ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

コンケンにいる私だからできること

2011年03月31日 05時13分12秒 | コンケン 第9特別教育センター

子どもたちと一緒に鶴を折る。
日本では折り紙と言えば鶴、というくらいのセオリー中のセオリーだが
そんな器用な芸当を多くの人間が当たり前のようにできるのは日本人くらい。
線の通りに折る、角と角をぴったりと合わせる、手を入れて紙を起こす
ということが、タイ人にはとても難しく、試行錯誤して折る。

なぜ鶴を折ることになったのかというと、
聴覚障害クラスの先生が出張で不在。
クーサーイ何かやってちょうだいと急にふられたから。

じゃあ、折り紙をしましょう。
難しいけれど、鶴を折ってみましょう。
日本人の多くは鶴を折ったことがあります。
そして、困ったとき願い事があるとき、1000羽の鶴を折ります。
今、日本の被災者に鶴を折って送ってくれる人々がいます。
今日は日本のために鶴を折ってくれませんか。

タイ人が鶴を折っている写真を見せ、(→3月22日ブログ 「東北地方太平洋沖地震 タイから日本へ たくさんの支援」
バードの歌を聴き、(→3月28日ブログ 「Thai for Japan」
日本の震災の被害の話をすると
保護者はみな悲しい顔をしてうなずき、子どもにかみ砕いて伝える。

難しい鶴を、私と一緒に一生懸命に折ってくれた。
色を塗りましょうと促すと、日本とタイの国旗を描いてくれる。
この思いのこもった鶴たちが並ぶと、写真を撮りながらも胸がいっぱいになった。
お母さんたちも目を潤ませて
「かわいそう、日本がかわいそうでテレビを見ては泣いているのよ、いつも。」
という。
遠く離れた国のことでもわがことのように感じ、涙を流してくれるタイ人のあたたかさ。
  

そのあとは、
「日本におくってちょうだい、クーサーイ」とメッセージを書いてくれた。
  

私にできること。
昨日考えたのは、本来つながるはずもなかったこのコンケンの人たちと
つながっている今、コンケンの人たちの願いや祈りを
日本に伝える役割をすること。 (→昨日ブログ 「今私にできること」


こういうあたたかい思いを日本に向けてくれるコンケンの人たちがいて、
すぐそばに日本人の私がいる。
私がいなければ、この東北のとある特別支援センターにいる人たちが
日本にどんなに思いをもっていても、形にして届けることができるだろうか。
この人たちの祈りを伝えることができる、日本に運ぶことができるのが私。
このブログを通して、
そして実際に手に渡るものを、
この人たちが日本に渡したいと思っているものを
日本に届けようと思う。


今日決めたこと。
   “日本の被災地の皆さんにメッセージを送ろうプロジェクト”を立ち上げる。
タイ人のみなさんが好きな「プロジェクト」という言葉をつかうことにする。

ここにいるみなさんにメッセージを募り、それを私が届ける。

さっそく、寄せ書きの台紙を作って掲示するためのグッズを作る。
被害状況の写真、タイ人が日本を助けてくれているいろいろの写真、
今の日本の様子、写真や文章を掲示板に貼り、朝の集会で呼びかける。
そして、一人一人に私が足を運んでメッセージをお願いする。


        
    タイ王国からの多くの支援に日本が助けられています。とても感謝しています。
    皆さんの思いをどうか、メッセージにして書いてください。
    私が日本の皆さんへ届けます。

        

できあがった台紙をもって、まずは一番心落ち着ける
いつも応援してくれる給食のおばちゃんのところに行く。
話を聞いて、すぐに書いてくれる。 
修理工のお兄さんも仕事の手を止めてかいてくれる。
  

  

通りがかったお母さんも自ら書いてくれる。
  



ちょっと時間がかかるだろうが、一人一人に足を運んで
書いてもらおう。
そして、ここコンケンにいる人たちの思いを日本へ届ける。

今 私にできること

2011年03月30日 16時59分35秒 | 青年海外協力隊たちの活動

インターネットのおかげで日本のニュースを見ることができる。
画像は悪く途切れはするが、なんとかテレビも見られる。
先輩隊員から教えてもらい、ダウンロードして見る。
すると、ニュースをはじめ、CMでも震災に関連すること一色。
 
   心より震災のお見舞いを申し上げます
   ヤマザキは被災地への食糧支援に力をそそぐため春のパン祭りを延期します
   ディズニーリゾートはただいまお休みをいただき皆様をお迎えする準備を進めています
   使っていないときはコンセントを抜いておこう  買いだめは控えてください
   無駄な通話やメールは控えよう  
   日本の強さは団結力です がんばりましょう
   大丈夫 一人ではない、みんながいる、日本が一つのチームなんです
   みんなでやれば大きな力になる
   今私にできることはなんだろう

こんなテレビ放送は私が生まれて以来なかったものだ。
今の日本の日常そのものが震災の影響続く中にあるのだと実感する。

   




今、自分にできること。
ここにいて 試行錯誤しながらボランティアをしているよりも
日本でボランティアをした方がよほど必要とされるのではないかと思う。
日本から離れていることで、どんなにニュースに目をこらしても、
どうしても日本にいる人たちと思いを共有できていないことにも、いらだつ。


けれど、こうも考える。
こうやって海外に支援をしているから、海外からの支援があんなにあるのではと。
一人一人のボランティアがやっていることは小さく、
私も理想とは違い、現実にはたいしたことは未だできていなくて、
ここでの自分の存在意義は?と思うほどだけども、
日本が海外に国際協力し、途上国にボランティア派遣をしているという
事実があって、こうして世界中が日本に関心をもち
今救おうとしてくれてるんだと思う。


訓練所で教わったこと。
資源のない、武器を持たない日本が戦争に巻き込まれず
攻撃されず生き延びて行くには、積極的に国際協力をし
他国と友人関係をきずいて仲良くやっていかねばならない。

日本への支援を世界中が行っているのを見て
世界中に飛び今活動している仲間たち、
そしてこれまでの協力隊事業において 現地で実際に活動してきた先輩たちのことを思う。
そういう現地の人たちの中に入った草の根の活動が
今も、どこかに結びついているのではないか。



フィリピンにいる友人の隊員が言う。
 「本来ならばつながるはずもなかったこの任地の人たちからの
   一人一人の祈りや思いを日本の人に届ける役割をしたい。」


今私ができること。
ここにいるからできること。
つながるはずもなかった人たちと今つながっている。
このタイからのコンケンからの人々の祈りを日本に送り届ける役割は
コンケンに派遣された私の役割だ。


そして、今は小さいけれど私の活動した2年間が
しだいに日本という国への好意へとつながっていけば、
私の存在意義もあると思える。


     

青年海外協力隊事業  春募集の延期

2011年03月29日 20時12分32秒 | 青年海外協力隊 二本松訓練所


世界各国の青年海外協力隊員が、それぞれの国から
日本への支援活動を行っている。
タイでも、ボランティア活動(通称隊員ハウス)に募金箱が設置され
隊員による呼びかけのもと、募金が募られている。
      



例年ならば平成23年度青年海外協力隊の春募集が始まっている頃だが、
平成23年JICAボランティア 春募集説明会、
そして、ボランティア春募集どちらも延期となった。


計画停電が実施されていること、
派遣前訓練所のある福島県では原子力発電所付近の避難指示が出ていること、
そのためJICA二本松訓練所を避難場所として提供していることなどから。


福島にある派遣前訓練所、地震の一報を聞いたとき、
訓練所のスタッフの皆さん、二本松の地域の皆さんがどうしているだろうと
頭をよぎった。
隊員たち皆がそうだったと思う。
無事と聞いて、ホッと胸をなで下ろす。


しかし、日本では今も尋ね人、無事をテレビで伝えている日々。
    



一日も早く、犠牲者の数が増えていくグラフが止まり、
安らかな日常が取り戻せることを、タイから祈ります。
   

2代目 携帯電話

2011年03月29日 15時52分20秒 | 日記
安全対策のため、JICAタイ事務所から貸与されている携帯電話。
常に携帯し、連絡が取れる状態にしておかねばならない。
    

その携帯電話から音が鳴らない。


朝のアラームが鳴らなかった。
おかしいなあと思っていたら、着信音も鳴らない。
着信時に携帯を揺すると、かろうじて 
グギ・・・グググギッ・・・♪
と、途切れ途切れに苦しそうに音を漏らす。


JICAタイ所の担当調整員に連絡。
すぐに次の携帯電話を送ってくれた。


さて、この古い携帯電話は事務所に返却することになる。
携帯大好きタイ人も 私のこの電話を見ると
かわいそうに・・・という顔を見せるくらいだった
側溝におとしてしまってもうダメかと思う時もあった。(→過去ブログ 「携帯電話」
このボロボロの携帯電話。
いくらかの隊員の手を経て私のところにきただろう。
そしてとうとう役目を終えるときがきたか。


この携帯に入っているこれまでもらってきたメッセージも
なくなってしまうのは、さびしいな。
ローマ字表記で読みにくいし打ちにくいけど、
それでも嬉しくて支えになった、隊員同士で送りあったメッセージ。
時には他国で活動する隊員仲間からももらった励ましのメール。
地震の時、無事を知らせてくれた日本の友達からのメール。
   


その時の思いはずっと残ると思いつつも、
消えてしまうのには今はまだ忍びなく、写真に残す。


新しい携帯電話になじむのまでにどのくらいかかるかな。
この携帯電話も、誰か隊員が使っていたもので
メモリーはぎっしり。思い出もぎっしり詰まっている。
それを消させてもらい、私が使う。
   


のこり1年、どこかの隊員たちの手を渡ってきたこの携帯電話を受け継いで
タイでの時間を過ごす。

Thai for Japan

2011年03月28日 01時43分53秒 | 日記



タイから日本の皆さんへ「Thai For Japan」
          Exciteニュースより  2011年3月26日 22時49分

タイ人から日本人への応援メッセージ動画がインターネット上に公開され、大きな話題を呼んでいる。タイは台湾と並んで親日家の多い国として有名で、多くの人たちが東北地方太平洋沖地震の被災者たちを心配に思っているようだ。
この動画はタイの日本復興支援のために作られた動画のひとつで、「Thai For Japan」というタイトルで動画共有サイトYouTubeに掲載されている。
動画に登場している多くはタイ人で、スケッチブックや紙に応援のメッセージを書いて動画に映っている。なかには日本語でメッセージを書いている人もいた。正直、タイ人たちが書いている日本語は上手な文字ではないかもしれない。しかし、彼らが書いた文字から溢れるほど温かい気持ちが伝わってくるのはなぜだろうか。
タイ旅行中と思われる欧米人や日本人も応援メッセージを掲げており、世界中の人たちが日本を応援しているのがわかる。タイ警察の警察官たちや、マレーシア人、インド人、華僑の人たちも登場し、日本人にとって非常に励まされる内容である。
             http://www.excite.co.jp/News/net_clm/20110326/Rocketnews24_83186.html より






2011年3月11日発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)。
その被災者のために、タイの国民的人気歌手バード・トンチャイが支援ソングを発表した。


バード・トンチャイはタイ歌謡界では大御所の、国民的スーパースター。
派遣前訓練を行った二本松訓練所のタイ語学習クラスでも、ウィキ先生から
タイ人なら誰もが知っているからと、バード・トンチャイの「サバーイサバーイ」という曲を教わり
任地に赴く日、私はTICAセレモニーの皆さんの前でその歌を歌った。
私には初めて知ったタイ人歌手であり、唯一歌えるタイの歌であり、
力強くエネルギッシュな彼のステージでの歌いっぷりを見て、
タイにいる間に 私も生のステージを見てみたいと思っている歌手。


彼が呼びかけ、所属音楽事務所GMMグラミーの有名歌手らが賛同し、
東日本大震災の被災者救済を目的にしたチャリティーイベントTHAI FOR JAPANが開催された。
このチャリティーイベントでは、バードを始めグラミー所属の有名アーティストらが
特製Tシャツを1枚250バーツの販売し、売上金を日本の被災者のために寄付、
また、本社前の沿道に立ち募金活動を行った。

来月8日まで土日を除き毎日午前11時半~午後1時半まで、オリジナルTシャツが販売される。
私だって買うしかない。



Youtubeで公開中のこの曲は、タイ語の歌詞と共に日本語訳の字幕がつけられ
タイの人々からの日本へのメッセージが映しだされていくもの。
歌はタイ語で歌われる間は日本語の訳が流れ、
途中より日本語の歌になりタイ語の訳が流れる。
また、タイ人も日本語で歌えるように、タイ語で日本語の読み方も出る。


大波が去り 涙の波だけが残された
 それを思いやりの波に変える
 運命が多くの命を奪っていった
 それでも涙を拭いて歩き続けよう
 つらいことはやがて過ぎ去っていく


   

 胸一杯になる映像だ。


   


アイティム    タイのアイスクリーム

2011年03月27日 20時17分13秒 | グルメ

  ไอตีม  アイティム


タイでよくみかける移動式のアイスクリーム屋さん。
チリン、チリ~ン♪  チリン、チリ~ン♪
と軽やかな鈴の音色が、アイスクリーム屋さんがきた合図。
     


もちろん、その辺りの商店にもアイスクリームは売っているのだが
日本で見るアイスクリームと同じ個包装されたタイプ。
この移動式アイスクリーム屋さんは、ココナッツアイスが基本で
大きな丸い寸胴からアイスクリームをごしごしとすくい取り
お好みに応じてパンやコーン、
トッピングもナッツ、ナタデココ、芋、チョコソースで作ってくれる。
あたたかく庶民的な 懐かしい感じのするアイス屋さんなのだ。
       


このアイス屋さんが好きで、もっぱら商店のアイスには見向きもせず、
いや、アイスは大好きなんだけど、あえて商店のアイスを買うのはがまんして
アイスクリーム屋さんに会えることを願ってやまない毎日。
残念ながら、私のアパート付近には現れたことがない。
鈴の音が聞こえて喜んで外に行くと、そこには自転車に乗って嬉しそうに鈴を鳴らす子どもの姿。
まぎらわしいんじゃい! と思わず日本語で怒りそうになった。


こちらが食べたいときに出会えるとは限らず
それだけにこのアイスクリーム屋さんに出会えたときの感激はひとしお。
「あっっ! アイティムください!!」 と即座に飛びつく。


「アイティム」というのがタイ語風。
      



チリン、チリ~ン♪  チリン、チリ~ン♪
この音色が聞こえたら
はっと顔を上げ 辺りを見回し どこ?どこ?どこ?と探す。
あたりを走って探し回り、息を切らしてやっとみつけ 「ハァハァ… アイスティムください!」
アイスティム屋さんを追いかけて、背後から  「アイティムください! 」
正面から出くわし、手を挙げて軽快に  「アイスティムください!」
遺跡を見学中に鈴の音が聞こえ、走って遺跡を走り抜け
道路にいるアイティム屋さんを発見、柵ごしに 「アイスティムくださーーい!」(→過去ブログ 「ピマーイ遺跡」

とにかく、チリン、チリ~ン♪  チリン、チリ~ン♪
が聞こえたら探す、そして見つけたら必ず買うのが私の決まり。
たまに、何度も同じアイティム屋さんに出会うことがあるが
決まりは決まり。
何度も買う。 アイスティム屋さんも笑いながら作り差し出してくれる。


このアイスティム。
最もお気に入りの食べ方は、カノムパン サイカオニャオ(パンにもち米をはさむ)
サンドイッチ用のように薄くスライスされた小さめサイズの食パンに
アイスクリームをはさんでもらう。
ココナッツ味のカオニャオ(もち米)をちょこっと入れてもらう。
     


お値段 1つ10バーツ(約30円)。
お値段も、大好き。
なかなか会いたいときには会えないというもどかしさも手伝って
出会えたときには、と2個食べちゃう。


協力隊員でも、「ええー?パンとカオニャオとアイス?」
と眉間にしわを寄せる人もいるのだが、言語道断、私は怒っちゃうぞ。
タイ人もこのパンとアイスとカオニャオの組み合わせで美味しい美味しいと食べるアイス。
その国に入りながら先入観をすてない外国人はいかーーん!


現地の人が美味しそうに食べているもの。
美味しいに決まっている。 本当に美味しい。
ぜひ、ぜひ 先入観を捨てて食べてみることをおすすめする。
先入観を捨てるって、世界がどんどん広がるんだから。
特に食べ物に、一口も食べてみようとせず頭から否定するのは
それを美味しいという国や人間に対してとーっても失礼だ。


日本では見られない組み合わせ。
パン + アイス + もち米
タイ人の皆さんに 「こんな美味しいの作ってくれてどうもどうもありがとう!」
と頭を下げたくなるほどの ミラクルコンビネーション。
カオニャオマムーアンにならぶ、ミラクルコンビネーション。 (→過去ブログ 「カオニャオマムーアン =もち米マンゴー」


基本はココナッツ味。 
だけど、チョコやいちご、マナオ(レモン)味のアイスティムがある時もあり。
パンも食パンではなく、ホットドック風大きなパンであったり
バイトゥーイというタイでよく見る緑色のよい香りのするパンであったり。
地域によって、アイティム屋さんによっての特色もある。
      

    


2個のアイティムを買い、さっそくパクパクとアイスティムをほおばる。
アイティム屋さんが立ち去るときにまた鳴る鈴の音。
チリン、チリ~ン♪  チリン、チリ~ン♪
その音にもまた はっと反応し、振り向いてしまう。
鈴の音に、反射的に体が反応し探すようになってしまった。


ときめきの タイ移動式アイティム。
今度はいつ会えますか。
         

マハサラカム

2011年03月26日 20時53分00秒 | 日記
  มหาสารคาม(マハサラカム)
 「大いなるすべての家」という意味をもつ。


マハサラカムはタイの東北部(イサーン)にある県。
私の住むコンケンから、バスで1時間30分。 バンコクからだと北東に、バスで約7時間。


そこに、私とちょうど1年違い、21年度1次隊の先輩隊員がいる。
多くの協力隊員・様々な職種がいる中でも珍しいまれな職種、獣医。
コンケンから目と鼻の先にあるマハサラカムだが、これまでいったことがなく、
残り任期3ヶ月となった彼女を訪ねておかねばと、
週末に足を伸ばす。


マハサラカムはガイドブックにも載っていない、『地球の歩き方』にも載っていない。
特にこれといった名所や特産品もない。
タイ人でも滅多に旅行に訪れることはないという スーパーローカルな土地。
だからこそ、この機会にいっておかねば、一生行くチャスがないかもしれない。

チー川の形成した台地が広がり、コメ作りを主とした農業を行う田舎町。
東にローイエット、北西に国道208号線でわがコンケン方面とつながっている。


「なんにもないよ」と先輩隊員から聞かされていたが、そんなことはない。
先輩隊員の活動するマハサラカム大学をはじめ、ラチャパット大学や専門学校など
いくつもの大学、学校があり、大学を中心に街が形成されている。
学生の街だけあって店も建ち並び、ずいぶんと活気がある。
こぢんまりとした中に必要なものがすべてそろった、住みやすい感じを受けるマハサラカム。
バンコクのような喧噪はない、コンケンよりもどことなく清潔感がある。

学生の街だけあって、どこもバイクがずらりと並ぶ。
    


バスターミナル周辺には安価な雑貨、服、生活品がたくさん並ぶ市場。
見ているだけで楽しい。
    


ナムプリックがピラミッド状態で売られる。 (→過去ブログ 「タイ人必須アイテム ナムプリック」
     


おいしそうなフルーツシェーキ屋さんもあり。 種類も豊富。
どれにしようかなー。悩む。
     


先輩隊員のすすめで、ラムという柿のようなフルーツのシェーキを注文。
甘くてなんともおいしい。 
           


私の家の付近では滅多に会えない、移動式アイス屋さんも遭遇。  (→過去ブログ 「アイスティム」
アイスは大好きなので、アイス屋さんに会えたら必ず買う。
「おばちゃーん、私 2つ食べちゃいまーす。」
    


スーパーローカルな土地なだけに
日本人やファラン(欧米人)がいると珍しげに見られ、
時には車の中から「コンニチハ!」と声をかけていく人も。
揚げバナナの写真を撮っていれば、この店の人はもちろん
他の店の人々も親しげに話しかけてくる。 (→過去ブログ 「焼くなり揚げるなり好きにしてー」
         


今回は先輩隊員の配属先にはお邪魔する時間がなかったけれど、
次回はマハサラカム大学での活動を見せてもらおう。
楽しみが一つできた。

  
気に入りました。 マハサラカム。
またいきますとも。 マハサラカム。
    

私の掲示板

2011年03月25日 23時20分24秒 | コンケン 第9特別教育センター
朝の集会で日本語を教えている。(→過去ブログ 「日本語を教えています」
私にとっては大事なコミュニケーションツールの一つ。
1月の調整員の任地訪問の際、調整員の後押しを受け
この日本語を掲示するための、私専用の掲示スペースがほしいとお願いした。


OKということだったが、その後どうやら忘れ去られ
かなり時間がたってしまった。
その間、一人で何度かアプローチし、やっともらえたこの掲示板。
好きに使っていいという。
ここに日本語を貼ったり、私からのお知らせを掲示したり、
使い道を考えると活動の未来が広がっていく。
      


さて、ちょっとボロい この掲示板。
どうにか美しくしたい。
だが、ここからが大変。


きれいにするのは簡単。
模造紙を貼ればいい、布を貼ればいい。
だが、その模造紙一つ、布一つ、押しピン一つを手に入れるのにも
このセンターでは勝手が分からず、四苦八苦なのだ。
日本の学校のように、事務室があり、
文具がいつでも使える状態というわけではなく
それぞれが個人で文具をもち、これは私の!と個々所有意識が強い。


模造紙がほしいのだけど、とカウンターパートに尋ねるが
「○○さんに言ったら買ってくれるわよ」
○○さんに尋ねれば
「ない。」の一言。じゃあどうしたらいいの?と聞くが、返ってこない。
うーん。
あの人に言って、あの人に言ってちょうだいと、たらい回しになることも多い。
そんなこんなでほしいものが手に入らず、
日本でならば、20分で終わるだろうこの掲示板作りは2週間にもちこす。


偶然、ある教室で見つけて、「お願い、これをください」と頼み、
やっと手に入れた模造紙を掲示板に貼る。
ああ、長かった、ここまでが長かった。
      


まち針しかないため、まち針で刺すが、うまくいかない。
当然だ、だってまち針だもの。
すると通りかかり、それを手伝ってくれたクルーが一人。 
機械を使ってバチバチと模造紙をとめてくれる。
たかが模造紙を貼った掲示板だけれど、本当にここまでくるのに難航していたので、
この手伝いのうれしかったことといったら。
     


できあがった、私の使っていい掲示板。
折り紙と手書きの文字で飾る。
「リーアンパーサーイープン byさちえ」(=日本語の勉強 byさちえ)
     


掲示していると、
「まあ、きれいねえ。」と言ってくれる人がいる。

「さちえ、これは重すぎるだろう。減らしなさい。」と言う人もいる。
いやです!だって、過去教えた日本語をめくって みてくれる人もいるんです!

「さちえ、こうじゃなくて、“今日の日本語”、“昨日の日本語”と分けるのよ。」と言う人。
ああ、なるほど、それはいいですね。そうしましょう。さっそく作る。
     


以前、カレーライスをつくってふるまったときにも
「煮込み過ぎよ、火を止めて」と、カレーを作ったことのない人に
かなり指示を受けた。
タイ人は自信を持って口出しをガンガンしてくる。
だけど、私もそれがもう分かっているから、カレーを作ったときのように
いちいち反応せず、おおかたは流し、
いいと思ったものだけを取り入れて聞くようにする。
相手も、それほど言ったことに重点を置いていないため、
言ったことも忘れているくらいだから、受け取る方もこのくらいでちょうどいい。


だが、偉いカウンターパートがきて、
   ちがう!日本語に使うのはほんのちょっとでいいの。
   この間のシンラパプロジェクトでさちえがやった写真をここに飾るのよ。きれいにね。

と言われたときには、けっこうがっくり来るものが。
こんだけ苦労してやっとつくった掲示場にねぎらい一つなく…  という いじけ気分と
もう終わったプロジェクトを大事に掲示して、飾ることが
今日も明日も今やりつづけている日本語の掲示よりも大事なのか…  という、
どうしても相容れない違和感と。


へこんだけれど、1日2日のこと。
顔に出てしまったかな、いけなかったな、
いちいちへこんでいられないぞ。
せっかくつくった掲示板、これからフルに活用。 
     

サクラサケ

2011年03月24日 15時31分55秒 | 日記


   


タイでもこんな花が咲くのかと驚き、足をとめる。

ガラパプルッ というらしい。


一年を通して暑いこの国。
雨季や乾季、暑気という季節はあっても、
日本のようにはっきりと寒暖の差のある四季ではない。


だから植物も一年を通してのんびりと葉を茂らせ、
花を咲かせ、特に季節の変化を感じるものではないと思っていた。


それは、まったくの誤解。
タイでも、この暑い一年の中でも
微妙な空気の温度、湿り気、太陽の日差しの強弱を
植物たちは感じ取って、その時期がきたことを知り
花を咲かせるのだ。


まるで、そんな繊細さはないようにさえ思ってしまっていた。
気候にも植物にも、人々にも。
一年を通して、ただ暑い暑い日々だと。


木々は時期をまち、じっと花を咲かせる時を待っていたということ。
その時期をとらえるために、敏感に外界を感じ取っていたに違いない。


まるで日本の桜みたいではないか。
桜にそっくりだと思う。
      


暑い国、タイらしく日本のサクラよりも少したくましい感じがするこの花。
だけど、花弁といい、咲き方といい、桜にそっくり。


日本でも桜が咲く頃。
日本の家族から。
「早くあたたかくなって欲しいよ。桜も咲くというのに寒い日々です。」


サクラは今も花を咲かせるための準備を続けているだろう。
刻一刻、休むことのない命の活動が、
1年に1度花となり、私たちは目にする。
あの美しいサクラの花、透き通るようなピンク色。
それは、あのサクラの木の
ごつごつとした幹のピンクであり、
中を流れる樹液のピンクであり、
休むことなく活動を続けた木全体のピンクであり、
それが、花という一つの現象になったに過ぎない。


今は花びらが見えなくても、活動は休むことなく続けられている。
今は見えないけれど、サクラはある。
頭上に咲いている。



サクラサケ  サクラサケ  みんなの頭上にサクラサケ
     


先輩隊員の帰国

2011年03月23日 20時03分36秒 | 青年海外協力隊たちの活動

青年海外協力隊は、年に4つの隊次に分けられ、任国へと赴く。
6月 1次隊
9月 2次隊
12月 3次隊
3月 4次隊

私は、平成22年度1次隊としてはこのタイ王国へと派遣された。


現職驚異特別参加制度での協力隊参加は、毎年1次隊に属し、
任期は、他の人よりも3ヶ月短い1年9ヶ月。
4月から教師として学校に復帰できるように、
同期の隊員よりも一足先に、3月、日本に戻る。

つい先日20年度4次隊の先輩隊員、
そして21年度1次隊の現職参加の先輩隊員が日本へ帰国。
現職教員参加である、私も来年の今頃に日本に帰る。


タイに来て、先輩隊員の帰国を送ったのはこれで4度目。
1度目はタイに到着した翌日のこと。
帰国を明日に控えた先輩隊員と食事を共にし、
「早く日本に帰りたい」と、言葉とはうらはらに複雑な顔をして言うのを
不思議な気持ちで聞いた。
それから少しずつ先輩隊員たちと親しくなり、
次の隊次が帰国、そして次の隊次、と見送る立場を重ねるごとに
さびしさが募るようになった。


そして4度目。
助けてもらった、笑わせてもらった、教えてもらった、気持ちを分け合った、
当然のことながら、今まででその時間が最も多かった先輩隊員たち。


協力隊員として任国で出会い、特別な感覚と思いを共有した。
日本ではきっと、出会うことができなかった人たち。
出会いの不思議さを、奇跡だと思う。
別れのさびしさがずっしりとくる。

旅立ちの前、先輩隊員の顔を見て、いつものように話していても
もう、こうしてここで同じ立場で話すことはできないのかと、
さびしさが胸にこみ上げる。
帰りのバスでは雨。涙雨が降ってくる。
  


もうすでに、みな日本の地を踏んだ。
2年ぶりの日本に、きっと違和感を感じながらも、
着実に日本人に戻っていくのだろう。

今、先輩たちが戻っていった日本と、
1年後、私が戻る日本は同じ日本なのだろうか。
異次元に存在する別々の日本に、私たちは戻っていくのではないだろうか。
だからもう、2度と会えないのではないか、と考えてしまう。


 バンコクの空から日本の空へ つながっているはずなのに遠い。
   



 

先輩隊員の皆さん。
日本が大変なときの帰国。
タイにいる私たちがこの目で見られない日本の惨状を目の当たりにし、
肌で実感して、どんな思いでいるのでしょうか。
そちらは寒いでしょう。体に十分注意してくださいね。
心も体もやすらかに過ごしてください。
タイで巡り合わせたこと、なんて幸運だったのだろうと思います。
任期を全うされたみなさんを、心から尊敬します。

東北地方太平洋沖地震 タイから日本へ たくさんの支援  

2011年03月22日 16時57分14秒 | 日記
  
         タイと日本の国旗が描かれた千羽鶴。 
     


東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)。
この震災で被災したのは日本人ばかりではない。
日本に渡航している外国人、タイ人も被災している。
在日タイ大使館によれば、被災地と周辺エリアに在住のタイ人のうち、
3月20日時点で749人とまだ連絡が取れていないまま。


それでも、日本に対しての支援は厚い。
3月14日。
東日本大震災で甚大な被害を受けた日本に対し、
タイ王国では、2億バーツ(日本円で約6億円)の緊急予算が組まれた。
医療チームなどの派遣、食料や医薬品などの救援物資に使われるという。


16日にはタイ王室から 毛布2万枚が日本へ送られた。

救援物資に毛布をおくる。
この灼熱の国タイから。
普段のタイ人の生活ではほとんど目にしない毛布を、
被災した日本人が今、どれほど寒い思いをしているだろうかと
思いをめぐらせて送ってくれた。


日本人旅行者からの観光収入だけでも、最大200億バーツ(日本円で600億円程度)
の打撃があると言われる、タイ。
その上で、日本へ支援を買ってでている。


009から始まる日本への国際電話は、期間限定で無料となった。
また、タイ国内では被災者への義援金募集が広がりを見せ、
芸能人のチャリティーイベントやテレビ番組での呼びかけや、
企業、地方行政体、個人から多くの寄付が寄せられている。



世界中のバックパッカーたちが集まる、バンコクのカオサン通りでは象が募金活動。
顔に日の丸を描かれた象。
ふだんなら動物の体に人間のエゴで絵を描くなんて、と思うのだが、
今回ばかりはタイ人の思いやりを感じて感謝のほうが大きくうわまわり、
象には申し訳ないけれど、ありがたい気持ちでいっぱい。
    
 


バンコク最大のスラム、クロントイ地区でも支援活動が。
このスラム街には、約3万世帯、10万人がひしめきあい生活している。
トタン屋根とベニヤ板のバラック小屋が所狭しと建ち並び、
汚水とゴミが散乱する劣悪の住環境の中、
麻薬やエイズの蔓延など深刻な問題が山積している地区だ。
日雇い労働に従事する大人と、学校に行かず路上で物売りをして家計を支える子どもたちが多くいる。
一日の所得が日本円で数百円といわれるこの地区で、
日本のために募金をするたくさんの人の姿が ニュースに映し出される。

ピンク色の紙幣、100バーツ札を募金する人。
日本円では300円程度に換算されるが、この人たちにとったら1日分の収入。
私たち日本人の意味する 300円とは重さが違う。

    



タイ人はたとえ自分が貧しくとも、つらくとも、困っている人がいれば
何かを与えようとする人が多い。
敬虔な仏教徒の国であり、他人への施しは、やって当然のこと、
「チュアイガン」=「助け合い」という言葉をよく耳にする。





空港に設置された 募金箱。   バンコクのBTSの駅にも、募金箱が。
           





配属先に行くと、保護者から、先生たちから
   大丈夫なの?今どんな状況なの?
   ニュースを見て泣いているのよ、なんてかわいそうなの
と、心配する声と励ましの声の嵐。


朝の集会では、日本の今の状況を話してくれと言われ、
たくさんの人が亡くなったこと、今も安否がわからない人がたくさんいること、
日本は今寒く、物資も足りず、電気も十分になく、
人々が苦しい生活を強いられていること、
タイからの支援をテレビで見てる日本人も多くいて、
私に感謝のメールが来ていることなどを伝えると、
泣いている人、拍手している人。


夕方、久しぶりに、いつも行く果物屋の屋台にいくと、
なじみのおばちゃんが、私を見ていすからあわてて立ち上がり
   見かけないから心配してたのよ
   日本に帰ったの?日本の家族が心配でしょう?
   地震と津波でたくさんの人が亡くなっているのをテレビで見て心配してたのよ
と、おろおろしながら言う。

通りがかかりのタイ人のおじさんも、足を止めて話に加わる。
   日本人か。 どうなんだ? 今日本人はとてもこまっているだろう?


道路の向こうの屋台のおばちゃんたちにも、大声で
この果物屋のおばちゃんが叫んで知らせる。
「だいじょうぶだってー この子の家は大丈夫だってよー!」
辺り一帯が、
   ああ よかった。
という雰囲気になる。
     



私という 日本人一人でも、こんなに心配されている。

タイ人のごく自然な思いやり、基盤にある助け合いの精神には
今、本当に助けられている。
泣きながら日本の惨状を見て、
泣きながら、私の家族を心配してくれるタイ人たちに
感謝の気持ちが日々積み重なる。


たくさんの目が向けられている。
たくさんの思いが向けられている。


ニホン ニッポン  ニッポン  がんばれ  がんばれ  がんばれ
      

      

ぎらりと光るダイヤのような日

2011年03月21日 08時25分00秒 | 日記
 
    ぎらりと光るダイヤのような日

             茨木のり子


   短い生涯
   とてもとても短い生涯
   六十年か七十年の

   お百姓はどれほど田植えをするのだろう
   コックはパイをどれ位焼くのだろう
   教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう

   子供たちは地球の住人になるために
   文法や算数や魚の生態なんかを
   しこたまつめこまれる

   それから品種の改良や
   りふじんな権力との闘いや
   不正な裁判の攻撃や
   泣きたいような雑用や
   ばかな戦争の後始末をして
   研究や精進や結婚などがあって

   小さな赤ん坊が生まれたりすると
   考えたりもっと違った自分になりたい
   欲望などはもはや贅沢品になってしまう

   世界に別れを告げる日に
   ひとは一生をふりかえって
   じぶんが本当に生きた日が
   あまりにすくなかったことに驚くだろう

   指折り数えるほどしかない
   その日々の中の一つには
   恋人との最初の一瞥の
   するどい閃光などもまじっているだろう

   本当に生きた日は人によって
   たしかに違う
   ぎらりと光るダイヤのような日は
   銃殺の朝であったり
   アトリエの夜であったり
   果樹園のまひるであったり
   未明のスクラムであったりするのだ
 
     







初めてこの詩を読んだときは、ドキリとした。

人間が死ぬ時、こういう思いになるのだろうか。
「私が本当に生きた日は」と考えるのだろうか。
  


『森の生活』という本で、H・D・ソローが言っている。

  《死ぬ時に、実は本当には生きていなかったと知ることがないように》




「本当に生きた日」
生きてると感じるとき。
それってどんなときなんだろう。


生きているのが当たり前だから、何も感じることがなく
仕事をして、仕事に追われ、暮らしに必要なものをもち
心地よさを求めながら、日々、命を紡いでいる。


「君はなんのために生きてるの?」と聞かれたら
なんと答えたらいいだろう。
何を一番大事にして生きているだろう。

私はきっと、自分と大事な人を大切にして生きていきたいと思う。
タイにきて、よりそう思うようになった。


「本当に生きた日」は指折り数えるほどしかない、と。
それならば、今日という日を大切にしなければいけない。
今日やりたいことをやる、やるべきと思ったことをやる。
思いのままに、心の求めることを大事にして。
精一杯、満足のいくまで心を注ごう。


自分が本当に生きた、「ぎらりと光るダイヤのような日」
私はどのくらいもっているだろう。
人生はきっと短く、儚い。

《世界と別れを告げる日にひとは一生をふりかえって
 じぶんが本当に生きた日があまりにすくなかったことに驚くだろう》


ぎらりと光るダイヤのような日、
もし、この世を去るときに振り返って、それがなかったら
考えただけでも恐ろしいこと。
だけど、
私には、ぎらりと光るダイヤのような日が、いくつもあった。

「本当に生きた日」がある。

そう思える、すばらしい人との出会い
心が震えるような感動や切なさがあった。



あさがお

2011年03月20日 14時29分04秒 | 日記
道を歩いていると、ふと 懐かしいような見慣れたような
そんな風景が目に入る。

空き地いっぱいにツタを茂らせ、咲く
薄い紫の優しい色をした花。

   



まるで、日本のあさがおそっくり。
よくみると、日本のあさがおよりも
少したくましい感じを受けるけれど、
やっぱりそっくり。
まるで、日本にいるみたい、と懐かしい気分。   
   
    



つゆを抱いた可憐なあさがおを、タイで3月に見ている。


震災で傷ついた日本だけど、
8月には きっとまたあさがおがいつも通りに花を咲かせ
タイで私を懐かしくほっとさせた以上に、
日本の人たちの心を どうか和ませてくれますように。
     
 





カヌン  ジャックフルーツ

2011年03月19日 15時02分38秒 | グルメ
タイの果物シリーズ  2


      ขนุน  カヌン 

  
英語では jackfruit(ジャックフルーツ)
日本語では 波羅密(ハラミツ、パラミツ)

    

今、このカヌンの美味しい季節。


街角で、よく熟れたジャックフルーツが売られている。
慣れた仕草で包丁を突き立て、大きな実をほぐして中の果実を取り出す。
たったの10バーツ。30円程度。
       


「果物の王様」と呼ばれるドリアン。
「果物の女王」と呼ばれるマンゴスチン。
だけど、
 地上最大のフルーツは、このジャックフルーツ。

大きく育ったジャックフルーツは
長さ80センチ、直径25センチほどの楕円形、重さは30~50キロほどにもなる。
人の頭の2倍の大きさだ。
でかい。

初めて見たときには、そのイボイボの外見を
ドリアンと見間違え、
恐竜の卵かと思った。

ちょっとだけ独特の匂いがあり、
ガムのような甘い香りがただよう。
人によっては腐敗したようなにおいと
表現されることも。


甘い香りと、なんともいえない歯ごたえと、
パイナップルをもっと濃く甘くしたような味。
タイで初めて食べたこのフルーツが、
今は大好きになってしまった。


わが配属先でもよく、デザートにジャックフルーツが出るのだが、
果実の中には大きな種がある。
食堂のおばちゃんが、
「この種はこのままじゃ食べられないけど
 ゆでたら食べられるのよ。」
と、私のためにゆでてくれた。
  


大きな大きなジャックフルーツの果実から出る種は
やはり、大きな大きな種。
ゆでて食べると、まるで大きな豆を食べている感触。
ほくほくで、とてもおいしい。
しかも、種からもフルーツガムのような香りがただよう。
       




この、ジャックフルーツの実り方。
一度見たら忘れられないほど印象的。
巨大なトゲトゲの実が、ゴロンゴロンと
枝ではなく木の幹から直接突き出し、ぶらさがっている。
よく、こんな重い実がぶらさがっていられるものだと
まー、びっくりする。
こんなものが、頭上に落ちてきたら、一巻の終わり。


見た目からして恐竜の卵のようで、愛嬌のあるジャックフルーツが
木の幹のあちこちから
大小ぶらぶら ぶらぶら。
なんともユーモラス。


そんなジャックフルーツが、
私の住むアパートの隣、
私の大好きなナムプリック専門店に、
ドシンと構えて、ぶらぶら実を下げているのを発見。
   


ぶらぶらぶらぶら
大小 ジャックフルーツでぎっしり 
こんなにすごいのに、これまで、気づかなかった!
   


すごーい!
  


すごいすごいと写真を撮っていると、ナムプリック専門店のおばちゃんが
店から出てきて、
「日本にはないのー?」と聞く。
   


ないない、ないない! ありませんよ!
普通に、家に植えてあるなんてこと、まずありませんよ!
ジャックフルーツは縁起のよい植物で、
タイでは、家の裏手に植えるとよいらしいと、
以前バンコクで、語学の先生から教わった。

このたわわなジャックフルーツだが、
これでもずいぶんな年寄りで、かつてほどは成らなくなってしまったのだと
残念そうおばちゃんが話してくれる。

だけど、この子どもの数々。
   


花が咲き、そこから小さな子どものジャックフルーツが育つ。
      


このジャックフルーツ、
自然の恵みを受け、
たっぷり150日かけてじっくりと育つらしい。
5ヶ月も?!


そばを通るだけで、ふわっと香る甘い匂い。
おいしいおいしい パッションフルーツ。
カヌン。ジャックフルーツ

   





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 タイの果物シリーズ 1 「トゥリアン アロイ」  「はまるドリアン」
     

がんばって 日本

2011年03月17日 09時47分51秒 | 日記

2011年3月11日14時46分ごろ、三陸沖を震源に国内観測史上最大のM9.0の地震が発生。


津波や火災で多数の死傷者が出ており、今もその数は増え続けている。



警察庁によると、16日午前8時現在、東北など12都道県警が
検視などで確認した死者数は3676人に上った。
家族や知人から届け出のあった行方不明者は7558人。
死者と行方不明者は合わせて1万人を超えた。
重軽傷者は16都道県で計1990人になっている。


死者のうち15日午前10時段階で1870人の検視が終了し、
約1060人の身元が確認されたが、
遺族に引き渡されたのは約420人にとどまっている。
遺族も被災し、避難所生活を強いられていることなどから
遺体の引き取りが困難になっている。

また、全国から派遣された広域緊急援助隊を含む警察は
15日午後5時現在で孤立化した被災者ら約3300人を救出したという。

     





日本が今、ひどい状況にある。
タイの人たちも、日本のことを心配し、
私も日々、ニュースを追っているが、どうしても
遠く離れた国にいると、この惨状を肌で感じることができていない。
きっと、きっと、私が感じているより以上の惨状がある。


「福島の原発と、宮城の火力発電所が稼動できなくなり、電力が不足して酷い事態です。
 首都圏の電車がストップし、さらには輪番停電といって順番に停電。

 これがまた情報不足でどうにもならず、夜停電されたら全く仕事になりません。
 ひとまず4月末まで続くらしく、長ければ夏まで続くようです。
 もちろん冷蔵庫冷凍庫の電気も止まるから、小売店もきついだろうね…。

 仙台や岩手には、今も何百という遺体が打ち上がってるみたいで、ホント地獄のようだよ。
 福島原発が大変で、被爆者が何人も出たよ。
 いつ爆発してしまうか、ひやひやしてみな見守っています。」

埼玉にいる友人からの現状報告。
それでも、友人は仕事を始めた。
いつまでもへこんでいられないと。

「悪いことばかりじゃないよ。
 いつも何気なく使ってる電気の大切さや、周りの人達の優しさや、心遣いや。
 身に染みてありがたくて。私もたくさんの気付きをもらったよ。
 日本はきっと大丈夫。」

まだ、大丈夫といえるだけの時間はたっていないだろうに、
前向きな姿勢に心を打たれる。
この前向きな人たちが、これから、
この被害の中からはいあがって
立ち上がって
もういちど新たに日本をつくっていく
その中心人物となる大事な人たちなんだ。



タイでも義援金を募ったり、
協力隊員でも募金活動が早急に行われてる。
世界いる同期たちからも、
支援活動の情報交換のメールが行きかっている。


今までに見たことのない、日本の惨状ぶりに、いったい
タイにいて何ができる、何をしたらいいと、もどかしい日々だが
とにかく、1人でも多くの命が救われ、
1人でも多くの人が悲しみから逃れられること、
そして、当たり前の日常を過ごせるようになるようにと
心から、心から願う。


がんばって 日本。
生きて 日本。