ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

パクレット少年の家

2011年04月30日 20時06分23秒 | 青年海外協力隊たちの活動

ノンタブリ県にある児童保護施設 『パクレット少年の家』
そこで活動する隊員がいる。 
職種は青少年活動。


7才~18才の子どもたちが入所し生活している。
家がない、家庭での育児不可、保護者がいないなど理由は様々。


おじゃまさせてもらい、子どもたちとの活動の様子を見せてもらう。
子どもたちが学校から帰り、食事を終えた後の夕方以降。
余暇活動を通して子どもたちのよりよい育成を目指す。
この日は相撲をしたり、チャンバラをしたり。
ひとつのルールのもと、子どもたちがひとつになり遊ぶ。
     

      

     

             



青少年活動という職種は、これをやるというはっきりしたもの提示されない。
だからこそ、ボランティアの意思と発想、経験に大きくゆだねられる職種。
難しい職種だと思う。

バンコクのスラム クロントイで図工教室

2011年04月30日 19時57分55秒 | 青年海外協力隊たちの活動

今や途上国とは言えないほどの発展をとげているタイ。
首都バンコクには高層ビルが乱立し近代国家さながらの姿だが、
その急激な近代化のひずみに生まれたスラムがバンコクのあちこちに点在する。

スラムの始まりは貧しい農村部から生活の糧を求めて都会に流入してきた人々を
ちょうど安価な労働力を大量に必要としていたバンコクの経済事情が、
労働者の住宅対策を考えることもなく無造作に受け入れたことによる。
その結果、バンコク都内には1.800カ所ものスラムが形成され、
300万人以上もの人々がそこに住むようになった。


スラムの課題は山積み。
空き地にスラムを形成した人々の住民登録は困難であり、法的立場の不安定さ。
ベニヤやトタンで作った家々の水道、汚水、住宅環境問題。
不当な低賃金や労働条件で苦しみ、それにより犯罪や盗みに走るという経済的問題。
親の麻薬中毒により行き場を失った子どもの麻薬使用や犯罪。
さまざまな家庭の事情で中途退学する子どもたち。
教育の必要性を重くとらえきれない保護者たちと、そうならざるを得ないこれらの環境。

めざましい発展をとげるバンコクで貧富の差が激しくひらいていることは
この国が今 向き合っている問題の一つ。

バンコクで最も大きなスラム、クロントイ。
高層ビルのすぐとなりには、ベニヤやトタンで造った家がひしめきあい、
住人10万人にも及ぶ東南アジア最大級のスラム街。
     


そこで日本人駐在員の奥様たちがボランティアで
子どもたちへの図工教室を開いている。
そして、それを長いこと手伝っている隊員がいる。
以前から興味があったため、バンコク上京を機に私も参加させてもらうことに。
場所はクロントイにある、ドゥアン・プラテープ財団の一室。
    

トイレットペーパーの芯に色を塗り、つなぎ合わせて蛇を作る。
子どもたち、最初は多少人見知りする感じもあったが一緒に作品を作りながら
色鉛筆を貸しあい、私のも切ってとハサミで切ってもらい、
「上手だねえ。」「きれいな蛇だねえ。」「うまいねえ。」「かっこいいねえ。」
と話していくうちに笑顔が見えるようになる。
       




一番にっこり笑ってくれたのが、アルファベットを書いた子に
「サモンディーナ」(=頭いいねえ!)と言ったとき。
にっこ~ っと満面の笑みになり、どうだ?と言わんばかりに近くの友人を見渡していた。
その正直な行動がかわいらしい。
    


  日本の震災に対して励ましの絵を描いてくれた。
   


こういうところに1回だけいくのは、“楽しい”だけでおわる。
今回の私がそう。簡単なものだ。
けれど、大変なのはこれを定期的に行いずっと続けるということ。
自主的に、自発的に。


道具類一切を準備し、長年こうして通い続けているという日本人ボランティアの奥様方。
青年海外協力隊として活動しつつも、余暇をこうしてスラムにボランティアに通う隊員。
どちらにも頭が下がる。
ボランティアっていったい、何のためにやるものなのか、と
考えた今回のクロントイ図工教室。
      

生卵かけごはん

2011年04月29日 23時58分29秒 | 日記
タイでは生卵は食べない。
日本では、スキヤキに生卵を溶いてつけたり、
白ごはんに生卵をかけたり、卵は生でも食べられるものという認識。
だけど、タイでは卵は火を通すもの、というのが当たり前の認識で
生で卵を食べる習慣はない。

きちんと衛生管理されてないところが多いため、
卵にサルモネラ菌がいたり、化学肥料を過剰に与えられていたりで危険だからだ。

別に特に生卵を食べずともおいしいものはたくさんあるタイ。
不便はないはずなのだが、
食べられないものだと思えば何となく食べたくなるもの。
バンコクにある日本人御用達フジスーパーで
「生で食べられる生卵」
という卵を発見。
お値段は日本の卵並みに高かったのだが、
これを見て無性に卵かけごはんが食べたくなり
かなりのぜいたくで買ってみた。
1パック買っても使い切れないのに、買ってみた。

隊員ハウスで誰かが寄付しておいていった日本米を見つけ、
白ごはんを炊く。
コンケンの私の部屋には台所もないし、炊飯器もない。
毎日屋台で買って食べている。
だから隊員ハウスでしかできない自炊というぜいたく。

炊きたての日本米の白ごはんはなんともなつかしい甘い香りがする。
アフリカ派遣の友達も、生卵や日本の白米、きっと食べてないだろうなー なんて
仲間の食生活にも思いを巡らせつつ。

     


白ごはんに生卵。
おしょうゆかけていただきまーす。
最高のぜいたくの生卵かけごはん。


タイのこどもたち 歯科検診 1

2011年04月29日 14時33分57秒 | コンケン 第9特別教育センター

配属先、第9特別教育センターの子供たちの歯科検診。
日本では義務づけられている健康診断だが、
ここタイ王国でも子どもたちは定期的に健康診断を受ける。
なんともすばらしい国だ。

会議室に看護師なのか歯科助手なのか、そういう方たちが20名。
   



 
まずは問診。
生活習慣や、歯磨きの習慣、ふだんの食事についてなど。
     


どこの国でもそうだろうが、子どもたちは怖がり、
検診会場は阿鼻叫喚。
これで予防注射なんてあった日には、いったいどうなるんだろう。

「こわいーーーっ!」このおびえた表情。 検診が終わるとぐったり。
       


アーン アーン! と周囲が必死に口をあけて見せる。
看護師も親も先生もみんな。 
当の本人も真似してあけてみるけれど、体はこわばり緊張でガチガチ。
     


  口がひらくと一斉にほめる。 「上手上手!」「すごく上手!」
  よし!今のうちにと急いで検査。
  がんばれ、がんばれ。 あと少しだぞ。
    


ふう、終わった終わった。
お礼に子どもから眼つぶし攻撃。
   
思わず吹き出してしまった。
看護師たちも笑っている。そういうおおらかなところがタイ人のよさ。


ここでも撮影好きなタイ人全開。
あっちでも こっちでも看護師たちが写真をとる。
子どもたちの口を開かせ、写真撮影。
ビデオを回しながらカメラも撮るという二刀使いまで登場。
     


看護師たちが食べたおやつの残骸。
甘いココアとケーキの残骸が検診会場の前に山のように。
思わず笑ってしまう。
大人も子ども、歯科検診があってもおやつは欠かさない。
これぞタイらしさ。
    

フィリピンの同期隊員  コンケン来訪

2011年04月28日 02時14分35秒 | 青年海外協力隊たちの活動

福島の二本松訓練所。
そこで私たちは青年海外協力隊として派遣される前、65日間の派遣前訓練を受ける。
喜びや感動のたくさんつまった訓練所。
そこで共に過ごし、思い出を共有した22年度1次隊の仲間は205名。
今、世界のあちこちでこのときも同じ思い出を胸に活動している。

訓練所で同じ、生活班だった仲間が私の任地を訪ね、
はるばる東北部コンケンまでやって来た。
私と同じ現職教員で、フィリピンの理数科教育の向上のため活動している仲間。

汽車でバンコクからやってくる彼を迎えに行く。
訓練所に入ったあの時から、ちょうど1年がたつ。
コンケン駅に私の知っている懐かしい顔を見つけ、胸がいっぱい。
互いに半泣きで抱き合って再会を喜ぶ。
ようこそコンケンへ、私の任地へ。 ようこそ私のアパートへ。
    


タイに来てびっくりしたこと。
  ・街がきれい。ごみがない。
  ・タクシーで71バーツの請求に100バーツ払うと30バーツのお釣りが来た。
   1バーツのおまけ、こんなことフィリピンではあり得ない。感動した。
  ・食べものの種類が豊富!
こう話してくれる友人。
タイにいて当たり前になっているけれど、他国から来た友達に教えてもらうと
改めてタイの良さを感じる。


配属先第9特別教育センターでは歓待を受ける。
朝の集会では突然の自己紹介をふられても全く動じない彼。
「突然」や「変更」「むちゃぶり」はタイもフィリピンも同じだという。
私たち、たくましくなったものだと、笑う。
   


タイの朝ご飯を並べると、珍しげにどれも喜んで食べてくれるので
食堂ではみんなが世話を焼く。
   カオニャオ(蒸したもち米)      グァイジャップ(ベトナム風うどん)
   サイクロッ(イサーンソーセージ)   ムゥトーッ(豚を揚げて甘くしたもの)
   もち米デザート(甘い!)       ナムプリック(→過去ブログ 「タイ人必須アイテム ナムプリック」
   


保護者からは「カオニャオマムーアン 食べたことあるの?じゃあ、買ってきてあげるわ!」
と、翌日はおいしいカオニャオマムーアンの差し入れをいただく。
  (→過去ブログ 「カオニャオマムーアン」


この日は聴覚障害クラスに行く日。
一緒に教室に入った彼は、子どもたちにすんなりまじって一緒にじゃんけん。
タイの「じゃんけんぽん」は
「ヤンイーヤオパカパオインチュップ!」と言う。
   
訓練所の語学交流会で教えてもらったこのじゃんけん。 (→過去ブログ 「語学交流会」
教わったときあまりにもかわいらしい言い方が気に入って、訓練所の仲間たちにも教えた。
みんな、かわいいかわいいと絶賛。
中でも彼は他国のじゃんけんであるのに、これを努力して覚え、
廊下で、談話室で、食堂で、私に会うたびにこのじゃんけんを仕掛けてきてくれた。
それは、何人も仲間がいる他国のクラスに対して、タイクラスは男女二人だけ、
じゃんけんを教わってもそれを一緒にやる同国の仲間がいない私を気づかっての行動。
本当に、あたたかい、優しい人なのだ。
「ヤンイーヤオパッカパオインチュップ!」
久しぶりのその声を聞いて、懐かしく、そして変わらぬ彼の人柄を感じる。
仲間って、いいものだ。


夕方以降は交通手段がなくなる私のアパート近辺。
夕食を食べに行くのに、
ならば走ろうじゃないか、とラングシューズを履き、
かつての訓練所の朝のように2人で走る。
短パン、Tシャツ、ランニングシューズで、夕食を食べにコンケンを走る。
そして走って帰ってくる。
そんなことが、仲間と一緒だととても楽しい。
       


コンケンのデパート、セントラルプラザにびっくり。
日本食レストランにもびっくり。
             

  
イサーン名物。
昆虫食にもトライ。
カエルのおいしさにびっくり。
   


店でトイレに行った彼。
すぐに引き返してきて
「どっちが男性か、わからない!」と言う。
確かに、これは分からないだろう。
「プーイン」(女性)の文字の一部分。
     



翌日は、プール行事。
なんにでも積極的な彼は飛び入りで参加、タイの子どもたちと水遊び。
観察力があり、水遊びをしながらも子どもたちを鋭く見ている。
そして、タイ人は泳げる人が少ないため、50Mを泳いでしまう彼は注目の的。
    

何でも食べる。
モリモリ食べる。
女性職員に混じって、すっかりここの職員。
     


2日間、お疲れさま。
配属先で寝てしまうほど、疲れちゃったんですね。
       


さて、熱烈な歓待を受けた同期隊員だが、帰り際にはいくつかのハプニングに見舞われた。
ハプニング①
 センター所属の運転手に空港まで送ってもらうこととなっていたが、
 どういった行き違いか、車はセンター長が今から使うから無理、ということに。
 その時点で飛行機出発までの時間があと2時間。

ハプニング②
 急きょ、自分たちで空港に行くという手段に切り替える。
 タイヤの空気の入ってない自転車に二人乗りし、坂道をこぎこぎ、アパートへ。
 重い荷物をひきずって、走り、走り、大通りへ。
 ソンテウを拾い、タクシーがたくさんいるだろうと思うバスターミナルへ。
 タクシー運転手と空港までの値段交渉をし、必ず間に合わせてほしいとよくよく頼んで
 同機隊員をタクシーに乗せる。
 飛行機出発まであと1時間。

ハプニング③
 握手し互いに目を潤ませ「また会おう」と別れを言い、彼の乗ったタクシーを見送る。
 その直後、彼のリュックを私が背負っていることに気づく。
 瞬間、何をどうすることでこの事態を解決できるか、考える、考える!
 追いかけるか、待つか。
 この判断の失敗はできない、時間も迫っている。どれか一番いい方法一つだ。

ハプニング④
 タクシー乗り場に走り、
 「さっき日本人の友人がここからタクシーに乗った!だけど大事なものを忘れた!
 運転手に電話してほしい! 友人はまだ気づいてない!
 このまま気づかずに空港まで行ってしまったら、時間がないんです!!」
 と騒ぐ。
 親切なタイ人達が、「どの運転手だ?」「きっとあいつだ」「あいつじゃないか?」
 と考えあぐね、なんとか運転手と連絡がつく。
 取りに戻ってもらいリュックを渡す。
      
 「また会おう」の言葉から20分後。すぐに再会してしまった。2人とも苦笑。
 ギリギリだっただろうが何とか間に合い、フィリピンへとバタバタと帰って行った同期隊員。


夜は訓練所でのこと、今の活動のこと、日々の支えのこと、考え悩んでいること、
時間が足りないと思うほど語り合った。
思い出の詰まった班の記念のムービーを2人で観ると、あの時と同じ涙が2人とも。
こんな思いを共有できる仲間がいること、
青年海外協力隊として活動上の悩みや葛藤はあっても、
青年海外協力隊であったからこそ得られた宝も大きい。


配属先に来てくれた2日間。
仲間は心強い味方だった。
それぞれの任地で、互いにこれが最もいいと思う自分のやり方で
あと1年やっていこう、そして1年後日本で会おうと握手でのコンケンでの別れ。


仲間がいることを励みに、次に日本で会えるときまで、
私なりの道を歩む。

コンケン大学 歯科治療また

2011年04月26日 20時46分49秒 | 日記
青年海外協力隊が派遣される途上国は、十分な歯科医療技術をもたない国も多く
そのため、派遣前に必ず歯科治療を終わらせておくように
JICAから重々言い含められている。

私もそれを忠実に守りどこといって悪いところもなかったが、
念のため行ってみた日本の歯医者。
そこで親知らずを抜くこととなり、痛い 痛い思いをした。

任地コンケンにきて2ヶ月頃のこと、治療がすんだ歯がなんとなく痛み
上京した際、バンコク病院の歯科医療を受ける。
そして治ったと思いきや、
任地コンケンで激しく痛み コンケン大学歯科医療をうける。


ここからが、何度となく歯科治療に通うはめに。
なんでそんなに何回も?というと、
白い詰め物をしてからつぎの指定された治療日までが 4ヶ月や5ヶ月とやたらと長く、
その間に白い詰め物がとれたり、痛みが出たり。

日本にいたとき、歯で悩まされたことはほとんどなかったけれど
タイに来てからは歯の疫病神(いるのか?)が憑いているかのよう。
    

8月  治療して白い詰め物をかぶせる。次回は4月といわれる。(ええ?長っ!)
12月 詰め物がとれて最受診、応急処置。
3月  詰め物がとれて最受診、応急処置。次は5月といわれる。
    その晩、すでに詰め物がないのに気づき、翌日再受診、そしてまたしても応急処置。
    
       


コンケン大学歯科に 白い詰め物がとれました、と訴えること3回。
毎回毎回、応急処置でしかないためか、雑な詰め方だからか。
何度繰り返したことか。


ただし、安い。
国立大学の歯科はめちゃくちゃ安い。
100バーツ、200バーツ程度(300円~600円)の歯科医療費。
今回分かったのだが、ここはコンケン大の院生が医者の指導の下
患者の治療にあたってるのだそうだ。
どうりで、先生達がみな若い、若すぎると思った。


さちえがあと1年いるなら、1年以内には連絡できるようにする
なんていわれ、
そんな!もういやです、こんな応急処置ばかり! さらに4ヶ月も仮の詰め物で放置されたらまたとれてしまう!
と訴えると こっちを紹介された。

 ピセー(特別) お金は高い、院生ではなくプロの医師が治療にあたる。
 待ち患者も少ないため、治療も早い。
           




次回は5月と言われたけれど、白い詰め物がこんなにとれて
そのたびにいたかったら、不安 不安。
真っピンクの痛み止め薬をもらい、もし痛んだらこれを飲もうと
戦々恐々。
    


青年海外協力隊 シリアからも撤退

2011年04月25日 01時47分22秒 | 青年海外協力隊たちの活動

シリア全土で抗議デモ=イエメン首都には100万人集結
時事通信 4月15日(金)22時1分配信

 【カイロ時事】シリア各地で15日のイスラム教の金曜礼拝後、アサド政権退陣や民主化推進を要求する民衆による抗議デモが行われた。 
シリアからの情報によると、首都ダマスカス、北部アレッポ、南部ダラア、西部バニヤス、中西部ホムス、北東部カミシリなどで数百~数万人規模のデモが展開された。このほか都市部以外でも抗議行動が起きており、従来に増して全土に拡大しているもようだ。政権側は催涙弾などを使って鎮圧、一部でインターネットが使用不能となった。
 ダラアやバニヤスは最近、治安部隊との衝突による流血の事態が深刻化している。人権団体はシリアでデモが始まった1カ月前からこれまでに200人以上が死亡したとしている。

 




シリアにも協力隊仲間がいる。
派遣前訓練を受けた二本松訓練所では、同じ生活班だった友達。
保健師としてシリアに派遣され、活動していた友達から
シリアが今危ない状況にあること、協力隊員は週末の自宅待機を命じられていることを聞いていた。
スカイプでメッセージを送りあっているとき、「今、外でデモの音がきこえる。」
と不安げな友達の声。

そして、とうとうシリアから国外待避、JICAも青年海外協力隊も撤退となった。
待避が決まったときに知らせてくれたメール。



   火がつけられたら一気にデモが広がって、外務省からの渡航情報危険レベルも上がりました。
   毎日ニュースで流れる映像はシリアだとは思えないくらいひどいです。
  周りのシリア人も不安と緊張が走っています。
  いろんな自由が制限されて、人がどんどん殺されていくのはいや。
  活動はやり残したこともたくさんあります。
   また戻ってこれると信じて、
   とにかく、安全を第一に無事に着くよう、成田を目指します。



一口に国外退避といっても、たくさんの荷物をまとめ、活動を途中にし、
それまで関係を築いてきた人との日々を断ち切り、
命をおびやかす危険を隣り合わせにしながら日本を目指す、
道中どんな思いだっただろう。
希望をもって夢をもって10ヶ月前にやって来た道を戻り、日本へ。



無事に日本に到着した友達からシリアでのことをきく。
シリアを離れた今話せることがたくさんあるということに驚く。


   日本では、インターネットで自分が調べたいものは なんでも検索出来る。
   何を検索してもいい。
   外も自由に歩ける。
   シリアでは情報が操作されていて、正しい情報を得るのが難しかった。
   たくさんの人が死んでいるのに、何もなく静かでしたと国営放送が伝えていた。
   外も自由に歩けない。
   秘密警察がどこで見ているか分からないし、だれが秘密警察なのかもわからない。
  スーパーの店員だったり、同僚の旦那さんだったり。
   政府の批判をすれば5分以内に捕まるという世界。
   盗聴が日常におこり、誰が聞き耳を立てているか分からない。
   ごみまでも清掃員にあさられて、すべてを探られているあの世界から
   日本に帰ってくると、友達と自由に話せることが嘘みたい。
   やっと、隊員仲間ともシリアのことを今になって話せる。
   自由があるって、すごいこと。
   シリアの人たちにも自由をあげたい。
   私を心配して毎週末家によんで一緒に過ごしてくれた同僚たち、
   私が国外待避できてよかったと心から心配してくれる同僚、
   日本に帰ったら地震の被災地に行くのだと言うと、
   これをもっていってと、被災地の人たちにメッセージを書いてもたせてくれた同僚、
   そんな優しいシリアの人たちに 自由になってほしい。
         




この一ヶ月、こんな思いをして生活し、そして今シリアの人たちのことを憂う友達。
訓練所では毎日教室に残り、遅くまでアラビア語を勉強していた努力家で
いつもへとへとになって部屋に帰ってきていた。
休日の談話室ではシリアの女性が美しく独特のメイクをする様をインターネットで見て
ここにいくんだね こんなふうになるのかなと 話を湧かせ一緒にこれからのことを語り合った。


日本とは全く違う、日本では考えられない生活が、ある国には現実として今も続いている。
自由が当たり前の日本。
思っていることを何でも言える、友達となんでも話せる自由。
どこにでも行ける自由。
命を脅かされることのない、生きることの自由。
それを誰もがあたりまえに享受している日本。

だけど、知ってほしいと思う。
日本でもずっと昔、やはり情報は規制されて、思ったことを口に出せない時代があった。
そして今も、こういう世界があって、そこで奮闘している人たちがいる。
遠く海を隔てた国ではあっても、それは決して無関係ではない。
日本に帰るときシリアの同僚がもたせてくれたという、震災被災者へのメッセージには
自分たちの生活が死を隣り合わせにしながらも、日本のことを想ってくれる
シリア人の思いやりがつまっている。
海を隔てた遠い国日本とシリア。 
その遠い国、日本を一人の日本人ボランティアの存在から、
きっとぐんと近くに感じてくれていたのだろうと思う。


国と国では戦っていたり、組織としては国外待避したりするときでも
人と人との思いはつながっていて、
今この時も友達はシリアの同僚たち、シリアの人々のことを憂う。
      

タイのガスタービン発電施設 日本へ無償貸し出し

2011年04月24日 00時29分05秒 | 青年海外協力隊 二本松訓練所
インターネットで日本のテレビを見ていたら、
タイの電力公社が東京電力に12万2000キロワットのガスタービン発電設備
2機を無償で貸し出しすとのニュースを見る。
ようするに、発電所ごと貸し出すということ。
分解して船で運び、東京近郊に移設され、今年8月の運用開始を目指す。
およそ24万世帯分の電力をまかなうことができるという。

発電機だけを貸し出すことはあっても、発電所を丸ごと貸し出すというケースは
世界でもきわめて珍しいという。
こんな巨大な施設をばらして日本まで持っていくとは、
さすが、タイ王国、タイ人のパワーのすごいこと。
同時にタイ人への感謝の気持ちがわく。


テレビではコメンテーターが今まで通りの電力をほしがるのではなく、
ある電力の中でみあった生活をしていかなくてはならないと言う。

確かに。
いくらでも電力があり、電力を湯水のように使う生活に
私たちは慣れすぎている。

たとえば、山岳民族の人たちは未だ電力をもたない村が多い。
自家発電施設がある村では、その電力に見合う生活をしている。

私も今はタイにいるけれど、
電気を消す、コンセントを抜く
昼間の電気は消す、パソコンを切る、と
日本の皆さんがやっているだろうと思うことをここでやっている。
だけど、それだけではすまないだろう。
足りないものを求め、補おうとやっきになるのではなく、
生活を見直し、あるものでやっていける生活にする。

それが、今これだけ物に満たされてきた日本にはどれだけ難しいことだろう。
何かが試されているのかな。




ガスタービン発電施設。発電機3基のうち2基が分解され、日本に移送される=タイ発電公社提供
   
【バンコク=古田大輔】タイ政府は29日、東日本大震災による福島第一原発などの事故で電力不足に陥っている東京電力に、ガスタービン発電機2基を付属設備を含めて施設丸ごと無料で貸し出すと発表した。1基で約450トン。2基で計24万4千キロワットを供給する能力があり、船で運んで8月中の稼働を目指す。
 東京電力は今夏ピーク時の電力不足を総需要の2割弱の850万~900万キロワットと見積もっており、余剰設備がないかを国内外に打診。タイ政府がほぼ休眠状態だった非常時用のガスタービン発電機2基を貸し出すと申し出た。
 1995年稼働開始の三菱重工製。貸出期間は3~5年で、吸気フィルターや排気ダクトなど付属設備も運ぶ。全体の設置面積は1基約1700平方メートル。設置場所は検討中という。施設の分解と輸送、再組み立てなどを経て稼働は8月ごろになる。
 輸送作業を担当する三菱重工によると、発電機だけを運んで日本で付属設備をそろえるより短期間で稼働できる。これだけの規模の海外移送は「世界的にも聞いたことがない」(担当者)という。

 「日本はこの困難に対し決して孤独ではありません。何でもサポートします」(タイ電力公社の社員)

 ワナラット・チャーンヌクン・エネルギー大臣は記者会見で「日本とタイは120年に及ぶ協力関係にあり、電力についても40年間にわたり提携してきた」と述べた。

                  http://www.asahi.com/international/update/0329/TKY201103290466.html

ラオスとの国境の町 ノーンカイ

2011年04月23日 22時18分03秒 | 旅行

活動への自信のなさ、やりきれなさ、それもあってか
最近はひとりぼっち感を強く感じる。
こういう時はどうするか。
外に出る。旅行に行く。旅だ、旅。
『地球の歩き方』を見ながら選ぶ。
決めた、ここに行こう。

ノーンカイ。
バンコクから615㎞。
ノーンカーイ県はタイ国鉄東北線 最北端の地。
メコン川を隔ててラオスとの国境の街。
メコン川の向こうにはラオスがあり、ラオスの首都ヴィエンチャンまでわずか25km。
タイ=ラオス友好橋がかけられ、陸路によってラオスに行くことができる。
ノーンカーイ県民の場合はビエンチャンへ行くのにビザなしで、簡単に船でいけるという。


ラオスが見たい。メコン川が見たい。
同じイサーン(東北)にある街だが、コンケンとどんな風に違うだろう。
国境の町だなんて、なんとも哀愁漂う響きではないか。
いくぞ、いくぞと荷物をまとめ、
土曜日朝、ちょっと寝坊したものの8時に家を出る。

     
コンケンバスターミナルから2等バス(最ランク下)で、
1時間45分、ウドンタニーへ。
バスを乗り換えさらに45分、ノーンカイへと到着。
お値段 110バーツ(330円程度)
       


ラオス人が布団をどっさり買い込んでバスに乗せているのを見る。
社会主義国のラオスには物資が少ないとラオス隊員が言っていたから
タイで買って持って帰るのだろう。
タイ人もよく私に、日本の布団が欲しいから送ってもらえないかと頼む。
この暑い国で布団は人気の商品のようだ。
暑い国だからこそ、質のいい布団がないのだろうか。
  


ノーンカイバスターミナルに降りたとたん、
バイクタクシー・トゥクトゥク・サムローそしてバスの運転手たちが
どこに行くんだ、さあ乗れ、バイクに乗れ、トゥクトゥクに乗れと群がってくる。
バスターミナルではいつものこと。
私はそれを振り切り、一路 目の前にあるアイスティムのおばちゃんの元へ。
ノーンカイでもアイスティム屋さん見っけ。
おばちゃん、アイスティムください!
     


自転車を借りて街を回ることにする。
遅くなればどこかに泊まっていくつもり。
『地球の歩き方』にあるゲストハウスに向かったが、なんとまあ
このゲストハウスの横柄な態度。
即、出る。知名度が上がるとだんだん天狗になるものなのかな、悲しいこと。
通りで見つけた数軒先の別のゲストハウスへ。
ガイドブックにも載っていないその店は、まごころのある応対。
タイ人はこうでなくっちゃ。 優しいタイ人達なのだから。
この店で自転車を40バーツで借りる。
   



ノーンカイで見たいと思っているところ

① ヴィレッジ・ウィーバー・ハンディクラフツ
 タイでも特に貧しい地域、ノーンカイで活動する自助プロジェクトの店。
 村の女性たちが染め織り上げた製品を扱い、工房では機織りの見学もできる。
 が、いくら探しても見つからない!
 うろうろうろうろ この辺りだと踏んで同じ場所を行ったり来たり。
 が、見つからず、時間切れ。
 全く地図が読めない女なのだ。
    


② リムコーン通り
 メコン川沿いにあるきれいに整備された道。
 川越しにラオスを望める。
 ムクダハンで見たときよりも(→過去ブログ 「観光ムクダハン」
 ラオスが近い! 近い! ラオスはすぐそこ。
 ラオスへの船が出るイミグレーション兼船着き場があり、
 渡し船が日中ひっきりなしに行き交う。
 アーケードには、ラオスやベトナムの特産品を売る店が並ぶ。
      

     



 ③ ワット・ダムドゥアン
 寺の屋上てっぺんに座して、メコン川を見渡す仏像。
 なんとも見晴らしがよさそう。
        


④ ワット・ポーチャイ
 バスターミナルの近くにあり、大きな本堂をもつ。
 本堂の中の仏像はもともとラオスにあったもので、
 洪水で流されて25年間メコンの川底にあったのを
 引きあげられたと言い伝えられている。
 本堂の中は壁一面の絵画がみごと。
       

    


 

⑤ ワット・サーラー・ケーオクー(ワット・ケーク)
 ある在家信者の執念が築き上げた幻想的な寺院。
 「緑豊かな庭園の中に、インドの神話から抜け出してきたかのような
  さまざまな像が並ぶ不思議な寺院」と地球の歩き方にもあるとおり。

 市内から5キロほどの外れにあるため、ガイドブック地図にもなく
 道を尋ね尋ねしながらいく。
 その道のりが、ただの大通り。
 露店もなくだだ広く自転車で行くのには 全くおもしろくない道。
      

 途中時間もないし、引き返そうかと本気で思ったが、
 行ってよかった、見てよかったと思う寺。
      

 そろそろかというときに見えたこの像の異形な姿にまずびっくり。
 なんじゃあれは・・・。
 これはすごいものが見られるかもという予感。
    

 ある在家信者が、メコン川対岸のラオス領でこの寺とよく似た
 最初の寺院を築き、1975年にタイ側に亡命してこの寺院を建てた。
 すべての像にはこの僧の思想が反映されているという。

 一つ一つの像がもつインパクトはあまりにも強烈。
 乱立する不思議な像の数々。
 独特な世界が創り上げられている。
         

  なんじゃこのトンネルは。歯があるぞ。
    

  トンネルをくぐるとこれまた強烈。仏像から伸びた手のひらには、目や耳、鼻がおかれている。
        

  観光客の小さな僧侶たちも、これらに圧倒されてるのかおずおずと見て歩く。
    

  一目見ただけで強烈な印象に圧倒されてしまったこの妖艶な女性。下半身は蛇。髪の毛も蛇。
  手先のなまめかしさに目を奪われる。なんてきれいな指。
       

  いったい何をくわえているのか。この顔も仕草も不思議。
     


  象とそのしもべでもあるかのように付き従うオオカミ(犬?)
  よくみるとこのオオカミたち。 バイクに乗っていたり、拳銃をさしていたり、酒を飲んでいたり。
   
    

  涅槃仏は中世の騎士のよう。 手先がなめらかに反って指先がふくらんでいるのがきれい。
     

  あまりの暑さに、もう一回!
  本当は移動式アイスのアイスティムがいいんだけど、パンにはさんやつがいいんだど、(→過去ブログ 「アイスティム」
  これもおいしいぞ。
  「2つのっけて!」と頼んでダブル仕様に。
   



⑥ タイ・ラオス友好橋
 メコン川にかかり、隣国ラオスとつなぐ橋。
 1994年4月開通。全長1174m。
 中央には鉄道が敷かれていて、ラオスのタナレンまでの路線が開通している。
 これが、ラオス初の旅客鉄道。
 徒歩で途中まで歩けるようになっているため、歩いてみたかったが時間がなく断念。
    



当初泊まってもいいと思っていたノーンカイへの旅だったが、
あいにく天気が悪く、見たいと思っていたメコン川に沈む夕日も
どうやら見られそうもない空模様。
天気が悪いとさびしくなる。
だんだんさびしさが募ってきて、やっぱり泊まらずに帰ろうと
最後のコンケン行きのバスに乗る。

17:30発 が出発したのは19:00。 
出発からすでに1時間半遅れ。なぜ?タイではなんでも起こりうる。
そのバスにざわざわと乗ってきたのがラオス人。
言葉でもそうだが、立ち居振る舞い、行動の様子、しぐさで
タイ人ではないな、と分かる。
分かるようになったのは、私がタイ人をよく知るようになったということか
タイ人化したということか。
この人たち、タイ人じゃないな、外国人だな、と思ったが
私も同じように、いろんな場所で、立ち居振る舞いやしぐさから
この人外国人だな、と思われているのかな。

さて、かかった費用。
・バス往復220バーツ
・トゥクトゥク(3輪タクシー)遅い時間はソンテウがないので仕方なく利用
    100バーツ バスに比べてこの距離でこの値段、高い!
・自転車レンタル  40バーツ
・途中の飲み食い代  アイスティム、水、スイカ、マンゴーなど  60バーツ
計420バーツ  1260円
日帰りとはいえ、なんたる安さ。


小さな国境の町。ノーンカイ。
ラオス、ベトナム、中国のものが混然とあり、
メコン川の雄大な流れも、その向こうにあるラオスの家々も
どことなしにいい。

国境を隔てて隣国を見ながら暮らす人々。
島国日本にはない、異国の混ざり合う独特の雰囲気の街。
    

タイ カンボジア間に紛争

2011年04月22日 04時30分19秒 | 日記

大使館からのお知らせ 緊急一斉メールが届く。
カンボジアとの国境沿いにおいて注意喚起のこと。
以下の通り。

1. 4月22日、タイ(スリン県)とカンボジア(オッドーミェンチェイ州)との国境沿いにおいて、タイとカンボジア両国軍の間で発砲を伴う武力衝突が発生し、両国軍関係者等に死傷者が出ています。     
 

2.また、この衝突により、周辺地域に居住する住民も同地域からの一時避難を余儀なくされている模様です。両国軍事当局同士が、事態の沈静化に向けた話し合いを 
 実施していますが、両軍は、本年2月にも、今回の交戦地域から150kmほど東のプレアビヒア寺院(タイ側呼称:カオ・プラ・ウィハーン遺跡)周辺地域において武力衝突 を繰り返した経緯があり、未だ収束をみていないため、同国境沿い及び周辺地域においては今後も同様に武力衝突が再発する可能性があります。 
 

3.つきましては、タイ・カンボジア国境付近及びその周辺地域への訪問は、現地情勢が安定するまで見合わせるようにしてください。やむを得ず国境付近を訪問する場合には、在タイ日本国大使館に連絡の上、最新の情報を入手するとともに、危険に巻き込まれないよう行動予定を慎重に検討し、安全対策に努めてください。
 





ひやっとした。
週末を利用して、ラオスとの国境の町、
東北部のてっぺんにあるノーンカイという街に行こうと思っていたから。
カンボジアとの国境付近に近づくな。
カオ・プラ・ウィハーン遺跡周辺、スリン県とは地図でいうと東北の下部。
ノーンカイは同じ東北ではあるが、上部であり真反対。
ノーンカイに行くのには問題なさそう。

にしても、カオ・プラ・ウィハーン遺跡はいつかいきたいと思っている遺跡。
カンボジアではプレアヴィヒア寺院とよばれ、カンボジアとタイの国境にある
ダンレク山地内のカンボジア王国領内に位置する。
が、入るのはタイ王国側から。
カンボジア領として2008年世界遺産に登録された。
      
  

以前から両国共に所有権を主張しあっていたが、
遺跡の世界遺産登録を巡って両国間で紛争がおこり、
今現在入れない状態。
そして、今回またしてもの武力衝突。
      


陸続きの国同士は仲のいい国はない、と誰かが言っていた。
だから、国境があると。


   私の任期中にカオ・プラ・ウィハーン遺跡に行ける日はくるだろうか。

おすすめ ゲストハウス in チェンマイ 

2011年04月21日 14時59分18秒 | 旅行
街並みの中に自然に遺跡があり 城壁があり お堀があり 寺があり、
赤いソンテウが市内を走り、いまだタクシーではなくトゥクトゥクが主流で
こじんまりとしていて でも全てがそろっているチェンマイ。
おしゃれでチェンマイならではの地域性や文化があり
北方のバラといわれる美しい街。

タイ第2の都市ともいわれながらバンコクのように雑然とビルが建ち並ぶわけでもなく
タイ人のよさを感じさせる人がいまだ多くいて
外国人旅行者を大きく包み込んでなお 自分らしさを失わず
上手に融合しているように見えるチェンマイ。

個人的にはバンコクよりもいいと思うチェンマイ。


そんな 大好きなチェンマイのおすすめゲストハウス。





1 ミカサゲストハウス

  住所 2/2 Soi 4, Thapae Rd., Chang Klan, Muang, Chiang Mai 50000
  電話 ☎ +66 (0)53-209127-8 Fax: +66 (0)53-209128


=特徴=
  おしゃれで一部屋一部屋の内装が凝った独特の雰囲気。
  外国人に人気の宿。
  穏やかで優しいスタッフに癒される。
  ターぺー門に近くて何をするにも便利。
  ナイトマーケットもサンデーマーケットも歩いて行ける。
  オーナーが日本人(常駐はしていない)、メールは日本語OK。
  ネット24H無料なのが嬉しい。
  バイク・自転車レンタル、ランドリーを同経営しているのが便利。
        
        

=お部屋=
  独創的なそれぞれの部屋の名前は色の名前になっている。
  テレビ、冷蔵庫、バスタオル・ボディーソープ、シャンプーあり。
  エアコンなしファンルーム Taroルーム シングル200バーツから、
  最高級は Greyルーム、エアコン・シャワー・トイレ・バルコニーつきダブル 1200バーツまで 様々な部屋がある。 
     

  エアコンなしシングル Yellowルーム350バーツの部屋(トイレ・ホットシャワー共同 きれいで利用者も少ないので独占に近い)
          

  エアコンつきシングル×2 Redルーム600バーツ
       (エアコンを使わなければ450バーツ。トイレ・シャワー共同)
     

  エアコンつきダブル Violet 900バーツ(ハイシーズンは1000。プライベートシャワー・トイレ) 
      


=その他=
  大量の漫画本がある。
      
  フリースを着た看板犬がかわいらしい仕草でそこら辺をウロウロ。
  その名も 「相撲」。
  「スモー!スモー!」と呼ばれ、のっしのっしと歩く。
  バターを塗ったパンとタロイモが大好物の小太りで愛嬌いっぱいのワンコ。
         
               





2 グリーンデイズ 

  住所:4/2 Loi Kroh Soi 3, T. Changklan A. Muang Chiang Mai 50100 Thailand
  電話 +66 (0)53-449-522  
  オーナー(あつこさん)携帯 +66 (0) 82-183-5703
  E-mail: greendays.cm@gmail.com
  ホームページ   http://www.green-days.org/
  営業時間:11:00〜21:00     定休日 :日曜日とタイの祝祭日


=特徴=
  全体が明るく、清潔感いっぱい。
  オーナーが日本人女性で昼間は常駐。 日本語での電話予約OK。
  ロングステーしたくなる宿で、日本人客が多い。
  ロイクロマッサージスクール前、夜は激しく賑わうロイクロ通りからすぐ、ナイトマーケットも歩いて行ける。
  一階のカフェがおいしくて(特にチェンマイ在住の日本人に)人気。
  バイク・自転車レンタルもあり便利。


=お部屋=
  どの部屋も気持ちよく、安心して過ごせる。
  ただし、部屋数が少ないので早めの予約が必要。
  若干風通しが悪く暑いのが難点だが、扇風機があればしのげる。
  エアコンは使った分だけ支払う別途料金。

  共同シャワーとバスタブ、バスタオル、フェイスタオル、共同冷蔵庫、共同スペースにテレビあり。
    


=その他=
  カフェレストランではタイ料理ではないが、オーナーこだわりの食材で
  一つ一つ手の込んだ心のこもった料理が味わえる。本当に美味しい。
  マンゴースムージーとゴマ&ピーナッツスムージーは500mlと巨大でびっくり。
  絶品なのでぜひ。 お値段は50バーツ(150円程度) 
  甘酸っぱいマンゴのはいったお寿司もおすすめ。日本ではなかなかお目にかかれないでしょう。
         







3  Huen Panicha Guest House

   住所 16/5 Loi Khor soi2 Rd. Chang Khlan, Muang,Chaing Mai 50100
   電話 +66(0)53-208-828
   E-mail:  panicha@huenpanicha.com
   ホームページ http://www.travellerspoint.com/accommodation/29210-Huen-Panicha/


=特徴= 
  安い、そのわりにこぎれい。
  ロイクロ通りからすぐの場所で、ナイトマーケットに行くのも便利。
  部屋数は多い。
  インターネット、宿泊客は1日1時間無料。
  この値段で泊まれるなら、こぎれいで感じもよくていいゲストハウス。
      


=お部屋=
  シングル1泊200バーツのファンルームから。
  エアコンルーム 350バーツ。
  共同バスルーム(ホットシャワー)、バスタオル、フェイスタオル、バスローブ、共同冷蔵庫。
       
   

私の鞄

2011年04月20日 14時03分57秒 | 日記
私の鞄。
タイに来てまもなくのころ、バンコクで300バーツ(900円程度)で買った鞄。
青い布地に象の模様がたくさんあるのが気に入って
買ってからは、毎週のように使っていた鞄。

配属先の研修旅行に行ったとき、家族が来たとき、
バンコクに上がるとき、アユタヤに行ったとき、
スコータイに行ったとき、ピマーイに行ったとき、
ムクダハンに行ったとき、アンパワーに行ったとき、
チェンマイに行ったとき、
と、タイのあちこちに行くときにいつもこの鞄に荷物を詰めて
一緒に連れ歩いた愛着いっぱいの鞄。

ある時は、バスの下の荷物倉庫に預けたら、
雨も降っていないのになぜだかびしょ濡れになって出てきた。
タイのバスは摩訶不思議。 何でも起こりうる。
それでも、中がビニールの防水生地になっているため
大事なものが濡れずにすんだ、大事なものを守ってくれた鞄。

ある時は、バスの乗務員から座席の下にぎゅうぎゅうに押し込まれ、
床と座席の間で悲鳴を上げながら十何時間も耐えてくれた鞄。
あちこち連れ回され、乗務員から蹴られ、床にすりつけられ汚れ、
何度も洗った。 それでもいつも うす汚れていた鞄。
中のビニールも破れはじめたが、それでもまだ大事に使っていた鞄。
   


が、とうとう、ファスナーが壊れてしまった。
ファスナーの左右が分解。
こうなるともう戻しようがないと思うのだが、
どうしてもあきらめきれない。
“ここまで一緒にやってきたじゃない、もうちょっとがんばってよ”
と、鞄に叱咤激励して話しかけ、
ど根性でファスナー直しを試みると、なんと、元に戻った。

一度左右離ればなれになったファスナーを戻した。
これには自分でもびっくり。 スゴ技が身についたものだ。

その後も、ファスナーが壊れること何十回か、数えきれず。
そのたびに、時間をかけてなんとか直し、しのいできたけれど
旅の途中、とうとう、どうにもこうにもならなくなった。
直しても直したそばからファスナーがあく。
もう、閉まらない。

チェンマイからコンケンに戻るバス。
愛着のある鞄を捨てるにも置いて行くにも耐え難く、
ゲストハウスでセロテープを借り、ぐるぐる巻いてバスに持ち込む。
   

いつも、この鞄をぎゅうぎゅう座席の下に押し込んでいた乗務員が
また、このセロテープで瀕死の状態の鞄を押し込む。

これが、最後になるかな。
一番よく行った街、チェンマイで最期を迎えた私のこの鞄。
鞄も最期の場所をチェンマイと選んだのかもしれない。

9ヶ月間の間に、使った回数は何十回か、
日本で暮らしていたらと比較すると、
その何年分をこの9ヶ月間で酷使しただろう。


お役目を十分に果たした 私の鞄。
だけど、捨てられず。
私の部屋の片隅で
私の任期最後まで、私を見守ってもらうことにする。

GMMグラミーで Thai for JapanのTシャツを買う

2011年04月20日 04時29分45秒 | 日記
家族を迎えにバンコク上京。
そのチャンスを利用して、スクムビットにある
GMMグラミー本社へ。
お目当ては Thai for Japan のTシャツ購入。(→3月28日ブログ 「Thai for Japan」


タイの著名アーティストたちが所属するという事務所だけに立派な建物。

その1階フロアで販売されいていたTシャツ。
フロアは人だかりでTシャツも飛ぶように売れる。
さっそくTシャツを着て歩く人もいる。
日本のために募金運動をしている人もいる。


列に並び、250バーツのTシャツを6枚購入。
   
 
バンコクでは数人、このTシャツを着て歩く人を見かけた。


この売上金が日本への支援となる。

まさか日本が史上最大の地震、そして津波に見舞われるとは思ってもいなかった。
自分がまさか、そのようなときに海外で青年海外協力隊として活動しているとも思ってもみなかった。
そして、海外から日本を見て、海外の人たちと共に日本を心配する立場にいるとも思わなかった。
ここ、タイの人たちとともに、日本を支援するための募金やTシャツ購入をするなんて、
思いもしなかったこと。

思いもしなかったことの連続だが、今を受け止めてやっていく。
ここにいてできることはいくつもある。



ラオス隊員 コンケン来訪

2011年04月19日 14時21分57秒 | 青年海外協力隊たちの活動
私たち青年海外協力隊は、派遣国に行く前に65日間の
派遣前訓練をうける。
昨年4月からの65日間を、福島の二本松訓練所で共に過ごした
同期隊員がタイへやってきた。
彼女が活動するのはタイの隣国、ラオス。任地はサワンナケート。職種は看護師。

派遣国が隣国同士であり、ラオス語とタイ語はよく似ていることもあり、
訓練所にいるときから親しく、いつか必ず行くからと互いに約束していた。
その同期が国境を越え、本当に会いに来てくれた。
   
  真珠と象のろうそくとラオス山岳民族の品をもって。


今でも、思い出せば心が震えるようなすばらしい出会いが詰まっていた
二本松訓練所での65日間。
人生の宝となり得る、その時間を共有した仲間。
あれから9ヶ月の時を経て、このタイで会えた感激、
言葉にならない思いで、二人抱き合って再会を実感する。
      


ソンクラーン後の嘘のように静まりかえったチェンマイで合流。 (→ブログ 「ソンクラーン in チェンマイ」 → You-tube動画ソンクラーン
まずはチェンマイで一日過ごす。
私のブログをよく見てくれている彼女は、アイスティムもブログで学習済み。
ラオスにはないという、パン+カオニャオ+アイスの奇跡のトッピングにかぶりつく。 (→ 過去ブログ 「アイスティム」

      


ラオスは社会主義のため、物が少なく物価は高いのだ
と、タイでの買い物を楽しむ。
彼女のラオス語はちゃんと通じてて、店の人とも楽しげに会話。
日本人がタイ語を話すのでも驚く人が多いのに
ラオス語を話すなんて。
どこに行っても驚きと歓喜の扱いを受ける。
      


一緒にコンケンへ。
いつも乗っているバスがいっぱいで、
一番下のランクの2等バスに乗ることになったが、
ラオスのバスに比べればこれでもとてもきれいなのだと喜ぶ彼女。
満席の乗客の中、途中、警察官が乗ってきて私たち二人にだけパスポートの提示や職務質問があった。
2等バスに乗っている外国人だからか、色眼鏡で見られているようで
正直、むっとする。
    


コンケンバスターミナルでは白い粉まみれのバスがあり
コンケンでのソンクラーンの激しさを想像。
バンコク、チェンマイのソンクラーンが有名だが、
コンケンもかなりの派手さらしい。
今回、ソンクランを任地にいられなかったのはちょっぴり残念。 ああ美女もこんな姿に。
     


ようこそコンケンへ。 私のアパートに到着。
  



私の配属先 第9特別教育センターコンケンへ。
ラオス語を話す彼女の登場で、みんな大うけ。
ラオス語はタイのイサーン語(東北弁)とそっくりなのだ。
だから、ここコンケンの人たちでラオス語を話し理解する人も多い。
いつもイサーン語(東北弁)がよく分からない私に、わざとイサーン語で話しかけ
分からない反応を見て喜んでいた人も、彼女がイサーン語を理解するので
ワーオ ワーオ と驚嘆。 私も爽快。

     ラオス語       タイ語
「コプチャイ ライライ」= 「コップンマーク」 (ほんとにありがとう)
  「メンボっ?」   = 「チャイマイ?」  (そうなの?)
  「ボッ?」     = 「ジンロー?」   (本当?)
「ソクディードゥー」  = 「チョークディーナ」(さようなら グッドラック)

訓練所でも、先生が言っていた。
青森弁や博多弁を話す外国人がいたら日本人にうけるのと同じように
日本人がイサーン語やラオス語を話せば、タイ人はうけて喜ぶと。
「コプチャイライライ」(ありがとう)と彼女の口から出るラオ語に
オォー!と、大うけ、みな大喜び。 センターのどこにいっても盛り上がる。
   


なじみのナムプリック屋のおばちゃんも、ラオ語で話す彼女をすぐに気に入る。
ゲラゲラ大笑いしながら
「日本人がラオ語しゃべってるよ-!」と騒ぐ。
   


   


ラオス語でひるむことなく話し、応対する彼女。
見ていると返事がいいのだ。
「ウ ウ」「ジャ ジャ」「ボ?」などラオス語の相づちをよくうち、のりがいいのだ。
ここイサーンではラオス語を理解する人が確かに多い。
とはいえ、全員ではないし 同じではない言葉もある。
だけど、ひるまない明るいのりと、相手の話を聞いていますよ、と相手を気持ちよくさせる相づちで
一気に溶け込む彼女。
言語の壁を日々感じている私だけど、やはり、
壁になるのは単純に言語の問題だけではないな、
私自信の溶け込もうとする気持ちが大きく左右しているのだなと
彼女を見ながら感じる。反省すべきところ。


ラオス語が上手で、すっかりラオス人。
イサーン地方コンケンでも不自由なく暮らせそうな勢い。
道行くソンテウもみごとな手さばきで止める。
     


コンケンにあるデパート、セントラルプラザ。
ヤマザキが入っていて、夕方運が良ければ
どっさり袋に詰まったパンの耳がたったの22バーツ(66円)で買える。
いろんな味のパンの耳やきれはしがどっさり。
彼女に勧めるとラオスへ帰るお土産にと購入。
パンの耳をお土産に買って持って帰る彼女がとても好き。
おいしいおいしと もぐもぐ食べる。
      
             


バスが定刻通りに着かず、配属先に遅く着いたのと
ソンクラン明けで子どもたちが少なく午後の個別がなかったのとで
彼女はほとんど私の活動は見られなかった。
それをとても残念がり、私と子どもたちとの関わりが見たかったと言う彼女。
私のブログを本当によく読んでくれていて、感動を覚えるほど。
あの子を知っている、この掲示板も見た、この道具もブログで見た、
隊員総会ではこんなことがあったんでしょう、ああここがさちえが行った歯科ね、と、
今さら話さなくてもなんでも知っているのだ。
今まで私の生活のすぐそばにいてくれたかのような気持ちの疎通感。
知らないうちに、こんなに読まれ、応援してもらっていたとは。


チェンマイソーセージやイサーンソーセージを食べ、
2人で買い物をし、試着室でファッションショー、
おそろいの服を買い、バスの中では長い時間おしゃべりし、
女友達と日本にいるかのように過ごした3日間。
    
        


タイ隊員、私の次隊は男女2名のみ。
ほぼタイ同期がいないに等しい状態で
コンケンで一人で過ごし、他国の隊員をうらやましく思うこともあった。

久々に友達と会い、楽しい時間を過ごし、
ああ友達ってこういうものだったなと思い出した。
楽しかった分、別れの寂しいことといったらない。
  

私は知らないだろうけど、このブログを読んで応援してくれている仲間も
たくさんいるのよと言ってくれた彼女。
一人ぼっちでコンケンにいるような気になっていたが
私の仲間は ちゃんといる。


隣国ラオス、どんな国なのか見てみたい。
タイ、イサーンと似た言語を話し、タイに近い国。
私も必ず約束を果たしに ラオスに行く。

チュアイガン  助け合い

2011年04月18日 04時52分57秒 | 日記
日本国内のニュース・CMは震災のお悔やみや尋ね人が流れる日々。
JICAタイ事務所からも、個々のブログの記載についても注意を払うようにとの知らせがあった。
海外に支援している場合ではないと、青年海外協力隊派遣やODAに対し
厳しい意見が寄せられていることから。

純粋な活動報告や文化紹介も控えるようにと言われると、
事実上、何も書くことができない。

資源も武器も持たない日本が、身を守り外交していく一つの手段が国際協力。
窮地に立たされた今、日本がこれほど海外からの支援を受けている理由の一つには
これまでの海外への支援、ODA、協力隊派遣を行ってきたから
ということがあるのは否めないと思うのだが。

タイではつい先日、異常気象により数日間激しい雨が続き洪水が発生。
南部の8つの県に水が押し寄せ、少なくとも11人が死亡、71万人が被災した。
だが、それでも日本への支援を続けている。
海外から支援を受ける途上国(タイは中進国)でもあるのに。
自国のことだけでも大変なときに、変わらず人々は日本を心配し、
会えば口々に「日本はどうだ?あなたの家はどうだ?」と聞く。

タイのタンブン文化(人に施しをして徳を積むという仏教思想)と
日本の文化の違いと言えばそれまでだが、
細かいことを言わないおおらかさ、みんなひっくるめて
「チュアイガン(=助け合い)」というタイ人精神に心打たれることが
ここ最近特に多い。


タイ人がよく口にする「チュアイガン」。
たとえば露天でたくさん買い物をしたとき、
値段をずいぶん下げてくれた店員さんに、ありがとうというと
「チュアイガン(助け合い)です。たくさん買ってくれた。
私もできるだけ安くして、二人とも助け合いです。」
と言われたことがある。
基本的姿勢が、商売根性よりも、どこまで相手にしてやれるかという
施しの精神が強くあるのだ。

チュアイガン。助け合い。
相手が困っているとき、自分がどんな状況であっても助けようとする。
タイのスラムに住む人たちが、日本のために募金してくれたように。 
(→3月22日ブログ 「東北地方太平洋沖地震 タイから日本へたくさんの支援」


どこまで相手のためにできるか、今試されているのかもしれない。


ゆとりのあるときだけの支援は、優位に立った施しであって
本当の思いやりや助け合いではないと思う。

日本は今確かに、これまでにない危機的な状況にある。
だからこそ、今の行動が真価を問われる。
危機的な状況、追い詰められた状況で人間そのもの、国そのものがわかる。


今、賛否両論あるけれど、日本のこれまでの海外支援の実績をとめてほしくない。
どんなときでも海外への支援は行おうとする日本であってくれたらと思う。
礼儀正しい日本。 秩序ある日本。 譲り合い、感謝、そして思いやりのある日本。
たとえ自国が大変なときでも、他者への思いやりの精神をなくさない。
そんな誇らしい日本であって欲しいと思う。
日本はそんな誇らしい国となり得ると思う。