ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

マジックハンド

2011年11月30日 23時00分40秒 | コンケン 第9特別教育センター
時間がないとあせってガツガツしているので、
以前なら、ネタが尽きないように小出しにした方がいいのかな・・・
なんて考えることもあったけど、今はそんな余裕もなし。
そんなことしてたら、「やりたかったのにやれなかった!」で終わってしまうに違いない。
忘れっぽい性格で、思いついたときにやらないと忘れてしまうというのもあるし、
思いついたものを毎日即座に実行しないと。


日本からの持ち帰りグッズ、100円ショップのこれ。
マジックハンド。
取っ手を引くと、まるでロボットのようにガチャンガチャンといい音がして、
物をつかむことができる。
この音といい、ロボット的な形といい、子どもたちは好きに違いない。
これで、色とりどりのガムテープをつかむというのはどうだろう。
今日はこれを使った活動がしたいと提案してみよう。
     


自閉症クラスに行き、イー先生とオプ先生に見せる。
握力を上手に使う練習になるし、指示した色のガムテープをつかむことで
指示通りに行動する練習にもなる。
イー先生がのりのりで、すぐにマジックハンドで遊びだし、
「いいねえ、これ、とてもいい!」と賛同してくれた。
昨日の活動が、子どもたちもだけど、先生達も楽しかったことが
今日にいい影響を及ぼしている。
活動は楽しくなければ。先生も子どもも。
     



やり方は、
まず1枚の紙を選ぶ、すると色が付いている。
その色は何かを答えてから、同じ色のガムテープをつかみ、籠の中に落とす。
     


準備は整った。
         
 

オプ先生が
「クーサーイが今日も楽しい物を持って来てくれたよ。なんだろうね、なんだろうね。」
と、前もって盛り上げてくれる。
オプ先生は盛り上げ上手だ。
     


やり方を説明する。
      
思った通り、この  「ギー ガチャン」というロボット音と、
ロボットのような動きが、子どもたちの好奇心をあおって、みんな目を丸くしてみている。
「ウイーン ウイーン」と言いながら近づき、みんなの手をつかむと
怖がることもなく、声を上げて喜び、次の子が順番を待てずに手を差し出してくる。
最初のつかみは上々。
     
 

1人ずつ名前を呼ばれたら、みんなの前に出て、カードを1枚選ぶ。


出た色は何かな?
「シーファー」(青)
「シーカーオ」(白)
「シールアン」(黄色)
のどれかを言う。
     


そしてその色のガムテープをマジックハンドでつかむ。
なかなかこれが難しいのだ。
      

      
その子の発達段階に応じて、多少手を入れる。
手首を上手にひねったり、手に力を入れるのがまだ難しい子には、
取りやすいようにガムテープを立てて置いてやり、
すでに上手に手が使える子は何の手助けもなし。自分でがんばってもらう。


うーん、そのつかみ方じゃ、きっとガムテープは掴めないと思うよ~
輪の中にいれて-!
      


中には、ガムテープじゃなく自分の腕をつかんでみて遊んでみたり、
全てのガムテープをつかんでみたり、
指示されていない色に飛びついたり、
いろいろあるが、それらは私が隣でちょくちょくと制したり誘導したり。
みんな共通しているのは、とても楽しそうだということ。



この色だよ、この色。
このカードの色と同じガムテープをつかむんだよ。
    


そうそう、その色。
正解だよ、あってるよ。
      


イー先生も途中参戦して、後ろからつかみ方を教える。
     


やっぱり嬉しそうなは、上手につかめた時。
         


すごく上手な子は、両手のマジックハンドにも挑戦。
がんばれ、がんばれ~
     


    
終わってからも、まだ遊びたがるのはいい結果だと私は思っている。



お昼ごはんは今日もいつものお母さんの作ってきたイサーン料理。
このお母さんの子どもが、以前は私を遠巻きに見ていたのだけど、
このところ、くっついてくっついてくる。
食事前も、「クーサーイここに座って。」と隣に座らせようとし、
「クーサーイ こっちこっち。」と椅子を用意したり、
「魚の絵を描いて!」とリクエストしたり、手を握ってきたり。
どうも、昨日の風船や今日のマジックハンドがきいているようで、
「一緒に楽しいことをした」=「なんだかこの人好き」
ということになったのだろう。
楽しい時間を共有するのは、信頼関係を築くために最も重要だと思う。
だから、やっぱり、活動は楽しくないといけない。


ふと、中学校の合唱コンクールや体育祭を思い出した。
合唱の気持ちよさを分かち合ったり、授業でも笑いあったりした生徒たちとは、
楽しい時間を共有したことで、互いにぐんと近づいた気がしたものだった。


今日の料理の中には、こんな植物があった。
はて、これは・・・。
この花の部分をかじって食べるのだが、ものすごく苦い、
でも体にいいという。
苦い苦い、でも、おいしい。
    


ふと見ると、この子が、スプーンに鶏肉や丸めたカオニャオをのせて食べている。
ちらちら私を見ながら。
ふだん、この子やお母さんたちはカオニャオも鶏肉も手で食べる。
私がたまたまその時スプーンを使っていたので、私の真似をしていたのだ。
こっそりと。
かわいらしいこっそり真似っ子に吹き出してしまった。
     


今日の活動は楽しかった。
私が楽しかったということは、子どもたちも楽しかったということ。
まだまだ楽しいことは続かねば。

キッズバルーン 1

2011年11月29日 22時30分09秒 | コンケン 第9特別教育センター
日本から持って来た、これ。
子どもの頃に遊んだことのある、キッズバルーン。

ぶよぶよの粘着質のものをストロー先につけて息を吹き込んで作る。
息の入れ加減がけっこう難しいが、できたバルーンはまるでシャボン玉のようにしていながら
弾力があって割れず、子どもの時、不思議で楽しかった記憶がある。
     


配属先の子どもたちにも、遊びながら、いろんな学習、練習ができる。
最初は強く息を吹き出す練習、
そして、風船がふくらむのを目でとらえながら息の強さを加減する練習、
適度に弾力はあるけど強く触れば壊れちゃうので風船を持つのには優しく手加減する練習。
楽しく学習できると思って、朝の集会で自閉症クラスの先生に見せる。
反応は「ああ、これね。私も小さいときに遊んだ。」
その程度の反応でおわってしまった。

以前なら、これ以上言えずに黙ってひき下がり、またの機会を待つか、
午後の個別学習で個人的に学習に使うことを選んだが、
もう活動時間がないのだ。
またあとでと思っていたネタがあとになっても活躍できず眠ったままになっている
そういうネタがたくさんある。
このままネタを貯めこんで日本に帰る日が来ちゃう。


だから、クラスにあがって、もう一度言ってみる。
これを使えないか、だっていろんな練習ができるはず、
息を吹く、目で見てとらえる、目と手の供応動作、強くつかむと壊れるという経験。
私一人で午後の個別学習でやるのではなく、先生達と一緒にやりたいのだと。
2度目のチャレンジで、オプ先生が「いいね。」と言ってくれた。
オプ先生は、私のやり方をそのまま真似してくれたり、
さちえのやり方が好きと素直に言ってくれたりする、とても前向きで柔軟な先生。
            (→過去ブログ 2011.2.4 「驚くべき先生の変化」


ボールが大好きな子もいるから、きっと喜ぶよ、と言ってくれる。
      


オプ先生が、
「今日はサイエンスショーがあるよ、さて何だろうね、何だろうね。
 クーサーイがサイエンスバルーンを見せてくれるよ。」
と、前もって盛り上げてくれて、まずは私が作ってみせる。
その時の、子どもたちの顔。

私は、自分が作っている風船のふくらみを見ながら、その風船にあつまるみんなの視線も同時に見た。
この子たちが、一斉に一つのものを見ているのを見るのは初めてだった。
私が集中して見ている風船のふくらみを、子どもたちが集中して見ている、
それを風船越しに見たときの、何とも言えない一体感。

集中するのが難しかったり、話を聞いてないと注意をされたりする子たちだけど、
それは本人にとっておもしろくないからであって、
おもしろいもの、興味があるものならばこんなに一斉にじっと見つめて
視点を通わせ、集中できるのだ。
そういう楽しめるもの、集中できるものを、子どもたちの目線で与えられないのが
問題なのだと、自分の反省も含めて、子どもたちのこの集中度から感じる。


じわりじわりと息を吹いて、大きな風船を作ったときには歓声が上がったが、
一人の子が我慢できずに走り出てきて、手でつかみ、風船はあえなくぺしゃんこに。
こうやってつかむと壊れちゃうんだよね、という、これも勉強。


僕が僕がとやりたがる子どもたちを、順番に一人ずつ、みんなの前に出し、
風船を膨らませる。
最初は勢いがいるが、ふくらみ始めると優しく息を入れないといけない。
そのふき加減が難しくて、みな四苦八苦する。
       


口をすぼめてストローに息を入れるのが難しくて、唇から息が漏れっぱなしの子。
強く息が吹けない子。
それを励まして、息が漏れる唇を横から押さえて、手伝って、風船を作る。
     


最初はなかなか膨らまない。
      


ふくらみ始めたら、今度は優しく、優しく。
目で大きさをとらえながら、加減をするんだよ。
     


お母さんの助けも借りたり、
     


私がちょっと手伝ったり、
     
おお、こんなに膨らませて、上手上手!!



できた、やったー!
大小、さまざまの大きさの風船ができあがる。
      



     

できあがった風船を持つのは、そうっと壊れないように。
手加減もする練習になる。
作ったそばから、強く握りしめて壊してしまう子もたくさんいたが、
どの子も普段見ないような好奇心でらんらんとした顔をしていた。
風船を壊すことも楽しそうにして。
     


私も反省しないといけないところなのだが、
慣れていくとついつい大人の目線になってしまって抜け出せなくなったり、
頭が固くなったり、
子どもたちの目線に立つことが難しくなる。
このセンターでも、毎日先生達はエネルギッシュに子どもたちに活動を与えるが、
いつも子どもたちは楽しそうに見えなかった。
楽しいということは、学習の一番基本的な部分であるのに。



授業が終わっても、まだ作りたがる子どもたちと、時間が許す限り一緒に作った。
だんだん、上手になっていくのを見ると楽しい中で学習し、
体得したことを活かしていっているのが分かる。
すばらしい。
        


自分の風船を自慢して見せてくれるそのかわいらしいこと。
楽しく勉強したねえ。
     



自閉症クラスの2人の担任の先生に、「今日はありがとう。」
というと、2人ともびっくりした顔。
タイでは、先生同士が「ありがとう」とか「お疲れさま」とかほとんど言わないから。

私も作りたくなった、と子ども心に返って作ってみる先生達。
こういう時間もいいなと思う。
     



お昼ごはんを自閉症クラスで食べる。
クラスの床で広げられた料理。
     


このお母さんは、いつもたくさん食事を作って持って来てくれる。
ほぼ毎日、先生や、他の保護者、子どもたちにふるまう。
タイでは、持っている者が持っていない者にあげること、
できる人ができない人にしてあげること、そういう施しが至って当たり前。
もらう方も媚びたり卑屈になったりする様子があまりない。
当然のことなのだ。
なんだかいいなと思う。
私も呼ばれて一緒に食べるが、久しぶりにここでこうやって食べるなあとしみじみ。
久しぶりのカオニャオをもみもみ手で丸める。
     


鳥皮の唐揚げと、なすのナムプリック、魚のナムプリック、ゆでた菜の花、
揚げた魚、カオニャオ(蒸したもち米)、そしてパックワーン。
     


パックワーンはイサーン(東北)の料理だそうで、とても珍しくて
高価な料理なのだと教えてくれる。
この葉っぱが、山にあって、一年に一度しかとれないのだそうだ。
キノコたっぷり、葉っぱたっぷり、おいしいスープ。
    


お腹いっぱいになって休憩していると、副センター長から電話がかかる。
「さちえ、どこなの? ごはん食べたの?
 食堂にいるから、はやく食べに来なさい。今日はタイスキよ。」
食堂に現れない私を心配しての電話。
食堂に行って、もうすでにお腹いっぱいなことを説明すると、
センター長も副センター長も、ほかの先生達もほっと安心顔になる、
そして
「病気になったらどうするの!もっと食べなさい、ホラホラ!」
とすすめてくれる。


ホント、心配されている。
ありがたいな。うれしいな。
恩返し、いっぱいしなくっちゃ。







再スタートの一日

2011年11月28日 23時50分14秒 | コンケン 第9特別教育センター
久しぶりに配属先に行くので、ドキドキでほとんど眠れなかった昨夜。
まるで、夏休み明けの子どものように、行きたいような行きたくないような。
明け方まで眠れずに過ごしていたら、朝は寝坊。
早めに行こうと思っていたのに、それも叶わず、10分で用意してバタバタ出発。
お土産をどっさり担いで、日本人が自転車で行くものだから、
道行く人たちが珍しそうに私を見る。

配属先、第9特別教育センターに着く。
         

新学期を迎えすでにいくらかの様変わりがあったらしく
見たことのない子どもや保護者がたくさん。
その中でも顔見知りの保護者は私を見てびっくりし、喜びの表情を見せてくれた。
初めて会う子もタイ式の合掌、ワイであいさつしてくれる。
「サワッディーカー インディーティーダイルジャッカー」(こんにちは、はじめまして。)
     


出勤サインをタイ語で書くと、「タイ語忘れてないのね。」と嬉しそうな皆さん。


朝の集会で、あいさつ。
朝の歌とダンスはこの数ヶ月やっていなかったのに、体がちゃんと覚えていて、
子どもたちと一緒にやるのが気持ちいい。
少しずつ自分の緊張がほぐされているのが分かる。
          


そして、自閉症クラスへ。
知った顔の保護者は「クーサイーイ!!(さちえ先生)」と歓声をあげて喜んでくれて
子どもたちも、一気ににこにこ顔になり、駆け寄ってきてじっと顔をのぞき込む。
感情を上手に表現することは苦手な子たちが多いのに、満面のニコニコ笑顔で。
覚えていてくれたんだー、と涙が出ちゃいそう。


数ヶ月で、ほとんどの子が背が伸び、言葉がはっきりしていたり、
お母さんに以前には見せなかった反発をちょっとしてみせたり、
明らかに成長が見える。
毎日毎日、この子たちは一刻も休むことなく成長しているんだと改めて思う。
この子たちの成長の一助を、残り4ヶ月でどれだけできるだろう。

先生が話している間も、にこにこ嬉しいビームを送ってくる子。
以前、個別学習で毎日一緒に勉強していたプリ。
こんなに小さいけど、ちゃんと覚えていてくれたんだなー。 (→ 過去ブログ 2011.5.20 「感激したこと」  6.12 「好きが伝われば」  6.15 「ボールのやりとり」
         


保護者が言う。
「会えて嬉しい!この子がクーサーイはどこにいったの?と聞くから大変だったの。本当に、会えてうれしい。」
ほんと、涙が出ちゃう。


がんばって教室整備をしていたときの、名前つきファイルは、名残はあるものの
子どもたちの入れ替わりもあり、半分は名前も外れ、元の状態に。
 (→ 過去ブログ 2011.2.15 「環境整備から」  2.16「環境整備 その波は確かに広がって」  10.5「改名するタイ人」
これからまた名前を作って貼ってあげなくちゃ。
     


あらら??
片付けながら見ると、知らない子の名前が。
私がいない間に新しく子のクラスに入った子だろう。
私がいなくても、新しい子のために、名前カード作って貼り付けてくれていたんだ。
先生が作ったのか、保護者が作ったのか。
影響が確かに出ている、そう感じられてすごく嬉しい。
     


ちぎり絵もまだ窓に飾ってあり、時間が止まっているようでちょっと嬉しい。
     


おやつの時間には日本のお土産のお菓子をみんなで食べる。
黒糖あげもち。 
チョコは溶ける、せんべいは好まれない、
だけど、この甘さとサクサク感はきっとタイ人は好きに違いないと思って買ってきたけど、
おいしいおいしいと大ヒット。
私も、失敗を重ねながら学んで、タイ人の好みを体得したのだ。
     


あっというまにお昼になり、食堂へ。
どかんと炊きあがっているタイ米。山のように積まれたパイナップル。
    

どっさりと鍋で作られたトムヤムプラー(トムヤムの魚スープ)
      

大好きなものばかり。
さちえ、はやく食べなさい、さあ食べなさいと、大好きな食堂のおばちゃんが
私にたくさん食べさせようとする。ありがたいな。


いただきます!
タイ米、パックウンセン(春雨と野菜炒め)、トムヤムプラー(魚のトムヤムスープ)、パイン。
      


子どもたちが人なつこく、珍しげに近寄ってくる。
      


午後の個別学習を終えたら、午後3時。
新鮮な目線に立ち返ってものごとを見られた一日だったから、
子どもたちの支援や声かけにこういうものがあったらいいなとか、
こういう掲示物や指示グッズがあったらいいとか、作りたいものがアレコレ浮かぶ。

あっという間に時間が過ぎた。
サオ先生が私の部屋にやってきて、(→ 過去ブログ2011.10.31 「素晴らしい先生」
長いことおしゃべりする。
「帰ってきてくれて嬉しい。日本の話を聞かせて。
今度私の実家に連れて行くから。これから何かあったら何でも相談してね。」
嘘でも形だけでもなく、そういう人なのを知っているから、心底から言ってくれているのも分かる。
      


私の部屋は、カウンターパートで作業療法士のビュウ先生と同室。
ビュウ先生が日本の化粧品は何がいいのか教えてほしいと言う。
日本人は年をとらない、いつまでも若いからと。
そして、さあ食べて食べてと、マンゴーでできたお菓子をくれる。他にもたくさん。
果物、お菓子、たくさん食べろと、今日から早速のうれしい洗礼だ。
    


ビュウ先生におみやげの万華鏡を渡すと、
「スワイ スワイ!」(きれいきれい!)と喜んでくれた。
初めて見たのだという。
      


帰り道には牛が数頭。
    


そして、見慣れた道のり。見慣れた風景。
    


少しずつ体が思い出して、少しずつしっくり来ているように思う。
あっという間の、再スタートの一日。
大切にされていることを感じた一日。




歩行器

2011年11月27日 20時35分57秒 | 日記

コンケンの田舎で。
あ! あの子が、あの子が乗っているのは・・・
    



日本にいる姪っ子が5月に子どもを産んだ。
       


6ヶ月になるその子は、ハイハイをはじめ、
つかまり立ちを目指して、今歩行器に乗っている。
        



コンケンのこの子も、歩行器に乗っているではないか。
年齢を聞くと、11ヶ月だという。
      


ヨイショ ヨイショと歩く練習をしているのだろう。
お母さんや近所の人たちに囲まれて。


写真を撮らせてほしいとお願いすると、
じゃあ鼻水をふかないと、きれいにしてあげないと、と
大騒ぎしてけらけらと笑いながら、子どもの顔をみんなでよってたかって拭く。
     


日本にいる、姪の子どもも家族から鼻水を拭かれていたな。
今この時もすくすくと成長しているだろう。
           
 

タイの子どもも、日本の子どもも。
子どもというのは、家族から大切にされて、すくすくと成長していくもの。
   

ただいまコンケン  アパートの大掃除

2011年11月26日 22時09分26秒 | 日記
数ヶ月ぶりにコンケンのアパートへ帰る。
一瞬通りすぎようとしてしまうくらい、様変わりしていた。
アパートの1階には、新たに薬屋ができて見違えてしまっていた。
      


さて、2階に上がり、おそるおそるドアを開くと、思ったほどの惨事にはなっていないものの
これは、掃除に時間がかかるぞというひどい部屋の有様。

帰国すると決まったときにはバタバタと、とにかく大事なものだけを持って帰った。
その時の散らかりっぷりと、さらに今回持って来たミュージックケアのためのグッズ、
おみやげなどどっさり。
ものがたくさん。
     


しかし、まず歩ける状態じゃない。
床の上にはホコリが積もり、歩けば足の裏が真っ黒になる。
ヤモリの糞がベッド、机、壁、床、あちこちに。
水道を開けば泥のような水がドバドバ出る。
トイレのタンクには虫が湧き、あちこち蜘蛛の巣だらけ。
トイレ・シャワーの部屋には、巨大化した鳥の巣 (→過去ブログ 2011.5.18「鳥の巣蟻の巣」 7.9「うまれた」
     

       
まずは掃き掃除からはじめて、ぞうきんがけ。
いらない服をハサミで切って、ぞうきんにする。
拭いても拭いても拭いても、歩けば足の裏が黒くなる。

タンスを開けてびっくり。
一面のカビ。
    

服にもカビ、鞄にもカビ、よく見るとタンスの外側も全てカビカビカビ。
いない時期が雨季だったというのもあって、まあカビのすごいこと。
よく見ると、タンスの表面も全てカビが生えている。
     
   

健康管理員からお酢を差し入れてもらったので、
お酢を使ってカビをふき取る。
    

 
シーツを外し、かびた服をどっさりと出し、洗濯機へ。
洗濯物を干そうとベランダに出ると、
ギャーーーーーー!!鳥のミイラが!
ギャアギャアいいながら向こうへ蹴散らす。
ミイラでまだよかった。もっと生々しかったら無理!無理!


8時半を過ぎた頃、時計のアラームが鳴り出す。
ええ??
ということは、私がいない数ヶ月間、アラームは毎日8時半に鳴っていたということ?!
隣近所も毎日毎日アラームが・・・ と思ってただろうな。
主のいない部屋で、時計さん、ご苦労様でした。
     


大家さんと奥さんが現れて、帰りを喜んでくれる。
奥さんのピーミヤウは涙を流して言ってくれる。
「心配してた。帰ってきてくれて本当にうれしい。」

ありがたくてありがたくて、私まで泣いてしまう。


テレビでは、洪水のニュースが流れる。
洪水の中で、明るく手を振るタイ人たち、そしてそれに応援ソングを歌う歌手たち。
日本とはちがう、やはり悲壮感のほとんどないタイ。
ほっと癒される気持ちになる。
     

     


掃除に明け暮れて、やっととった食事は、タイのフルーツ。
パパイヤとブドウ。
おいしい。
月曜から配属先での再スタート。
タイのフルーツに栄養をもらって、4ヶ月、優しい人たちに囲まれて、
この部屋でがんばる。
     



     

仕切り直し と  嬉しい時計の出現

2011年11月25日 00時39分49秒 | コンケン 第9特別教育センター
空路でコンケンに到着。
洪水の被害で、陸路がふさがれた場所がいまだ多くあり、
道は大渋滞、空の便も満席の状態が続いている。


移動中も、ブランクがあってすんなり入っていけるだろうかという不安と、
残り4ヶ月でできる今後の活動のこと、
コンケンでの生活のことを考える。
心配した健康管理員から大丈夫かと聞かれるが、知らず知らずに表情も固まっていたみたい。
これまでにも考える時間は十分にあったのに時間が足りなく感じてくる。


まず、私がやらなければならないのは残り4ヶ月の活動計画を
配属先の人たちと相談して作ること。


移動中に調整員と相談をして、今日の配属先とのあいさつの場で、
JICA調整員を交えて、今後の活動内容を決めてしまおうということになった。
話が二転三転したり、予定通りにいかないのがタイだから、
JICA調整員がいる場で半ば調整員を証人のようにして方向性を決められたら、
月曜日からスムーズに計画書作りに着手できるだろう、
短い残り任期をフルに使えるだろうということ。
私も配属先も、いい意味での仕切り直しの場にできたら。


ミュージックケアを望まれて、ミュージックケアの準備をしてきた (→ 過去ブログ 2011.11.15 「活動準備」
けれど、障害の状態把握チェックリストと自閉症児への対応を記した
ガイドブックを作ることの方が大事ではないかと思っていることを伝えると、
調整員もそう思うとあと推してくれた。
ならば、今日の話の流れで、これをやりたいということをこっちから提示してみよう、
そして配属先の望むことがあればそれもできるだけ受け入れようということになった。
そして、活動に欠かせないのは、私が一人でやるのではなく、
タイ人と共に、タイ人を巻き込みながらやるということ。
マニュアル本も、作る経過に携わらせることで、知識が移行されるのだから。




配属先に着くとみなさんが喜んで迎えてくれた。
日本でもメールをやりとりしたり、電話をしていたカウンターパートや
仲のよかった先生は、話し合い中にもにこにこと、
「帰ってきてくれて嬉しいわ」アピールを送ってくれる。
会議中であるのに、「さちえ、果物を食べて」と言ってくれる。
こういう場でも明るくて、「さちえ痩せたわね。体重は何キロ?」と聞いてくる。


そんな皆さんの前で、これから4ヶ月で、やりたいことを話す。

「このセンターで自閉症の子のお母さんが、自閉症に関する本を読んでいるのを見ました。
 お母さんは、子どものためにどうしたらいいか、知識を求めています。
 私に『さちえ先生、私は家で何をしたらいい?』と聞いてきた親もいました。
 私はそんなお母さんや、先生や、子どもたちのために、自閉症について正しく知って、
 対応できるようなガイドブックを作りたい。
 知的障害クラスにも、肢体不自由クラスにも、聴覚障害クラスにも、自閉症の子どもがいる。
 だから、自閉症について知識を深めて正しい対応を心がけることは、
 全クラスに共通して役立つこと。
 先生達と話し合いながら、先生達にも手伝ってもらいながら、それを作りたいので
 一緒に作る手助けをしてほしい。」


調整員もこう言ってくれた。

そのガイドブックの印刷について費用面での問題があるならば
JICAが印刷、製本費用を負担する。
ガイドブックは、ボランティアが作ったものとしてではなく、
このセンターが作ったものとしてタイ全県の全てのセンターに配布したい。
自閉症については、タイではまだまだの分野。
このセンターがさきがけとなり、タイの自閉症療育の分野を先導していってほしい。
ガイドブックができれば、教育省も見たいと言っている。
年内に草稿をボランティアと共に作成できるよう力を貸してほしい。
来年には草稿を配布し、実際に使ってみた上で手直しをして、
完成版を来年1月には造りあげたい。



配属先のみなさんが、大賛成してくれて、それがいいそれがいいと喜んでくれた。

「ぜひ作ってほしい。できればたくさん絵を入れて。
 お母さんの中には、字が読めない人もいるから。」

「ええ、たくさん絵を入れます。私もタイがうまくできません。
 だから、字が読めないお母さんの気持ちはよくわかります。」

みんなクスクスと笑う。



他にしてほしいことはあるかと聞いてみたけれど、ミュージックケアのミの字も出ない。
あれ???
ちょっと拍子抜けする。
せっかく準備してきたが、時間的にも二足のわらじははけないので、
まずはガイドブックを作ることに集中して、それが終わったら
ミュージックケアをやってみてもいいかなと思う。


今日の機会をチャンスと思って、やりたいことを言ってみるといい、
通訳を介すると一呼吸置いて考える暇もある。
調整員にそう言われていたけれど、本当に、
今日は仕切り直しとして、いいテンポで話し合いができた。
ホッと 一つ肩の荷が下りた。



健康管理員を案内して、自閉症クラスにいってみた。
日本語を教えていたときの掲示板はすっかりとなくなり、(→ 過去ブログ 2011.3.25 「私の掲示板」
私が作った掲示物、午後の学習予定表はカードがいくつも紛失、 (→ 過去ブログ 2011.3.2 「クーサーイと一緒に勉強」
予想通り、いろんなものが消え失せ、片付けられてしまっていた。


が、その中で、
これ。
ここには時計がなかった。
日本に帰国する1ヶ月ほど前、勇気を出して先生に言ったことがある。
「ここに貼ってある時計の絵と、予定表は、自閉症の子にとって盗ってもいいと思う。
目で見てすぐにわかる。素晴らしいと思う。
だけど、せっかくこうやって時間の掲示がしてあるのに、肝心の時計がこの教室にない。
この時計の絵のすぐ近くに、時計があるといいと思う。」
           



今回、私は日本で時計を買ってきた。
タイの時計じゃ、すぐに止まってしまうから。
この自閉症クラスに使うつもりで買ってもってきた。
それが、なんと、以前なかった時計が、今ついているじゃないか。
      

時計が出現したかわり、以前あった時計の絵はなくなっちゃって、
やっぱり完璧にはいかない、そこがタイらしい。


時計がついたのはどうしてだろう、私が言ったからなのか。
きっと、そうなんじゃないかと思う。
私が言ったとき、反応は「ふうん。」という程度だった。
でも、タイ人ってそんなもの。
ちょっとプライドも高くて、すぐには飛びつかないときもあるけど、
でも、ちゃんといいものはいいとうけとる気持ちが合って、改善してくれるのだ。

時計がある。
こうしたらいいと思うと、勇気を出して伝えたからか、
時計がある。
変わる、変われる、よくなりたいと思っている。

遠慮ばかりしていてもだめだ、もっと言いたいことを言おう。
きっとこの人たちは求めていて、受け止めてくれると思う。

クラスにあらわれた時計、本当に本当にうれしかった。

バンコクを水から守ろうとするした人たちの努力

2011年11月24日 20時19分10秒 | 日記
再赴任にあたり、注意事項と説明を受けにバンコクのタイ事務所へ。
町のあちこちには、水害の影響が見える。


水の侵入を防ぐために、土嚢が高く積まれたホテル。
     


銀行。
     
 


バンコク病院も、土嚢で城壁が築かれている。
多くの患者をかかえた病院は水の侵入を必死に食い止めようとしたのだろうと思う。
  


街角にちょくちょくとある神様も、周囲を土嚢で囲われている。
自分たちの生活も水が面していただろうに、神様を水の侵入から守ろうとしていた
タイ人たちの信仰心、敬虔な思いを感じる。
        
 

隊員ハウス近くのセブンイレブンは、コンクリートで壁が造られている。
      

  



ぎっしりと豊かに物で埋め尽くされていたセブンイレブンも、棚はがらんとしている。
これでも、からっぽになっていた一時期よりもずいぶんましなのだという。
      

事務所に向かう陸橋の上に、のんびりと座る大きな犬。
タイではあちこちに犬がいて、どの犬もタイ人と同じくのんびりとしている。
      


配属先が水没した隊員は、配属先の職員と共に別の場所に移動する人や、
任地を変更せざるを得ない人もいる。
天災だから仕方がないこととは言え、活動を途中で絶たれることはとてもつらいことだと思う。
みんな、大変な思いをしていることが、バンコクに来てより感じられる。




明日、飛行機で調整員と、健康管理委員と共にコンケンへ、配属先にいく。


再び 旅立ち

2011年11月23日 19時15分43秒 | 日記

11月25日、福岡。
     



福岡空港からタイ・バンコクへ。
今日、ふたたび、タイに向かう。
     


去年の6月20日
成田空港からたくさんの仲間と一緒に、任国へ飛び立ったとき、
不安よりも、希望と夢とが胸一杯に膨らんでいた。
向こう見ずな勇気と、勢いがあった。

今は、違う。
タイで1年あまりを過ごし、一旦日本に戻り、冷静に物事を考えしまった分、
勢いや根拠のない自信はなくなった。
挫折も味わったし、痛みも味わった。
誰のために、何をしたいと思っているのか、自分の本当の気持ちを考えた。
再赴任にあたり、希望よりも不安が大きい。

しかし、それは当然のことなのだと思う。
不安があって当たり前なのだと思う。
向こう見ずな勇気は、無知の勇気。
知ってしまった以上、経験した以上、そして離れて時間がたってしまったらなおさら、
もう一度任地に赴くには、初めて行くときとは違う勇気が必要だ。


再赴任には、かなりの勇気がいる。
ニジェールから撤退した友達も、いつ戻れるか分からない不安をかかえて日本で4ヶ月を過ごし、
任国を変更して言葉も文化も新たに、再スタートを切った。    (→ 過去ブログ 2011/4/1 「ニジェールからの撤退」



あのとき、あの友達はどれだけ不安だっただろう、と今身に染みて思う。
私は、「待ってるよ」と言ってくれた言葉が、
「どうしてる?」と聞いてくれる言葉が、「無理しなくてもいい。」といってくれた言葉が
涙が出るほど嬉しかった。
そんな言葉を、あのとき、かけてあげられただろうか。
今回の経験を通して、思ったのは、自分を支えてくれる人たちのありがたさ。
そして、弱っている人や不安な人に言葉をかけ、気をかけて、
今回助けられた私が、今度は助けてあげられる人間になりたいということ。




さあ、再赴任。
奮い立たせて、家を出る。
福岡の気温は12℃。
タイの服装に薄手のパーカー、薄着なのでブルブル震える。
11月も終わろうとしているのに、足下はサンダル。
     



     

雨の福岡空港を飛び立つ。
     


これからの活動と暮らしに、
緊張と不安と希望と混じった複雑な思いでフライトの6時間を過ごす。
     
     

途中、機内サービスにあらわれるアテンダントの胸を見ると、
「ありがとう、タイ。がんばろう、日本」のバッジがある。
     


これは、東日本大震災に対するタイからの支援に感謝し、日本の復興をアピールする
「ありがとうタイ・がんばろう日本」キャンペーン。
JICAも、実行委員会のメンバーで、メールにも添付され、JICAスタッフの名刺や名札にも印刷されている。
     

タイの洪水により、ロゴマークは今、
「ありがとう、がんばろう。タイ・日本」に変わったらしい。
それが、機内アテンダントの胸にあることに嬉しくなる。


バンコクの景色が見えてきた。
洪水の被害は今、どうなんだろう。
     


スワンナプーム空港に到着。


バンコクの気温は30℃超え。
乾季なので、カラリとした感じはあるが、日本と比べればやはり暑い。
     


飛行機から降りるのも、荷物を受けとるのも、そこからタクシーに乗って隊員ハウスへ向かうのも、
以前にない緊張感がある。

タクシーの中から見るバンコクの景色は、洪水の被害がちらほらと見える。
水没被害を免れるために、高架上に車が止めてある。
     


道の真ん中にも土嚢が積まれている。
     


帰ってきた。
隊員ハウスの近くにあるブーゲンビリアが、変わらず咲いている。
ちょくちょく剪定され、切られてしまうのだが、
小さくなってもまたもりもりと育ち、元気に花を咲かせ、また剪定される、このブーゲンビリア。
私もあちこち刈り取って、剪定して、整えて帰ってきた。
残り任期で、モリモリと育ち、花を咲かせてねと言ってくれているよう。
変わらず迎えてくれるるブーゲンビリアにちょっと緊張がとける。
     

帰ってきた、まずはバンコクに。

     





あんなに確かにあるものが、まだここからは見えないだけ

2011年11月22日 09時05分04秒 | 日記



    見えないだけ  年若い友へ 

               牟礼 慶子



    空の上には

    もっと青い空が浮かんでいる

    波の底には

    もっと大きな海が眠っている

    胸の奥で

    言葉がはぐくんでいる優しい世界

    次の垣根で

    蕾をさし出している美しい季節

    少し遠くで

    待ちかねている新しい友だち



    あんなに確かに在るものが

    まだここからは見えないだけ


     
    





中学校で、新一年生を歓迎して在校生から送ったり、
卒業するにあたって、新しい世界に旅立つ卒業生に送ったりした、
この詩。


この詩の言葉は簡単で単純だ。
見えないものがあるっていうこと、
それはただ見えないだけで確かにそこにあるっていうこと、
目には見えないけれど、どれだけしっかりとその先にあり、待っているものなのか、
見えないものの大事さを教え、見えないことの不安をやわらげ、
背中を押してくれる詩だと思う。


ある友達が言った。
「日本人は宗教を信じられないように、目に見えないものを信じられない民族かもしれない。」


確かに、日本人は目に見えないものを信じる気持ちが、
他国の人たちに比べて少ない人たちかもしれないと思う。


目に見えないものを信じて、
見えないものから勇気をもらって、
希望を見いだして前に進めるのは、
きっと生き物たちの中で人間のみができること。


確かにそこにあるのだ。
あんなに確かにあるものが、まだここからは見えないだけ。

タイに帰って、確かにある、まだここからは見えないものを
この目でこの体で感じて、納得して帰って来られるように。

      






       


日本の景色

2011年11月21日 21時47分18秒 | 日記


療養から洪水による避難帰国。
日本にいる時間、長くなってしまったけれど、再出発の時が来る。


帰ってきてくれて良かったと言ってくれる家族がいて
もっといてよと言ってくれる家族や友人がいて、
無理に帰らなくてもいいよと言ってくれる人がいて、
やりたいようにがんばって、でもほどほどにね、と言ってくれる人がいて
タイ人とおしゃべりを楽しんでくる、そんな気軽な気持ちでいいのよ、と言ってくれる健康管理員がいて
思いを残さないようにがんばって、
残り4ヶ月ならもうひと働きできますねと言ってくれる同僚がいて、
猫が庭でニャンと鳴いて
    



タイで「こいしい」「待ってるよ」と言ってくれるタイ人がいるから、
日本で栄養をたっぷり蓄えて、タイに帰ろうと思う。


    

            

    

      

         

    

     

       

    

           

    

     




この日本の景色も、私の力になる。
繊細で美しい、日本の景色を心に大事にしまって、
暑くそして美しいタイに帰ろう。



泡盛から思う タイ

2011年11月20日 16時27分04秒 | タイ文化
日本にいる間、「タイ」という文字やタイとの関わりをよく目にした。

それまでも日本にいた私の周りに当然のようにあったはずのものだが、
タイに行ったから、タイとの関わりが深くなったからこそ、
それまで当たり前にあり、通り過ごしていた「タイ」という言葉によく気がつくようになった。

タイから輸入または製造輸入されているものは、洪水危機の折、
日本にも様々な影響が出るとニュースで連日報道したとおり、
エビやイカなどの海産物から、カメラや車などの部品などなど。


そういうもの以外で、こんなところにタイがあったのかと驚いたことがあった。
それは、日本で最もタイに近い場所、沖縄にあるもの。
       


沖縄のお酒、泡盛。
泡盛は、沖縄奄美諸島、台湾で製造されている蒸留酒。
その原料が、輸入したタイ米なのだ。
     
    

日本では、お酒を造る際に外国米を使うことは禁じられているのだが、
泡盛だけはタイ米でないとこの味を造ることができないため、
いったんは禁じられたものの、昭和初期以降は特例としてタイ米の使用を許されているのだそうだ。
そもそも日本政府は、戦後一貫して米の輸入を禁止してきた。
平成5年の米の緊急輸入はまだ記憶に新しいが、沖縄ではずっとタイ米の輸入が行われ、
琉球の伝統、泡盛の原料としてタイ米が使われてきた。

酒の蒸留技術は14世紀後半に、タイ(当時はシャム国と呼ばれた)から琉球王国にに伝えられた。
それとともにタイ米、貯蔵用の甕などがもたらされ、琉球の気候と黒麹を使った独自の製法により、泡盛が誕生した。
泡盛は、500年以上の歴史を持つ国内最古の蒸留酒で、焼酎などのルーツとなっている。

長い歴史の中で、琉球王国から、日本や中国にも献上されてきたものだ。
      


泡盛の味わいを作り出すために必要なタイ米。
日本の米より脂質やタンパク質が少ないタイ米でないと、泡盛にはならない。
日本にありながら、日本のお酒でありながら、タイという国なしではあり得ない。

はるか南の沖縄の国では、昔々からタイと交流し、今もタイとしっかりとつながっていた。
     




沖縄では、お菓子の材料もタイのもち米を使っていることが多かった。
八重山諸島、離島の名物、月桃餅。
原材料に「タイ米」と書いてあるのにはびっくりした。
イサーンで、コンケンで、いつも食べていたカオニャオが、沖縄の離島に。
       



つながっている、タイと日本。
タイといえば、今は洪水で受けた被害で、その影響が日本にどれだけあるか、
どれだけ日本がダメージを受けるかばかりが報道されていた。

けれど、
遠く遠く昔から、人と人は国を超えて言葉をこえて、教えあい技術を渡しあって生きてきた。
言葉も伝わらない中、きっと身振り手振りで、一緒に造り、一緒に食べ、一緒に驚き、
ともに生活して互いに学びとっていったことなのだろう。
協力隊のお手本のようじゃないか。

国対国ではない、利益と損得じゃない、
かつて、もっと人間同士のレベルで、人間と人間の関わりをもって生きてきたのだと、
この日本で見つけた「タイ」から思う。
     



目で制する日本人

2011年11月19日 22時36分18秒 | 日記
朝日があんまり美しいので、早朝カメラを持って外に出た。
そこに雑草がアスファルトからにょっきりと生えていた。

その生命力に小さな感動を覚えて、写真を撮る。
雑草の目線に下がって写真を撮るので、当然、アスファルトに這いつくばることになる。

    


アスファルトに這いつくばって、何枚も写真を撮っていると
早朝散歩をする人たちが、怪訝な顔で見ていく。
通り過ぎても、また振り返り振り返り、怪訝な顔で私を見る。

何をしているのか?と問いたいのが分かる。
だけど、決して聞いてこない。
ただ、目で「何をやっているんだ。」と制する。

見て分かるとおり、写真を撮っているのだけど、
だけど、その自分の常識から外れた私の撮り方が、私の格好が
許容できないのだろうと思う。


タイだったらどうだろう、とふと思う。
たぶん、ちらりと見るだろう、けれどそれ以上は見ない。
何をしているんだ?と思えば、「何してるの?」と聞くだろう。


ある時、コンケンのセンタン(デパート)で、焼きサバのお総菜を買った。
お腹がすいていたので、パックを手に握ったまま、帰りながら
歩きつつ焼き魚を手でむしゃむしゃとつかんで食べた。
女の人が焼きサバを手づかみで食べながら町をウロウロする。

日本でなら、じろじろと見られ、目で制されるだろう。
だけど、コンケンでは、目があったおばちゃんが言ったのは
「アロイマイ?」(おいしい?)
だった。


日本では電車内でも人は目で人を制す。
電車マナーは、「人が見ているから恥ずかしいよ。」と教える。
だけど、タイでは疑問に思えば聞くし、そもそもの許容範囲のとんでもない広さがある。
その何でも許してもらえる感じに安心する。
タイ人の懐の広さが恋しくなる時がある。

ポスターの青年海外協力隊員

2011年11月18日 17時54分13秒 | 青年海外協力隊たちの活動
日本で、電車の中吊り広告で青年海外協力隊募集のポスターを見た。
テレビではCMまでやっている。

    

日本の震災の影響もあって、協力隊の応募者は減っているのだと聞いた。

ポスターを見ると、複雑な気分になる。
協力隊募集のポスターは笑顔の隊員と途上国の子どもが
明るい日差しの下、笑顔で向き合う。
テレビのCMもそう。
爽やかに風が吹く中、肌の黒い子どもの肩に協力隊員がそっと手を乗せ笑顔でほほえむ。
とにかくさわやかで、明るい。
こういうイメージを打ち出したいのだろうと思うのだが、
ポスターの中で笑顔を見せる協力隊員は作られすぎてきて、真の姿ではないと思う。

絵になるからか、日本人とは肌の色が全く違う国の子どもとの写真が
こうして広告に使われることが多いのも、いつもひっかかるところ。

私もそういうポスターに惹かれ、憧れた一人で、
隊員の多くがそうだと思うが
こういうポスターで意識的に与えられるイメージから、憧れや理想が過度に膨らむように思う。

実際の協力隊員は、理想とのギャップに苦しみ、異文化世界でうまくいかないことの連続。
四苦八苦しながら生活している。
つまづき転びながら、その中で道を見つけ、意義を見つけ、存在価値を見いだしていく。
協力隊員が任国の人たちに「してあげる」側であるなんていう考えは、全くの間違いだったと
ほとんどの隊員が任国で知り、そこからまた新たなスタートをする。

こんなに苦しいことがありました、
その時こうやってのりこえました、
こんなに大変でしたが、こうやって助けられました、
それこそ、協力隊の真の姿で、それを見せられるような広告にはできないんだろうか、と思う。

このポスターには作り手の意図があるのだろう。

私は、よほど、涙を流している隊員の横顔でもポスターに使う方が
真実だと思える。
イメージや第一印象というのは、とても強い力を持つもの。
応募してくる人たちに夢と希望だけではなく、
こういう苦しさもあり、こうやって乗り越えていくのが協力隊の生活なのだと、
本当の部分を見てもらいたいような気がする。

活動準備

2011年11月17日 20時36分51秒 | 日記
日本に帰国中、考えていたのはタイの人たちのこと。


洪水で被害が広がっている間は、日本いる私にできることは何だろうと考えた。
募金をすることもだが、このブログでタイのことを知ってもらうこと、
関心をもってもらうことは、私にできることじゃないかと考えた。


タイにいる仲間や、世界にいる隊員仲間のことも考えた。
素晴らしい出会いに感謝したい気持ちになった。


タイの人たち、コンケンの人たちのこと。
私が帰国しなければならないと分かったとき、果物をどっさりと持たせてくれた大家さん、
また会いたいと泣いてくれた果物屋のおばちゃん、
忙しい中アパートまで会いにきてくれた配属先の同僚、
泣いてくれた配属先の人たち、
心から悲しそうな顔をしてくれた食堂のおばちゃん、
「今度帰ってくるときにはおみやげは何がいい?」と聞く私に
「さちえが元気に帰ってくれたらなにもいらない。」
と言ってくれた同僚。

その人たちにもう一度会いたい、役にたちたいと強く思った。


そして、活動のこと。
配属先では、うまくいかないことがたくさんあった。
ものを使いたくても勝手が分からない、伝えたいことが伝わらない、
伝えるだけの時間をとってもらえない、迷惑をかけたくない、
私のせいで仕事を増やさせたくない、遠慮して小さくなっていた。
作業療法士で肢体不自由の子どもが座れる椅子を造った前任者に比べられ、
「さちえは何を造るの?」「何をしてくれるの?」と言われることで
満足されていないのかと思い、自信をなくしてしまった。
何の役にも立ってない気になり、自分の価値がないようにさえ思えた。


けれど、中間報告会のためにこれまでの活動を振り返ってみたとき、 
         (→ 過去ブログ 2011.6.17 「中間報告会」 7.10「バンコク週報」
私には作業療法士のようなリハビリも椅子作りもできないけれど、
自閉症のクラスでは、地道に関わり続けることで
子どもたちの変化があり、保護者にも変化があり、先生にも変化があったことを
確かに思えた。 
できていたこともたくさんあるんじゃないかと。
      


満足できなかったのは私。
言葉を伝えられなかったのも私。
再赴任したら、残り任期はあとわずか。
日に日に残り任期が気にかかる。

短い時間で、何がやれるか日本で有り余る時間に考えた。
    

日本帰国直前のこと。
いつものように、「次はさちえは何をするの?」と聞かれたとき
3つの提示をした。
私がいなくなっても、このセンターで持続可能な活動。

  1つは  障害の状態を把握するためのチェックリストづくり
  2つめは 保護者や先生が自閉症の子どもに接するときの注意やアドバイスを書いたガイドブックづくり
  3つめは 音楽と身体表現によって、運動感覚訓練や情緒の安定を図るミュージックケア。


3つめのミュージックケアは、人の受け売りで私自身はやったこともなく、
資料も全く足りない。
私にしたら、実情に即して最も重要だと思うのは、1つめの障害の把握チェックリストと
2つめの自閉症の子どもへの対応マニュアルだった。
しかし、配属先の人たちは3つめのミュージックケアに飛びついた。


確かに、音楽と見かけの華やかさはタイ人が好きそうなものだから、飛びつくのもわかる。
しかし、私には自信がなかった。
でも、がっかりされる顔を見たくなくて、自信がないと言えなかった。
準備をしようと思っても、タイにいてその資料集めも、準備もままならなかった。
窮地に立たされ、追い込まれた気分だった。


そんなときの帰国。
日本に帰ったこの時間、ミュージックケアの資料を必死に探した。
福祉施設で働く姪が一緒になって資料を見つけてくれ、練習してくれた。
楽譜を見て、想像して、こういう障害の子にはこう、とイメージトレーニングをした。
140ページある資料は、ひととおり、どの楽譜も対応できるように準備した。
   


楽器も準備した。
本来なら、ものを持ち込むのではなく、タイで入手できるものや手作りしたものを使い、
私がいなくなったあとにもタイ人だけでやっていける環境を残すことが望ましいが、
その時間がない。
100円ショップをまわって、肢体不自由の子でも持てる握れる楽器、鳴らして音を楽しめる楽器、
聴覚障害の子でも、音が出たら目で分かるおもちゃの笛。
どっさりと用意した。
      



タイへ持ち帰る荷物のほとんどは、楽器とおもちゃと資料だ。
準備はできた。
自信のなさは、十分な準備で補うしかない。

日本の空気をたくさん吸って、たくさんおいしいごはんを食べて、力を蓄えた。

あとは、やってみるだけ。
       






避難解除

2011年11月16日 22時10分01秒 | JICA事務所
大使館からの一斉メール。



   ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

    タイ在留邦人の皆様へ
           【大使館からのお知らせ】
                       緊急一斉メール

   ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


    タイに対する渡航情報(危険情報)の引き下げについて
          (2011年11月16日現在)


 当国における洪水被害の現状を踏まえ、10月27日付をもって、首都バンコク、アユタヤ県、
パトゥムタニ県、ノンタブリー県、ナコンパトム県及びサムットサコン県に対して
「渡航の延期をお勧めします。」の危険情報を発出しました。
同危険情報については、その国又は地域への渡航を予定している邦人に対して渡航の延期を勧めると同時に、
既にその国又は地域に滞在する邦人に対しては、邦人の「生命・身体」に直接的な危害を及ぼす事案が現実的に
存在し、それがある程度継続する場合には、退避の可能性の検討や準備を促すメッセージを含むものです。
当国における今次洪水被害については、現在の危険情報のレベルに引き上げた時点においては、「生命・身体」に直
接的な危害を及んでいたというよりは、むしろ、洪水被害がさらに拡大する場合には、「生命・身体」に対する
危害が直接及ぶ可能性があったため、「渡航の延期をお勧めします。」との危険情報を発出したものです。
一方で、現下の洪水被害の状況は、拡大から縮小の方向に転じ、改善してきています。
今後、仮に、想定外の事態が生じ再び洪水被害が拡大したとしても、その際の被害の程度は、「生命・身体」に
直接危害を及ぼすようなものではなく、むしろ「日常生活に多少の不便・不都合」が生じる程度のものであると判断し、
今般、以下のとおり、危険情報の引き下げを行いました。











10月28日からの避難一時帰国が、解除になった。
中心部の浸水地域が縮小傾向にあり、危険性が低くなったため。
10月後半に比べて、飲料水などの入手が容易になり、水道水の水質も改善され、
外務省も、状況の改善を受け、11月16日に渡航情報を引き下げたため。

避難解除をうけ、一週間以内に任国に戻る。
本部とタイ事務所からすぐに連絡があり、23日タイに戻ることが決まった。


療養から避難に切り替わり、タイに帰れないまま長かった。
考える時間が長くなると、勢いや思い切りが冷え去り、冷静にものを見るようにもなる。
活動への自信不足、それを補いきれない残り任期の短さ、ブランクにより忘れそうなタイ語。
日を追うごとに希望や自信よりも不安と緊張の方が強くなっていった。


教育委員会にも呼ばれ、この数ヶ月なにをしていたのか、タイに戻って今後の活動を何をするのか、
それを、どう福岡市に生かし貢献するのかを聞かれた。
療養帰国していなければ、任国でずっと活動ができていれば、なかったはずの様々な質問。
日本では、いや教職の世界では特にそうだったような気がするが、
病気療養で仕事を休むことは、まるでよくないことのような空気。
療養している間も、まるで悪いことをしているような気分になることがあった。


JICA本部、教育委員会、すでに離任した学校、そして私、4者で情報が渡り合い、
伝言ゲームのようになり、私の所在や現状が事実と違う形で伝えられ おおごとになったり、
誤解があったり、誤解のままあちこち伝わっていたり、腑に落ちないことでおしかりをうけたり、
療養中に気を揉むことが多く、いつ帰れるか分からない不安との中で、
長くなれば長くなるほど、「療養帰国」は実際には「療養」にならないな、
療養帰国なんてするもんじゃない、
任国に行ったままでいられるのが一番だと思った。


見えた自分の欠点もある。
それは違う、と思っても、多少腑に落ちなくても、まだ理解が追いついていなくても、
言いたいことをガマンして、「はい」と言ってしまうこと。
余計なトラブルになったり、これ以上相手との関係をこじらせるくらいなら、黙っていようと
自分の思いを言わない道を選んでしまうところ。
結果、それは誤解なのにと思うもどかしさや、誤解があるままの関係性が続き、
意見を戦わせることもないまま、ガマンした不完全燃焼で、一人もやもやする。


それは、よくいえば控えめさであり、タイの配属先の人たちは 
この、「私が私が」と前に出ない、黙って意見を飲み込む日本人ボランティアが
イメージするつつましい日本人にぴったりで、そういう部分には好感をもってくれていたと思う。
タイ人は日本人の出過ぎない謙虚なところが好きだという。

けれど、長い時間を一緒に過ごす相手に、
しかもタイのようなやりたいことをはっきりと言う世界で
ずっとこれで行くわけにはいかなかったのではないか。


カウンターパートから
「さちえは考えすぎる。たくさん考えすぎている。でも口に出さない。
 頭の中はのぞけないから、口に出してどんどんしゃべって。」
と言われたことを思い出した。


いろんなことを考えた時間だったし、帰らない方がいいのかとも思った時間にもなったけど、
やりかけのままの活動、人間関係、タイでの生活、
いきなりぴたりと止まってしまった時間をもう一度動かさなくては。
チャンスがあるのだから。

孤独感や、罪悪感さえ感じて、あせり、不安になり、その不安を消そうと人に会った。
この間に支えてくれたのは、地元のタイ料理店のタイ人や友達、同僚の教師、友達、そして家族だった。
自分の居場所があり、確実に必要とされている安心感は絶対の力になった。


「成果とか、形とかプレッシャーに縛られず、JICAのためとか教育委員会のためとかじゃなく、
 本当にあなたのことを心配してくれる人たちのために、無理せずにがんばっておいで。」
と言ってくれた友達。


意地もあるかもしれない。
途中でやめたくない、ただそれだけかもしれない。
心配してくれる人たちの顔を見ると、もう、ここまででもいいんじゃないかと考える。
でも、それでも、
タイに帰る、帰らないを天秤にかけたら、帰るの方が下にぐいっと下がる。


誰が何を言ったとしても、私の気持ちは私にしか大事にできない。
受けとった思いやりある言葉、私のためを思ってくれる言葉だけを大事にかかえてタイに戻ろうと思う。
私の悔いが残らないように、私がやりたいように、私ががんばる。