日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

そして戦地からの写真。父です

2012-04-19 07:24:11 | 母のことなど
20代後半でしょうか。身長も高く、甲種合格です。
一人っ子です。ずっと、父が死んでからの昔話として聞いたのですが、妹二人が幼くして死んでいるので、祖母(明治21年生)は、大事に、危ないことはさせないように眼を光らせて育てたそうです。今で言えば過保護、でしょうか。
息子の帰りを希いつつ、自分は孫の世話をし、嫁は必死に生活費を稼ぐ。
母が、病に伏せた実母を見舞いに帰っても、実母は、顔を見て直ぐに(姑さんから叱責されることを慮って)「早く帰れ」と追い返した、とも。
ボケてはいませんから、自分の母親の病床のことも思い出しているでしょう。そのときの癖で、今病院のベットで臥せっている母も、もうここはいいから帰れ、って言うのですよ(苦笑)。

戦争があったり、貧しかったり、であっちにも、コッチにも、トゲが張り出していた時代だったように思います。

ちなみに、息子ひとりしかいなかった祖母ですから、初めての女の子である私には、甘かった、です。
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4 コメント

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Unknown (ちゃい)
2012-04-19 08:24:26
お母様もそうですが、お父様もなんとも素晴らしい端正なお顔立ちで、今の時代だったらお父様はジャニーズ、お母様は女優になれたのでは?
今、朝ドラ「梅ちゃん先生」をみているのですが、梅子の姉、松子は婚約者が戦地から帰ってこなくて(8月13日に亡くなった)、働き始めることになったとか。
そういう時代ですよね。
先人たちのおかげで、今の私たちがあるんですもの。今の日本って暗いですけど、先人たちはそれでも笑って暮らしていたんですね。
お母様がご健康を少しでも早く取り戻されるよう、お祈りいたします。
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Unknown (みけ)
2012-04-19 09:07:08
お父様、お母様の話を読ませていただき、目頭が熱くなりました。ドラマ、カーネーションを見ていたのでミシン工場だったらどんなによかったかという思いでいっぱいです。

お父様は日本人離れしたお顔立ち、お母様は和風美人で朝から素敵なお写真を拝見でき、今日はいいことがありそうな気がしています。
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ずっーと、苦労話を聞かされて (街中の案山子)
2012-04-19 12:11:59
若いちゃいさんみけさん、コメントありがとう。
私は長女でひとり娘(兄、弟あり)だから、聞くのが役目なのでしょう。
砂利をいれた木箱を運びあげる1階分で○銭だったとか、本人は細かく記憶しています。戦後でしょうか、紡績工場で働くようになって、早番の出勤の時は、腕時計の針を見るのに、マッチを擦って明るくして時間を確認したものだと。近所はまだみんな平屋の時代に、2階建ての自宅だったのですが、2階には電気を通しておらず(勿論節約のため)、暗い中で身支度したものだと。倒れる前日まで、その2階の部屋を自室にしていたのです。95歳で2階で寝ているというと、みなさんに驚かれていました。
始まった「梅ちゃん先生」も見ていたらしいのですが、倒れる前の電話では、「もう、戦争時代を思い起こすドラマは見たくなくなった」と言っていました。母の本音には、私の辛苦はドラマ以上だったという思いが溢れるのでしょう。そんな時は、ただ聞き置くだけです。そして、戦死したり、家が焼けた人もいるのだから…、とちょっと時には水を差したり。
苦しいさなか、夫が戦死したらと聞かれたとき、「長男をおぶって線路に行く」と言っていたそうです。それでも、実母には愚痴をこぼさなかった、とも。
勿論、以心伝心で察していたでしょうけれど。
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この写真 (街中の案山子)
2012-04-19 12:31:58
スキャンしようとアルバムから外したら、裏に、「地名○、戦友」のゴム印がありました。郷里の家族に渡してくれと、戦友に頼んだのでしょうか。ゴム印は検閲の印なのでしょう。
2枚の写真をメールで息子に送ったら、初めて見たと返信がありました。おじいちゃんはボクに似ているね~とも。顔が似ていることについては、家族一同同感!なのです。
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