし人となり、御家臣には大貫一家、石原兄弟、是れ等は譜代の人々也。然る所に此の頃、又次郎殿非道の御政道、依って勝広これを笑止にに思し召し、かんげん状を認め、再三意見申されける。親綱承引もなく、勝広も今は此の人を頼み少なく思し召され、越後の謙信公と日頃御念頃故、兄弟の子供お頼みなされ、元亀元年三月十三日、桐生を御暇乞いもなく、越後へ遣されしは里見家の御運の末と知られける。

 



其の頃、仁田山城主新田大炊之介殿三男、里見太郎義俊二十六代の末孫、里見上綱の源勝弘と申しけるは、先年甲州山梨郡の人なり

仁田山城主である新田大炊之介(新田義重)の三男・里見太郎義俊の26代目の子孫里見義広は、もとは甲州山梨郡の人であった。


要するに源氏の子孫であるという事が大事なようです
それにしても26代目とは
一世代30年として780年
普通に考えたら新田義重から400年くらいだと思うけど
歴史の専門家でも、7世代より以前に遡ることはむずかしいと云います
26世代って、大げさにいうと他人に近いような感じです
甲州(山梨県)の人だったのですか



武田信虎に横領せられ、天文三年甲子の春、桐生に浪人なられし所、桐生殿日頃御念頃になられ、殊に新田の□伝お頼もしく思し召して、桐生搦手の押さえの為に、赤萩へ在城せられ、仁田山、谷来原二ヶ所知行せしめ

武田信玄にもとの領地を取られ、天文3年(1534)、浪人なさって桐生にやって来て、桐生殿とねんごろになられ、桐生殿は、新田の家系に連なる人であるのを頼もしくお思いになって、里見勝弘を桐生搦手の押さえのために、赤萩へ在城させて、仁田山・八木原を知行させ

里見勝弘に対する敬語が気になります

仁田山は、現在の桐生市川内町の山奥です。
谷来原は八木原だとすると、桐生市黒保根町、仁田山の北西に接しています。
ただ、戦国時代桐生市黒保根町やみどり市の北部には、黒川衆と呼ばれる人々がいたのです
桐生の支配力が及んでいたのでしょうか





住居なされ程なく兄弟の男子を設け、随見勝平、平四郎勝安とて、文武に勝れし人となり、御家臣には大貫一家、石原兄弟、是れ等は譜代の人々也。

赤萩に住んで間もなく、随見勝平、平四郎勝安という2人の子供にも恵まれ、息子達は文武に勝れた人となり、里見家の家臣には大貫一族、石原兄弟、これらは譜代の人々であった。


ええッ、主従で浪人していたの

後に里見兄弟の悲劇の原因となる石原兄弟は、はるばる甲州から付いてきた譜代だったのですって



然る所に此の頃、又次郎殿非道の御政道、依って勝広これを笑止にに思し召し、かんげん状を認め、再三意見申されける。親綱承引もなく、

勝広は、この頃、又次郎殿(親綱)の非道の御政道に諫言状を認めて再三意見した。けれども、親綱は諫言をまったく聞かなくて、



勝広も今は此の人を頼み少なく思し召され、越後の謙信公と日頃御念頃故、兄弟の子供お頼みなされ、

勝広も此の人はだめだと見限って、越後の上杉謙信と日頃懇ろなので、息子二人を託す事とし



元亀元年三月十三日、桐生を御暇乞いもなく、越後へ遣されしは里見家の御運の末と知られける。

元亀元年(1570)3月13日、桐生城主に挨拶もなく、越後に派遣したのは、里見家の運が尽きる発端であった。


 

桐生氏に仕えていたのにどうして、上杉謙信と日頃から昵懇だったのでしょう

これが有名な高津戸城悲話の発端です。




(里見兄弟の墓がある阿弥陀堂)

高津戸城悲話と阿弥陀堂

 

『大間々町誌通史編上巻』(平成10年)では、

このことを述べる史料もすべて近世成立の物語のみであり、全体として近世に入ってから創作された可能性が強い。その場合、全くの創作か、何らかの伝承や話題を提供した事件・事実が背景にあったかが問題である。高津戸の地は武将達の争奪の地となり、これに上杉謙信や後北条氏が複雑にからみ、人々の記憶に残った場所であろう。この歴史と関東平野を前にそびえたつ高津戸城の景観は、歴史的ロマンをかき立てるに十分なものがある。今後は里見兄弟の事跡がどこまで歴史的事実を反映したものか、新たな史料の発見が期待される。

うまく言い回しています
つまり、里見兄弟の高津戸城悲話は創作だということになりますね

 

 

 

初稿 2019.04.26  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿 2024.07.24

 

(つづく)


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