ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

誕生日

2012年01月31日 23時10分07秒 | 日記
去年の誕生日。
誕生日自体があまりもう、嬉しくないということもあるし、
忘れっぽい性格なので、すっかり忘れていた。
ちょうど日曜日だったこともあり、配属先の人にも会わず、
今のような近所の人との関係もなく、ひっそりとさらりと終わった去年の誕生日。

配属先では毎月、その月の誕生日の職員を会議で祝うのだが、それにも名前が挙がらず、
すっかり忘れられていた去年。 
でも、それでいいと思っていた。
人を祝うのも、喜ばせるイベントを考えるもの大好きで熱中するタイプだけど、
自分がされる側になることはひどく恥ずかしくてどうしていいかわからない。
だから、訓練所で誕生日を迎える人や、隊員総会近くに誕生日がある人、
同期が多い人は大々的に祝われているのを見て、
私も参加して喜んで祝うけれど、
全くもって自分がされる側になるのは苦手なので、
ああこういう時期に誕生日じゃなくてよかったな、と思うほどだった。


今年も忘れていたのだけど、ナムプリック屋のお母さんが、
「31日はワングーッさちえ」(31日はさちえの誕生日)
と、1ヶ月前から何度も何度もいうので、忘れることは絶対にできなかった。
「忘れてた。」
と言う私にお母さんは
「忘れちゃダメ。誕生日は健康を願って、これからの幸せを願う大事な日なのよ。」
と言う。


さらに、ここ1週間は一日に何度も言う。
「31日はさちえの誕生日。MKレストランにつれていくから。」
「何がほしいかなあ。さちえの幸せを願ってなにをあげようか。」
だから、忘れるわけがない。
      


十分にたくさんのものをお父さんお母さんからはもらっていて、
毎朝のサイバーツだって毎日私の分まで僧侶への喜捨を用意してくれて
お返ししたくてたまらないほどなのだけど、
ひとつだけ、ほしいものがあるから、それをリクエストする。
ナムプリック屋のみんなが着ている、青いポロシャツ。
背中に店の名前が書いてあって、お父さんも毎日着ている。
あの制服がほしい。


誕生日は特別な日だから、普段しない人でもサイバーツをするのだという。
朝からいいことをして徳を積んで、よい一日、よい一年になるように願うのだろう。




ジャックフルーツの実の下で、お父さんがいつものようにほうき二刀流で掃除をしている。
      


私のタンブンしたものは、亡くなった私の父が、おいしいおいしいと食べてくれてるだろうか。  (→ 過去ブログ 「タンブンとタイ仏教」
      


タイの衣装を着ていくと、スワイスワイ(きれいきれい)とお母さんたちが喜んでくれる。
         


お母さんは僧侶にも、
「この子、今日が誕生日なんです。料理が好きで餃子や親子丼や・・・・・・」
と話すものだから、サイバーツ中に笑ってしまった。
      


お客さんにも「私の娘はね、今日が誕生日でね。」と話が始まる。
      


タンブンを終えて
      


この水も、土の下にいる亡くなった人たちの元に届くのだという。
     


お父さんとラッキーの快活な「おめでとう」ジャンプで
素敵な一日の始まり。
    












配属先に行き、普段通りに自閉症クラスに行くと、今日は子どもたちがたくさん。
      


教室に入ったとたんに、お母さんたちが
「ハッピバースデー クーサーイ」
と口々に言うのでびっくりする。 
びっくりして、うれしい!
      

なんで知ってるの??? と不思議に思っていると、
ある子どもがちょこちょこ出てきて 「ハッピバースデークーサーイ」
と言ってくれる。
後ろではおばあちゃんが操っていて、それもうれしい。
      


普段通りに時間が流れ、おやつの時間、私が動き回っていると
座れ座れとやたらに先生達や、お母さんが言う。
何かよく分からないままに座らされると、ケーキが運ばれてきた。
      

バースデーの歌が始まり、そのあたりからはびっくりしてよく覚えていない。
まさか、お母さんたちや先生達がこんな準備をしてくれているとは
思いもしていなかったので、とにかくびっくりして ぼけっとしてしまって
次には涙が出そうなのをがまんして、言われるままにロウソクの火を消したり、
なぜか、みんなの前でドラえもんを歌って即興で振り付けて踊ったりした。
なぜそうなったか、よく分からないのだけど。
    



今日は「日本文化の勉強」と称して、日本の学校の様子をビデオで見せて、
お母さんたちに浴衣を着せてあげて、抹茶を飲んで餅を食べよう、
と計画していたけど、もう、餅や抹茶どころではない。
とにかく、浴衣だけは着せてあげねばと、計11人、めまぐるしく着付けする。
     



お母さんや先生がきれいな服をきてきれいになると、
子どもはうれしいんだ、分かる分かる、その気持ち。
      


お母さんたちは娘みたいにキャアキャア言って喜んでいるし、
互いにきれいきれいとほめあって本当にうれしそうにしている。
60を過ぎた人でも、ピンクの浴衣で赤い色の帯を選ぶ、タイ人の色彩感覚の豊かさや
かわいらしさが、とても素敵。
    


見よう見まねで互いに着付けを始めるお母さんたち。
この怖いもの知らず、なんでもやってみるところ、とりあえず一度はやってみるチャレンジ精神
あくなき好奇心、タイ人は素晴らしい。
    


「私は一度着たからいい」というオプ先生をみんなで着付ける。  (→ 過去ブログ 「サワッディーピーマイ」
    


2人ともよく似合ってる。
       


めまぐるしくかわり代わるの着付けが終わって、私も浴衣を着て
先生2人と記念写真を撮る。
    

この写真、きっと生涯忘れられない写真のうちの1枚になる。
  

  
    





お昼は大きな魚がいくつも並べられ、教室でお母さんたちみんなと食べる。
魚は焼きたて。 子どものお父さんが買って届けてくれた。
「ハッピーバースデーのお祝い」だという。
お母さん同士で昨日連絡をしあって、今日の手はずを整えたらしく
なんだかもう、胸がいっぱい。
      

食事中に他のクラスの先生がやってきて加わる。
私に話しかけるけれど、言っていることがいまいち分からない。
すると、イーッ先生が私に説明しなおしてくれる、すると一度で分かる。
びっくりする先生、
「私と同じことを言っているのになぜ、イーッ先生が言ったらわかるの?」
イーッ先生とは一緒に過ごしてきた時間がある、だから言いたいことがわかる、
言葉じゃないのだ、言葉は媒体に過ぎない。
イーッ先生やオプ先生がどれだけ私に寄り添ってくれているかを毎日感じている。





午後の個別学習は、着物を着たそうだった男の子に、
新聞紙で着物を作る。 どうだ!
嬉しそうだなあ-。
          


新聞紙の着物を着た子どもを見て、大笑いするお母さん。
      


この子も気に入って、あちこち走り回る。
      


廊下を駆けていくこの子の後ろ姿、廊下にはお母さんたちの笑い声がこだまして
私もお腹を押さえながら笑った。
      











夕食は約束の、ナムプリック屋のみんなと一緒にMKレストランへ。
行くときから、みんながケーキや大きなプレゼントの包みを抱えていて
車の中ではトチが後部座席でごそごそしてラッピングしていて
「何でもない!何でもない!」と言うし
ものすごくわかりやすいのだけど、
「何も見えないでしょう、見えないよね?」と聞かれるので
「うん、真っ暗で何も見えない!」と答えながら、笑いながら。
      


タイスキを食べて、ワイワイ話して
お父さんお母さん、トチ、娘のインとレックからプレゼントをもらう。
      


お母さんからは「日本が寒かったらこれを着なさい」と暖かいショール。
お父さんからは、私が欲しがったナムプリック屋の名前が書かれた青いポロシャツ。
    

お父さんが着ていたもので、お父さんが今日きれいに洗濯したものだという。
飛び上がりたいくらい、嬉しい。
      


トチが自分で選んで自分で買ってきてくれたのは、お菓子。
私が大好きなお菓子だった。  (→ 過去ブログ 「土地」
      


ケーキの火を消す前に願い事を念じなさいと言われて、
叶わない願い事だけど、この人たちとずっと一緒にいられたらいいのにと思う。
      


ケーキを切って渡すのは誕生日の人の仕事。
私が切ったケーキを受けとると
お母さんが
「さちえが幸せで健康で、悪い人に会わず、これからいい人とだけ会っていけますように。」
と言う。
お父さんは
「さちえは私の娘だから、他の人とは違う、特別に思っている。
 タイのお父さんをさちえも特別に思ってね。」
と言う。
      



以前からコツコツ作っていた、写真ボード、
それとこれまで撮った大量の写真を整理したアルバム、
私からの気持ちを込めて手紙を沿えて渡す。
      



手紙はタイ語の書き間違えが何カ所もあり、訂正されながら笑いながら
でも涙混じりでお母さんが読み上げ、
お父さんは眼を細めて写真をのぞき込んで、自分よりも
「ラッキーが、ラッキーが。」とラッキーのかわいいショットを喜んでいる。
「けん玉をしたよね。」「モンゴルダンスを踊ったよね。」
「さちえの友達がたくさん来たよね。」「一緒にお寺に行ったよね。」
と思い出して、短いけれどすごく近くに一緒にいたなあと、互いに思いながら。
     



お父さんは立ち上がって、みんなが見えるように、そして店のいろんな人が見えるように
アルバムを持ってみせる。
本当にもう、なんてお茶目なお父さんなんだろう。
          


たくさんある仕事を忙しく詰め込んで、お客さんのたくさん来るお店を1時間早く閉めて、
時間を作ってMKレストランに連れて行き、お祝いしてくれた今日。
帰ったのは夜の9時過ぎ。
いつもなら、お母さんは家で休んでいる時間。
今日時間を作ったためだろう、帰ってからもお父さんはバタバタと仕事をしていた。

今日はありがとう、本当に本当にうれしかったとお礼を言って帰ろうとすると
お父さんが、ラッキーの手を握って、
「おやすみなさい! おやすみなさい!」
と言う。
ラッキーを愛するお父さんはラッキーと話すとき、声が1オクターブあがる。
そんなお父さんはとてもかわいい。
  



日本語の本で勉強して言えるようになったお父さんの日本語。
私と話そうと思って勉強してくれた日本語。



去年と今年の2度の誕生日、タイの人たちから感じたもの、もらったものも違うけれど、
私自身のタイの人たちへの気持ちのむき方も違う。
私は日本に帰国した時間があるし、配属先でも大きな成果を残しているわけでもない、
タイ語ですらすらと意思の疎通が図れるほどでもない。
短いたった1年3ヶ月のタイの時間だったけれど、その間
日々、となりにいて同じ子どもたちを見てきた先生達、一緒に笑いあった保護者たち、
タイにもう一度戻って以来
一緒にサイバーツをして、は毎日のように一緒に夕食を食べて話をしたお父さんお母さん、
その人たちと築いてきた今が、今日だったんだなと思う。
    


今日は幸せだなと感じたけれど、きっと、これまでもずっと、幸せだったのに違いない。
それと気づかせぬさりげなさで、出会い、助けられ、幸せだったのだ。




桜の花を咲かせよう

2012年01月30日 16時57分41秒 | コンケン 第9特別教育センター

タイの人たちは桜が好きだ。
タイでも北部の山間部には桜が咲くというが、
実際には見たことのない人がほとんど。
日本の桜はとてもきれいなんでしょう、とあこがれの気持ちをもっている。

がさごそと教室にある使えそうなものを探していると、
以前スプレーで色をつけるときの敷き紙にしたのだろう、
緑のスプレーが飛び散った模造紙を見つける。
この間は恐竜博物館に使った、この緑スプレーの飛び散った模造紙。 (→ 過去ブログ 「恐竜博物館」
これを使ったら何が似合うだろう。
なんとなく思いついて、桜の花を咲かせたくなった。
見たことのない桜の花を、どう想像し、どういう色を塗るのか、見てみたいと思った。


A4の紙、ハサミ、色を塗るクレヨン。
そして、花びらを貼り付けるための桜の木を用意する。
    

A4の紙を特殊な折り方をして、ちょこっとハサミで切るだけで
桜の花びらのかたちができあがる。
まず、これだけで
「ンガーインガーイ!(簡単、簡単!)」とお母さんたちが喜ぶ。
     


桜の花びらに塗る色は何色でもいい。
どんな桜の花を咲かせたい?
青い色で迷いなくどんどん塗っていく子。
    

色を使う色彩感覚はタイ人は素晴らしい。
小さい頃からいろんな色を使い、それをほめられていないと
決まった色にしか塗れず、見本がないとできないようになる。
だけど、タイの子たちの多くが迷いなく色を使う。
保護者がまず、そうだからなのだろうが、この豊かさには感心するのだ、いつも。
先生だって固定の色にとらわれない。
     


できあがった花に名前を書き、桜の木に貼り付ける。
おおおと歓声があがり、
「スーワイ スーワイ」(きれい、きれい)
の言葉があちこちであがる。
美しいものを感じ取り、愛でるタイ人の感覚のすばらしさ。
     


先生達が貼ってくれた桜の木は、壁の低い位置にある。
子どもたちの目線にある、というのがまた嬉しいこと。
     

桜の花を背景に、学習する子どもたち。
     


日本ではあと2ヶ月で桜が咲きますね。
タイでも、一足先に、コンケンの第9特別教育センター
自閉症クラスの壁に大きな桜の花が、個性満点の桜の花が
色とりどりに満開です。
   

タンブンと タイ仏教

2012年01月29日 03時19分35秒 | タイ文化


「タンブン」は「徳を積む」という意味で、
お寺にものやお金、食べものを寄進すること、お寺のために奉仕すること、
それだけにとどまらず、よいことよい行い、人のためになること、
生き物のために自分が働き自分のものを差し出すこと、
それら全てを「徳を積む」行いとしている。

物乞いにお金を与えること、魚にエサをやること、鳥を放すこと
ボランティアもすべて 「タンブン」。
今の私の青年海外協力隊ボランティアも、タイ人からすると「タンブン」であるようだ。

敬虔な仏教徒であるタイ人にとってお寺は大きな意味を持ち、
「お寺に連れて行く」というのはとても親愛のある行い。
一緒にサイバーツ(喜捨)することにも大きな意味を持つ。


タイにいて最初の頃にはタンブンを勧められて驚いたものだった。
日本人は募金や寄進をあまりしない人間で、
「してやっている」という考え方が強いが、
タイ人は「タンブン」=「徳を積む行いをさせてもらっている」
という考えが基本にある。
だから、タンブンを勧めているタイ人は
「よかったね、タンブンができて。」と思っているということをまず理解しないといけない。


ナムプリック屋のお父さんお母さんが、前々から今日
私をタンブンに連れて行くと言ってくれていた。
お父さんお母さんはタイ人の中でもかなり敬虔な仏教徒。
配属先の行事でタンブンに行くことはこれまでにもあったけれど、
日々朝のサイバーツ(喜捨)を欠かさず、敬虔に仏教を信仰する
本物の仏教徒のタイ人に連れられてタンブンにいくのははじめてのこと。


朝からお父さんたちはタンブンに持って行くお金やお菓子の準備。
お父さんは5年間の出家、お母さんも尼の経験をした本当に仏教を
心から信仰する人たち。
      


行ったお寺は新年に初詣に行ったあの、小さな小さなお寺。
まだ道もできあがっておらず、木々の中にぽつんと小さなお寺がある。
       (→ 過去ブログ 「タイの家族と初詣」
  


今日はタンブンに集まる日らしく、たくさんの人が集まってくる。
特別な日なので、タイの伝統のスカートをはいている。
  


お父さんは会う人会う人に
「日本の娘でね。仏教が好きで、サイバーツがとても好きで、
 毎朝一緒にサイバーツをしてるんだ。
 日本料理をよく作ってくれてね、パパパッと作ってくれておいしいんだよ。
 この間は友達がやってきて、モンゴル、フィリピン、日本
 モンゴルのダンスを踊ったりしてねえ、日本の友達は空港で泣いて泣いて・・・‥」
と必ず話して聞かせる。
お父さんの人柄もいいけれど、聞く人たちも へえそうなの、ふんふん、と
ニコニコと聞く。


この寺には僧侶が一人しかいないが、今日は特別に手伝いに来ているのだろう。
森の中に簡易な寺がある。
      


食べものをたくさん作って持ってくる人もいる。
それもタンブン。
ソムタム、あんかけ、くだもの、もち米のお菓子。
みんなで作って持ち寄って、みんなで食べる。
    
以前はお寺でタダで食べものをふるまうのを見て、おおラッキー なんて思って
もぐもぐと食べていたけれど、今はお父さんたちの姿を通して
作ってきた人の気持ちや、人のために自分のもっているものを差し出す
タイ人のそれがあたりまえな考え方、仏教を根底とするこの姿を
感慨深く感じている。
    


もちよったお金を数える。
いくらでもいい、20バーツでも100バーツでもと教えてもらって
私のお金もここに入っている。
     


お金の木みたいな、これも、タンブン。
     


お経を聞き、ひざまずいてみな祈りを捧げる。
  

  

   

  


最後に、なぜだか分からないけれど、またお金を数える。
最初に数えたのは何だったんだろう? と思うけど。
途中途中で20バーツ、100バーツと、持ってくる人がいるので、
そのたびに、マイクで「誰々がいくら持って来ました、幸せでありますように。」
とアナウンスをし、また数える。
いくら数えてもこれは終わらないのでは?
と思うくらい、ずっとずっと わーわー言いながら数えている。
       


タイでは9という数字がとても縁起がよい数字。
集まったお金は合計、62345バーツ。
9がない。
どうにか9の数字をたくさんそろえたいらしく、お父さんたちがマイクでタンブンを呼びかける。
呼びかけると、ドッとお金が集まって、こんどは9をオーバーしてしまい、
また、お父さんたちがマイクで呼びかける、その繰り返し。
お、終わらないんじゃ・・・ 
      

何度も何度も繰り返して、
30分以上は繰り返して、やっと65999バーツ。
9が3つ並ぶ。
「スーワイレーオ!」(きれいになった!)と喜ぶ人たち。
  


そこで、鐘が「ゴーン!」と鳴らされ、終了。
9も3つ並んだし、満足満足という鐘の音。
     


これにて、タンブンは終わり。
    



寺の僧侶からもらったもの。
幸せと健康がくるように経文が書かれている。
一般の人には書けない。
お父さんもかつては出家して欲望を捨てていたが、
今は還俗してあれこれ欲を持った生活をしている。
そういう一般の人間には書けない経文なのだとお母さんが教えてくれた。
     







先週末、カウンターパートの家に行った。
カウンターパートの家には 仏の部屋があり、仏像や僧侶がまつられ、
仏教に関する様々なものが集められていた。
毎日、ここで拝むのだという。
     


見せてもらったもの。 
土の中から掘り出したのだ、百年以上も前のものだとカウンターパートのご主人が丁寧に説明してくれる。
  


僧侶をかたどったこれも、大変に古いものだという。
プラアラハンと呼ばれる高僧。
           
そうなるには小さい頃から仏門に入り、生涯結婚もせず、欲を捨て
何も欲しがらず、笑いも怒りもせず、ただ徳を積み生きる、
それはとても難しいことだという。
そして、欲を捨ててしまった以上、生まれ変わることも二度とないのだと。
「さちえや私たちの普通の人間はまた生まれ変わる。
 ああなりたい、こうなりたい、あれが好き、これが好きという欲に応じてね。
 生まれ変わるために今生きて、徳を積んでいるんだよ。
 欲を捨てて生まれ変わらないなんて、とても難しいことだ。」

そこまで深いところを知ったのははじめて。


以前はタイ語がちっともわからなかったからか、
タイの仏教文化に関心がもてていなかったのか、
いや、きっとナムプリック屋のお父さんお母さんたちと家族のように過ごし、
一緒にサイバーツをし、次第に彼らの気持ちを理解したいと
心から思うようになったからだ、
聞くこと聞くこと、全てが心に染みてくるような感覚。
    


私にもいくつも大事な仏像や石像をくれた。
買ったものかと尋ねたら、もらったものだという。
「さちえもたくさん増えたら、今度は人にあげるんだよ。」
もっているものが持っていないものに渡す、それが当然という考えが
日本人の私にはあまり身近ではなくて、とても尊く感じて 染みる。
    






お母さんがよく言うこの言葉だってなんて素敵なんだと思う。
 「一緒にサイバーツをしたから、また必ず会える。」


毎朝、サイバーツをしたら僧侶はお経を唱えてくれる。
そのとき、お父さんは水を持つ。
お経を唱えられた水には何らかの力が宿るようで、
その水を近くの最も大きな木の根元に垂らす。
ナムプリック屋の前にあるジャックフルーツの木に。
     


お母さんが説明してくれたこと。
「死んだ人間は土に還る。土の中にいる。
 この水が、土の中に行き届いて、なくなった私たちの家族もみな
 水を飲むことができるのよ。
 朝、サイバーツしたカオニャオやんむむぷりっくそしてお菓子、それも渡すことができるの。
 さちえのお父さんも、カオニャオとナムプリックを朝ご飯に食べているよ。
 日本で生きているときには食べたことのなかったカオニャオを、
 さちえがタイに来たおかげで、そしてサイバーツをしたから、
 お父さんは土の中で食べられたのよ。
 さちえの渡したカオニャオとナムプリックをね。 お父さんも初めてカオニャオを食べたね。」
     


なんという死生観かと、ぐっと胸に上がってくるものがあった。
これはお母さんにとっては当然のこと。
死ぬことは次のステップに進むこと。
家族が大事に思っている限り、消えていなくなることはない。
誰かが死んだときにも笑顔で天に昇ったというタイ人の死生観が
やっと分かってきたように思う。
けれど、きっとまだまだだ。



日本人は目に見えないものを信じられない民族だなと思うことがよくある。
それが悪いわけでも、いいわけでもないが、
1つ、信じるものがあり、実際に敬虔につつましく生きて
外国人の私を娘のように大切にし、一緒にいて全く苦のない接し方をしてくれる、
相手を思いやる心にあふれている。
この人たちの根本精神を知って感じていくと、尊敬の念ばかりが満ちてくる。


仏教が国の95%をしめるタイ。
だが、タイ人全てがこのお父さんお母さんのようかといえばそうではないだろう。
2人はけんかもしない、人のために生きる、きっとタイ人の中でも特別な人たちだと思う。
コンケンでもお父さんの人徳ぶりはたくさんの人が知っている。
次第に広まり、人が知るところとなるのだろうと思う。
けれど、どんなに名が知れても、お父さんたちは謙虚に敬虔に暮らしている。

そういう人とここで会えて、こんなに親しくなれて、彼らの神髄ともいえることを
身をもって伝えてもらえることは、なんて幸運なことだろうと思う。

ただひとつだけ

2012年01月28日 04時57分05秒 | コンケン 第9特別教育センター

なにが正しいのだろうか。
正しいやり方なんてあるのだろうか。
私は何をしに来たのだろうか。
私がいる影響はどれほどあるのだろうか。


以前はよく思っていたこと。
最近はタイの人たちとつながれること自体がうれしくて、
残り任期への名残惜しさとで、いやなことには触れないように考えないようにしていた。

だけど、
ずっしりと考えないといけなくなることがあった。


私が活動のしめくくりに作ろうとしている
保護者、教師に向けた自閉症の子どもを理解するためのガイドブック制作。
なぜ作りたいのかというと、
まず、保護者が知識を求めているから。私に「家でどうしたらいいの?」と尋ねてくるから。
そして、先生達に伝えたいことがあるから。
      


先生達は、全員が特別支援教育を履修済み。
このセンターには知識も教材も十分にそろっている。
教材の使い方が雑であったり、教室環境整備がいきとどいていないところはあるにしても、
それはタイ人の気質が関係していて、直す直さないという問題ではないと今は思う。
タイ人の長い歴史の中で作り上げられてきた気質や、倫理観、
教師と子どもの関係、そこに教育がある。

すべてがタイ人らしさであり、日本人の人間一人がどうこうしようとしてどうなるものでもなく、変える必要もない。
一時的に変えたところで彼らに合うものではなければ、
また自然と今の姿に戻っていくだろうと思う。
どの国もそうやって、自分たちのスタイルに合うようにそれぞれの国が
文化や教育をつくり、自然の歴史の中で脈々と受け継がれた今があるのだと感じている。


今は、タイ人の気質、行動力、知識欲、大らかさ、あらゆる部分を尊敬している。
彼らの国は彼らが造る。
     


だから、今さら私でないとできないこともなければ、取りたてて必要な知識もない。
ただ1つのことをのぞいて。
それは、パニックそのものへの考え、パニックを起こしたときの対処の仕方。
それだけが、最後までどうしても見るに堪えなかった、
どうしてもそれでもいいのだと受け入れることができなかったところ。
       (→ 昨日ブログ 「パニック」


だから、このガイドブックを作ることで、それを伝えたいと思ってきた。
40ページほどあるガイドブックには、先生達がすでに知っていることが
書かれている。
そうでしょう、そうですよね、もちろん知っていますよね、といいながら
最後の3ページにはこういったことが書かれている。

「子どもがパニックを起こしたら対処する、という考えではなく、
 パニックを起こさせない、という考えに切り替える。
 もし、パニックを起こしたら、それは周りの大人の責任として、
 子どもを叱ったり、無理にやめさせたりしないようにしましょう。」
      


実は先生達に伝えたいのは 40ページある自閉症に関する知識のうちの
ほんの3ページ、これだけだ。
これだけを伝えるための、媒体としてガイドブックを作るといってもいい。





そう思って作っているところだが、今日、じっと考えたくなることがあった。


聴覚障害クラスで、自閉症の子どもがいやがって泣き出した。
手を紙の上に置いて、手のひらの周りを鉛筆でなぞる、ということが
いやで泣き出した。
泣き出した子どもの手を、先生達は押さえて活動をそのまま続けさせる。
わあわあ 泣き出すが、なんとしてでも続けさせる。

私の信頼している先生が、私にもそうやって手を押さえてという。
「できない。」と言うと、他の先生がやってきて、
2人で抑える、保護者も手伝う。
     



ちらりと子どもが鉛筆を見た。
「もしかして、鉛筆の尖端がこわいのじゃない?」
と私が言うと、
「鉛筆が怖いならほら、鉛筆は持てない。こわいんじゃない、やりたくないだけ。」
と、先生は手に鉛筆を持たせる。
何がいやで泣いているのか、鉛筆の尖端がいやなのか、手触りなのか
もしかすると全く関係のない日差しであったり、音であったり、別の何かが
たまらなくいやなのかもしれない。
でも、それを探そうとする気配は先生達には一切ない。

「キーギア(めんどうくさい、怠けている)なだけ。」と決まってしまっている。


子どもの泣き声を聞きながら、そうやってまでこの学習をさせることが
そんなに大きな意味があるんだろうか、
マイナスよりも、プラスが大きいんだろうか、と考えてしまう。
    


私の最も信頼する先生。
一人一人の子どもの顔をじっと見ながら授業をし、よく子どもをほめ、
敏感で察知能力が高くて、私の言葉もよく分かってくれる、
だから私の心の動きにもすぐに気づく。

「さちえ、驚いているんでしょう。 それならば日本ではどうするの?」


今までに何度も聞かれたことがあるが、
専門用語がほとんどないタイ語の世界では、端的に言える言葉はなく、
私の語彙もなく、回りくどく説明することになる。
あまり忍耐がもたない人たちであり、そもそもそんなに時間のかかることを聞いたつもりもないのだろう。
気を遣って聞いてあげるということもないので、最後まで聞いてもらえるくれることはない。
だけど、簡単に説明できることでもなくて、
今までこの件でちゃんと話ができたためしがない。


だけど、今日尋ねているのは、私の言葉を一番よくくみ取り、
しどろもどろの私の言葉でも最後までじっと聞いて理解してくれる、
一番私が信頼する先生。
だから、私も初めて口に出して、長いことかけて伝えた。




いやがったら別の課題に変える。
泣くほどのストレスを与えないで、楽しませて学習させる。
そもそも、泣くようなことをやらせない、と。
先生は言う、
「嫌なことをやらせないでいたら、この子は成長しない。」


言葉を発して意思を伝えられないこの子にとって、泣くのは「やりたくない」のサイン。
その意思を伝えているのに無視したり、強引にやらせたりすると、意思を伝えなくなってしまう。
意思を伝えてきたら、その意思をわかったよ、とくみ取ってみせること、
そうしないと子どもはコミュニケーションをあきらめてしまう。
「泣いてしまえば何でもやらなくてすむと覚えてしまう。」



つらいことを続ければ、学習への意欲はなくなっていくし、嫌な気持ちだけが残る。
その結果の自傷行為や、劣等感、二次障害が起きることが一番危険。
できないことをやらせるのではなくて、できることをやらせてほめて、
自信と達成感を持たせることが、まず先決。
できた、ほめられた、という喜びは、もっとやりたい、もっとできるようになりたいという気持ちを生む。
「今、この子ができることはほとんどない。それなのに、何をどうやらせてほめるというのか。」


できないことが今は多くても、必ずできることはあるし、好きなことも必ずある。
何ができて、何が好きかを探して学習につなげていくのも教師の力量。
まず最初にすること。
「この子は手を紙の上に置けない。鉛筆を握れない。ノリを使えない、ハサミを使えない。
 この子が好きなのは寝ること。それをどうやって学習につなげるの。」


鉛筆を持って字を書くことが一番大事なことではない。
それにこだわる必要はないと思う。
寝るのが好きならば、寝転んで勉強することから始めたっていい。
寝る真似をするような遊びからはじめてもいい。
「勉強=読み書き」の概念はすてる。 
字が書けること、鉛筆が持てることは、この子の生きる力の優先事項ではない。
大きな問題ではない。 それよりも、コミュニケーション。
「コミュニケーションをとるのが大事なのは分かるけど、聞こえない、
 そして自閉症。何もかもをいやがって、寝転んでいるこの子にそれができないでしょう。」



日本では、子どもを泣かせたら教師は反省する。
「泣くのは子どもだから、仕方がない。」


子どものできることをやらせ、子どもが楽しそうにしている学習が一番いいと思う。
「例えば子どもがハサミを使えないとき、タイではこうやって保護者や先生が
 かわりに切ってあげる。 そういうチュアイ(手助け)する人は日本にはいないのか。」
 日本では保護者は付き添わない。
 そして、ハサミが使えない子どもにハサミを使う課題をそもそも与えない。
 子ども自身ができることを課題にし、子どもに合わせた課題を教師が考える。
 だから、一人一人、課題が違う。


パニックを起こしている子どもに、無理強いはしない。
パニックを起こさせないように教師が配慮する。
泣いてやらせることで、大きな成果は得られない。
自閉症の子どもは記憶力がいい。 つらいことも忘れない。
「この子は以前は座っていることも、みんなと一緒に輪に入ることもできなかった。
 泣いたけれど、それを、私が練習させてこうやって今はできるようになっている。
 練習してきたからこそ、今 こうやってできているじゃないの。」
     



大学や大学院でそれ相応の知識を得て、教育に携わり、今はセンターでも
かなりの地位にある先生。
誇りもある、これまでの成果だと思っていることもある、自信もある。
私との話でしだいに力が入っていくのがよく分かる。
口調が早くなる、声が大きくなる。


そうなると、言葉ではもうまったく太刀打ちはできず、
妙な誤解にだけはならないようにと、必死にこれだけは伝える。
「最初は私はこのセンターであちこちで子どもが泣いているのをびっくした。
 日本では子どもを泣かせないから。
 作業療法でも泣きながらやっていることにもびっくりした。
 騒々しい音があちこちでしている中で、自閉症の子どもが学習していることにも。
 けれど、今はそういう中でタイの子どもたちはたくましく育っていくなあと
 タイを尊敬している。
 どちらにせよ、その社会で育っていき、その社会の大人になる。
 そのときに、日本人は日本人らしく、タイ人はタイ人らしくちゃんと育っている。
 子どもの時、こうやって泣いていてもたくましく育って、微笑むタイ人になる。
 私には子どもが泣いているのを押さえつけてやらせることはできない、
 その能力はないけれど、タイの先生達を尊敬している気持ちは本当だ。」


この言葉に嘘はないが、争ってまで議論をしたくないという
私の及び腰な性格がこれまでいつも口を重くしてきた。


言いつつ、泣きたい気持ちになる。
こうやってうまく言えたわけではない。
「二次障害が出る」とか「達成感を次の学習につなげる」「自信をもつことで能力が上がる」
とか日本語でならばすらすら言えるけれど、
タイ語では該当する言葉がなく、私の語彙もない。
全然言えない、つまってばかり。
この先生だから、それでも最後まで聞いてくれたのだ。


ショックだった。
センターで最も素晴らしいと尊敬しているこの先生はやらないのではないかと思っていた。
これまでに見たことがなかったから。
でも、パニックの子どもの手を押さえつけてやらせる。
それが絶対に正しいと信じ、信念をもっている。
ショックだった
最も信頼する、私との感覚が近しいと感じていた先生とでも
この絶対的な差、温度差、教育観、考え方、信じるものの違い、価値観の大きな差
先生は絶対という教師の立場の違い。
     


日本でやって来たやり方は、世界で見てどうなんだろうか。
決して多数派がよいやり方で 少数派が悪いやり方というわけではないと分かっているつもり。
この先生たちが信じているものだって分かる。


私が言おうとすることが伝わり理解されるということは、
タイの気質も、そもそもの考え方も、教育全体も揺らぐようなことなのではないか。
それほどに大きいもので、それはあり得ることで
あっていいことなのか。


じゃあ、ガイドブックを作ろうとしている私の目的はどうなるんだろう。
作り終えて、実際にそばにいて試してみるだけの時間もなく、
私はすでに日本にいる身となるのに、中途半端すぎやしないか。
互いにいやな思いをするだけのその火種になって、終わるのじゃないか
そうしてまで、作るものなのか。
それよりも、日々の活動で子どもたちが笑っている活動をやってみせる方が
よほど、目で見てもわかりやすく、同時に子どもたちにも利益があることじゃないか。


いろいろ考えた。
ショックな頭で、じっと考えた。
    



「日本とタイのやり方には違いがある。
 違いがあるのは当たり前。
 日本人としてここにいる意味は違う考え方を伝えるため。
 自分たちのやり方で成果や結果も出してきた先生達に、他のやり方もあるんだよと伝えるため。
 頑張って作ってもほとんど読まれないかもしれない。
 使われないで本棚にあるかもしれない。
 保護者は先生絶対だから、先生の前ではやらないかもしれないけれど
 家ではやってくれるかもしれない。先生のいないとこではやってくれるかもしれない。」


「全然知らない遠くの人間がこのセンターを見もしないで言っている言葉ではなく、
 まがりなりとも、ここで1年以上をともに過ごしたさちえがみんなに伝えたいこと
 さちえが書いたガイドブック。
 ならば、さちえと関わっている先生達、保護者たちはきっと読むと思う。
 見も知らぬ他人からの言葉では伝わらないことが伝わるかもしれない」

これは、同じ養護の他国隊員、そして、最近来てくれた隊員友達が言ってくれた言葉。



常日頃から、私がいることで日本人とタイ人という間柄での影響は、
ここで確かにあるが、
教育的な価値観への関わりとなると、ほとんど影響力を持たないと感じている。
そんなものなのだ、とも思う。
人一人派遣されたところで変わるくらいなら
国同士の諍いも、国同士の違いも、国同士の個性も何もないってことだ


影響力、成果、
そこにとらわれると、このガイドブックも意味を持たなくなっていくが
こんなやり方もあるんだよ、と伝えるだけのことでもしておこうか。
私の争わないやりかたは、強くは意見を通すことができなかったけれど、
同時に嫌われることはなかった。
だから、そんなさちえが言っていること、見も知らぬ他の人が言う言葉よりは
きっと関心をもってくれると信じる。
無駄だと思った時点で本物の無駄になる。


変わらないだろう、彼らの文化、価値観、考え方。
けれど私のやることは徒労かというと、私にとっては価値があった。
根こそぎ揺さぶられる価値観、持って行かれる信じたもの。
そこからまた探す作業。
そんな経験をしてこられた。

    

もう一頑張り。
子どもたちは目の前にいるし、
大好きな先生達も目の前にいる。




パニック

2012年01月27日 13時06分32秒 | コンケン 第9特別教育センター

自閉症の子は時にパニックを起こす。
感情が爆発し、泣き出したり、かんしゃくを起こしたりする。
当然周囲は困惑する。
周囲から見ると急にそうなるように見えるが、実は本人にしたら
がんばってがんばってがんばってどうにもならず、その結果のこと。
決して理由のない突然のパニックではない。
そして、誤解されることが多いが、キレやすいわけでも、かんしゃくもちでもない。


変化についていくのが困難であったり、視覚や触覚が過敏であったりするため、
それほど不安がる必要がない出来事や状況でも、強い不安や緊張を感じるのだ。
そして、その不安をコントロールする力が乏しく、
自分の思いを伝える術をもたないことも多いため、パニックになりやすい。


パニックが強くなると、自傷行為に至ることがある。
自分の頭を叩いたり、頭や体を壁に打ちつけたり。
強いストレスにより、自分の体を痛めつけることでストレスから
逃げようとしている行為だ。
自傷行為に出たときには、それほどに強いストレスがあるのだと理解すべきだし、
自傷行為は子どもの最終手段、そこに至るほどのストレスを与える環境に
大きな問題があるととらえなくてはならない。
自閉症の子どもにとって強い不安を引き起こされるような原因を作らない、
生きるためのいろんなことを気持ちよく体得していける環境を整える、
それが自閉症の子どもを見守る教師の役目の一つであると思う。
    


パニックを起こしたときには、それをすぐに静めようしても逆効果。
ある程度気持ちを発散させることも必要なので、
子どもに危険のないように周囲のものを取り払うなどして、しばらく見守る。
自傷行為に出ても無理にやめさせるのはますますストレスになるので
壁にクッションを当てるなどして、けがをさせないように注意する。
そしてパニックが収まりかけたとき、子どもが気に入っているもの
おもちゃであったり、分厚い本であったり、
それらをそっと置いて気分を変えられるように手助けする。




それが自閉症を知る教師には当然の共通理解だと思っていた。
しかし、ここでは
パニックを起こした子どもを先生達が即座に押さえつける。
男の先生達が総動員になる、暴れれば時に馬乗りになる、
ビニールシートで体を包み拘束する、しかりつけながら。
自傷行為が出たら、できないようにガムテープで手を巻く。
先生達は子どもたちを愛し、かわいがっているが、パニックへの対処の考え方が違うのだ。

保護者の目の前で行われるこのような光景は、保護者も認めていて
教師たちはこの一連の対処が終わると、ああ大変だったねという様子で
一仕事終えた、教師としての仕事を今やった、という様子がうかがえる。


このやり方は危険だ。
その場は収まったように見えても、子どもにとってはどうにもならない苦しみを
助長され、恐怖心が植え付けられることによっての、一時的な収まりでしかない。
消化されないものは根深く残り、次第に二次障害を引き起こす。


日本では、生徒がパニックを起こしてしまったら、
私の関わり方が悪かった、そうならなくていい環境を作ってあげられなかったと
教師の自分の力量のなさに落ち込んでいたものだったが、
ここでは、そういう考えは皆無。



今日、パニックを起こしかけている子どもがいた。
それでも集団一斉学習が続くので、
きっとこの環境のどこかにこの子の緊張になるものがあるはず、
ならば別の部屋に連れて行って落ち着かせた方がいいのではないかと
そうしようと思って近づいた私に、子どもが髪の毛をつかんできて、顔をひっかいた。
もちろん悪意はかけらもなく、この場から逃げたい言葉のない訴えだ。
    


それにより、子どもは激しくしかられてますますパニックになる。
私の「マイペンライ マイトンドゥ」(大丈夫だから、しかる必要はないから)
の言葉は誰にも届かない。
激しく叫び泣く子どもに、また先生達の押さえつけが始まるのかと
沈痛な面持ちでいたら、この保護者が今日は最もいい手段をとった。
別室に連れて行き、子どもを一人にした。
一見放置している冷たいやりかたのように見えるかもしれない、
優しく声かけして泣き止ませてあげたら、と思う人もいるかもしれないが、
パニックの最中の子どもに対して余計な声かけはパニックをますますあおる。


その部屋にある椅子をすべて外に出して、安全処置までしてやれたらと思ったけれど、
部屋の中には私は入らせてもらえない。
しかし、一人にし周囲が関わらないという方法を今日とっただけでも嬉しいこと。
いいことだ。 
部屋の中でひざをたたき、頭を叩き、どうしようもない気持ちを表す子ども。
泣いている本人にしたらとても苦しい、どうしていいかわからないのだ。


子どもが一人で部屋にいて、自分の感情が収まるまで泣いている。

先生達がパニックを力で押さえるのが、これまでいつもつらかった。
先生達一人一人は子どもをかわいがり、一緒になって遊ぶ先生だっている。
だけど、パニック起こした子どもには威圧的に押さえ込む。
その光景を見るとき、どんなことよりもつらかった。
これまで子どもがパニックになり先生達が子どもを押さえつける時、
決して私はそれには加わらない、
それは正しいと思わないという意思を、離れたところからでじっと見つめ示す
それが精一杯でやってきた。


もちろん先生達はそんな私の思いに気づいている。
だから、いつもそのあと私に説明をする。
「こうするように医者もいっているの。こうすると収まるの。教師のテクニックよ。」

思いを伝えたことはある、だが私のいうことは最後まで聞いてもらえない。
ここではここのやり方があり、先生達が教師としてのプライドをもちやっている。
先生達の能力も知識も高く、だからこそみな誇りも高い。
私が意固地になって言えば、先生達もムキになり
衝突するだけで、結局子どもは救われない、
人数では多勢に無勢、私のもっている言葉は足りない。
どうしたらいいだろうと、どうやったら伝わるだろうと、
こどもの泣き叫ぶ声を聞きながら、これまでそんなときが一番苦しかった。


今日のやり方はいい。
保護者にも、先生にも、
「こういうときは一人でいさせるのがいい、これはいいと思います。」
と、今日のやり方を賛美する気持ちを伝える。


パニックが収まりかけたとき、子どもに少し近づこうとする私を先生達は制する。
「さちえ、だめ、近づいちゃ。一人でいさせて。
 うるさい音も人がいっぱいいるのも嫌いなのよ。」

この言葉には心から大賛成だ。
だが、私にはそういうことが分かっていないと見なされているのか
近づかせてもらえないことに戸惑う。
そして、そういう先生たちが
この子のすぐそばで大きな声でおしゃべりをし、お菓子を食べ
静かな環境を与えない、このあきらかな矛盾に
どこまで気づいているのだろうと思う。
    

このセンターの先生達はこれまで様々な機会に
障害児教育の研修を受けてきているため、知識はある。
私の伝えようとすることも、すでに知識として知っている。
能力も高い。
タイの価値観の中で、実際になされていない、やり方として選んでいないだけ。


タイの先生至上主義、指導主義の考え方によるものなのか。
タイ社会の中での先生という立場のプライドが謙虚さをうばうのか。
突き詰めて考えない「マイペンライ」精神があるからか。
これだけの知識も能力もある教師集団であり、
尊敬するところが多々あり、個人個人は大好きな先生達だ。
だが、パニックへの考え方、対処の仕方だけは
どうしても、私が相容れることができなかったところ。


育っていくタイの子どもたちは確かに明るく、日本の子どもよりも力強い。
どっちが正しい、どっちが間違っているなど、ないのかもしれない、とも思う。



変える、伝える、技術移転をする、そう意気込んで協力隊として任国に来たけれど、
ここで暮らし、時間を重ね、
タイの人たちが創ってきた文化、教育のあり方、考え方は尊重すべきものだと思うようになった。


今は全てをと言いたいほど、タイを尊敬している。
そんな私が、今も、任期の最後まで疑念を抱き、苦しく思い、伝えあえたいと思っていたこと。
そのままを受け入れることはできなかたこと。
パニックを起こした子どもに対しての関わり方。



それとも、
私の考えはタイの人たちが作ってきたものを侮辱してしまうものなのだろうか。
子どもの泣き声に身を固くして、考える。


役割と責任

2012年01月26日 23時57分18秒 | コンケン 第9特別教育センター
日本に帰国中、センターの人と連絡を取りたかったが、
急な帰国だったので連絡先を聞いていた人は少なく、
日本で、もっとはやく聞いておけばよかった、と後悔していた。

だから、反省を生かして聞けるときに聞いておこうと、
先生や保護者に住所や本名(ニックネームで呼びあうため本名を知らない)
連絡先を書いてもらった。

      


書いてもらっていて気づく。
コンケンの特別教育センターであり、
このようなセンターがタイにはほぼ全県にあると認識しているのだが、
コンケン内の遠くの郡、またはコンケン以外の遠くの県から来ている人がかなりいる。
      


だから、センターには保護者と子どもが泊まれる宿泊所があり、
平日はそこに泊まって、土日は実家に帰っていく。
宿泊所は入ったことがあるが、ぎちぎちに詰め込まれている感じ。
      


遠くから来ている人もいるんだろうな、というくらいにしか思っていなかったけど、
書いてもらって、地名を見て本当に遠くから来ているのだと驚いた。

地理勘も出てきていて、知っている地名も増えて、距離感も分かるようになっている
今だから、感じられるのかもしれないが、
これまで実感がなかったことを恥ずかしく思う。


あるお母さんが書いた住所、「ナコンラーチャシマー」は、
同じイサーン(東北)だが、コンケンから3時間はかかる。


こうやって遠くからこのセンターにやってきて、
家族と離れて、お母さんと子どもはセンター内の宿泊所で毎日を過ごす。
他にも兄弟がいるけれど、この子につきそっている母さんだっている。
障害のあるこの子どものために、我が子の教育のために、我が子の成長を願って。
      


そう考えたとき、そういう親子の思いに、
少なからず強いている 家族が離ればなれで暮らすという犠牲に、
見合ったものがセンターからは与えられているのか、
私にはその一助ができているのかと、考えた。


これまで、どこかこの人たちを所詮「サバ―イサバーイ」(快適)の
のんびり穏やかな、あまり深く考えない人たちだと、
私もそれに習っていたところがあった。

でも、こういう親子がたくさんいるのだ。
宿泊所にはぎゅうぎゅうに詰め込まれて寝泊まりしている。
そうやってでも、このセンターにきて、与えられようとしているのだ。
      


このセンターのもつ役割と責任、
私がここにいる役割と責任も、
ずっしりと重いものなのだと、これまでを振り返り
痛いような気持ちで考えた今日。
     

食堂

2012年01月25日 23時56分23秒 | コンケン 第9特別教育センター
朝からまるごとの鶏をぶったぎっている食堂のおばちゃんたち。
    

大量の鶏肉。 
こんなの見る機会はそうそうあるものでもない。
うーん、圧巻。
     


鳥の脂とニンニクで炊いた香りのよいごはんの上に、
蒸した鳥ときゅうりをのせ、甘辛いソースをかけて食べる カオマンガイ。
    
タイの屋台でならどこでも見かける料理。
鳥がぶら下がっているところならどこでもカオマンガイがある。
カオマンガイは日本人に人気のメニューで、
私の前任者たちもすごく好きだったのよ、とカオマンガイのたびに
食堂のおばちゃんたちは私に言う。



タイ中どこにでもあるカオマンガイだけど、私は
この食堂のカオマンガイが一番おいしいと思う。
ネギとパクチーをたくさんのせて食べる。
タイ一、アロイ と思う。

      




食堂のおばちゃんたちは毎日大量の料理を作る。
子どもたちの給食費は無料。 大人も無料。
遠方から来る子どもと保護者は宿舎に泊まるが、
その場合は夕食も食堂で無料で食べることができる。

タイには13の特別教育センターがあり、中でもコンケンのこのセンターは
東北部を管轄する大きなセンター。
子どもたちの数も、先生の数も多く、設備も優れている。


食堂で出される料理はきっとかなり美味しいものだと思う。
ごはん、おかず、スープ、果物もしくは甘いデザート。
大人たちはそれにもう一つおかずがつく。
果物は買ってきたり、旬の時期には職員の家にも果物が実るので職員が持って来たり。 どっさりのパパイヤもみんなで食べる。
      

甘いデザートだって、食堂のおばちゃんたちが作る。
ココナッツミルクと氷の入った甘いデザートは子どもたちも私もお気に入り。
      


食べ終えると、自分の食器は自分で洗う。
汚れを落とす場所、洗剤をつける場所、すすぐ場所 と3つに別れていて機能的。
食器はお日さまの下にほすと、すぐに乾く。これも機能的。
どうして日本は室内に食器を干すのかなあ・・・と不思議にさえなってくる。
    



食堂のリーダー、ピーオンが今日も大量のタイ料理を作る。
それをのぞき込む私に
「さちえ、気をつけなさい。やけどするから。」
と、しきりに言うので、
なにげなくふとピーオンの腕を見ると、たくさんのやけどのあとが。
    

「ここにもここにも、ほらここにも。」
とピーオンが見せていると、ほかのおばちゃんたちも
「ほら、私もこことここと、ここに。」
とみんな見せてくれる。
思わず、
「ナアソンサーン!!」(かわいそう!!!)
と言うと、みんなはゲラゲラ笑って まるでこんなの当然のこと、という感じでいる。
    


この食堂のおばちゃんたちは、やけどをしながら毎日大量の料理を作る。
やけどするのも仕事のうちだとでも言うように、やけどしたことをしのごの言わない。
ジリジリッと皮膚が焼けても、食事を作る方を優先するのだという。
だから、きっとすぐには冷やさずに、冷やす間もないのだろうけれど、
みんなの食事を作り終えてから手当てするのだろう。

プロの仕事だと思った。
おばちゃんたちのやけどのあとが、名誉の勲章だと思って、そう言いたいけれど、
そういうタイ語が出てこないので
「これはメダルと同じ!」「これは賞状と同じ!」
とやけどあとをさしながらしつこく言う。
クスクス笑いながら、いつも私の言うことを理解してくれるおばちゃんたちだから、
きっと私が言いたいことは伝わっている。
そのあと、ちょっと照れたように「さちえはもう」と言っていたから。



恵まれている第9特別教育センター。
ここに来れない人たちの方がきっと、多くの人数を占めるのだろうけれど、
食堂を見ても、本気のタイがもつ力はすごいと思う。
政府の出すお金、そこで働く人たちのプロ意識、もつものの豊かさ。
サバーイサバーイ(快適・楽)が基本のタイ人たちだけど、本気を出したらすごいのだ。

こんなプロの人たちに毎日毎日美味しい食事を作ってもらい、
子どもたちはすくすくと育っている。
    




モンゴル隊員 踊る

2012年01月24日 05時29分09秒 | 青年海外協力隊たちの活動

モンゴルから同期の隊員仲間がやってきた。
韓国で乗り換え、飛行機で9時間。
さらにバスで長い時間をかけて。
-27℃の世界から、23℃のタイへ。
気温差 50℃。
     





一人は保健師、一人は幼児教育の2人。
私の配属先第9特別教育センターにぜひ来たいと言って
遠路はるばる来てくれたありがたい友達。
それならば、ぜひ何かやってもらえないかお願いしたら、
モンゴルのダンスを見せようと、衣装も音楽も準備してきてくれた。


朝の集会で、モンゴルのダンスを披露。
前々から友達がモンゴルから来ること、モンゴルの踊りを見せてくれることを
伝えていたため、楽しみにしてくれている人もいた。

上半身はモンゴルの民族衣装のハンターズ、その下には日本のTシャツ、
下半身はタイシルクの伝統衣装のスカートをはいて、
インターナショナルファミリーな格好で、モンゴルの踊りを踊る。
     


タイの手先までも優雅なラムタイと違い、ゆるやかで激しい緩急のある踊り。
激しい寒さと暑さの二極性のモンゴルの気候、そして
そこで培われたモンゴルの人々の気性を表しているように感じる。
タイの人たちも釘付け。
     


もともと受け入れ体勢のよいタイの人々ではあるけれど、
ハンターズというモンゴルの衣装の美しさは、
美しいものを愛するタイの人たちのセンスにぴったりきたよう。
     


子どもたちは人なつこく笑う。
     






自閉症クラスにも入る。
見学者には慣れているセンターの先生達だけど、それでも
普段よりも気合いが入っているのが分かる。
     


幼児教育の隊員が「ミッキーマウスダンス」を踊るという活動をやってくれた。
音楽に合わせて子どもも大人も、2人の真似をして踊る。
これが、大うけ。
音楽はコミカルで楽しく、踊りが好きな人たちでもあり、
笑いながら、はしゃぎながら、熱気むんむんのダンスに。
     


ハンターズのきらきら光る衣装が気に入ったのか、
ダンス中の2人に近づいてにこにこと見つめる子。
     


途中「ギャッギャッギャ」という音楽になるとみんな大うけ。
その音が気になって音楽元を確かめに来る子。
     


わあわあ騒ぎながら、それぞれが楽しんだ時間。
言葉も全く通じないモンゴル隊員たちが、
言葉を媒介せずとも、歩み寄ろうとする気持ちと音楽で
ともに楽しみを共有できるのだと見せてくれた。




「ああー、楽しかった-。」
と口々にいいながら、ふうふう息を切らして休憩するお母さんたち。
誰かが気づく。
「あれ、そういえば、クーサーイはラムタイ(タイダンス)は踊れないの?」
「モンゴルに行ってた友達がモンゴルダンスを踊れるようになってるなら
 クーサーイはラムタイが踊れなきゃでしょ!」
鋭く突っ込みだした。
そこでにわかのラムタイ教室。
「こうやって、こうやって、指をそらして、もう一方の手は反対にして。」
「こう?こうかな?」
     

手ほどきを受けていたけれど、「きー! 指がつっちゃう!」
     

つりそうな指にひいひい言いながらやっていると
お母さんたちが大うけ。
今日は大うけまくり。
     


配属先のセンター内を見学しても、先生達の授業の様子を見ても、
設備の充実ぶり、先生達の自信たっぷりの堂々たるところ、
子どもたちを一人一人見た授業が成り立っているところに
驚き、感心しきりのモンゴル隊員たち。
     










3日をコンケンで過ごし、朝は2日ともサイバーツ(喜捨)をした。
私にもハンターズを作ってきてくれて大感激。
ハンターズはオーダーメイドで作るのだそうだ。
上はモンゴル衣装、下はタイ衣装、
そして、あいさつはワーイ(タイのあいさつ、合掌)。
      


このインターナショナルないでたちで、
朝日が昇るころに、僧侶がやってくるのを待つ。
     


タイは95%が仏教徒。それも大変敬虔な仏教徒が多数。
モンゴルも仏教が多く、チベット仏教を信仰しているという。
2人と一緒に、いつものナムプリック屋の前でサイバーツする。
    

    

  


僧侶もびっくりしたことだろう。
僧侶は笑ってはいけない、怒ってもいけない。
ただ「いる」だけなのだという。
心なしか、いつも見せない笑顔、いや、びっくりした笑いが見えるような・・・。
     


浴衣で待っていたり、赤ちゃんも一緒だったり、
まあ-、この日本人はいつも変わったことばかりする、なんて思われているのかな。
      (→ 過去ブログ 「タイの家族と初詣」   「ピーマイ行事」


いつものソイローポーショーをこんな目立つ格好で歩き、
いつもの屋台の人たちのところへ行くと、
「スーワイスーワイ!」とほめてくれる。
    


ナムプリック屋さんでもそうだが、
「スカートがきれい! 選ぶのが上手!」
「今日はなんてきれいなの! すてき!」
と、とにかくほめてくれるタイの人たちに、モンゴル隊員はびっくり。

タイ料理の種類の多さとおいしさにもびっくり。
私も張り切ってあれこれ食べさせたが、2人も本当によく食べてくれた。
    


常々、食文化は日本よりも断然豊かであると思うタイ。
1年中米がとれ、あたりにはバナナの木があり、外で寝ても死ぬことはない
食糧不安も寒さの恐ろしさもない。
島国、かつ四季のある日本にはない、のんびりとした命をつなぎ方をする国。

モンゴルでは1年のうち9ヶ月が冬で、最低気温は50度にも及ぶため、
野菜が育たない。
食事は肉が中心となり、バラエティも少ないという。
協力隊の行く国のほとんどすべてがなんらか食の問題があるものだが、
それがない、とにかく何でもかんでもおいしいというタイは
やはり、特別な国だと思う。
屋台でもこれだけの数がどこにでもあるというのは特別としか言いようがない。
    


私をいつも大切にかわいがってくれるナムプリック屋のお父さんお母さんも
モンゴルから友達が来るのを楽しみにしてくれていて
心からもてなしてくれる。
イサーン料理のフルコースを作ってくれたり、ラッキーの曲芸を見せてくれたり。
    


モンゴルにはないふんだんな果物をむいて食べさせてくれる。
      



2人も一緒にけん玉をしたり、フラフープをしたり。
     


モンゴルの踊りを披露すると、お母さんが喜んで一緒に踊る。
タイ人って大人も子どももお年寄りも、
音楽がかかると踊らずにいられないほどに、みんなが踊りが好き。
お母さんもモンゴルダンスを真似して踊る、その姿がかわいい。
言葉は違っても、一緒に楽しさを共有している。
    


タイの人たちに見せようと、モンゴルの風景や人々の写真のデータも
持って来てくれた。
写真を見ながら、全く別世界の雪景色、草原の景色、食生活
ヤギの血を一滴も大地に垂らさぬよう解体する技術、
ゲルと呼ばれる移動式の家、
部屋の中を彩る美しい色彩の刺繍
その暮らしぶりに興味津々で、
「これはなに?これは?」と質問がとまらないお母さんたち。
     


2人が持って来てくれたおみやげ。
かわいいゲル(移動式の家)型の箱に入ったチョコレート。
そして、モンゴルの乾燥チーズ。
「くせがあって、匂いがきついから食べられない人もけっこういる。」
と前置きするチーズだったが、私には甘くて酸っぱいこのチーズがとても美味しいと感じた。
    


けれど、お父さんは口に入れたとたんに泣きそうになり、出してしまった。
お母さんは匂いをかいだ時点から、「私は食べられない。」と断固として拒否。
2人とも私が日本食を作っていると口にする前から「アローイ!(おいしい)」を連発すような
相手にとても気を遣う人であるにもかかわらず。
よっぽどのことであったに違いない。
もともと、チーズ文化のないタイでもあり、輪をましてこの匂いには。
     

甥っ子のジアップは、すぐに飲み下せるように水を片手にもってトライしてみるものの
口に入れるとやっぱりダメ。
飲み込めない。
     
うーん、私はおいしいと思うのだけど、2人は
「モンゴル隊員でも食べられない人がけっこういる。」
と言うくらいだからくせが強いものなのだろう。
お母さんが
「さちえは食べられるの? さちえは嫌いな物が全然ない!」とびっくりして言う。
私はいい意味で、敏感じゃないのかもしれない。


モンゴルのミルクティーという塩味のきいたミルクティーもおいしくいただく。
お母さんたちは、チョコレートならば
「アロイアロイ」とやっと口にすることができた。
世界中、チョコレートならば多少の味の違いはあっても、大きく外すことがないなと思う。
どの国でもチョコレートの土産があるのは、大きく外さないからか。
     



乾季で涼しいとはいえ、モンゴルと比べれば気温差は50度。
暑さに参っていたモンゴル隊員だけど、タイの美味しい食べものには
好奇心旺盛、食欲旺盛で、モリモリと食べてくれ、
そのためか暑くてもなんとかバテずにすんでいた。


ソンテウを初めて自分たちで止めて、身振り手振りで支払いもする。
優しいタイ人たちから見守られながら。
     


モンゴルにもこういう乗り物はあるの?ときいたら
「あるわけないじゃない!死んでしまう!」
たしかにそうだ。
時には気温マイナス50度にも達する寒さがあるのだから。
ついつい、自分のいる世界が基準となり、それが全世界のような気持ちに
なってしまっていると気づいた。
    


コミュニケーション上手な友達は、すっかり近所の人からも気に入られ、
近くの商店のおじちゃんは、友達の写真をこんな風に加工して
たくさんたくさんプレゼントしてくれた。
「おもしろいだろう? iPad。 アメリカニュース」といって嬉しそうなおじちゃん。
腹がよじれるほどに、笑った。
      



2人がタイに来て驚いたこと。
  食べ物がどれもこれもおいしいこと。
  種類がとんでもなく多くとてもじゃないが食べ尽くせないこと。
    (モンゴルでは1週間あればひととおりのメニューは出尽くしてしまう)
  人が優しいこと。
  みなが微笑むこと。 
  よくほめること。
  治安が(モンゴルに比べて)とてもよいこと。 スリに遭わないこと。
 
果物も、食べものも、残そうとせずしっかりと食べた2人。
買い物から帰ってきて、うれしそうにチューブのたまご豆腐を取り出し
「食べたかったの。」と、
チュウチュウすすっておいしそうにしているではないか。



心に残ったこと
  私の配属先センター
  ナムプリック屋のお父さん、お母さん、ジアップの見返りを求めない優しさ。


お母さんに初めて会ったのは朝のサイバーツ(喜捨)。
その時のお母さんの言葉。
「一緒にサイバーツできて嬉しい。初めて会ったけど、一緒にサイバーツしたから
 また必ず会えるのよ。」
こんなことがさらりと言えてしまうお母さんの人間性、心のあり方に
友達は驚き、感動したのだという。
    

敬虔な仏教徒であり、微笑みの国の人々であり、優しいタイ人たち。
確かにそうなのだが、それは大まかなイメージであって、人それぞれの個性も性格もある。
ナムプリック屋のお父さんやお母さんたちのように優しくて、
思いやりがあるのが当たり前のタイ人というわけではなく、特別な人たちだと思う。
       


お母さんたちを見ていても、近所の人たちを見ていても
そのお母さんたちに踊りや写真を見せ、
身振り手振りとカタコトの英語で接するモンゴル隊員を見ていてもまた思うことがある。
言語が違っても、近づきたい知り合いたいという気持ち次第でどんなにだって近づけるし
反対にその気持ちがないもの同士は、最初から相手をシャットアウトした状態で、
それ以上近づくことも知ることも、楽しさを共有しあうこともできない
異世界のもの同士で終わってしまう。
まったく距離は遠いままなのだと。


人と人との距離は、
その人が今いる場所によるものでも、言語の隔たりによるものでもない。


相手に向ける関心や、思いの強さ次第で、
場所や言語は大きな意味を持たなくなる。
     


タイはすごい、タイ人はすごい、タイってすばらしいと言ってくれたモンゴル隊員は、
タイも好きになったけど、やっぱり
自分の暮らすモンゴルを恋しく思い、この旅でより考え、より好きになったのではないかと思う。
離れてみて分かることや、比べてみてわかること、痛感することがある。



私も、モンゴル隊員からは刺激をもらった。
タイでの当たり前と思っていたタイ人の優しさや、この近辺の治安にしても
食事にしても、全て当たり前のように思うようになっていた自分にもハッとした。


モンゴル隊員が帰ったあと、私の部屋にこっそり置かれていた一通の絵はがき。
そこには、お礼の言葉と一緒にこう書かれていた。
 「これまでにさっちーが関係を築きあげてきたタイの人たちと会えて
  その生活に入り込ませてもらって、嬉しかった。」


寒い国からタイにやってきて、私の任地にも来てくれた友達。
2010年4月、派遣前訓練をうけるために福島の二本松訓練所に入り
2ヶ月間をともに過ごした。
7月にそれぞれが任国に旅立ち、もう1年7ヶ月が過ぎた。
仲間みんなそれぞれに、いろんな出会いがあり喜びがあり苦しみがあり、
実りがあった時間。



ふりかえると、私のタイ生活。
家族、隊員仲間、同僚、たくさんの人たちが私の任地コンケンにも来てくれたが、 
彼女たちが私のタイでの生活、最後の訪問者になるだろうと思う。


現職参加の私の任期は1年9ヶ月。
一般の隊員よりも3ヶ月短く、一足先に日本に帰る。
彼女たちがいる間に、私もモンゴルに、彼女たちの暮らす任地に
日本から恩返ししに行けたらと思う。
     


私も、彼女たちの生活に入って 彼女たちの見るものを見てみたい。
    

お祭りでみた びっくりの数々

2012年01月23日 05時28分36秒 | 日記
タイのお祭りで びっくりのタイに出会う。


びっくり ナンバー1 壁を走るバイク 車

入場料40バーツ。(120円程度)。
階段を上っていくと、まるで巨大なタルのような場所。
完全手作り。
解体しては、各地のお祭りに 行商のようにいき、組み立てて
舞台設置をしているのだろう。
     


5メートル以上はありそうな巨大な樽の底にある車とバイク。
観客が取り囲んでじっとのぞき込んで待っている。
いつ始まるかわからない。
きっとお客さんがいっぱいになったら、なんとなく始まるんだろう。
     



いつ始まったかはっきりしないグダグタのスタートで、
ショーが始まると、オフロードバイクに乗った大人や、
小さなバイクに乗った子どもが、ブンブンエンジンをならして
ぐるぐると狭いタルの中をまわり、
次第に垂直の壁を走り出すじゃないか!!
   



爆音を鳴らし、だんだん、上まで上がってきて、
ついにはお客さんがいるギリギリまでやってくる!
す・・‥! すごい!!!
日本じゃ、危険すぎて絶対許可が下りそうもない!
アメージングタイランド!


こんな高さまで登ってきたのー??
どうやって練習したんだろう?
これまでに傷だらけになったんじゃなかろうか??
      


木の板はタイヤ痕だらけ。
     


ぜひ、動画で見てほしい!
      









びっくり ナンバー2  子どものバイク乗り。

日本でもゴーカートには子どもが乗れるけれど、
自由には運転できないように線路のようなものが車体の下に敷かれている。
安全第一。
しかし、タイのお祭りでは二輪車のバイクに小さな小さな子どもが
次々と乗って走り回る。
ヘルメットもなしに。
しかも、運転がうまい。 こわがっていない。
普段から、ノーヘルで原付の2人乗り3人乗り、
小さい子どもが運転するのもあたりまえのタイだから、
こんなのたいしたことじゃないみたい。











びっくり ナンバー3 みんな大好き ドラえもん。
タイ人はドラえもんが大好き。

あれ・・・・メリーゴーランド・・・。
楽しそうに子どもが乗っているけど
    

ん? ドナルド??
    

ん? ド・・・ ドラえもん???
愛嬌たっぷりのドラえもん。
    






そのほかにも、赤土もあらわな手作り感がそそる射撃場なんてのもある。
危険はないのかしらー??
    



びっくりいっぱい。 タイのお祭り。  アメージングタイランド。 



パノム・ルン遺跡

2012年01月22日 16時26分49秒 | 旅行


ずーーーーっと、ずーーーーっと行きたかったパノム・ルン遺跡。
イサーンの僻地、しかも山の上にあるため、
アユタヤやスコータイのように日本人には知られていない。
が、タイ人なら誰でも知っている タイ有数の遺跡。


タイにいるのだから、そういう日本人観光客ではいけないような
でも、タイとしては誇るべき遺跡、そういう場所には絶対に行っておきたい。
自分で目的地に行く経験もしたいし、タイ人の誇るべき場所を見ておきたい、
と思ってきた。
とても忙しくて、なかなか時間がとれないので、このまま行けなかったら後悔するに違いない、
と、奮い立たせて強硬手段、一日日帰りで行くことにした。


夜、コンケンを出発。ナコンラーチャシマーまで3時間のバス。
深夜1時ナコンラーチャシマー到着。 バスターミナルで朝を待つ。
早朝、7時にスリン行きのバスに乗り、約2時間半、バーンタコーで下車。

バイクタクシーに500バーツでパノムルン遺跡と、ムアンタム遺跡にいってもらう。
山道を30分ほど走る。
  


風の気持ちいい、景色もいい、旅行日和。
   


なーんにもない田舎道が気持ちいい。
  







●● パノム・ルン遺跡 ●●

「ブリーラム県の南、カンボジア国境近くの小高い死火山の上に立つ、パノムルン神殿の跡。
 カンボジアのアンコールワットと並んで、アンコール朝に立てられた重要な寺院。
 クメール語で「大きな丘」を意味するパノムルンの遺跡は、丘の上から周囲に広がる大平原を見下ろしている。」 
     『地球の歩き方 タイ』より
  


まず長さ160M、幅7Mの石畳の参道。
両側には蓮の花のつぼみをかたどった石灯が70基。
     


3頭のナーク(蛇神)に守られたテラス嬢の橋。
ここから急な石段を登ると、そこに神殿が。
   



標高383メートルの小高い死火山の上にそびえるクメール王国の神殿跡。
1988年に17年がかりの修復工事が終了。
荘厳ないでたちで、丘の上に立つ。
3~4月の満月の日には、神殿をまっすぐに貫く中央通路の両側に、
昇る太陽と満月が正対するように設計されている。
    

 
外壁は緻密なクメール様式の宗教装飾。
神殿の正面入り口には、「水上で眠るナーラーイ神」のレリーフ。
復元修理前に盗まれ、アメリカのシカゴ博物館で発見されたのを返還させたもの。
      


たて66M、横88Mの回廊に取り囲まれた神殿は、ピンクと白色の砂岩でできている。
    


ヒンドゥー教の神、シヴァの乗り物である牛像。
      
  

  

      

      

      

      
 
      

      

      
 


タイの農村の向こうには、おぼろげにカンボジアとの国境でもあるドンラック山脈が見える。
カンボジアはすぐそこ。
     









●● ムアン・タム遺跡公園 ●●

パノム・ルン遺跡のある死火山から5キロほど離れた場所にある。
10~11世紀の建立とされるヒンドゥー教寺院。
クメール様式の装飾が美しい。
    

    


120M×170Mのラテライトの塀に囲まれた遺跡の中央には、
U字型の人工池に囲まれた大型の塔が並ぶ。
     

    

      

      

     





イープン(日本)と名のつく タイのクレープ

2012年01月22日 13時56分21秒 | グルメ

   เครป ญี่ปุ่น クレープ・イープン

     
       

タイ風クレープはローティ。インド系のクレープ。(→ 過去ブログ 「ローティ」
もう一つ、クレープ・イープンというのがある。
「イープン」とは「日本」という意味。
だから、「クレープ・イープン」は、「日本風クレープ」ということになる。

まあ、確かにローティと違って、日本で見かけるクレープにそっくり。
だけど、クレープってそもそも日本のお菓子なんだろうか。

「ナム・タオフー・イープン」というのもあって、
「ナム・タオフー」は「豆乳」、「イープン」が「日本」だから、
「日本の豆乳」ってことになるけど、それ、日本の豆乳じゃないみたいだけど・・・
と思うものもあった。
タイ人に人気で行列ができる店だった。 (→ 過去ブログ 「行列のできる店 in チェンマイ」


私の部屋にある机。 これはโต๊ะญี่ปุ่น  「ト・イープン」
「日本の机」という。
そうなのか???
     


とこんな感じで、
タイでは「イープン」(日本)がつく、
けれども、ん??とひっかかるものがよくある。



さて、このクレープ・イープン。
見た目は日本でも食べるクレープみたいだけど、中の具材がちょっとおもしろい。
     


ずらりと並んだ瓶から好きな具材を2つ選んで入れてもらうのだが、
     


た~くさんのメニューがある。
カスタードクリーム、チョコクリーム、イチゴジャム、ブルーベリージャム、バナナ、
キウイソース、ハム、ソーセージ、カニかまぼこ、魚のそぼろ
     


そしてなんと、ナムプリックまである。タイ人はナムプリックが大好き。
 (→ 過去ブログ 「タイ人必須アイテムナムプリック」
見ていると、ナムプリックの売れ行きはかなりいい。
ナムプリックを頼む人がたくさん。
     

    
クレープにナムプリック? 
とは思いつつも、私もすっかりナムプリック好きなのでチャレンジ。
ナムプリックと、豚のそぼろを入れてもらう。
ソースはマヨネーズ。
     


どうなのかなと思って試してみたけど、こ・・これは アロイ~(おいしい)

食文化豊かなタイ人が好むものは、おいしくないわけがない。
そして、どんなものでもどん欲に取り入れ、自分たち流にしてしまう
タイ人って尊敬すべき人たちだと思う。

寒いからローティ屋さんが

2012年01月22日 01時44分13秒 | 日記
タイでは、あらゆる食べ物がお持ち帰りできる。 ラーメンだって、スープと麵を別々にサササットビニール袋に入れてくれるし、 食べ残したときにも、言えばすぐに袋に入れてくれる。 それを「サイトゥング」という。 イサーンにはとても寒い日がある。 すごく寒い日、ローティを買いに行くと、 (→ 過去ブログ 「ローティ」) おじちゃん自身がサイトゥングしていた。          おかしくて、おかしくて、声を上げて笑っていると、照れ笑いするおじちゃん。 でも、これは珍しい風景でもなくて、寒いとき、雨が降っているとき、 こうやって、自分自身をサイトゥングしているタイ人はちょくちょくいる。 ぼくもサイトゥングしたいのかな。 ローティのできあがりを待つ子も、頭をもじもじ。       かわいらしい、ひょうきんな、タイの人たち。        

膨らむ 膨らむ ケープムー

2012年01月21日 15時42分38秒 | タイ料理

   ケープムー
    



タイのいたるところで見かける、このお菓子。
揚げせんべいのような、揚げ(稲荷の皮)のような。
タイに来た人なら、名前ではぴんと来なくても、この写真を見れば、
ああ、あれか、と思うだろう。
どこででも見かける。
屋台にもよく袋詰めになったケープムーがひもでぶら下がっていて
お客さんが食べたければ紐を切っていただく。

このケープムー。
初めて食べたのが昨年の12月のこと。
先輩隊員とコンケンのお祭りに行ったときに、このケープムーを食べたことがないという私に
おいしいから食べてみて、と買ってくれた。
食べてびっくり。
サクサクカリカリとして、塩味で、まるでスナック菓子であとを引くおいしさ。

このケープムー。
何でできているかを聞いてまた驚く。
豚の皮の唐揚げなのだから。


ゆでて脂をとった豚の皮を、日に干して軽く乾かす。
それを細く切って、最初に取り除いた豚の脂、ナンプラー、化学調味料、
こしょうなどを混ぜた漬け汁に1時間つけこむ。
これを、油で5分揚げればできあがり。

その揚げる様がなんとも見事。
みるみるうちに膨らんで、とんでもないボリュームになる。

   
     



ひからびた豚の皮が、
なんじゃこりゃ! と言いたくなる変貌ぶり。
からみあった生き物みたいになっている。
     


食べ方は、そのままかじるのもよし。
味はシンプルな塩味。
一緒に売っている青唐辛子のナムプリック、プリッキーヌーにつけて食べるとさらにおいしい。
きりがないくらい食べてしまう。
ほかにも、カオニャオ(蒸したもち)と一緒に食べたり、
ソムタムに入れたソムタムケープムーも味が染みておいしいし、
スープに入れたり、野菜料理に使ったり、グイッティアオ(タイ風ラーメン)に入れたり、
とにかく幅広い。


まるでポテトチップスのようなケープムー。
日本人だったら、お菓子として食べるかビールのおつまみにでもするのが精一杯だろうが、
タイ人の発想力、食のバラエティは素晴らしい。

今やタイ中で見かけるケープムーだが、北タイの代表的名産品。
チェンマイやチェンライ帰りのタイ人はおみやげにどっさり買って帰る。
チェンマイバスターミナルにもどっさりと売っている。
      


タイでは、赤ちゃんの離乳食はバナナが一般的だが、
北タイでは、その次の段階ではたいていケープムーを与えるのだそうだ。
ここの子どもたちは、ケープムーとカオニャオ(蒸したもち米)を食べて大きくなっていくと言っても過言ではない。

かつての自給自足的な農村では、日常的な食生活は実に質素なものだったから
村人にとってはケープムーとカオニャオの組み合わせは、
ごちそうの部類に入るものだったらしい。

今もチェンマイでは出産後すぐの女性は、鶏肉や牛肉を食べてはいけないと言われているが、
ケープムーは食べてもよいのだそうだ。


という、タイ人大好きなケープムー。
膨らむ豚の皮、膨らむ食のバラエティ。
揚がる様子も見て頂きたいが、
揚げたてのケープムーを一度は食べてみるべき。
     


土地

2012年01月21日 01時36分01秒 | 日記
ブ、ブレーキがない!
配属先に行こうとしたら、私の自転車の左のブレーキがない。
誰かが倒して壊したのだろうか。
ブレーキのコードがぶっ飛んでぶらりとぶら下がっている。
スポークも折れちゃってるじゃないか。
      

タイヤの空気がないのはいつものこと。
だけど、ブレーキがないのは困るなあ。
こいでみるとシャカシャカと変な音がする。
がんばれ、私の自転車!
自転車の賞味期限は一足先に切れちゃったのか。
だけどプレーキはまだ1つ残ってる。
賞味期限がなんのその。
実質どうか? まだまだいける。








私を娘のようにかわいがってくれるナムプリック屋のお父さんとお母さんから、
今週は毎日夕ご飯を食べに来なさい、といわれ毎日毎日一緒に食べた一週間。
私もそれならば何かつくりたいと、一日おきに日本食を作った。
肉じゃが、親子丼、焼きそば。
どれも、唐辛子を隠し味に入れてちょっとピリッとさせてみた。
今週の一番のヒットは親子丼。
油も使わず、こんなにおいしいなんて、日本食はすごいねえと絶賛。
   


ラッキーもしょっちゅう日本食を食べて、最近では
「タイ料理は食べずに残すけど、日本食はおかわりする。
 ラッキーはもう、いつでも日本に行けるぞ、さちえ!」
とお父さんが喜んで言う。
はぐはぐはぐ 親子丼をおかわりして3杯食べたラッキー。
      


年をとったからもう料理はしないと言っていたお母さんが
毎日ごはんを作って待ってくれる。
あしたは「กล้วยบวชชี クルアイブアチー(バナナのココナッツ煮)を作るから!」
と、毎日明日のメニューを決めて、私が来て食べて
「セーーブセッブ!」(すごーーくおいしい!!)と言うのを楽しみにしてくれている。
      


お母さんは配属先に持って行きなさいと何やかやともたせてくれる。
配属先では食堂のおばちゃんからおかずをもたせてもらい、
それをもってナムプリック屋にいく。
果物屋のおばちゃんからは果物をもらい、またそれを持って配属先へ。
行った先々で、もらった経緯を話し、話しながら一緒に食べる。
もらったものには私を気にかけてくれる愛情が入っていて、
それを媒介としてみんなと話し、日に日に仲良くなれる。
まるで潤滑油のように私と周りの人たちを近づけてくれている。





昨日お母さんが言った。
「明日はトチの誕生日なの。」

お母さんの姪っ子の子どもであるトチは事情があって自分の両親とは暮らせない。
だけど、タイではそういう子はよくいて、こんな風に親戚と暮らしていたり、
おばあちゃんと暮らしていたりする。
日本は核家族化と、タイ人に比べてもともと他人との関わりが薄いためか、
親子の密着度が濃く、親の愛情が欠けるととたんに子どもは生活そのもの、
人格形成にも大きな影響を受けるように思う。
だけど、タイでは親と暮らせない子どもも、親以外の大人たちからかわいがられて、
これが当然というように育っていく。 
たくましく育っていく。


トチもナムプリック屋の従業員から学校にバイクで送り迎えされ、
ナムプリック屋で遊び、
従業員のみんなからかわいがられてたくましく育っている1人。



配属先から帰って、私の部屋で急いで描く。
「Happy Birth day とち」
小さな横断幕を店の前に貼る。
      


誕生日と聞いては、トチが喜ぶものをつくってあげたい!
子どもが喜ぶ食べ物と言えば・・・ ハンバーグ 、ポテトサラダ。
どちらもタイにはない、一般家庭の食卓ではまず見ないもので、トチも食べたことがない。
私も大好きなポテトサラダ。タイの人も好きかな?
できあがっても「どうやって食べるの?」と不思議そうに聞く人たち。
このまま食べるの。
      


子どもの定番、ハンバーグ。
パン粉がないのでお徳用パンの耳を買ってきてちぎってつかう。
タマネギは泣きながら切る。 
ぽろぽろ出る涙はお母さんに拭いてもらう。
親子丼は作り方が簡単で、お母さんも自分も作れる!と自信を持っていたけれど、
ハンバーグは
「難しくて、覚えられない!」とギブアップ。

話しかけられてもまともに答えられないほどに集中して、
50分で8個の巨大ハンバーグとポテトサラダを完成。
      


ハンバーグにポテトサラダに、お母さんが注文したステーキが並び、
店の前で店の職員もみんなでトチの誕生日パーティ。
      


たーくさんのプレゼントを渡されて
    


プレゼントの包装紙をバリバリ破いて
このときが一番ワクワクする時。
      


私からのプレゼントはトチにそっくりなプーさんのぬいぐるみ。
「トゥッカター!!(ぬいぐるみ)」と箱をのぞいて
喜んで大きな声で叫んでいたトチ。
     
 

ケーキを食べて誕生日パーティは終了。
     


帰り際にトチが
「じゃあね。」
と日本語で言った。
私が教えたことはない。
きっと、言いたいと思って自分で調べたのだろう。
寡黙で照れ屋でなかなか私とも話さないトチが言ってくれた「じゃあね」。
とてもとても嬉しかった。


トチの本当の名前は「プーミ」。
広い土地という意味。
バンコクのスワンナプーム空港も正しくは「スワンナプーミ」で
「広い土地」という意味が入っている。
日本語ではなんて言うの?とお母さんから聞かれ
「土地」と答えたら、その「トチ」という響きがかわいいとうけて、
それからみんなが「トチ トチ」とタイの名前そっちのけで呼ぶようになった。
本人も気に入っていて呼ばれるとニンマリする。


トチ。 
広いタイの土地のように、赤いイサーンの土地のように
雄々しく豊かに育て、トチ。
豊かにたくましく育て タイの子どもたち。

日本の緑茶はいかが?  

2012年01月21日 01時15分49秒 | コンケン 第9特別教育センター


ชาสีเขียว「チャーキアオ」


以前から、「チャーキアオが好きなのよ。チャーキアオはおいしいよねえ。」
と言われてきた。

ชา 「チャー」は「お茶」
สีเขียว「キアオ」は「緑」
緑茶という意味だ。


タイでは緑茶に砂糖が入って甘くなったものが、たくさん売られていて、
みんな、ジュース感覚で飲んでいる。


この間、ふと思いついて抹茶をミルクを試してみたが、
タイ人からすると「チャーキアオ」と思った味とはちょっと違ったみたいで、
戸惑う人、うん、おいしいとすぐに飲み干す人、様々だった。  (過去ブログ→2011.12.9「抹茶ミルクを試す」


抹茶をまた試してみたいと思っていたが、その前に普通の緑茶を、
飲みたい飲みたいとあんなに言ってくれている緑茶を、
作ってあげようと思う。

これまでに、カレーライスやお寿司を作ってみたけど、特に家族の来タイにあわせて手伝ってもらったお寿司は大好評。
今でも、「クーサーイのお母さんが作ってくれたお寿司はおいしかった。」
と言われる。  (→ 過去ブログ2010.12.8 「カレーライスいかがですか」 2011.4.5 「寿司作り大盛況」

緑茶も喜んでくれるといいのだけど。


カレーライスやお寿司の時は材料をそろえるところから、当日作るのも
勝手が違うタイの台所と食材事情で、てんやわんやしたが、
この緑茶は家族が持って来てくれた緑茶パックなので、簡単簡単。


食堂に持っていき、3人いる食堂のおばちゃんのリーダーのピーオンに見せる。
ピーオンは「わーお。緑茶好きなのよ~。」とよろこぶ。
       


センター長の息子、トノも日本が大好き。
「日本の茶道をやってみたーい!」と、緑茶から日本の文化に思いを馳せる
乙女チックなかわいらしいトノ。
      


水を入れるだけなので、給水タンクから水を入れようとすると
ピーオンが、
「さちえ!だめだめ!お湯を使いなさい!お茶がちゃんと出ないでしょう!」
と、お湯を沸かしてくれる。
さすが、食堂のリーダー。
味へのこだわりが強い。 
     


大きなペットボトルに、緑茶パックを入れ、お湯を注いでもらう。
全部、ピーオンがやってくれる。
      


「なにそれ?」とのぞきに来る人たちに
「チャーキアオジャーックイープン」(日本から持って来た緑茶だよ。)
と言うと、
「わお!」「本当に!?」
「ちょっとにおいをかがせて。 う~ん、いい匂い!」
と、反応がとてもいい。 くいつきがいい。
      



まずは、食堂のおばちゃんに飲んでもらう。
いつも優しくて、カレーライスを作ったときも完食してくれた大好きなピーマラー。
「アロイ アロイ」おいしい おいしい)
      


さあさあ、みなさん、飲んで飲んで。
たっぷり作った緑茶はたちまち売れ行き、
      


センター長も「アロイ」(おいしい)。
     


副センター長も、いつもやさしいピードンも、「アロイ」。
ピードンはふだん緑茶は飲まないのだけど、これは美味しいといって飲んでくれた。
     


タイで売っている緑茶は砂糖が入っているから、タイ人はみんな
砂糖入りの緑茶がいいのかと思っていたら、人によりけりで
砂糖は入れない「チャータマダー」(普通のお茶)がいいといって
そのまま飲む人もけっこういた。
これにはちょっとした驚き。
みんな甘いのが好きだと思ってたけど、偏見だったなあ。
一部を見て、全部と思っていちゃいけないな。


子どもたちも、どうぞどうぞ、飲んでみて。
       


「アロイマイカ?」(おいしいですか?)
「アロイカップ!」(おいしいです!)
       



今までの日本食づくりのなかで、一番喜ばれたのが巻き寿司づくり。
緑茶も負けず劣らず、みんなが飲みわけ、すぐに完売。
      


「ねえ、どうやって作ったの?」「なにこれ?においがする、いいにおいねえ。」
とお茶パックを興味深く見る人たち。
      



食事のよこに、みんなが緑茶を置いて、おしゃべりし楽しい昼ご飯。
      



食堂に来られなかった人のために、その後もう一回緑茶を作って
氷と砂糖とコップを持って午後、センターのあちこちを歩き
「チャーキアオ! チムチム!」(緑茶だよ!飲んでみて飲んでみて)
と渡り歩いて、夕方になった、あっという間の一日。