ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

任期中に読んだたくさんの本は私を育てたか

2012年03月24日 03時18分52秒 | 日記
任国ではさぞかし本には飢えるだろうと思っていた。
が、実際はコンケンで日本語の本を手に入れるのは難しいけれど、
バンコクでなら日本語の本も手に入るし、日本の本の古本屋もある。


私たち隊員がバンコクに上京した際に寝泊まりするボランティア連絡所(通称隊員ハウス)の図書室にも (→過去ブログ 「隊員ハウスはこんな感じ」
読みきれないほどの本がどっさりとある。
海外での生活の中で読む本は、日本で読むのとはまたちがう感動や発見がある。
    
  
マンガに読みふけったこともあった。
   


図書室には隊員たちが置いていった本がどっさり。
私もずいぶんと置いてきた。
   


隊員ハウスは引っ越しし、今はもうこの図書室もない。


読書はもともと大好きだったが、日本で仕事をしながら読書を楽しむには
なかなかゆとりがない毎日だった。
だけど、タイでは「待つ」時間がやたらと多い。
移動の時間も多い。
バンコクまでのバス移動6時間は読書の時間。
日本ではあんなに車酔いしていたのに、不思議とタイでは読書しても酔わなかった。
寝る前も必ず本を読んだ。


日本でだったらついつい友達としゃべる時間、テレビを見る時間に充てていた時間が
不自由な言語の世界にいると、それらの時間がすべて読書の時間に移行できてしまう。
そんなふうに読書ができる環境があるためか、隊員同士でもよく本の貸し借りをした。
新刊は人気で、次は誰、と約束して貸しあった。
日本にいる時とは、本の価値が違った。


「本は心の栄養」
という言葉がある。


人間は自分一人の経験だけでは、視野や考えが限られる。
読書することによって、今この場所から見られないものを見たり、疑似体験をしたりして
経験値を増やしていけるのだ。
だから、どんどん本を読み、世界を広げていくべきだ。



この2年間で読んだ本をあげてみた。
こんなにある。

 「悼む人」「永遠の仔 上・下」  天童荒太
 「赤朽葉家の伝説」  桜庭一樹
 「手紙」「約束」「悪意」「宿命」「白銀ジャック」「時生」「さまよう刃」「十字屋敷のピエロ」「夜明けの街で」
 「探偵ガリレオ」「探偵俱楽部」「どちらかが彼女を殺した」「私が彼を殺した」「新参者」   東野圭吾
 「1Q84(Book1・2・3)」 村上春樹
 「サヨナラ イツカ」 辻仁成
 「ダーク 上下」  桐野夏生
 「博士の愛した数式」 小川洋子
 「闇の子どもたち」 梁石日
 「ふたり」  赤川次郎
 「葉桜の季節に君を想うということ」 歌野晶午
 「変身」 カフカ
 「瑠璃でもなく玻璃でもなく」  唯川恵
 「星の王子様」 サンテグジュベリ
 「うつくしい子ども」 石田衣良
 「姫椿」「月のしずく」「薔薇盗人」  浅田次郎
 「女のしくじり」 ゴマブッ子
 「愛が壊れるとき」  ナンシー・プレイス 成田 朱美訳
 「愉楽の園」  宮本輝
 「彼女がその名を知らない鳥たち」  沼田まほかる
 「グラスホッパー」  伊坂幸太郎
 「東北タイの子」 カムブーン・ブンタヴィー 星野龍夫訳
 「ご機嫌の法則100」  伊藤守
 「センセイの鞄」  川上弘美
 「空中ブランコ」  奥田英朗
 「八日目の蝉」   角田光代
 「愛を乞う人」  下田治美
 「筆談ホステス」  斉藤里恵
 「あたしの一生」 ディー・レディー  江國香織訳
 「チーム・バチスタの栄光」  海堂尊
 「さくらさくら おとなが恋して」「女のことわざ辞典」 林真理子
 「流転の王妃の昭和史」  愛新覚羅 浩
 「宮沢賢治詩集」「風の又三郎」 宮沢賢治
 「堕落論」 坂口安吾
 「生協の白石さん」  白石昌則
 「いつか記憶からこぼれおちるとしても」「冷静と情熱の間」 江國香織
 「魔王」   伊坂幸太郎
 「機関車先生」  伊集院静
 「13階段」  高野和明
 「ノルウェイの森」  村上春樹
 「ダイヤモンドは傷つかない」 三石由起子
 「間違われた女」  小池真理子  
 「夜行観覧車」  湊かなえ
 「地球の歩き方 ラオス」
 「地球の歩き方 ベトナム」
 「地球の歩き方 カンボジア」


たくさん 読んだ。
バスの中で、バスターミナルで、部屋で。
タイのいろんな場所で。


豊かな読書生活も、一旦ストップかな。


これだけの本を読んで、私の視野や考えは、多少なりとも広がったのか。
うーん、ちょっと自信ないけど、
きっと、そうだろう、そうだろうと言い聞かせよう。





  

落ちこぼれ

2012年03月22日 04時39分49秒 | 日記



成田空港で、階下に降りるエスカレーター。
道は二つに分かれている。
どちらも下りのエレベーター。
だけど 二つに分かれているということは、行き先が同じに見えて違うのかもしれないな、
なんて思う。
目に飛び込む文字 「前を向いて」。

     


前を向いて顔を上げて、そうやって一瞬一瞬どちらに進むか常に選択をし、
人はきっとみな懸命に生きている。
そうして選んだ道を生きて、私はタイに行き、今ここにいるのだろう。


つまずかないように、前を向いて。
顔を上げて。
かっこよく、颯爽と歩いて行こう。
そう行きたいものだ。


だけど、前を向けないときだってある。
ある、ある。
そういうときは、じっと下を向いてうつむいててもいい。








 『落ちこぼれ』   茨木のり子


   落ちこぼれ
    和菓子の名につけたいようなやさしさ

   落ちこぼれ
    いまは自嘲(じちょう)や出来そこないの謂(いわれ)

   落ちこぼれないための
    ばかばかしくも切ない修行

   落ちこぼれにこそ
    魅力も風合いも薫るのに

   落ちこぼれの実
    いっぱい包容できるのが豊かな大地

   それならお前が落ちこぼれろ
    はい 女としてはとっくに落ちこぼれ

   落ちこぼれずに旨げに成って
    むざむざ食われてなるものか

   落ちこぼれ
    結果でなく

   落ちこぼれ
    華々しい意志であれ






ドキッとするタイトル。 『落ちこぼれ』


落ちこぼれは広辞苑では
  ① 落ちてちらばっているもの
  ② あまりもの。 残り物
  ③ 普通一般から取り残された人。特に授業についていけない生徒。

いいイメージの言葉ではない。
そこから和菓子を連想するなんて思いもよらない。


だけど、茨木のり子さんは落ちこぼれの魅力をうたう。
自らも女としては落ちこぼれだという。
そして、落ちこぼれは結果ではなく、華々しい意志であれ、と結ぶ。


「落ちこぼれ」という名のできそこないが、
それを自覚して、ゆっくりと、ゆっくりとだが、美味しく育っていく。
こんなに美味しく育っているのに、むざむざ食われてなるものか。

落ちこぼれこそ、魅力も風合いも薫る、
落ちこぼれの実がある場所、それこそいっぱい包容できる豊かな大地。
ええい、落ちこぼれたことのないヤツなんかに 負けるものか。
味わいがましてこんなに豊かなのだから。


私たち協力隊員の多くが、任国で自分の力のなさを感じ、
自分は役に立っているのだろうか、なんのためにここにいるのだろうかと、
存在の意味を考え悩み、葛藤したと思う。
私はそうだった。
でも、ある日、自転車をこぎこぎ配属先に向かう道で、小さな小さな花を見つけて思った。
下を向いているからこそ、気づくことがある。
上を向けない時期があるからこそ、気づく小さなことがある。
落ちこぼれたからこそ、ひしと感じられた人間の優しさや、豊かさがある。



人間はそれぞれ。
やり方も、目の向け方も、生き方も、ころび方も、人それぞれ。
「落ちこぼれ」という言葉。
この詩に会ってから、好きになった。
香り豊かで魅力にあふれた、落ちこぼれ。

凛と 華々しく、自分の意志で咲き誇れ。

      

      


帰国の途  ― 帰国プログラム

2012年03月21日 15時56分14秒 | 日記


仏暦2555年(西暦2012年)3月20日。
任期満了となりタイをあとにする。
スワンナプーム国際空港から 成田空港へ。
     


ヤック(鬼)が見守る中、帰国隊員恒例のメッセージを書く。
        


見送られるのはなんだかむずむずする。
それに再赴任してからの4ヶ月、自分のことだけをひたすらにやらせてもらって
総会も隊員ハウス清掃も出席せず、そんな私を最後に早朝4時半に出発し、見送ってもらうのはしのびない。
他隊員とほとんど行動をともにしなかった私は、
タイ生活の最後も一人でひっそり帰るのが性に合っていると思っていた。
そんな引け目もあって見送りも断ったのだけれど、それでも見送ってくれるという。
むずむずして ちょっと照れくさくあるものの、じんときた。
いいものだなと思う。
空港での最後の見送りに、手を振りながらじんときた。
     


公用パスポートで通る道は、一般の通路と違っているので、スイスイと通れてしまう。
がらんとして誰もいない、いわば特別なこの通路を、8ヶ月前、
日本に帰るのはいやだと泣きながら歩いた。
どうしてこんなことになったんだろうと、やり遂げられず半ばで帰ることが悔しくて
情けなくて、コンケンの人たちの顔が浮かんで、
もうタイには帰って来られないんじゃないかと絶望感いっぱいで泣きながら歩いた。
この道を歩くとそれを思い出す。
思い出せば苦しくて、今でも涙が出てくる。
     


けれど、こうして歩く今の心の中は、悔しさや情けなさ、絶望感は消え去って
満足感や感謝がたっぷり詰まって、ちゃんと満たされている。
そして、あの時に感じた「コンケンの人たちにどうしてもまた会いたい」という焦りに近い思いも
もっと、ゆったりとしたものにかわっていて、恋しく愛おしく思う「元気でまた会いたい」に変わっている。

        
  

そう変わっていけたのは、タイの人たちの力。
コンケンの人たちの優しさ。
さしのべられたたくさんの手のおかげ。
これでもかというほど世話を焼かせてしまった調整員と、最後の最後の夜、望んでいた話ができたから。
すっきりとした、嬉しい名残惜しさをもって、タイをもう一度離れる。





フライトは6時間。
乗ったとたんに、ぐっすりと眠る。
       



帰国の実感もなく、成田に到着する。
出迎えたのはこの文字。
タイ語がない。
寂しいなと思うと同時に、そうかタイ語はやっぱりメジャーな言葉じゃないんだなと
でも毎日私にはメジャーな言葉だったなと当たり前のことだけど、思う。
     


重い荷物を運び、ホテルに到着する。
電車の乗り継ぎにどっと疲れる。
日本の寒さに震える。
明日は帰国プログラム、そのために次は何をする?と、
次のこと次のことを考えこなしていくのに精一杯。
このホテルだってつい2日前にとったくらい、先のことを考える余裕がなかった。
それがまだ続いている状態。

翌日JICA地球広場で行われた帰国プログラムは、現職教員参加制度を利用して参加した
22年度1次隊の帰国隊員が集まる。
タイは一人だけ。
そもそも、22-1派遣人数そのものが計2人だったから、その点訓練所時代からひっそりとしたもの。
     


公用パスポートを返却。
命の次に大事にしなさいとよくよく言われていたこのパスポートともお別れ。
     


感謝状を受けとる。
外務大臣の名前があるのを見て、そうか日本を背負っていたんだなと、
以前はそのことに鼻息荒く意気込んでいたことを思い出す。
次第にそんなことを忘れていたけれど、それはよかったことなのだろうと思う。
ひとりの人間がタイを好きになり、コンケンを好きになり、その地の人と同じものを食べ同じ言語を話し、
同じような生活をして、タイ人になろうとした。
草の根の活動に、余計な気負いや誇りはいらなかったのだと思う。
      


生活班が一緒だった仲間とも、1年9ヶ月間、国は違っても悩みを話し、
喜びを分け合い、励ましあってきた。
やっと再会する。
モザンピーク、フィリピン、カンボジアの仲間たち。
       


2日間の帰国プログラムは、健康診断で幕を閉じる。
草の根レベルで活動してきた青年海外協力隊員は寄生虫がいる可能性が高いのだとか。
ケニヤ、モザンピーク、ザンビア、モロッコ、フィリピン、カンボジア、タイ、
各国の検便が健康診断で一堂に会する。
それも見物。
     


1年9ヶ月間、あんなに楽しみにしていた再会は、
各国様々に変化があり、でも変わっていないところもあり。
やはりご近所のアジア圏よりもアフリカ圏となるとドラマチックで、
髪が激しく伸びて別人のようになっていたり、時差できつそうだったり、
日焼けした腕を美容師さんから「一体どうしたんですか?!」と驚かれたり、
「ケニヤは毎日サファリで暮らしてるようなものやで!」とびっくりの生活を話してくれる。

驚いたのは、ほとんどみんながジャケットを着てちゃんと正装をしていたこと。
アフリカ隊員はもっとアフリカ丸出しであらわれると思っていたので、すこしさびしい、なんて思ってしまう。
でも、これでこそ現職教員集団だ、常識的じゃないかと、誇らしくも思える。

日本に帰ってきて感じる空気、匂い、町並み、人々にショックを受けたり感激したりしながら、
続々携帯電話を買いに走ったり、続々ラーメン屋に流れ込んだり、
みんなわーわー騒いでいる。
世界中が1つの場所に集まっている不思議でわくわくする再会。

誰もが任国を愛していて、任国がどれほどよかったかを話す。
いいな、いいな、この感じ。
私もホテル内や廊下でつい裸足になってしまうタイ隊員のまま東京にいて
タイのことならいくらでも話したい、聞いて聞いてと教員仲間たちに話す。










協力隊生活 最後のコンケン

2012年03月15日 23時58分32秒 | 日記



朝、お母さんがカオニャオを蒸す いいにおいをかぐのも、
お父さんのお祈りをする姿を見るのも、
    


たわわに根本まで実ったジャックフルーツの下に、線香の煙が漂うのを見るのも
お父さんと一緒にサイバーツするのも、コンケンで今日が最後。
    



さちえ、おばあちゃんと一緒に写真を撮ってあげなさい、とお母さんが言うので
一緒に並ぶけれど、キットゥンで、おばあちゃんも少し元気がない。
     


お父さんとお母さんは、朝から顔に元気がない。
どうしたのと尋ねると、
昨日は私が泣いたから心配になり、それにくわえて
私の仕事がちゃんと終わって眠れたのかかどうかも心配で、
二人が眠れなかったのだという。


お母さんに頼まれてソイローポーショーに朝ご飯のお使いに行くと、
ラッキーがついてくる。
お父さんお母さんはもちろんだけど、ラッキーとは心が通じ合っているように
思う時がたびたびあって、ラッキーに慰められることがこれまでにたくさんあった。
      


果物屋のおばちゃんのかわいいこんな姿もしばらくは見られない。
      


お使いを終えて帰ろうとすると、ラッキーが待っていてくれる。
こういうことは初めてで、ラッキーも今日でしばらく会えなくなることを
分かっているのかなと思う、そう思うほどラッキーは賢く心が伝わる犬だ。
      


最後のコンケンでの朝ご飯は、カイモッデーン(赤アリの卵)の入った卵焼き。
      


お使い先で、やっぱりお別れの品をあれこれもらう。
      


最終日のぎりぎりまで荷物が増えるんじゃないかと思っていたけれど、やはり。
荷造りしてきっちりとつめていた荷物が入らなくなり、急きょ
郵送することにして、お父さんに郵便局に連れて行ってもらう。
      
     

かなり前もって荷物の準備を始めていた私でも結局最終日は時間との戦い。
最後の時間はゆっくりとお父さんお母さんと過ごしたいと思って、
その時間を作るためにも、必死で部屋の片付けと最後のあれこれ処理仕事。
3時になり、やっと全て終了する。
    


6時に出発するまでのたった3時間だけど、大好きな人たちと過ごす。
ナムプリック屋の娘のレックは、私に店の名前が入ったかわいいTシャツを作ってくれた。
2人でおそろいのTシャツを着て写真を撮る。
あちこちかけまわってきたので、私は汗だく。
      


あらためて、ソイローポーショーの人たちに会いに行く。
日本には持ち帰らない服やバッグ、電化製品、布団類すべて近所の人にあげる。
「このスカートもバッグも本当にもらっていいの?」
と、喜んでファッションショーをしているソムタム屋のお姉さん。
       


しばらく話していると、いつも元気いっぱいの屋台のおばちゃんが
みるみる目を真っ赤にして泣き出した。
くだもの屋のおばちゃんも泣く。
なかなか涙を見せない人たちが、こんなに泣くのにびっくりする。
そして、本当にいい人たちとめぐり会えて、大事にされて、助けられて、
これまでの幸せを実感する。
     


泣きながらも、カメラを向けるとキャアキャア笑って恥ずかしがるおばちゃんたち。
     


くだもの屋のおばちゃんからは毎日毎日果物をもらい、
私の話を聞いて笑ってくれる時間が他にないくらい大切で、
いつもそっと癒されてきた。
タイ料理屋台のこのおばちゃんは、私にビールを飲ませては飲める飲めると喜び、
道を歩けば「サーイ!!どこにいくの!」と誰にも聞こえる大声で声をかけ、
私と一緒に歌を歌っては喜んでヒューヒュー口笛を鳴らす、
おばちゃんのおかげで、ソイローポーショーの人たちが私を知ることになった、
屋台の人たちの中心人物で、その元気、明るさを尊敬していた。
屋台の中に招き入れてくれたことをありがとうとお礼を言う。


お客さんが来たので、お仕事をし始めたけれど
私が帰り際に投げキッスをすると、おばちゃんも仕事の手を止めて何度も投げキッス。
目は真っ赤のまま、何度も投げキッスして笑う。
     



ふと見ると、ラッキーが迎えに来ている。
ラッキー! なんておりこうさんなの!
      


いいことを思いついた。
使い切れず、あまった切手がある。ハガキもある。
ハガキに私の住所を書いて、切手を貼り、お世話になった人たちに渡そう。
みんな私の住所を聞いてくれるけれど、外国にハガキを出したことがない人たちが、
まして字を書くことも苦手ならばなおさら、住所を聞いたところで
何もできないと思う。
それよりは、私の住所を書いてポストに投函するだけのハガキを渡した方がいい。
どっさりと書く。
      


ソイローポーショーの屋台にまた戻って、説明する。
「もし、さびしいな、あいたいなと思ったら、ここに自分の名前を書いて
 そしてポストに入れて。
 そうしたら、日本に着くから。
 私は、いつハガキが来るかなあと、日本で待っているね。」

ハガキをもらったときの、おばちゃんたち、おじちゃんたちの嬉しそうなこと。
一生に、一度でも、海外にハガキを書く、そんな経験はないだろう人たちだから
「これ、あのポストに入れるだけでいいの?」「サーイの所に行くの?」
と、とてもうれしそう。
いつも照れ屋のガイヤーン屋台のおじちゃんもうれしそう。
      


私も、たった一言、名前が書かれたハガキが、私の手元に着くのを楽しみに待っている。
      


出発が近づいた頃に、寄せ書きノートにお母さんが私へのメッセージを書き終える。
読もうとするが、泣いてしまう。
泣いて読めないので、娘のレックが代読する。
      


お母さんが伝えてくれたのはこういうこと。
出会えたのは運命で、運命以外の出会いはない。
前世で一緒によい行いをした者同士はまた出会うことができる。
私たちは、だから遠く離れた国に生まれあってもまた、現世であうことができた。
娘のように愛せるのも、全て運命の出会いだから。
一緒にサイバーツをしたから、また私たちは次の世で会うことができる。

この言葉には、鳥肌ががたつような思いがした。
運命ではない出会いはない。
遠くの国に生まれあったのに、出会えた運命。
それはどこかから すでにつながっていた 決まっていた運命だと。


サイバーツを一緒にすることは、タイ人にとって特別な意味があり、
特に敬虔な仏教徒にはなおさら。
一緒にやってきたから、今、実感できるものが私にもある。


今日一日忙しく働いていたお父さんも戻ってきてメッセージを書く。
体に気をつけなさい。 元気でいなさい。 
日本に着いたら電話しなさい。  またお父さんに会いに来なさい。
      


空港に行くための車をお父さんが出してくると、ラッキーがじっと見ている。
本当に、ラッキーは今日のことを感じているのではないかと思う。
      


一緒にサイバーツをして以来、自分をお母さんと呼んでちょうだいといって
寺に連れて行ってくれたり、送別会に来てくれたりした女性が見送りに来てくれる。
この人も、地元に顔が広く、自閉症ガイドブックを自閉症の人たちが暮らす家に
配ってくれるという。
手に持たれたガイドブックが、これから地域の人たちのもとに渡っていくことがうれしい。
     


コンケン空港にはお父さんのナムプリックが並ぶ。
お父さんは有名人だけど、それをずっと知らずにいたから、なんのわだかまりもなく
こんなに親しくなれたのだと思う。
     


重そうな私の荷物を持とうとして、お母さんが転んでしまった。
足が痛いというお母さんが心配だけど、もう飛行機に乗りなさいと
私を行かせる2人。
「大丈夫大丈夫」とお母さんが手を振る。
私も泣いて手を振る。
      


飛行機の中ではただただぼうっとして、ほうけた状態。
次のこと次のことに必死で、まだ、コンケンであの部屋でもう過ごすことはないのだなと実感がわいていないのかもしれない。


新しくなった隊員ハウスに到着したのは夜も遅くになってから。
新隊員ハウスにも以前の二段ベッドが並ぶのがなんとなくほっとするところ。
    


今日はひたすら寝たいところだけど、明日のプレゼンテーションの準備はこれから。

コンケンが、タイが終わったことを実感するのは日本に帰ってからなのかもしれない。




感謝を込めて

2012年03月14日 20時29分14秒 | 日記
カウンターパートから朝、電話がかかる。
「さちえ、送別会をしようと思うんだけど、今日の夕方はあいてる?」
今日?!
今日は昼にソイローポーショで二度目の送別会、
夜はナムプリック屋のお父さんお母さんが送別会をしてくれる。
じゃあ、明日は?と聞かれるけれど、明日はコンケン出立の日。
無理無理、明日はきっと無理。

みんながみんなではないけれど、日本では考えられないほど急に予定がかわる。
ドタキャンもよくある。
それらにくわえて、出発のギリギリまでプレゼントを、しかもかなりかさばる
大きな物をもらってしまうので、荷物の片付けがいっこうに進まない。


朝ごはんを食べていると、ラッキーが泥んこでしっぽをフリフリ遊んでほしそうに登場。
お父さんたちみんなが悲鳴を上げ、「こっちにきちゃだめ!」と言うので
ラッキーはしょんぼり。
      


ここ2日、寝ないで作ったナムプリック屋のお父さん、お母さんへの
感謝を込めたムービー、店の前で上映会。
イサーンの曲と、日本の曲を入れて作ったムービーで、
みんなで楽しくうたったり、しゃべったり、でも最後にはお母さんが途中で泣いてしまった。
      


  

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お昼は、ソイローポーショの屋台のおばちゃんたちが送別会をしてくれる。
この間、果物屋のおばちゃんがやってくれたのだけど、なぜか2回目。
それも、今回は規模が大きくなっていて、みんなで料理を持ち寄る。
     


大好きなソムタムも。
     


めずらしい、まだ青いバナナのソムタムをリクエストすると、私好みに
バナナとまだ酸っぱいマンゴーをあわせてソムタムに作ってくれた。
これは、バンコクでは探してもなかなか見つからないという。
     


料理ができたら、お店を閉めて、道の向かいの家に集まる。
涼しい部屋を借りて、送別会。
料理を持ってあつまってくれる屋台の人たち。
    


お店は閉めてしまったので、なんだか、 ソイローポーショーが静まりかえっている。
      


しかし、送別会の部屋の中はきゃあきゃあにぎわっていて、ごちそうをならべて
楽しい時間を過ごす。
センターでの送別会も嬉しかったけれど、
この人たちといるのはまた気持ちが違ってホッと休まる。
    


果物屋のおばちゃんの帽子姿もかわいいったらもう。
      


後から後から集まってきて、ある屋台のおじちゃんはヤム(辛いサラダ)を
作ってきてくれた。
      

こんなふうに屋台の人たちと一緒に過ごすお別れ会って、タイに来たばかりの時には
想像もしていなかった。





ナムプリック屋にもどると、
「どうだった?私の娘!」とお母さんが聞く。
どんな料理が出て、こんな話をして、と報告すると
自分のことのように嬉しそうにうなずきながら聞く、お母さん。

「お母さんはこれをさちえにあげるの。」と指さしたのはタイのかわいい木でできた家。
「これはね、お母さんのお気に入りで、長いこと大事にしてきたの。
 さちえにも同じものをあげたかったけど、探してもどこにも売ってないの。
 だから、お母さんのをあげるのよ。」
      


ナムプリック屋の従業員が、お母さんに頼まれて、ささくれを削ったり、
ニスを塗ったり、店の前でミニチュアの家の修復作業に真剣。
          

コンケンでは今、大きなスポーツイベントが行われていて、
最終日の今日は店も予約でいっぱいなのだと、カラオケつきの部屋がとれなかったことをとても残念がるお母さん。
美味しい料理を電話注文してはりきっているのがかわいらしい。
      





送別会は私の希望でタイ料理。
     


朝のサイバーツで出会って、一緒に寺に行ったこともある女性が、
私を一緒に送りたいといってわざわざきてくれた。
私からは日本の扇を渡す。
      


お母さんとお父さんには日本の景色の本。
      


お父さんからはお父さんがレイアウトしてくれた写真をもらう。
おお、また大きな荷物が。
その大きな荷物に、大きな愛情がつまっているから、大事に持ち帰らなきゃ。
      


お父さんは隣に座って、ずっと目を赤くし、涙目で
いつものように私に優しく話しかけ、料理を私の皿に常に運んでくれる。
お父さんは途中から「何も言えない。言葉が出ない。」と
赤い眼で、黙ったままで涙をこらえていた。

お母さんは
「さちえは幸せだったわね。だってお父さんとお母さんがいたんだもの。
 もうさちえと一緒にごはんが食べられないなんて。
 さちえがどこにいてもさちえの幸せを祈っているからね。」
とボロボロ泣き出す。


私もオイオイ泣いてしまう。
お父さんから背中を撫でられ、お母さんから抱きしめられ、
鼻水をお母さんの肩でふいて、ビービー泣く。
   


お父さんもお母さんも、私のタイで出会えた宝物。
      


めそめそして店に戻ると、お父さんとお母さんが私にあげるプレゼントを取り出す。
「これは貯金箱になっているの。お金を貯めて、またコンケンにきて。」

タイでは財布や貯金箱、バッグをあげるときには、その人がお金持ちになれるようにと
お金を少し入れてから渡すのだと教えてくれた。
以前、渡したもらったバッグにも、お母さんが1バーツ入れていたと。
そうだったのか、私の財布から出てきたんだろうくらいにしか思っていなかったけど、
あのときの転がりでった1バーツはそういうことだったのか。

お母さんが 100バーツ紙幣を取り出して、貯金箱に入れる。
ええ!そんなにたくさん?!とびっくりしていると、
お父さんもやってきて、お父さんも100バーツ紙幣を入れる。
さちえにあいたいからだよといって、眼を赤くしたままでいるお父さんと、
今日は朝から何度も泣いているお母さん。
      




二人に作ったお礼のムービー。
23分のムービーは、私の活動とは全く関係のない、
でも、私の生活の支えであり、喜びであった時間をおさめた。
愛すべきお父さんとお母さんと離れるのはさびしいけれど、
そんな出会いができたことは幸せだったと思う。



お父さんとお母さんが大好きな
① イサーンの有名曲 「サオイサーンローラック」 
② イサーンの有名曲 「コンバーンディアオガン」
タイ人に人気の
③ 「昴」 タイ語バージョン
私の大好きな、そしてお父さんたちに送りたい
④ 「一期一会」
⑤ 「糸」  
お父さんたち分かってもらいたく、歌詞をタイ語に訳してのせた。
⑥ お別れの曲 「カムラー」












人間力

2012年03月13日 23時39分50秒 | 日記
荷造り、部屋の片付け、帰国報告会のプレゼンテーション準備、お世話になった人へのプレゼント、あちこちで送別会、配属先にもちょくちょく行っている、
あれやこれやとありすぎて、忙殺とはまさしくこのこと。


ナムプリック屋のお父さんお母さんへのプレゼント、大作30分ムービーを昨夜つくりおえ、
やっと大きな仕事を終えたと思ったけれど、
急にこの1年9ヶ月間で見たものを今の新鮮な思いでとっておきたくなり、
ついまたムービー作り。
明け方までかかって、ついうっかりうとうとしてサイバーツに行き逃してしまった。


一緒にサイバーツをすることに大きな意味があるお父さんお母さんは
きっとがっかりしただろうに、「疲れているんだから休みなさい。」と言ってくれる。
だから、朝からはりきって、お好み焼きと黒糖のパンケーキを作る。
もっている材料も使い切って、喜んでもらえるうちに作ってあげたいと思う。
      


お母さんが作ってくれたイサーン名物、アリの卵のスープ。
これ、とてもおいしのだ。
これも、もうすぐ食べられなくなる。
      


お母さんが言う。
「さちえがいるのはあと2日。 いなくなったらどうしたらいいのか想像もつかない。
 お父さんが昨日言ってたのよ。
 どうして、日本とタイなんて そんなに遠くに生まれたんだろうって。」
お父さんが言う言葉も、お母さんがいう言葉も、ありがたくて、さみしくて 何も言えなくなる。



配属先にもお好み焼きとケーキをもっていく。
食堂のおばちゃんたちが温かく迎えてくれる。
      
おばちゃんたちにあげようと思ってパックに詰めたお好み焼きと、パンケーキを、
センターのみんなが少しずつ食べられるようにと皿に広げる。
「さちえから、って言ってみんなに食べてもらうからね。」
分け合いの精神、いいことはなるだけたくさんの人にわけあえるようにという
この考え、いいなあと思う。
      


先生や保護者みんなで寄せ書きノートを書いてくれていて、
一人一人の写真付きのメッセージには胸が詰まるような言葉がたくさんあり、
読み上げてくれる先生も、目がうるうるしている。
      


果物屋のおばちゃんのところにいくと、
「日本のお母さんに持っていって!」
とマカムと、蒸かしたマカムをどっさりともらう。
      


今まで貯めていた果物屋のおばちゃんの写真をアルバムにして、プレゼントする。
とうとう、この時が来たなと思う。
その数100枚以上。
      

おばちゃんに住所を書いてもらう。
      

明日はさちえのお別れ会をしよう、とある屋台のおばちゃんが急に言う。
この間、果物屋のおばちゃんと数人にはしてもらったのだけど、
私はまだしてないからと言う。
そんな何回も! と思うけど、そういうありえない回数だったり
ドタキャンだったり 急な思いつきだったり 
それがタイでそういうところも楽しいと感じるようになった。


ソイローポーショーの屋台のおばちゃんたちにも、
ハガキを出したいから住所を書いてほしいとお願いすると、
喜んで書こうとしてくれるが、はたと止まって言う。
「明日でいい? 住所を覚えてないのよ。 書いてもらってもってくるから。」


誰もが字が書ける、読める国、日本は 誰もが教育を受けられるゆとりのある、
誰もが等しく貧しくない国だと、海外に来て日本がわかる。
タイでは、大きな格差が存在する。

だけど、思うのは、私をささえてくれたのはそういう近所の人たちだということ。
仕事と関係のない他愛もない話をして、
私にイサーン語を教えてしゃべらせては笑い、
一緒にビールを飲んで歌って、
毎日声をかけてくれ、しばらく顔を見ないとみんなで心配し、
1皿30バーツの料理を売って生活する中で、私にしょっちゅうただで食べさせ、
言葉で全て通じ合えなくても、そばにいればほっとしたし、人柄で通じ合えた。


たとえば私の配属先は、教師みんなが高学歴。
社会的に地位の高い人たちがたくさんいるが、
私の支えだったのはタイの社会的身分では低位にいるのかもしれない近所のこの人たち。
この人たちは、私の人間ピラミッドではピラミッドの頂点にいる尊い人たちだ。


今朝、ナムプリック屋のお母さんに、作ったガイドブックを見せ、
こういう仕事をしていたの、と説明した。
それからお客さんが来る合間合間にずっとガイドブックを読んでいたお母さん。
      


夕方、会いに行くと、お母さんが大声で言う。
「ルーク!(娘) ゲーンゲンナンスウー(本はと~っても上手!) 
 さちえはいいこと(ブン)をたくさんしている、人の役に立っていてとてもえらい。
 タイの子どもたちのためにありがとう、お母さんは嬉しい。」
来るお客さんお客さんに、全く同じ話を話して聞かせるお母さん。
センターでは最後まで言われることのなかった「ありがとう」の言葉を、お母さんに言ってもらった。
だから、はじめてお母さんの前で泣いてしまった。
お母さんも泣いた。


お母さんは自閉症のことを勉強したことはないし、
センターの先生達のように仕事をしながら大学院にまで通って、特別支援教育を履修することもない。
そういうお母さんが、センターの先生達よりも熱心にこの本の中身を見て、ありがとうと言ってくれた。
お母さんは教師ではないけれど、誰にでも公平で思いやり深いお母さんなら、
きっと自閉症の子どもたちを理解し、その人間力で子どもたちにすばらしい対応をするだろうと思う。


結局、人間の中身、人間力に尽きる。
紙の上の知識ではない、人間としての豊かさ、人間力。
お母さんや近所の心ある人たちに教えてもらったこと。



貼り紙

2012年03月13日 05時25分40秒 | 日記
1ヶ月前のこと。
サイバーツを終えて部屋に戻ると、私の部屋の扉に貼り紙。
張り紙なんていいことがあるはずがないと、嫌な気持ちで見ると
セロテープでがちがちに貼りつけられた紙には

 何をするのもうるさい。 歩くのもうるさい。
 他の人の迷惑になることを遠慮して


とまあ、こういう内容が何行にも渡って殴り書きで書かれている。

ゾクッとするものがあって、急いで部屋に入り、もう一度読む。

まず考えたのは、お隣と間違えられたのかなということ。
お隣さんは毎晩真夜中2時頃帰ってきて、大きな声で歌いながらシャワーを浴びる。
歌というよりも絶叫に近い。
そして早起きで、なぜかソムタムを叩くようなコンコンコンコンという音が一日中鳴り響き、
時にはギター、時にはピアノ、時には絶叫と いそがしい音響の連続。
日本ならばアパートで暮らすと小さくなって 音にも気を配るものだが、
歌って大声出しても本人もまわりも平気という、タイらしいなとほほえましいくらいに思っていた。
そのお隣さんと間違えられたのか。


が、隣は男性、私の声と間違うか?
しかも私の部屋は角部屋、日本人がいるということは、きっと誰もが知っている。
それをタイ人と間違うか?



毎日、テレビをつける程度でそのテレビの音もお隣さんの歌声で聞こえなくなるくらいの音量、
仕事をしたりメールを書いたり、そんな夜の時間は全く音もない、
一人で静かなものだ。
私も以前階下に住んでいたことがあるのでよく分かるが、
タイルのこの床は上の音が全く下には響かない。
だけど、この張り紙の主は、私がうるさい、目障りだ耳障りだと思っている。
考えていくと、誰か私に悪意を持っている人が、私がサイバーツに行った時間を見計らって、
これを貼りに来た、そのことが気味悪く恐ろしくなってくる。


すぐにナムプリック屋のお父さんお母さんの所に張り紙を持って行く。
時間もないので、事情だけを話してそのまま配属先へ。

配属先で相談すると、
「となりの人と間違えられたのよ、大家さんに言ってもらいなさい。
 さちえがうるさいんじゃないって。」
「大丈夫、さちえじゃない、さちえは一人でうるさくできないものね。」

問題は、私が本当にうるさいかどうかではなく、
張り紙で嫌悪の感情をアピールしてくる人が私のすぐ近くにいて、
私はそれが誰か分からないまま過ごさなくてはいけないそれが危険ということなのだけど、
みんなそうは思っていない。
張り紙行為や、いやがらせや、ストーカー行為や、そういうものがタイには本当にめったに
ないんだろうなと思う。
だからこそ、そういうタイでこんな日本のような気持ちの悪いやり方でアピールされている
この状況はよっぽどのことだと思う。

      


たまたま連絡があったタイ事務所のスタッフにこのことを話すと、
それは危ないととても心配される。
本人以上に心配してくれるスタッフと話していると、もしかして、
こういう場合、危険回避のためにバンコクに一時上京だったり、
その人から離れるために引っ越しとか、そういう方法がとられちゃうのじゃなかろうかと
心配になる。
いったん、一時帰国をした経験から任地から離されてしまうのかと、こわいのだ。
残りわずかの時間なのに、と。


家にまっすぐ帰るのも怖くて、ナムプリック屋のお父さんお母さんの所に行く。
お母さんが待ってましたとばかりに、せききって言う。
「大家さんに言ってきたからね! 
 日本人一人で住んでいてどうやってうるさくできるの!
 できるはずがない!
 さちえは声も大きくない、そもそもいつもうちにいるからほとんど部屋にはいない!
 うるさいのはとなりの部屋よ、って!」

うるさいのが誰か、私なのか、そういうことはさほど問題じゃなくて
張り紙を貼るような人が近くにいることが問題なのだけど、
でも、とんでもなく憤慨しているお母さんに深い優しさを感じ取って、
ほろりと涙が出る。


お母さんは私の気持ちを読んだように言うことがよくある。

「日本のお母さんに言いなさい。
 さちえの所属するJICAにも言いなさい。
 メーブンタム(本当のお母さんではないけどお母さんと同じ)が
 すぐ近くにいるから大丈夫、何かあったらすぐ助けてくれるって。
 だから、どこにもいく必要はないからね。
 あとちょっとじゃないの。」


大家さんの奥さんも、私の好きなラーッナー(あんかけ)を作って
もってきてくれる。
そして、お母さんと一緒に
「私もいるから大丈夫、なんの心配もいらない。
 となりの部屋と間違えたのよ、きっと。
 勘違いよ、うるさいのはさちえじゃないから大丈夫。
 さちえもお隣がうるさかったでしょう。
 となりには注意したからね。
 怒らないであげてね。音楽が好きで音楽がとても上手な子なのよ。」

問題点はちょっと違うのだけど、
二人がわーわー互いにうなずきあって 一生懸命で、鼻息荒く
盛り上がって言うものだから、その中にいてなんて私は恵まれているんだろうと
ぐぐぐっと 涙が上がってくる。


気をつけて、寝るときにも携帯を枕元において、
そういう人がいるのだということを念頭に置いて、
なるだけ目立たないように行動して、
と、スタッフからも言われ、戸締まりをいつもよりも確認する。


目立たないように、と思っていても、目立っているのが日本人で
私のことはこの界隈で誰もが知っている。
そして、みんなが私に優しくしてくれること、
私も長いこと知らなかったのだが、お父さんとお母さんのナムプリック屋は
とても有名で、お父さんは地元の名士であり、誰もが知っている尊敬される人であり、
そういう人たちと家族のようにべったりとしている私は、誰かに恨みを買ったのかもしれない。


貼り紙は大家さんが持って行った。
だけど、その文字はしっかりと覚えていて、どんな憎々しい思いでこれを書き、
どういう気持ちで階段を上がり、セロテープを持ち、私の部屋に貼ったのかと
考えるとゾッとするものがある。
タイでこういうことをされるとは、こういうことをする人がいるとは思いもしなかったが
こういう思いをしながら反省したことや、再確認したこともある。


みんなが優しくしてくれ、声をかけてくれ、大切にしてくれるけれど
中には、そうではない人もいるということ。
私はここを離れたくはないということ。
私を大事にしてくれる人たちは、本物だということ。
その人たちにずっと守られてきたということ。
      




キットウン

2012年03月12日 08時37分44秒 | 日記


タイに来てたくさんのタイ語を覚えたが、タイ生活最後に近づき、
この言葉はこういうことだったのかと、身をもって実感している言葉がある。

「キットゥン」
恋しい、会いたい、さみしいというような意味合いで、
日本語にはない言葉。    (→ 過去ブログ 「恋しい」


タイ人はよく、「キットゥン」を使う。
少し顔を見なければ、「キットゥン」(会いたい)
会えたときにも「キットゥン」(会いたかった)
恋人同士ではもちろん、友だち同士でも、先生と生徒でさえも、「キットゥン」
果物や食べ物にも「キットウン」。
犬のラッキーだって、お父さんがいないと キットゥン。   (→ 過去ブログ 「ポーメー」
      


タイに来た当初はよくタイ人が口にするこの言葉になじめなかったが、
今は、なんて素敵な言葉なんだろうと思う。


相手に好き、大切、と伝える言葉。
「さみしい」という言葉はマイナスだけだが、
「キットゥン」はあなたがいないとさみしい、いてほしい、あなたに会いたいという意味があり、
相手が自分にとって大事な存在だといっている言葉。
キットゥンといわれて嫌な人はいない。

日本人はいわない言葉、日本語にはない言葉。
日本人にはない、タイ人の率直さ、相手を喜ばせたい素直な心の表れがここにあると思う。


用事でここ数日バンコクにいっているナムプリック屋のお母さんが電話をしてくる。
「キットゥン さちえ!(さちえに会いたい)
 さちえ キットウン メーマイ?(さちえはお母さんに会いたい?)
私だって、キットウン キットウン!を連発する。


食堂のおばちゃんが別れるときにいった。
「キットウンさちえナ (さちえに会えないのは寂しいわね)」


私のお別れにと、ごちそうを並べてお別れ会をしてくれながら、
果物屋のおばちゃんがいう。
「さちえが日本に帰ったらキットウンね (会いたくてさみしいわね)」
     


屋台の人たちがいう。
「キットウン アハーンイサーンマイ? (タイ料理が恋しい?)
 キットゥン ポンラマイ タイ マイ? (タイの果物が恋しい?)
 キットウン ナムプリック マイ? (ナムプリックが恋しい?)」
     


今、別れを惜しみながら、 このキットゥンの言葉を体全体で感じ、
まさしく今、理解している。

キットウン 恋しい 会いたい、 大好き、大事。


「ええ?日本人はキットウンってどうしていわないの?」
と驚かれるけど、ホント、ホント。 こんないい言葉をいわないなんて。



部屋の荷物をひっくり返して、仕事の合間合間に荷造りしている毎日。
寝るところはどこ?というような部屋の中。
ドアの外で何か気配がする。
ドアを開けると犬のラッキーが入ってきた。
このアパートの2階まで上がってくることはあったけど、私の部屋に入ってくるなんてはじめてのこと。
お父さんお母さんがバンコクにいって、キットウンでたまらないのだ。
     


ごそごそ、部屋の中をかぎまわって
     


わーい、いいもの見つけた!と喜んでスーパーのビニール袋をくわえていく。
ビニール袋でひとしきり遊んだラッキ-。
      


そのあとも、私の部屋の前に座り込むラッキー。
お父さんお母さんがキットウンでたまらないラッキーの気持ちは、私もよく分かる。
「ラッキー さみしいねえ。 キットウンだねえ。」
とラッキーと慰め合う。
すやすやと部屋の前で寝てしまったラッキー。
      


「キットウン」
会いたかった、会いたい、あなたが大事、会えて嬉しい、恋しい

タイマッサージスクール

2012年03月11日 07時59分19秒 | 日記

タイではあちこちにマッサージの看板が立ち、安い値段でタイマッサージがうけられる。
うける方もいいけれど、人の体のどの部分をどうやって触れていくことで
マッサージとなるのか、タイマッサージをちゃんと知りたいと思っていた。
今後、肢体不自由の子どもたちや、それ以外の子どもたちとの学習にも使えるかもしれない。
人をマッサージするのも好きだし、せっかくのタイ生活、自分の知識として持ち帰りたい。
けれど、今まで4日や5日といったまとまった休みがとれることがほとんどなかった。

最後のバタバタの中だけど、今しか時間はない、とも思い、
マッサージスクールに通うという願いを行動にうつす。
      


マッサージといえば、バンコクのワット・ポーが有名。
なぜか日本人に人気なのはチェンマイのロイクロマッサージスクール。
インターネットで申し込めるし、日本語のテキストがあるから、
タイ語が話せない日本人には敷居が低くて入りやすいのだろう。


だけど、つい最近まで知らなかったのだけど、マッサージはどの県でも習える、
コンケンでも習えるのだと近所のみんなや配属先の人たちが教えてくれた。
コンケン大学にもあるし、仕事の帰りに通えば1週間で終わるのよ、と。

しかも、値段が大きく違う。
ロイクロマッサージスクールに申し込むと、マッサージベーシックコース 20時間で5500バーツ。(1万6500円程度)。
コンケンだと、知り合い価格500バーツ(1500円)から。


しかし、私もそれを知ったのが、ロイクロマッサージスクールに申し込んだあとのこと。
泣く泣く、バスに乗り12時間かけてチェンマイへ。
それも、3日間コースを講師の都合上、2回に分けるため、今週2日、来週1日と
2度もチェンマイへいかなくてはならない。



タイ語でのレッスン。
やはり日本語のテキストがあるというのは、理解が深まっていい。
優しい先生が、丁寧にやってみせてくれる。
     


先生とマンツーマンで、教えてもらっては、実践する、その繰り返し。
      

復習したくて、帰りにはマッサージ店に入ってみたものだから、
講習も含め一日に何度もマッサージをされた体は、もみ返しも来て
あちこちが痛い。


あいたたたたた・・・。
と言いつつも、さあ、右、左、足、腰、
タイマッサージ、自分のスキルにして持ち帰ろうじゃないの。
      




     

イサーンを走る

2012年03月09日 04時45分25秒 | 日記


コンケンで過ごす残り少ない日々。
マハサラカムに住む尊敬する先生から、最後にイサーンをめぐりましょうと、お誘い頂いた。(→ 過去ブログ 「この出会い」
このブログを通じて知り合えた方で、常に配慮深く、
生徒の心に沿う繊細さや、人のよいところを見つけ素直にほめる謙虚さには、いつも感嘆し、
時々お会いしては得るものがたくさんある方だった。
この5月、日本に帰国されるため、
イサーンを愛し、同じイサーンを愛する者同士、最後に連れ立ってイサーンを満喫しようと
2人で1日のイサーン旅。

予定変更の連続のタイで、かつ今はあれこれと急に用事が入る日々だけど、
約束のこの日だけはと死守した、楽しみにしていた日。

車でおすすめのイサーンめぐり。
互いのこれまでのイサーン生活のこと、感じたタイのこと、たくさんの話を飽きることなく話ながら。


主要道路でも牛が牛が わらわらと横断する、これもタイらしい風景で、
これぞイサーンという感じ、と二人とも笑う。
    



車のエアコンは冷房のみ。
そうそう、これがタイ。
    



ヤシ系の南国植物の足下に咲くのは、なんと あじさい。
びっくりの組み合わせ。
これも、あり得ないとまた笑う。
      


タイのあじさい。
雨は今ほとんど降ることがない時期であるのに、日本に負けず劣らず、しっとりと咲いている。
      




◆◆プラサートプアイノーイ遺跡◆◆

コンケン市内から1時間半ほどの所にある。
コンケンに遺跡があることは知っていたけれど、とても自分では行けそうもない場所で、行くことは叶わないかなと思っていた。
任期終了までに、このコンケンの遺跡を見ることができて嬉しい。
想像以上に、大きくて、田園にたたずむ姿が美しい。
   


      

    

    

  
最北端のクメール遺跡だというが、さて、どうなのか。







◆◆ナ・ドゥン◆◆

プアイノイからさらに南東に約1時間。
大きな仏塔や、昔ながらの住居などがある。
人々がピクニックしている公園では、家族のとなりに子ゾウが出現。
こんな光景も自然だと思うようになった、けれど、日本では絶対にあり得ない光景ですよね、とこれも笑う。
     






たっぷりと話をし、たっぷりとイサーン料理を食べ、イサーンを満喫し、
イサーンを好きな者同士2人でイサーンを味わった一日。

すぐに会える距離にいたのが、日本に戻るとそうはいかない、なんて考えると
別れがほろ苦く切ない。
けれど、互いに共感できるところがたくさんあり、尊敬できるすばらしい人が、
タイを愛し、タイの中でもイサーンを愛していたことはとても嬉しく、誇らしくさえある。


タイに来なければ出会えない人がいた。
この地でのすばらしい出会い。
日本に持ち帰る大きな宝物。

浴衣姿のソイローポーショー

2012年03月08日 19時00分55秒 | 日記



今まで写真を撮っては自転車をこぎこぎ、写真屋さんに通って現像し、
ため込んできた写真を、アルバムに貼ってきた。
それを、ガイヤーンを焼くおじちゃんに渡す。

口数のすくないこのおじちゃんは、
「なんだ、これは」とだけ言ってアルバムを開き、うれしそうな顔をする。
      


とても照れ屋でもあるおじちゃんは、
「マイロー!(かっこよくない!)」と言いながら、照れる。
そういうところが、タイ人らしくなくて、そんなおじちゃんが素敵。
      


おじちゃんから、大好きなサイクロー(イサーン風発酵ソーセージ)とネーム(豚の酸味生ソーセージ)
をもらい、手に持ってソイローポーショーの屋台へ。
      




配属先で保護者に浴衣を着せてあげたら、   (→ 過去ブログ 「誕生日」
それはそれはすごい喜びようで、写真も大事に一生とっておくだろうというくらいの特別な感じ。
ナムプリック屋のお母さんや娘だって、着物を着るのは初めてだと感激してくれた。(→ 過去ブログ 「タイの家族と初詣」
それはそうかもしれないな。一生に一度着るか着ないかの浴衣。
着た思い出も、写真も、大事にとっておきたい一生の記念なのだ。


だから、最後に私の大好きな 果物屋のおばちゃんにも着せてあげなくては。
と、浴衣を持っていそいそ歩く。


「目を閉じて、絶対に開けないでね。」
と浴衣を着つけてあげると、目をあけておばちゃんは キャーキャー悲鳴を上げて笑う
      


浴衣姿もきれいだけど、いつものスイカをもって、帽子をかぶってみても
とってもお茶目だと思う。
      


かわいいい!!!
      






いつも買い物をする近くの商店にも行って、商店のお母さんと娘に着つける。
その合間にも、お客さんが後を絶えず、お母さんは浴衣姿で接客。
お客さんは、目を丸くして でも、「おお、スーワイ(きれい)」という。
「スーワイ(きれい)」を男の人がさらりというタイっていいなと思う。
      


そんな接客中のお母さんを、パパラッチ並みに写真に撮るお父さん。
      


「待って待って!」とあわててひっこんで戻ってきた娘の手にあるのは
大きな扇子。
日本と言えば、これでしょ! って、うーん、感じが出てる!
      


お父さんは、
あっちに立って 今度はこっち、
と注文をつけながら、パパラッチ並みに シャッターを切りまくる。
     


浴衣姿のお母さんたちから私もお買い物。
タイの東北部、コンケンの市内からちょっと外れた、ソイにある商店で
こんな光景って 普通ないでしょう。
     

モンゴル便り

2012年02月29日 00時23分26秒 | 日記


同期のモンゴル隊員から便りが届く。
私のもとではなく、ナムプリック屋のお父さんお母さんのもとへ。
1月の終わり、タイに来てくれたモンゴル隊員は、配属先でモンゴルダンスを踊り、
ナムプリック屋のお父さんお母さんともまったりすごしてモンゴルダンスを踊って帰った。
      (→ 過去ブログ 「モンゴル隊員踊る」


タイとの気温差50度の国の話や、見せてくれた写真、もってきてくれた食べもの、
モンゴルダンス、すべてが強烈なインパクトで、
お父さんお母さんもモンゴル隊員に会えたことを喜び、今もとても思い出深く思っている。


そんなお父さんとお母さんに、モンゴルから送ってくれた手紙、モンゴルの写真、
そしてかわいいゲルのタペストリー。
なんていう心遣い。
さっそくタペストリーは店に飾られる。
      


美しい写真の裏には1枚1枚に説明書きがあり、
手間をかけて準備して 送ってくれたことが分かり
とっても ありがたくてたまらない。


娘のレックが、モンゴルの写真を並べてナムプリックを中心に置く。
      


「ほら、お父さんとモンゴル!」
      


ただ、この郵便物、ちょっとしたエピソードがあって、レックが興奮して話してくれた。
「番地が1つ間違ってて、隣の家に届いたの。
 宛名がタイ語じゃなくて英語だったでしょう。
 隣の家はニュージーランドに息子が留学していて、
英語が読めないお母さんが息子からだろうと思って開けたのよ。
中に羊の写真が入ってたでしょう。 ニュジーランドにも羊がいるでしょう。
だから、息子からだと思って写真を見ていたけど、息子の写真がない、
女の子が映ってる。それで間違いだと気づいて“開けてしまってゴメンナサイ”
って 持って来たのよ。」

たまたまとなりもニュージーランドという英語つながり、羊つながり、
ラッキーが重なって、もしかしたら届かなかったかもしれない郵便物がお父さんたちのもとに届いた。

羊はタイ語で「ゲ」という。
レックの話の中に「ゲ」「ゲ」と出てくるのもおかしくて、内容もおかしくて
ゲラゲラ笑って聞いた。


氷点下の国から、気温30度を超す国へ。
届きました。 細やかな心遣いが。 

ポーメー

2012年02月26日 22時13分46秒 | 日記

朝日がのぼる。
ソイローポーショーで見る太陽は大きい。
      


2日前からポー(ナムプリック屋のお父さん)が南部の親戚のお見舞いに行っている。
ラッキーはそれから元気がない。
メー(お母さん)が 「ラッキーキットゥンポー」(ラッキーはお父さんが恋しい)
と言う。
      


朝も昼も夜もナムプリック屋のお母さんたちと食べる。
「ポー」(お父さん)
「メー」(お母さん)
と呼べる人たち。


夕方、近くの商店にいくと、ばったりと日本人女性と遭遇した。
タイ人と結婚して、なんとこのソイローポーショーに住んでいる。
私のアパートから歩いて行き来できる距離に。
それも、一年以上も前から。

こんなに近くに?! 知らなかった!とただただびっくりしていたけど、
その女性はずっと私に会ってみたくて探していたのだという。
近所の人たちが この近くにサーイという日本人が住んでいるから
話してみるとおもしろいよ、とこれまでにずっと言ってくれていたのだという。
それも、私も知らないような人たち、そこら中の人たちから。
今日も、商店で「サーイは今日朝買いに来たから、もう今日は来ないと思う。残念ね。」
と言われたばかりで、ばったり遭遇したというわけだ。

私はローティ屋台の夫婦からは
「白人はいるけど日本人はサーイだけ」
とはっきり言われこそすれ、一度も
「近くに日本人がいるよ」なんて言われたことがなかった。
それは言われても分かっていなかったのか
それとも、自分ばかりがしゃべってそんな話になることもなかったのか、
不思議な一年だったものだと思う。



夕食も食べないラッキー。
お父さんが毎朝水浴びをさせて、体を拭いてやり、話しかけて
一緒に過ごしていたラッキーだから、お父さんがいないことが
心配で不安でたまらないに違いない。
いつ帰ってくるんだろう、帰って来ないのかな、と考えてばかりいるのかな。
            


家族もみんな心配。
      


お母さんがお父さんに電話をかける。
「お父さん、ラッキーがごはんを食べないの。」
お母さんは電話の通話音量を最大にして、ラッキーの耳に受話器を当てる。
      


「ラッキー お父さんだよ。 ごはん食べたかい?
 いい子だねえ、ラッキ-。
 ごはんを食べるんだよ、ラッキ-。」
      


お父さんの声を聞いたラッキーは、じっと目を閉じていた。
お母さんが
「まあ、安心した顔をして。」
という。
      


賢いラッキーはすでに、お父さんの息子になっている。
そして、こんな私も、お父さんから娘と呼ばれ、お客さんにも娘だと紹介され、
ある日気づくと、お父さんのFACEBOOKでは
「家族」の欄に「娘」として私が登録されていた。
胸がきゅーんとなる、うれしさを感じた。


お母さんが、私に向き直って、居住まいを正して言う。
「さちえのことは200%信じている。さちえを愛しているから。
 だけど、誰でも信用するわけではないのよ。
 いい人もいれば悪い人もいるからね。
 さちえも、誰と出会ってもしゃべってもいい。
 だけど 頭から人を信用しすぎずにね。
日本人同士でも、タイ人とでもそうよ。
 さちえを傷つけられることが、お母さんは心配なの。」

いい人も悪い人もいるのだから、誰でも信用しすぎないこと、
いつもほがらかなお母さんからこういうこと言われたのは驚いたけど、
こんなこと、あえて言ってくれる人はやっぱりお母さんだなと思う。
「メーブンタム」(本当の母ではないけれど、母親であること)

おたまじゃくし売りのおばちゃんと少しずつかみ合う会話

2012年02月25日 23時51分45秒 | 日記
カエル料理はよく聞くが、   (→2011.8.17ブログ 「トムヤムゴップ」
タイにはおたまじゃくし料理もあるらしい。
おたまじゃくしは、タイ語で 「ルークオッ(ト)」
イサーン(東北)語では、「ホゥワッ」
「ルークゴップ」(ルーク=赤ちゃん ゴップ=カエル)とも言う。


雨季にカエルがたくさん産卵するので、おたまじゃくしの食べ頃は雨季。
葉に包んで蒸すのが一般的で、レモングラス、唐辛子などの香辛料で味付けをする。
中にはちょこんと足が生えているものもいる。
プチンとつぶして、泥の詰まったはらわたは捨てる。
調理すると白身魚の稚魚のような味わいだとか。
クセもなく、食べやすいらしいので、一度食べてみたい。


コンケンのボーコーソー(バスターミナル)にはおもしろいものがたくさん。  (→昨日ブログ 「コンケン バスターミナル」) 

   

     
     

そこに、おたまじゃくしを売るおばちゃんがいる。 (→関連ブログ 2011.7.17 「カエルぴょこぴょこ」 2010.11.7「ゲコゲコ」



おばちゃんに、
「おたまじゃくしをどうやって食べるの?」
と聞くのに、おばちゃんは
「食べられるよ。食べられる。」
と答えるばかり。

よくあることなのだが、日本人が決して上手ではないタイ語をしゃべっているので、
当然、聞きとりにくいんだろうと思う。
この人が話すことはなんだろう、とタイ人にも懸命に耳を傾けてもらわないと、
聞く気がある人、聞く姿勢がある人じゃないと、伝わらない。

最初から聞く気がなかったり、
聞いていても、ハイハイきっとこういうことをいっているんだろうという思い込みが強かったりすると
会話がなかなか成り立たない。
こっちのガッツも必要。

反対に、聞こうとしてくれる気持ちがある人、
私が話そうとすることに興味をもって心をかたむけてくれる人とは
驚くほど話が通じる。

言語をよく勉強すれば、自然と会話ができるものだと思っていた。
しかし、
言語力じゃないんだな、言葉じゃないんだな、それを使う人と人との心や
関係なんだなと、タイではいつも思う。


おばちゃんも、外国人と話した経験があまりないからなのか、
最後まで私の話を聞くことなく、思い込みで答えるので、会話がちぐはぐ。


「おたまじゃくしをどうやって食べるの?」
「食べられるよ。食べられる。」

「おたまじゃくしはどうやって食べたらいいの?」
「おいしいよ。おいしい。」

ん~

めげそうだけど、しつこく聞く。
するとだんだんかみ合ってくる。
じわりじわりと。
そのうち、
「おいしいんだよ、ほんとうに。怖がらなくていいよ。おばちゃんが一緒に食べてあげるから。」
と、私がおそるおそるなのを感じ取って、こんなことを言ってくれる。


この短時間でも、人間同士が少しずつ理解し合って少しずつ歩み寄って、
そうやって人間って関わり合っているんだなと思う。
言葉が違っても、国が違っても。


     コンケン、ボーコーソー(バスターミナル)の様子 おたまじゃくしを売るおばちゃん。
     








プリクラの出現

2012年02月25日 11時57分41秒 | 日記
コンケンのセンタン(セントラルワールド)。

これは・・・
    


以前はなかったこれは、プリクラ。
    


しばらく見ないうちに、プリクラがコンケンに出現している。

早速、人が入って人気のよう。
    


新しい物好きのタイ人たち。
写真好きで、飾るの大好きなタイ人たち。
写真を撮って、落書きして、きれいに加工できて、
タイ人は大好きに違いない。
プリクラはきっと、大当たりのヒット商品になると思う。