ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

青年海外協力隊 活動終了

2012年03月31日 18時03分41秒 | 青年海外協力隊たちの活動
 
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【日本に帰ってきてすぐに驚いたこと】

・服の色がまるでそろえたように黒ばかり。茶、グレーの暗い色を好む日本人。
 それがずらりと、エスカレーターではしっこ一列に並ぶ。 
     
・目があっても微笑まないこと。
・人々が下を向いている。ケータイとにらめっこしている。
     
・水道の水がものすごく冷たくてびっくり、トイレの便座があたたかくてびっくり。 スーパーのトイレでさえも。
・ホテル代が高い。(ホテル代に限らずだけど)
・お茶が甘くない。砂糖が入っていない。
・お菓子を置いておいても蟻がなぜこない。
・重い荷物を持って東京の駅の階段をエンヤコラ運んでいても誰一人、手伝ってくれる人がいない。
・電車が時間ピッタリ、バスまでほぼ時間通り。
・帰国プログラムで休憩がたったの10分。
・どの駅員さんも、尋ねたことに嘘なく正確かつ丁寧に答えてくれる。




【しばらくしても まだ驚いていること】

・新しく行く学校から1年間の予定表をもらったこと。
 (1年分の予定をこんなに細かく出すなんて。すでに決まっているなんて。タイでは次の日の予定も確かじゃなかった。)
・新しく行く学校の、4月からの職員の動きが、15分刻みの会議の連続だったこと。
・会議でワーワー意見を言える空気。堂々と不満顔だってできる。
 (タイは上下関係・年齢は絶対で、地位や年齢が上の人へ意見することは絶対なかった。)
・サインよりも印鑑がとーーーーっても重要な、印鑑社会であること。
・みんながそろうまで、ごはんを目の前にしながらも、じっと待っている一斉に「いただきます」の食文化。
・どこの時計を見てもたいして狂っていないこと。
・年齢と恋人の有無を誰もなかなか聞いてこないこと。
・女の人が髪を結ぶのにゴム1つという地味さ。
・ワイドショーのネタがあまりにくだらないこと。なんて幸せなんだ、日本は。
・車が全然通らない道でも、赤信号で行儀よく人々が待っている。
・お店の店員さんがお菓子も食べてないし、ごはんも食べていない。
・日本のお米の もちもち度。
・日やけ止めを塗らなくても外に出られちゃう。
・AKB48が一躍スターになっている。
・レストランの水がタダ。
・カラムーチョとは名ばかりで全く辛くないこと。
     

タイのお父さんお母さんからハガキが届いた。
私が自分で住所を書いておいてきたハガキ。
だけど、宛名の私の名前がない。私があわてて書き忘れてしまったのだ。
それでも届く、日本の郵便。 いや、すごい。
     




いやいや、びっくりする。
地味で、謙虚で、他人行儀で、丁寧で、頑なで、どこもかしこもきれいできちんとしている日本に帰ってきた。

今はすぐにタイを引き合いに出してしまうし、毎日タイ料理が恋しいし、
日本のお笑いを見ても一緒に笑えなくなっている自分に愕然とする。
健康診断で飲んだバリウムは、これがココナッツミルクだったらいいのにと願った。
     

一時帰国していたことがあるから、この逆カルチャーショックははじめてじゃないはずなのに、
不思議と一時帰国時よりもショックがある。
最後の4ヶ月間、どっぷりとタイに浸かりきっていたためだろう。
駆け抜けた感のある最後の4ヶ月は、まともにぐっすりと眠った覚えもなく、
タイにいるときには感じなかった疲れが、日本に戻ってどっと押し寄せた。
もう、ブログを書くのもおわりと思うとそれも妙な気分で、
最後と思うとなかなか腰が上がらなかった。

だけど、思い出に浸る暇もなく引き戻され、月曜日からは日本の学校での本格的始動。
     



洗っても洗ってもまだうす黒いままの足の裏。
いつも裸足だったからか、ガサガサのかかと。
速攻治療が必要な奥歯。
母親が嘆くすでに日本人の色ではない足や手。
未だかつてないバサバサもじゃもじゃの髪。
未だかつてない肌荒れ状態。
タイでぽってりと増えた体重。
「どうしちゃったの?」と驚かれるこれらすべて、私の勲章。
どうだ! という誇らしい気持ち。
寒くったって、周りがみんなダウンジャケット着てたって、半袖でがんばっちゃうくらい。
      


タイの東北部コンケンで、
現地の人と同じものを食べ、同じ言語を話し、タイ人の中に入って仕事をし、
同じように生活をし、気持ちを分け合ったんだぞ、その勲章だい!と誇らしい。
      


得たものは言葉では言い尽くせない。
心を揺さぶられる感動があったし、
別れたくないと思う出会いがあり、
出会えてよかったと思う人々がいる。
    

    

    

    

    

    



一時帰国せざるをえなかったときのことは、今思い出しても苦しい。
日本にいる間、罪悪感や後悔や、劣等感や自己無用感、焦燥感、なんやかやでいっぱいになった。
けれど、それがあったからこそ、無我夢中で最後の4ヶ月間を駆け抜けられた。
一時帰国したときに見えたこともたくさん、
そこからタイに再出発したことで得たこともたくさんたくさんある。
そんなことがあったこと、それは私は人より恵まれていたのじゃないかと思うほど。
     

虹の足の中にいるものは、虹の足の中にいることを気づかないように
幸せの中にいるものは、幸せの中にいることを格別驚きもせず、幸福に生きている。
そんな詩をここにのせたのも、一時帰国していたとき。   (→ 過去ブログ 「虹の足」

虹の足から離れて見えた、今までいたタイという虹の色。
その時にやっと見えた虹に、もう一度、もう一度と すがりつきたい思いだった。


タイに無理して戻らなくてもいいと言ってくれた人、
タイで待っていると言ってくれた人、
お帰りなさいと言ってくれた人、
黙って ただただ見守ってくれた人、
たくさんの人に支えられた。
今度は自分がそれを返せる人になりたいと思った。

協力隊として技術移転ができたかと言えば、きっとたいしたことは何もできていない。
できることを模索して、その時その時一生懸命だった。
ふと思い出したのが、この言葉。
日本を旅立つときに、読んだこの言葉。  (→ 過去ブログ 「これからの始まり 今日出国」



    なぜ、途上国に支援に行くのか。
    出発前の100人の訓練生に聞けば、100通りの答えが返ってくる。
    一様に彼らは饒舌(じょうぜつ)だ。たとえ言葉すくなでも、話し方には決然とした響きがある。
    帰国したばかりの隊員に、どうだったかと尋ねれば、遠いまなざしで口ごもる。
    そしてぽつりと「暑かった」と答えたりする。
    2年という派遣期間で、何かを成し遂げたと思うなら、それは傲慢(ごうまん)というものだろう。
    ただ、現地の人々と、あるときは笑い、あるときは悲しみ、あるときは反目(はんもく)し、
    草の根として心を通い合わせた日々。
    ほとんど個人的な体験と呼んでいいこれらの日々の積み重ね以上の、
    どんな国際協力があるだろうか



私の活動期間は、賞味1年3ヶ月に満たない。
でも、長さじゃないなと思うくらい満ち足りていて、これ以上はできないと思う限界までやったつもり。
だけど、その1年数ヶ月で、草の根として心を通い合わせたというのは、おこがましいし、
結局自分は日本人だったと思うこともある。
けれど、タイ人の中に人間対人間として一人の人間がそばにいた記憶が残ることが、
それが、たまたま日本人だったというそんな出来事が、
本を作るよりも、大きなプロジェクトを成し遂げるよりも、日本とその国を近づける、
ささやかで大きな国際協力なのじゃないかと思う。
    


タイが大好きになり、
タイが多くの国の中の1つではなく、ただ1つの国となり、
タイが好きすぎて、タイのことをちょっとでも悪くいわれようものならば目をひんむいて
ガブガブと噛みつきたくなるくらい、タイにぞっこんになって帰ってきた。

そして、同時に、タイを鏡として日本を見た。
大らかな人々、人を許し合う度量の深さ、土壇場の行動力、敬虔な信仰、タンブンの精神、愛国心、すばらしい国、タイ。
      
だけど、その正反対な部分を持つ日本も、唯一無二のすばらしい国。
これだけの完成度、緻密さ、豊かさ、日本ほどの国はないと思う。
何より、私がこんな経験をできたのは、日本があってこそ。
支えてくれたのは日本の国。
日本に生まれたからこそ、タイに協力隊として行くことができた。
たかだか1年数ヶ月タイに暮らし、タイが大好きになったとしても、
日本人の血が流れる私の、バックグラウンドは生まれ育った日本。
だから、タイを愛するのと同様に、いやそれ以上に日本を愛したいと思う。
     



訓練所から始まり、同じ時に世界に飛び立ったたくさんの仲間たち。
タイで出会えた宝物のような人、宝物のような思い出。
尊く切ない経験。

行って生で感じた、世界の人たちから見る日本。
日本のODAでつくられたメコン川にかかる国境橋、パラオの島々をつなぐ大きな橋、
途上国へ日本からのたくさんの支援、「日本といえばJICA」という国もある。
日本人の多くはそのことを知らないが、国民の多くが日本のことが大好きという国も世界にはたくさんある。
タイの洪水支援に寄せるタイ人たちの日本への感謝、
ラオスの人たちの日常にあふれている日本の開発援助、マラウイの人たちの日本好き。
自国、日本という国への誇りや愛国心を、私はタイではじめて感じた。 
きっと世界中で隊員仲間たちが感じた。
    


それを日本に持ち帰ってこれからがまた始まり。
「協力隊としての2年間が自分が思う以上に一生にかかわってくる」
と、何度かいわれたことがある。
この2年間がこれからの教員生活約30年間の原動力となる、その予感がしている。
    

       

    

ブログを書くことは、毎日私が自分を見つめる時間として大事な時間だった。
発信することで、タイを知ってほしいと思い、書きながら自分自身も調べること、勉強することが多かった。
私は中学の教師だが、中学生にもここから世界を見てほしいと願ってきた。
私自身も中学・高校の時そうであったように
中学生たちは、となりにいる友だちとの関係が壊れたら、それで世界が終わった、
どうやって生きたらいいの、死んだ方がいいとまで感じるほどに、極端に狭い狭い世界で生きている。
生徒たちには、今自分が生きている世界以外にもたくさんの世界があることを知ってほしかった。
世界は今いる場所だけではない。そこが嫌なら逃げ出しなさい。
どこへなりとも行きなさい。 違う世界を見ておいで。
     
また、大人であっても教師であっても完璧ではなく、つまずきぶつかりながら一生懸命に生きていることも、
見てほしかった1つの面。


日々、たくさんの人に見てもらえて、自分でも驚き、同時に責任を重く受け止めなければと思った。
私のあずかり知らぬところでこのブログがつながり発信されていき、
メディアのもつ影響力も十分に感じている。

今でこそこんなに長々と思ったことを書いているが、
最初は心の内を公に吐露するなんて恥ずかしくてたまらなかったこと。
今でも、読めば赤面してしまう時期の記事がたくさんあり、恥ずかしくて自分では目を通せない。
今後、日本での教師生活を私的にブログに綴る趣味は今のところ私にはない。

このブログを書く時間も全て、タイの人たちに充ててしまうという選択肢もあったけれど、
私には、このブログを書くことは必要な時間で、それも含めて貴重な経験だった。

日々消えていくはずの思い。 
人間は忘れていくからこそ前に進める。
だけど、その時その時に感じた新鮮さを、ここに残しておけることは、私の財産の1つ。


最後に、どんな言葉を載せようか、どんな詩をここに載せようかと考えたけれど、
今までに十分発してきたじゃないかと思った。
隊員仲間が、私から私以上の感受性で受けとってそして教えてくれたから、私はもうお腹いっぱいの気分。 
         (→ ケニア・エイズ対策隊員かの「自分の感受性くらい」   ガーナ・小学校教諭隊員の「虹の足」
      


配属先の活動終了で一段落、任地を出ることで一区切り、タイを出国して何となく終わりを感じ、
東京での帰国プログラムから福岡に帰る飛行機で実感がわき涙をひざにぽとぽと落とし、家に帰ってきた。
私のやってきた活動はタイで生きていき、タイの特別支援教育の発展とともに成長し
これからもずっと終わることないものと信じる。
そして、日々、切り離せなかったこのブログの終了をもって、私の目に見える協力隊活動は終了とする。


日本では桜が1つずつ花開いている。
タイ人が憧れ、見て見たいと切望していた桜。
自分の色で咲いている桜。
      


青年海外協力隊 22-1次隊 養護 タイ王国派遣
心からの感謝をもって 
       これにて、活動終了。

 














任期中に読んだたくさんの本は私を育てたか

2012年03月24日 03時18分52秒 | 日記
任国ではさぞかし本には飢えるだろうと思っていた。
が、実際はコンケンで日本語の本を手に入れるのは難しいけれど、
バンコクでなら日本語の本も手に入るし、日本の本の古本屋もある。


私たち隊員がバンコクに上京した際に寝泊まりするボランティア連絡所(通称隊員ハウス)の図書室にも (→過去ブログ 「隊員ハウスはこんな感じ」
読みきれないほどの本がどっさりとある。
海外での生活の中で読む本は、日本で読むのとはまたちがう感動や発見がある。
    
  
マンガに読みふけったこともあった。
   


図書室には隊員たちが置いていった本がどっさり。
私もずいぶんと置いてきた。
   


隊員ハウスは引っ越しし、今はもうこの図書室もない。


読書はもともと大好きだったが、日本で仕事をしながら読書を楽しむには
なかなかゆとりがない毎日だった。
だけど、タイでは「待つ」時間がやたらと多い。
移動の時間も多い。
バンコクまでのバス移動6時間は読書の時間。
日本ではあんなに車酔いしていたのに、不思議とタイでは読書しても酔わなかった。
寝る前も必ず本を読んだ。


日本でだったらついつい友達としゃべる時間、テレビを見る時間に充てていた時間が
不自由な言語の世界にいると、それらの時間がすべて読書の時間に移行できてしまう。
そんなふうに読書ができる環境があるためか、隊員同士でもよく本の貸し借りをした。
新刊は人気で、次は誰、と約束して貸しあった。
日本にいる時とは、本の価値が違った。


「本は心の栄養」
という言葉がある。


人間は自分一人の経験だけでは、視野や考えが限られる。
読書することによって、今この場所から見られないものを見たり、疑似体験をしたりして
経験値を増やしていけるのだ。
だから、どんどん本を読み、世界を広げていくべきだ。



この2年間で読んだ本をあげてみた。
こんなにある。

 「悼む人」「永遠の仔 上・下」  天童荒太
 「赤朽葉家の伝説」  桜庭一樹
 「手紙」「約束」「悪意」「宿命」「白銀ジャック」「時生」「さまよう刃」「十字屋敷のピエロ」「夜明けの街で」
 「探偵ガリレオ」「探偵俱楽部」「どちらかが彼女を殺した」「私が彼を殺した」「新参者」   東野圭吾
 「1Q84(Book1・2・3)」 村上春樹
 「サヨナラ イツカ」 辻仁成
 「ダーク 上下」  桐野夏生
 「博士の愛した数式」 小川洋子
 「闇の子どもたち」 梁石日
 「ふたり」  赤川次郎
 「葉桜の季節に君を想うということ」 歌野晶午
 「変身」 カフカ
 「瑠璃でもなく玻璃でもなく」  唯川恵
 「星の王子様」 サンテグジュベリ
 「うつくしい子ども」 石田衣良
 「姫椿」「月のしずく」「薔薇盗人」  浅田次郎
 「女のしくじり」 ゴマブッ子
 「愛が壊れるとき」  ナンシー・プレイス 成田 朱美訳
 「愉楽の園」  宮本輝
 「彼女がその名を知らない鳥たち」  沼田まほかる
 「グラスホッパー」  伊坂幸太郎
 「東北タイの子」 カムブーン・ブンタヴィー 星野龍夫訳
 「ご機嫌の法則100」  伊藤守
 「センセイの鞄」  川上弘美
 「空中ブランコ」  奥田英朗
 「八日目の蝉」   角田光代
 「愛を乞う人」  下田治美
 「筆談ホステス」  斉藤里恵
 「あたしの一生」 ディー・レディー  江國香織訳
 「チーム・バチスタの栄光」  海堂尊
 「さくらさくら おとなが恋して」「女のことわざ辞典」 林真理子
 「流転の王妃の昭和史」  愛新覚羅 浩
 「宮沢賢治詩集」「風の又三郎」 宮沢賢治
 「堕落論」 坂口安吾
 「生協の白石さん」  白石昌則
 「いつか記憶からこぼれおちるとしても」「冷静と情熱の間」 江國香織
 「魔王」   伊坂幸太郎
 「機関車先生」  伊集院静
 「13階段」  高野和明
 「ノルウェイの森」  村上春樹
 「ダイヤモンドは傷つかない」 三石由起子
 「間違われた女」  小池真理子  
 「夜行観覧車」  湊かなえ
 「地球の歩き方 ラオス」
 「地球の歩き方 ベトナム」
 「地球の歩き方 カンボジア」


たくさん 読んだ。
バスの中で、バスターミナルで、部屋で。
タイのいろんな場所で。


豊かな読書生活も、一旦ストップかな。


これだけの本を読んで、私の視野や考えは、多少なりとも広がったのか。
うーん、ちょっと自信ないけど、
きっと、そうだろう、そうだろうと言い聞かせよう。





  

可能性と希望の続く道

2012年03月23日 03時50分08秒 | 青年海外協力隊たちの活動
                    この記事は写真・映像掲載者本人の了承済みです






タイのお母さんから電話がかかる。
「元気にしているの?家には着いたのね、日本は寒い?
 お母さんとお父さんはタイで日本の娘を思っているからね。
 この間電話したときに出た人はさちえのお母さん?」

東京で帰国プログラム中、タイ語で自宅に電話がかかったと母親から聞いていた。
やっぱり、タイのお母さんだったのか。

「さちえのお母さんが言った“JICA”と“東京”の言葉がわかったのよ。
 さちえは東京でJICAの研修を受けているからまだ家に帰ってなかったのよね。
 私は日本語はわからない。
 でも、さちえのお母さんが言うことはすべてわかったのよ。 全部よ。」

いつもいつも、タイのお母さんには感動させられる。
分かりたいと思うから、相手に近づいて、心で分かったのだと思う。
単語単語が分からずにあたふたする程度の私だけど、
もっと大きく、このお母さんのようでありたいものだと思う。
     


お母さんが伝えたいことがあるという。
お母さんのナムプリックのお店に来た、コンケン大学の関係者が
自閉症の子どもたち数十名と関わっている。
私の日本人の娘が書いたと、「よく分かる自閉症」を見せると、
ぜひ使わせてほしいともらっていったということ。
詳細は電話で全て理解することができなかったけれど、大まかにこういうことなのは分かった。
それを、知らせてくれたお母さんの電話だった。


あの本がその先、どう使われていくのか。
私の手は離れて、私はいないタイで、タイ人たちの手により、どう使われていくんだろうと
考えると、可能性は全くの未知数で、分からなすぎてくらっとするような感じがある。
だけど、その可能性は あの本を作るのを途中であきらめていたら生まれなかったもの。
あの本を生み出す過程で得たものも含めてすべて、なかったもの。
あきらめて途中で引き上げてしまっていたら、なくなっていただろう可能性。


様々な立場から様々な人たちが、叱咤激励してくれたこと、
黙って見守ってくれたこと、必要な支援をしてくれたこと、理解してくれたことに
日々感謝が募っていく。
     





私の理解者の一人、マハサラカムに住むある先生から連絡が来る。  
「ウドンタニーに住む日本人の女性に本が渡りました。
 彼女のブログでそのことが書かれています。」  (→ 「さとうきび畑 IN THAILAND」

ご本人からもメールを受けとる。
「冊子を受けとりました。覚えていてくれてありがとうございます。」 

タイのためにとか、タイの子どもに関わりたいとか、そんな思いがあったけれど、
タイにいる日本人や日本人の子どものことに、目を向けていなかったと気づいた。
すぐ近くにいる日本人を助けられなくて、何が国際協力だろうと、
協力隊員になる前に学校現場で常々思っていたことを思いだした。

配属先第9特別教育センターは無料の施設であり、給食も無料、宿舎も無料で寝泊まりできるが、
保護者が付き添わなければならないし、タイ人の中に日本人の親子が入って生活をともにするのは
かなり大変なことだっただろうと想像できる。
     
今は自宅にいるその親子は、また第9特別教育センターに通うことを検討しているという。
そういうタイに住む日本人に、日本人だからこそできることがあるんじゃないかと思う。
思ったところで、もう私の協力隊生活は終わってしまったのだけど、
何か役に立てばと、日本語版の「よく分かる自閉症」を送る。



日本語版も完成した。
これをタイ事務所に送って、あとのことをお願いする。
これで私のできることも、活動もとうとう本当に終わりかなと思う。

本からうまれるものも もちろんだけれど
タイのもつ、これからの可能性を考えるとわくわくする。
そこに関われたことを幸せだと思う。


潰えることなく、未知数の可能性がタイの未来にある。

     







落ちこぼれ

2012年03月22日 04時39分49秒 | 日記



成田空港で、階下に降りるエスカレーター。
道は二つに分かれている。
どちらも下りのエレベーター。
だけど 二つに分かれているということは、行き先が同じに見えて違うのかもしれないな、
なんて思う。
目に飛び込む文字 「前を向いて」。

     


前を向いて顔を上げて、そうやって一瞬一瞬どちらに進むか常に選択をし、
人はきっとみな懸命に生きている。
そうして選んだ道を生きて、私はタイに行き、今ここにいるのだろう。


つまずかないように、前を向いて。
顔を上げて。
かっこよく、颯爽と歩いて行こう。
そう行きたいものだ。


だけど、前を向けないときだってある。
ある、ある。
そういうときは、じっと下を向いてうつむいててもいい。








 『落ちこぼれ』   茨木のり子


   落ちこぼれ
    和菓子の名につけたいようなやさしさ

   落ちこぼれ
    いまは自嘲(じちょう)や出来そこないの謂(いわれ)

   落ちこぼれないための
    ばかばかしくも切ない修行

   落ちこぼれにこそ
    魅力も風合いも薫るのに

   落ちこぼれの実
    いっぱい包容できるのが豊かな大地

   それならお前が落ちこぼれろ
    はい 女としてはとっくに落ちこぼれ

   落ちこぼれずに旨げに成って
    むざむざ食われてなるものか

   落ちこぼれ
    結果でなく

   落ちこぼれ
    華々しい意志であれ






ドキッとするタイトル。 『落ちこぼれ』


落ちこぼれは広辞苑では
  ① 落ちてちらばっているもの
  ② あまりもの。 残り物
  ③ 普通一般から取り残された人。特に授業についていけない生徒。

いいイメージの言葉ではない。
そこから和菓子を連想するなんて思いもよらない。


だけど、茨木のり子さんは落ちこぼれの魅力をうたう。
自らも女としては落ちこぼれだという。
そして、落ちこぼれは結果ではなく、華々しい意志であれ、と結ぶ。


「落ちこぼれ」という名のできそこないが、
それを自覚して、ゆっくりと、ゆっくりとだが、美味しく育っていく。
こんなに美味しく育っているのに、むざむざ食われてなるものか。

落ちこぼれこそ、魅力も風合いも薫る、
落ちこぼれの実がある場所、それこそいっぱい包容できる豊かな大地。
ええい、落ちこぼれたことのないヤツなんかに 負けるものか。
味わいがましてこんなに豊かなのだから。


私たち協力隊員の多くが、任国で自分の力のなさを感じ、
自分は役に立っているのだろうか、なんのためにここにいるのだろうかと、
存在の意味を考え悩み、葛藤したと思う。
私はそうだった。
でも、ある日、自転車をこぎこぎ配属先に向かう道で、小さな小さな花を見つけて思った。
下を向いているからこそ、気づくことがある。
上を向けない時期があるからこそ、気づく小さなことがある。
落ちこぼれたからこそ、ひしと感じられた人間の優しさや、豊かさがある。



人間はそれぞれ。
やり方も、目の向け方も、生き方も、ころび方も、人それぞれ。
「落ちこぼれ」という言葉。
この詩に会ってから、好きになった。
香り豊かで魅力にあふれた、落ちこぼれ。

凛と 華々しく、自分の意志で咲き誇れ。

      

      


帰国の途  ― 帰国プログラム

2012年03月21日 15時56分14秒 | 日記


仏暦2555年(西暦2012年)3月20日。
任期満了となりタイをあとにする。
スワンナプーム国際空港から 成田空港へ。
     


ヤック(鬼)が見守る中、帰国隊員恒例のメッセージを書く。
        


見送られるのはなんだかむずむずする。
それに再赴任してからの4ヶ月、自分のことだけをひたすらにやらせてもらって
総会も隊員ハウス清掃も出席せず、そんな私を最後に早朝4時半に出発し、見送ってもらうのはしのびない。
他隊員とほとんど行動をともにしなかった私は、
タイ生活の最後も一人でひっそり帰るのが性に合っていると思っていた。
そんな引け目もあって見送りも断ったのだけれど、それでも見送ってくれるという。
むずむずして ちょっと照れくさくあるものの、じんときた。
いいものだなと思う。
空港での最後の見送りに、手を振りながらじんときた。
     


公用パスポートで通る道は、一般の通路と違っているので、スイスイと通れてしまう。
がらんとして誰もいない、いわば特別なこの通路を、8ヶ月前、
日本に帰るのはいやだと泣きながら歩いた。
どうしてこんなことになったんだろうと、やり遂げられず半ばで帰ることが悔しくて
情けなくて、コンケンの人たちの顔が浮かんで、
もうタイには帰って来られないんじゃないかと絶望感いっぱいで泣きながら歩いた。
この道を歩くとそれを思い出す。
思い出せば苦しくて、今でも涙が出てくる。
     


けれど、こうして歩く今の心の中は、悔しさや情けなさ、絶望感は消え去って
満足感や感謝がたっぷり詰まって、ちゃんと満たされている。
そして、あの時に感じた「コンケンの人たちにどうしてもまた会いたい」という焦りに近い思いも
もっと、ゆったりとしたものにかわっていて、恋しく愛おしく思う「元気でまた会いたい」に変わっている。

        
  

そう変わっていけたのは、タイの人たちの力。
コンケンの人たちの優しさ。
さしのべられたたくさんの手のおかげ。
これでもかというほど世話を焼かせてしまった調整員と、最後の最後の夜、望んでいた話ができたから。
すっきりとした、嬉しい名残惜しさをもって、タイをもう一度離れる。





フライトは6時間。
乗ったとたんに、ぐっすりと眠る。
       



帰国の実感もなく、成田に到着する。
出迎えたのはこの文字。
タイ語がない。
寂しいなと思うと同時に、そうかタイ語はやっぱりメジャーな言葉じゃないんだなと
でも毎日私にはメジャーな言葉だったなと当たり前のことだけど、思う。
     


重い荷物を運び、ホテルに到着する。
電車の乗り継ぎにどっと疲れる。
日本の寒さに震える。
明日は帰国プログラム、そのために次は何をする?と、
次のこと次のことを考えこなしていくのに精一杯。
このホテルだってつい2日前にとったくらい、先のことを考える余裕がなかった。
それがまだ続いている状態。

翌日JICA地球広場で行われた帰国プログラムは、現職教員参加制度を利用して参加した
22年度1次隊の帰国隊員が集まる。
タイは一人だけ。
そもそも、22-1派遣人数そのものが計2人だったから、その点訓練所時代からひっそりとしたもの。
     


公用パスポートを返却。
命の次に大事にしなさいとよくよく言われていたこのパスポートともお別れ。
     


感謝状を受けとる。
外務大臣の名前があるのを見て、そうか日本を背負っていたんだなと、
以前はそのことに鼻息荒く意気込んでいたことを思い出す。
次第にそんなことを忘れていたけれど、それはよかったことなのだろうと思う。
ひとりの人間がタイを好きになり、コンケンを好きになり、その地の人と同じものを食べ同じ言語を話し、
同じような生活をして、タイ人になろうとした。
草の根の活動に、余計な気負いや誇りはいらなかったのだと思う。
      


生活班が一緒だった仲間とも、1年9ヶ月間、国は違っても悩みを話し、
喜びを分け合い、励ましあってきた。
やっと再会する。
モザンピーク、フィリピン、カンボジアの仲間たち。
       


2日間の帰国プログラムは、健康診断で幕を閉じる。
草の根レベルで活動してきた青年海外協力隊員は寄生虫がいる可能性が高いのだとか。
ケニヤ、モザンピーク、ザンビア、モロッコ、フィリピン、カンボジア、タイ、
各国の検便が健康診断で一堂に会する。
それも見物。
     


1年9ヶ月間、あんなに楽しみにしていた再会は、
各国様々に変化があり、でも変わっていないところもあり。
やはりご近所のアジア圏よりもアフリカ圏となるとドラマチックで、
髪が激しく伸びて別人のようになっていたり、時差できつそうだったり、
日焼けした腕を美容師さんから「一体どうしたんですか?!」と驚かれたり、
「ケニヤは毎日サファリで暮らしてるようなものやで!」とびっくりの生活を話してくれる。

驚いたのは、ほとんどみんながジャケットを着てちゃんと正装をしていたこと。
アフリカ隊員はもっとアフリカ丸出しであらわれると思っていたので、すこしさびしい、なんて思ってしまう。
でも、これでこそ現職教員集団だ、常識的じゃないかと、誇らしくも思える。

日本に帰ってきて感じる空気、匂い、町並み、人々にショックを受けたり感激したりしながら、
続々携帯電話を買いに走ったり、続々ラーメン屋に流れ込んだり、
みんなわーわー騒いでいる。
世界中が1つの場所に集まっている不思議でわくわくする再会。

誰もが任国を愛していて、任国がどれほどよかったかを話す。
いいな、いいな、この感じ。
私もホテル内や廊下でつい裸足になってしまうタイ隊員のまま東京にいて
タイのことならいくらでも話したい、聞いて聞いてと教員仲間たちに話す。










青年海外協力隊員が見たタイ

2012年03月20日 22時56分21秒 | 青年海外協力隊たちの活動

今ある気持ちはどんどん忘れていくもの。
忘れていくからこそ前に進んでいける。

だけど、その時の思いを、新鮮さを、感動を、思い出せるきっかけは残しておきたい。

1年9ヶ月で見た、私のタイを残す。

派遣前訓練をうけた訓練所からの思い出深い2曲にのせて。
1曲目、前半は配属先 第9特別教育センターでの子どもたちや先生との日々。
2曲目、後半は私が見たタイの人々、大切な任地コンケンの人々。

大切なタイの人たちにも歌の歌詞を知ってもらいたく、
コンケン大学の先生の手を借りて、二人でタイ語に訳す。


いつか、私と縁あった人たちが、偶然にこの映像を見つけることがあるかもしれない。
そんな、また出会える偶然も いつかあると願って。




     




     「一期一会」   中島みゆき

   見たこともない空の色  見たこともない海の色
   見たこともない野を越えて 見たこともない人に会う
   急いで道をゆく人もあり
   泣き泣き道をゆく人も
   忘れないよ 遠く離れても 短い日々も 浅い縁(えにし)も
   忘れないで私のことより あなたの笑顔を忘れないで

   見たこともない月の下 見たこともない枝の下
   見たこともない軒の下 見たこともない酒を汲む
   人間好きになりたいために
   旅を続けてゆくのでしょう
   忘れないよ 遠く離れても 短い日々も 浅い縁も
   忘れないで私のことより あなたの笑顔を 忘れないで

   一期一会の はかなさつらさ
   人恋しさを つのらせる
   忘れないよ 遠く離れても 短い日々も 浅い縁も
   忘れないで私のことより あなたの笑顔を 忘れないで
   忘れないよ 遠く離れても 短い日々も 浅い縁も
   忘れないで私のことより あなたの笑顔を 忘れないで
   あなたの笑顔を 忘れないで






   「糸」   中島みゆき

   なぜ めぐり逢うのかを
   私たちは なにも知らない
   いつ めぐり逢うのかを
   私たちは いつも知らない

   どこにいたの 生きてきたの
   遠い空の下 ふたつの物語

   縦の糸はあなた 横の糸は私
   織りなす布は いつか誰かを
   暖めうるかもしれない


   なぜ 生きてゆくのかを
   迷った日の跡の ささくれ
   夢追いかけ走って
   ころんだ日の跡の ささく

   こんな糸が なんになるの
   心許(もと)なくて ふるえてた嵐の中

   縦の糸はあなた 横の糸は私
   織りなす布は いつか誰かの
   傷をかばうかもしれない

   縦の糸はあなた 横の糸は私
   逢うべき糸に 出逢えることを
   人は「仕合わせ」と呼びます





「仕合わせ」とは「運命のめぐりあわせ」のこと。
「幸せ」の意味とはまた違うものだが、
「めぐり合わせ」と「幸せ」の2つ繋がれた最後の言葉にはっとする。


「仕合わせ」と呼べる「幸せ」にめぐりあったことがあるか。

 出会えた私は幸せだったのだ。




                  この記事は写真・映像掲載者本人の了承済みです









私が望むガイドブックの使われ方

2012年03月18日 17時05分14秒 | 青年海外協力隊たちの活動

JICAタイ事務所とたくさんの人の協力でできあがった、「よく分かる自閉症」500冊。
この本は配属先、コンケン第9特別教育センターから、各特別教育センターへ、
教育省へと送られる。
それとは別に現在1名のシニアボランティアが活動しているバンコクの特別教育センターにも50冊を送付。 
      
タイの特別教育関係機関には配属先を通じてこうして送られるのだが、
私ががそれよりもさらに嬉しくて、自分のやったことの意味やこれからの可能性を感じたのは、
地域の人からの発信。

ナムプリック屋のお母さんがつなげてくれた縁。
屋台のおばちゃんに自閉症の甥っ子がいることがわかり、学校に行けない、支援の手立てがない子どもと保護者の手に渡ったこと。
      


何度か一緒にサイバーツをして以来、私を娘と呼んで送別会をしてくれたり
最後まで見送りに来てくれた女性が、地域にある自閉症の人たちが暮らす家に
本を持って行ってくれるとかって出てくれたこと。

配属先にしかできないことがあるように、
地域に根ざす人たちにしかできないことがある。
地域の人たち同士のつながりがあってこそ、だからこそ渡る家庭がある。
配属債のセンターから、個別教育計画の登録がされていない家庭に本が届くことはないが、
地域の人たちはそれらの情報をよく知っていて、私の思いも知っていて、
両者をつなげてくれた。
まるで奇跡のようだった。

奇跡はまだ続いていて、帰国報告会でこの出来事を伝えたところ
日本語教師や青少年活動、作業療法士の隊員が本をほしいと言ってくれた。
私の学校にも手立てのない子がいる、私のセンターにもいる、
私の配属先の人たちに障害者のこと、自閉症のことを知ってほしいと。

そうなのだ、場所は特別教育センターだけではない。
どこにでもいる、普通学校にも地域のあちこちにも。
関わらないなんてことは絶対になく、みんな何らかの形で関わっていくことなのだ。
私の思いを知ってくれた隊員から、また様々に発信されたらこんなにうれしいことはない。
    


自閉症を理解する周囲が増えることが、自閉症の子どもと保護者を手助けし
障害を取り除いていく一助になる。
だから、本人の手に渡るのみが道ではない。


マハサラカムで日本語を教えるお世話になった先生からも電話がかかる。
このブログを見て、そうだと思った。
ウドンタニーにいる知り合いに自閉症の息子がいる。
センターに通っていないため、支援はない。
母親は日本人でタイ語が読めないが、父親が読めるので、父親に本を渡したい。

もう一つ課題が生まれた。
私のやるべきこと。
タイ語で完成して終わったものとしていたが、隊員仲間や日本人の母親、
日本人が同時に理解できるように、日本語版を作っておきたい。
灯台もと暗しで気づかなかった。けれど重要なこと。
気づけてよかった。


配属先から各教育センターに3冊ずつ送られた本は
JICAのボランティアがこんな本を作りました、という事にスポットライトが当たって、
私の配属先はちょっとした自慢なのかもしれないが、
送られた先の自閉症の子どもたちに手渡ることはなく、
きっと本棚に並び、いつまでもきれいなままであり続けるだろう、と思う。

けれど、私の理解者である人たちが、地域の人々が橋を架けて渡してくれた本は
本当に必要とされ、実際に手に取り見てもらえるだろう。

私の願いは、この本がボロボロになって読まれていくこと。
つけた絵カードを実際に切り取って使ってくれること。
私の子どもはこうなのね、僕はこうなんだな、と子どもを理解したり、
自分を理解したり、ホッと楽になって荷を下ろす、そのきっかけがひとつでもここで生まれること。

そして、教師たちがパニックを起こした子どもを押さえつけるこなく、
「パニックを起こさせない」指導に方向性を変えていってくれること。
      


この本がどこにつながっていくだろう。
学校にまったく関与されない子どもと保護者の家に、
また地域の人の手を通じて渡るかもしれない。
隊員の手を通じてどこかでまた道が開けるかもしれない。
そんな可能性を考えると、胸がぎゅうっと締め付けられるような感慨がある。


療養一時帰国からタイに戻って来て以来の4ヶ月間。
たった4ヶ月間でここまでができたのはたくさんの人の助けがあったから。
さしのべられたたくさんの手に、心から感謝している。
黙って見守ってくれた人たち、日本で支えてくれた人たちに、心から感謝している。


私の仕事はここまで。
燃えつきた私は、もし、まだ第9特別教育センターで仕事を続けるかときかれても、
どんなに食堂のおばちゃんが大好きでも、どんなに信頼する先生がいても、
答えは「いいえ」。
短かったけれど、終わりが見えるからこそできたことだったからだ。
      


名残惜しい思いで日本に帰れるなんて、幸せなことだ。
別れがつらいと思える人たちと出会えたことも。

あとは、私が歩いてきた道が、作ってきたものが、
私がいなくなってもタイで細々とつながってくれるだろうか。
どんな芽が出るのか、どんな関わりを持っていくのか、
遠く日本から見守る。
      


帰国報告会

2012年03月16日 19時03分44秒 | JICA事務所


3月に帰国する青年海外協力隊員とシニアボランティア、任期延長者も含めて
JICAタイ事務所で帰国報告会。   (→ 過去ブログ 「中間報告会」
      

10名のボランティアがそれぞれの活動報告を行う。
今回の報告者の職種は、プログラムオフィサー、青少年活動、PCネットワーク、陶磁器、
養護、作業療法士、電子工学、日本語教師。
ボランティアの職種は多岐にわたり、様々な方面からタイという国の草の根に入って行こうとしたこと、
様々な方面からつながろうとしていたことがわかる。
      


隊員たちの活動報告は様々で、時には言葉を詰まらせ、時には感情を出している人を見ると、
それだけの思いをもって活動を終えることをすばらしいと思い、
その思いが伝わってきて、私の胸にもぐっとこみあるものがあった。

本来、帰国隊員は隊員総会で活動報告をし、この事務所の帰国報告会にも臨むものだが、
私は隊員総会を欠席したので活動報告は中間報告以来はじめて。
任地を出る最後の最後まで時間との戦いで、報告プレゼンテーションも作り終えられないまま上京。

昨夜は隊員ハウスで眠りこけながらなんとか作った。
眠気と戦った結果、朝、机の上に丸くなって寝ているのを他隊員から発見される。
やっつけ仕事ではあるものの、決して適当なことはしていない。
言いたいこと、伝えたいことはたくさんで、伝え切れない気持ちを
与えられた20分という時間で、ギリギリのところまで伝えようとあがいた。
    


    

    

      ( → 過去ブログ 「青年海外協力隊5カ条」

  




ともに住んで、ともに食べ、同じ言語を話し、同じ目線でサイバーツをし、
タイの人たちの心を少し、知った。

タイ人から助けられ、タイ人から全ての帳尻を合わせてもらった。
タイからもらったものはかかえきれないほど大きく、
私の人生にはかりしれない影響を及ぼすだろう。


そして、タイを鏡に母国日本の姿を見た。


今さらながらに、このことあの美しさと、深さと、
協力隊のあるべき姿を感じている。




協力隊生活 最後のコンケン

2012年03月15日 23時58分32秒 | 日記



朝、お母さんがカオニャオを蒸す いいにおいをかぐのも、
お父さんのお祈りをする姿を見るのも、
    


たわわに根本まで実ったジャックフルーツの下に、線香の煙が漂うのを見るのも
お父さんと一緒にサイバーツするのも、コンケンで今日が最後。
    



さちえ、おばあちゃんと一緒に写真を撮ってあげなさい、とお母さんが言うので
一緒に並ぶけれど、キットゥンで、おばあちゃんも少し元気がない。
     


お父さんとお母さんは、朝から顔に元気がない。
どうしたのと尋ねると、
昨日は私が泣いたから心配になり、それにくわえて
私の仕事がちゃんと終わって眠れたのかかどうかも心配で、
二人が眠れなかったのだという。


お母さんに頼まれてソイローポーショーに朝ご飯のお使いに行くと、
ラッキーがついてくる。
お父さんお母さんはもちろんだけど、ラッキーとは心が通じ合っているように
思う時がたびたびあって、ラッキーに慰められることがこれまでにたくさんあった。
      


果物屋のおばちゃんのかわいいこんな姿もしばらくは見られない。
      


お使いを終えて帰ろうとすると、ラッキーが待っていてくれる。
こういうことは初めてで、ラッキーも今日でしばらく会えなくなることを
分かっているのかなと思う、そう思うほどラッキーは賢く心が伝わる犬だ。
      


最後のコンケンでの朝ご飯は、カイモッデーン(赤アリの卵)の入った卵焼き。
      


お使い先で、やっぱりお別れの品をあれこれもらう。
      


最終日のぎりぎりまで荷物が増えるんじゃないかと思っていたけれど、やはり。
荷造りしてきっちりとつめていた荷物が入らなくなり、急きょ
郵送することにして、お父さんに郵便局に連れて行ってもらう。
      
     

かなり前もって荷物の準備を始めていた私でも結局最終日は時間との戦い。
最後の時間はゆっくりとお父さんお母さんと過ごしたいと思って、
その時間を作るためにも、必死で部屋の片付けと最後のあれこれ処理仕事。
3時になり、やっと全て終了する。
    


6時に出発するまでのたった3時間だけど、大好きな人たちと過ごす。
ナムプリック屋の娘のレックは、私に店の名前が入ったかわいいTシャツを作ってくれた。
2人でおそろいのTシャツを着て写真を撮る。
あちこちかけまわってきたので、私は汗だく。
      


あらためて、ソイローポーショーの人たちに会いに行く。
日本には持ち帰らない服やバッグ、電化製品、布団類すべて近所の人にあげる。
「このスカートもバッグも本当にもらっていいの?」
と、喜んでファッションショーをしているソムタム屋のお姉さん。
       


しばらく話していると、いつも元気いっぱいの屋台のおばちゃんが
みるみる目を真っ赤にして泣き出した。
くだもの屋のおばちゃんも泣く。
なかなか涙を見せない人たちが、こんなに泣くのにびっくりする。
そして、本当にいい人たちとめぐり会えて、大事にされて、助けられて、
これまでの幸せを実感する。
     


泣きながらも、カメラを向けるとキャアキャア笑って恥ずかしがるおばちゃんたち。
     


くだもの屋のおばちゃんからは毎日毎日果物をもらい、
私の話を聞いて笑ってくれる時間が他にないくらい大切で、
いつもそっと癒されてきた。
タイ料理屋台のこのおばちゃんは、私にビールを飲ませては飲める飲めると喜び、
道を歩けば「サーイ!!どこにいくの!」と誰にも聞こえる大声で声をかけ、
私と一緒に歌を歌っては喜んでヒューヒュー口笛を鳴らす、
おばちゃんのおかげで、ソイローポーショーの人たちが私を知ることになった、
屋台の人たちの中心人物で、その元気、明るさを尊敬していた。
屋台の中に招き入れてくれたことをありがとうとお礼を言う。


お客さんが来たので、お仕事をし始めたけれど
私が帰り際に投げキッスをすると、おばちゃんも仕事の手を止めて何度も投げキッス。
目は真っ赤のまま、何度も投げキッスして笑う。
     



ふと見ると、ラッキーが迎えに来ている。
ラッキー! なんておりこうさんなの!
      


いいことを思いついた。
使い切れず、あまった切手がある。ハガキもある。
ハガキに私の住所を書いて、切手を貼り、お世話になった人たちに渡そう。
みんな私の住所を聞いてくれるけれど、外国にハガキを出したことがない人たちが、
まして字を書くことも苦手ならばなおさら、住所を聞いたところで
何もできないと思う。
それよりは、私の住所を書いてポストに投函するだけのハガキを渡した方がいい。
どっさりと書く。
      


ソイローポーショーの屋台にまた戻って、説明する。
「もし、さびしいな、あいたいなと思ったら、ここに自分の名前を書いて
 そしてポストに入れて。
 そうしたら、日本に着くから。
 私は、いつハガキが来るかなあと、日本で待っているね。」

ハガキをもらったときの、おばちゃんたち、おじちゃんたちの嬉しそうなこと。
一生に、一度でも、海外にハガキを書く、そんな経験はないだろう人たちだから
「これ、あのポストに入れるだけでいいの?」「サーイの所に行くの?」
と、とてもうれしそう。
いつも照れ屋のガイヤーン屋台のおじちゃんもうれしそう。
      


私も、たった一言、名前が書かれたハガキが、私の手元に着くのを楽しみに待っている。
      


出発が近づいた頃に、寄せ書きノートにお母さんが私へのメッセージを書き終える。
読もうとするが、泣いてしまう。
泣いて読めないので、娘のレックが代読する。
      


お母さんが伝えてくれたのはこういうこと。
出会えたのは運命で、運命以外の出会いはない。
前世で一緒によい行いをした者同士はまた出会うことができる。
私たちは、だから遠く離れた国に生まれあってもまた、現世であうことができた。
娘のように愛せるのも、全て運命の出会いだから。
一緒にサイバーツをしたから、また私たちは次の世で会うことができる。

この言葉には、鳥肌ががたつような思いがした。
運命ではない出会いはない。
遠くの国に生まれあったのに、出会えた運命。
それはどこかから すでにつながっていた 決まっていた運命だと。


サイバーツを一緒にすることは、タイ人にとって特別な意味があり、
特に敬虔な仏教徒にはなおさら。
一緒にやってきたから、今、実感できるものが私にもある。


今日一日忙しく働いていたお父さんも戻ってきてメッセージを書く。
体に気をつけなさい。 元気でいなさい。 
日本に着いたら電話しなさい。  またお父さんに会いに来なさい。
      


空港に行くための車をお父さんが出してくると、ラッキーがじっと見ている。
本当に、ラッキーは今日のことを感じているのではないかと思う。
      


一緒にサイバーツをして以来、自分をお母さんと呼んでちょうだいといって
寺に連れて行ってくれたり、送別会に来てくれたりした女性が見送りに来てくれる。
この人も、地元に顔が広く、自閉症ガイドブックを自閉症の人たちが暮らす家に
配ってくれるという。
手に持たれたガイドブックが、これから地域の人たちのもとに渡っていくことがうれしい。
     


コンケン空港にはお父さんのナムプリックが並ぶ。
お父さんは有名人だけど、それをずっと知らずにいたから、なんのわだかまりもなく
こんなに親しくなれたのだと思う。
     


重そうな私の荷物を持とうとして、お母さんが転んでしまった。
足が痛いというお母さんが心配だけど、もう飛行機に乗りなさいと
私を行かせる2人。
「大丈夫大丈夫」とお母さんが手を振る。
私も泣いて手を振る。
      


飛行機の中ではただただぼうっとして、ほうけた状態。
次のこと次のことに必死で、まだ、コンケンであの部屋でもう過ごすことはないのだなと実感がわいていないのかもしれない。


新しくなった隊員ハウスに到着したのは夜も遅くになってから。
新隊員ハウスにも以前の二段ベッドが並ぶのがなんとなくほっとするところ。
    


今日はひたすら寝たいところだけど、明日のプレゼンテーションの準備はこれから。

コンケンが、タイが終わったことを実感するのは日本に帰ってからなのかもしれない。




感謝を込めて

2012年03月14日 20時29分14秒 | 日記
カウンターパートから朝、電話がかかる。
「さちえ、送別会をしようと思うんだけど、今日の夕方はあいてる?」
今日?!
今日は昼にソイローポーショで二度目の送別会、
夜はナムプリック屋のお父さんお母さんが送別会をしてくれる。
じゃあ、明日は?と聞かれるけれど、明日はコンケン出立の日。
無理無理、明日はきっと無理。

みんながみんなではないけれど、日本では考えられないほど急に予定がかわる。
ドタキャンもよくある。
それらにくわえて、出発のギリギリまでプレゼントを、しかもかなりかさばる
大きな物をもらってしまうので、荷物の片付けがいっこうに進まない。


朝ごはんを食べていると、ラッキーが泥んこでしっぽをフリフリ遊んでほしそうに登場。
お父さんたちみんなが悲鳴を上げ、「こっちにきちゃだめ!」と言うので
ラッキーはしょんぼり。
      


ここ2日、寝ないで作ったナムプリック屋のお父さん、お母さんへの
感謝を込めたムービー、店の前で上映会。
イサーンの曲と、日本の曲を入れて作ったムービーで、
みんなで楽しくうたったり、しゃべったり、でも最後にはお母さんが途中で泣いてしまった。
      


  

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お昼は、ソイローポーショの屋台のおばちゃんたちが送別会をしてくれる。
この間、果物屋のおばちゃんがやってくれたのだけど、なぜか2回目。
それも、今回は規模が大きくなっていて、みんなで料理を持ち寄る。
     


大好きなソムタムも。
     


めずらしい、まだ青いバナナのソムタムをリクエストすると、私好みに
バナナとまだ酸っぱいマンゴーをあわせてソムタムに作ってくれた。
これは、バンコクでは探してもなかなか見つからないという。
     


料理ができたら、お店を閉めて、道の向かいの家に集まる。
涼しい部屋を借りて、送別会。
料理を持ってあつまってくれる屋台の人たち。
    


お店は閉めてしまったので、なんだか、 ソイローポーショーが静まりかえっている。
      


しかし、送別会の部屋の中はきゃあきゃあにぎわっていて、ごちそうをならべて
楽しい時間を過ごす。
センターでの送別会も嬉しかったけれど、
この人たちといるのはまた気持ちが違ってホッと休まる。
    


果物屋のおばちゃんの帽子姿もかわいいったらもう。
      


後から後から集まってきて、ある屋台のおじちゃんはヤム(辛いサラダ)を
作ってきてくれた。
      

こんなふうに屋台の人たちと一緒に過ごすお別れ会って、タイに来たばかりの時には
想像もしていなかった。





ナムプリック屋にもどると、
「どうだった?私の娘!」とお母さんが聞く。
どんな料理が出て、こんな話をして、と報告すると
自分のことのように嬉しそうにうなずきながら聞く、お母さん。

「お母さんはこれをさちえにあげるの。」と指さしたのはタイのかわいい木でできた家。
「これはね、お母さんのお気に入りで、長いこと大事にしてきたの。
 さちえにも同じものをあげたかったけど、探してもどこにも売ってないの。
 だから、お母さんのをあげるのよ。」
      


ナムプリック屋の従業員が、お母さんに頼まれて、ささくれを削ったり、
ニスを塗ったり、店の前でミニチュアの家の修復作業に真剣。
          

コンケンでは今、大きなスポーツイベントが行われていて、
最終日の今日は店も予約でいっぱいなのだと、カラオケつきの部屋がとれなかったことをとても残念がるお母さん。
美味しい料理を電話注文してはりきっているのがかわいらしい。
      





送別会は私の希望でタイ料理。
     


朝のサイバーツで出会って、一緒に寺に行ったこともある女性が、
私を一緒に送りたいといってわざわざきてくれた。
私からは日本の扇を渡す。
      


お母さんとお父さんには日本の景色の本。
      


お父さんからはお父さんがレイアウトしてくれた写真をもらう。
おお、また大きな荷物が。
その大きな荷物に、大きな愛情がつまっているから、大事に持ち帰らなきゃ。
      


お父さんは隣に座って、ずっと目を赤くし、涙目で
いつものように私に優しく話しかけ、料理を私の皿に常に運んでくれる。
お父さんは途中から「何も言えない。言葉が出ない。」と
赤い眼で、黙ったままで涙をこらえていた。

お母さんは
「さちえは幸せだったわね。だってお父さんとお母さんがいたんだもの。
 もうさちえと一緒にごはんが食べられないなんて。
 さちえがどこにいてもさちえの幸せを祈っているからね。」
とボロボロ泣き出す。


私もオイオイ泣いてしまう。
お父さんから背中を撫でられ、お母さんから抱きしめられ、
鼻水をお母さんの肩でふいて、ビービー泣く。
   


お父さんもお母さんも、私のタイで出会えた宝物。
      


めそめそして店に戻ると、お父さんとお母さんが私にあげるプレゼントを取り出す。
「これは貯金箱になっているの。お金を貯めて、またコンケンにきて。」

タイでは財布や貯金箱、バッグをあげるときには、その人がお金持ちになれるようにと
お金を少し入れてから渡すのだと教えてくれた。
以前、渡したもらったバッグにも、お母さんが1バーツ入れていたと。
そうだったのか、私の財布から出てきたんだろうくらいにしか思っていなかったけど、
あのときの転がりでった1バーツはそういうことだったのか。

お母さんが 100バーツ紙幣を取り出して、貯金箱に入れる。
ええ!そんなにたくさん?!とびっくりしていると、
お父さんもやってきて、お父さんも100バーツ紙幣を入れる。
さちえにあいたいからだよといって、眼を赤くしたままでいるお父さんと、
今日は朝から何度も泣いているお母さん。
      




二人に作ったお礼のムービー。
23分のムービーは、私の活動とは全く関係のない、
でも、私の生活の支えであり、喜びであった時間をおさめた。
愛すべきお父さんとお母さんと離れるのはさびしいけれど、
そんな出会いができたことは幸せだったと思う。



お父さんとお母さんが大好きな
① イサーンの有名曲 「サオイサーンローラック」 
② イサーンの有名曲 「コンバーンディアオガン」
タイ人に人気の
③ 「昴」 タイ語バージョン
私の大好きな、そしてお父さんたちに送りたい
④ 「一期一会」
⑤ 「糸」  
お父さんたち分かってもらいたく、歌詞をタイ語に訳してのせた。
⑥ お別れの曲 「カムラー」












つながる

2012年03月14日 18時54分16秒 | 青年海外協力隊たちの活動


ナムプリック屋のお母さんが言った。
「このソイローポーショーに、自閉症の甥っ子がいる人がいるのよ。
 昨日、店に来たから、さちえが作った本を見せたのよ。
 わかりやすいように、お母さんが読んで聞かせてあげたの。
 彼女はとても喜んで、その本が欲しいって言ってたのよ。」 (→ 過去ブログ 「自閉症ガイドブック完成」


私の活動最後に作った自閉症のガイドブック。
一冊をお母さんに渡していたが、まさかこういうつながりが生まれるなんて思いもせず、
目からうろこが落ちる思い。
そうか、そうだった、求められる場所は配属先のセンターとは限らないのだ。
お母さんから聞くと、その子は14才だが学校には行かず、ずっと家にいるのだという。
配属先でその話を聞いたことはないので、おそらく、個別教育計画も作ることなく、
第9特別教育センターにもかかわらず、放置されてしまっている子。


立派な特別教育センターがコンケンにあるし、知識も技術もそろっているけれど、
それがみなにいきわたっているかというと、そうではないのだと
放置されている子どもの存在がすぐ近くにあると、お母さんの話を通じて肌に感じる。


この近所にいながら、私は知らなかったこと。
地元の名士であるお父さんお母さんたちだから人々から頼られ、
様々な情報が入り、だから知っているのだ。
ぜひ、この本を渡してほしい、センターに来られない子どもや保護者にこそ、
家の中でこの本が手助けになることを願うし、
そういう手をさしのべられていない人たちにこの本が役立てば嬉しいと伝える。


配属先にいって、本を10冊もってくる。
お母さんにわたして口を開こうとすると、先にお母さんが言う。
 「この本はお母さんが預かるのね。
 そして、自閉症の子どもがいるのっていうお客さんがいたら
  この本の説明をして渡してあげるのね。」
      

すごい、お母さんはどうして私が言おうとすることが分かるの?
「お母さんはさちえが何をしたいか、わかるのよ。
 さちえをみて、何を考えているのかなあって、お母さんも考えているからね。」

「自閉症の子どもと親にこの本がわたれば、きっと役立つはずよ。
さちえは とてもいいことをしている。 お母さんは嬉しい。」

お母さんからそう言われることが、私は何よりも救いで、
「ディージャイ」(うれしい)と一言言って、あとは泣きそうになってこらえるばかり。


センターの中ばかりを見て足元を見ていなかった。
センターに来られない子どもたち、センターに在籍を登録されていない子どもたちが
たくさんいて、学校にも行かずに過ごしている。
なんの手段も知識も情報も入らない、
そういう子どもたちと親にこそ、この本が渡ればと思うが、
お母さんがその役割を担ってくれるなんて。
どこまでも、お母さんたちは私の支えで、応援者で理解者だ。



本をほしいと言った人は、驚いたことに、いつも朝も夕も顔を合わせて
おしゃべりをしていたソイローポーショーの屋台のおばちゃんだった。


本をもらいに来て話す。
「さちえはこんな仕事をしてたのねえ。 
 今までこんな話をしたことがなかったものね。
 私の甥っ子は自閉症で知的障害もあって、学校には行っていないの。
 母親がきっと喜んで、この本を読むと思う。
 ありがとう、さちえ。」
      


ソイローポーショーの人たちとは、仕事の話をすることはほとんどなく、
いつも他愛のない話をしていた。
最後に、こういうつながりが生まれるなんて。
      



お母さんに預ければ、きっと大丈夫だ。
私を理解してくれるお母さんから説明され渡されるこの本は、きっと
私の望む使われ方をするだろう。
そして、きっとお母さんは、学校に行けない子どもと保護者たちの支えにも、
理解者にもなってくれる。


明日は任地を離れるというときに、まず一冊を渡すことができ、
これからにつながるそのチャンスに間に合ったことの幸運。
すべてお母さんのおかげだ。



つながっていく、目に見えないものを感じた。
先のことは見届けられないけれど、
私のやりたかったこと、願ったことにつながっていくのじゃないかと。

人間力

2012年03月13日 23時39分50秒 | 日記
荷造り、部屋の片付け、帰国報告会のプレゼンテーション準備、お世話になった人へのプレゼント、あちこちで送別会、配属先にもちょくちょく行っている、
あれやこれやとありすぎて、忙殺とはまさしくこのこと。


ナムプリック屋のお父さんお母さんへのプレゼント、大作30分ムービーを昨夜つくりおえ、
やっと大きな仕事を終えたと思ったけれど、
急にこの1年9ヶ月間で見たものを今の新鮮な思いでとっておきたくなり、
ついまたムービー作り。
明け方までかかって、ついうっかりうとうとしてサイバーツに行き逃してしまった。


一緒にサイバーツをすることに大きな意味があるお父さんお母さんは
きっとがっかりしただろうに、「疲れているんだから休みなさい。」と言ってくれる。
だから、朝からはりきって、お好み焼きと黒糖のパンケーキを作る。
もっている材料も使い切って、喜んでもらえるうちに作ってあげたいと思う。
      


お母さんが作ってくれたイサーン名物、アリの卵のスープ。
これ、とてもおいしのだ。
これも、もうすぐ食べられなくなる。
      


お母さんが言う。
「さちえがいるのはあと2日。 いなくなったらどうしたらいいのか想像もつかない。
 お父さんが昨日言ってたのよ。
 どうして、日本とタイなんて そんなに遠くに生まれたんだろうって。」
お父さんが言う言葉も、お母さんがいう言葉も、ありがたくて、さみしくて 何も言えなくなる。



配属先にもお好み焼きとケーキをもっていく。
食堂のおばちゃんたちが温かく迎えてくれる。
      
おばちゃんたちにあげようと思ってパックに詰めたお好み焼きと、パンケーキを、
センターのみんなが少しずつ食べられるようにと皿に広げる。
「さちえから、って言ってみんなに食べてもらうからね。」
分け合いの精神、いいことはなるだけたくさんの人にわけあえるようにという
この考え、いいなあと思う。
      


先生や保護者みんなで寄せ書きノートを書いてくれていて、
一人一人の写真付きのメッセージには胸が詰まるような言葉がたくさんあり、
読み上げてくれる先生も、目がうるうるしている。
      


果物屋のおばちゃんのところにいくと、
「日本のお母さんに持っていって!」
とマカムと、蒸かしたマカムをどっさりともらう。
      


今まで貯めていた果物屋のおばちゃんの写真をアルバムにして、プレゼントする。
とうとう、この時が来たなと思う。
その数100枚以上。
      

おばちゃんに住所を書いてもらう。
      

明日はさちえのお別れ会をしよう、とある屋台のおばちゃんが急に言う。
この間、果物屋のおばちゃんと数人にはしてもらったのだけど、
私はまだしてないからと言う。
そんな何回も! と思うけど、そういうありえない回数だったり
ドタキャンだったり 急な思いつきだったり 
それがタイでそういうところも楽しいと感じるようになった。


ソイローポーショーの屋台のおばちゃんたちにも、
ハガキを出したいから住所を書いてほしいとお願いすると、
喜んで書こうとしてくれるが、はたと止まって言う。
「明日でいい? 住所を覚えてないのよ。 書いてもらってもってくるから。」


誰もが字が書ける、読める国、日本は 誰もが教育を受けられるゆとりのある、
誰もが等しく貧しくない国だと、海外に来て日本がわかる。
タイでは、大きな格差が存在する。

だけど、思うのは、私をささえてくれたのはそういう近所の人たちだということ。
仕事と関係のない他愛もない話をして、
私にイサーン語を教えてしゃべらせては笑い、
一緒にビールを飲んで歌って、
毎日声をかけてくれ、しばらく顔を見ないとみんなで心配し、
1皿30バーツの料理を売って生活する中で、私にしょっちゅうただで食べさせ、
言葉で全て通じ合えなくても、そばにいればほっとしたし、人柄で通じ合えた。


たとえば私の配属先は、教師みんなが高学歴。
社会的に地位の高い人たちがたくさんいるが、
私の支えだったのはタイの社会的身分では低位にいるのかもしれない近所のこの人たち。
この人たちは、私の人間ピラミッドではピラミッドの頂点にいる尊い人たちだ。


今朝、ナムプリック屋のお母さんに、作ったガイドブックを見せ、
こういう仕事をしていたの、と説明した。
それからお客さんが来る合間合間にずっとガイドブックを読んでいたお母さん。
      


夕方、会いに行くと、お母さんが大声で言う。
「ルーク!(娘) ゲーンゲンナンスウー(本はと~っても上手!) 
 さちえはいいこと(ブン)をたくさんしている、人の役に立っていてとてもえらい。
 タイの子どもたちのためにありがとう、お母さんは嬉しい。」
来るお客さんお客さんに、全く同じ話を話して聞かせるお母さん。
センターでは最後まで言われることのなかった「ありがとう」の言葉を、お母さんに言ってもらった。
だから、はじめてお母さんの前で泣いてしまった。
お母さんも泣いた。


お母さんは自閉症のことを勉強したことはないし、
センターの先生達のように仕事をしながら大学院にまで通って、特別支援教育を履修することもない。
そういうお母さんが、センターの先生達よりも熱心にこの本の中身を見て、ありがとうと言ってくれた。
お母さんは教師ではないけれど、誰にでも公平で思いやり深いお母さんなら、
きっと自閉症の子どもたちを理解し、その人間力で子どもたちにすばらしい対応をするだろうと思う。


結局、人間の中身、人間力に尽きる。
紙の上の知識ではない、人間としての豊かさ、人間力。
お母さんや近所の心ある人たちに教えてもらったこと。



貼り紙

2012年03月13日 05時25分40秒 | 日記
1ヶ月前のこと。
サイバーツを終えて部屋に戻ると、私の部屋の扉に貼り紙。
張り紙なんていいことがあるはずがないと、嫌な気持ちで見ると
セロテープでがちがちに貼りつけられた紙には

 何をするのもうるさい。 歩くのもうるさい。
 他の人の迷惑になることを遠慮して


とまあ、こういう内容が何行にも渡って殴り書きで書かれている。

ゾクッとするものがあって、急いで部屋に入り、もう一度読む。

まず考えたのは、お隣と間違えられたのかなということ。
お隣さんは毎晩真夜中2時頃帰ってきて、大きな声で歌いながらシャワーを浴びる。
歌というよりも絶叫に近い。
そして早起きで、なぜかソムタムを叩くようなコンコンコンコンという音が一日中鳴り響き、
時にはギター、時にはピアノ、時には絶叫と いそがしい音響の連続。
日本ならばアパートで暮らすと小さくなって 音にも気を配るものだが、
歌って大声出しても本人もまわりも平気という、タイらしいなとほほえましいくらいに思っていた。
そのお隣さんと間違えられたのか。


が、隣は男性、私の声と間違うか?
しかも私の部屋は角部屋、日本人がいるということは、きっと誰もが知っている。
それをタイ人と間違うか?



毎日、テレビをつける程度でそのテレビの音もお隣さんの歌声で聞こえなくなるくらいの音量、
仕事をしたりメールを書いたり、そんな夜の時間は全く音もない、
一人で静かなものだ。
私も以前階下に住んでいたことがあるのでよく分かるが、
タイルのこの床は上の音が全く下には響かない。
だけど、この張り紙の主は、私がうるさい、目障りだ耳障りだと思っている。
考えていくと、誰か私に悪意を持っている人が、私がサイバーツに行った時間を見計らって、
これを貼りに来た、そのことが気味悪く恐ろしくなってくる。


すぐにナムプリック屋のお父さんお母さんの所に張り紙を持って行く。
時間もないので、事情だけを話してそのまま配属先へ。

配属先で相談すると、
「となりの人と間違えられたのよ、大家さんに言ってもらいなさい。
 さちえがうるさいんじゃないって。」
「大丈夫、さちえじゃない、さちえは一人でうるさくできないものね。」

問題は、私が本当にうるさいかどうかではなく、
張り紙で嫌悪の感情をアピールしてくる人が私のすぐ近くにいて、
私はそれが誰か分からないまま過ごさなくてはいけないそれが危険ということなのだけど、
みんなそうは思っていない。
張り紙行為や、いやがらせや、ストーカー行為や、そういうものがタイには本当にめったに
ないんだろうなと思う。
だからこそ、そういうタイでこんな日本のような気持ちの悪いやり方でアピールされている
この状況はよっぽどのことだと思う。

      


たまたま連絡があったタイ事務所のスタッフにこのことを話すと、
それは危ないととても心配される。
本人以上に心配してくれるスタッフと話していると、もしかして、
こういう場合、危険回避のためにバンコクに一時上京だったり、
その人から離れるために引っ越しとか、そういう方法がとられちゃうのじゃなかろうかと
心配になる。
いったん、一時帰国をした経験から任地から離されてしまうのかと、こわいのだ。
残りわずかの時間なのに、と。


家にまっすぐ帰るのも怖くて、ナムプリック屋のお父さんお母さんの所に行く。
お母さんが待ってましたとばかりに、せききって言う。
「大家さんに言ってきたからね! 
 日本人一人で住んでいてどうやってうるさくできるの!
 できるはずがない!
 さちえは声も大きくない、そもそもいつもうちにいるからほとんど部屋にはいない!
 うるさいのはとなりの部屋よ、って!」

うるさいのが誰か、私なのか、そういうことはさほど問題じゃなくて
張り紙を貼るような人が近くにいることが問題なのだけど、
でも、とんでもなく憤慨しているお母さんに深い優しさを感じ取って、
ほろりと涙が出る。


お母さんは私の気持ちを読んだように言うことがよくある。

「日本のお母さんに言いなさい。
 さちえの所属するJICAにも言いなさい。
 メーブンタム(本当のお母さんではないけどお母さんと同じ)が
 すぐ近くにいるから大丈夫、何かあったらすぐ助けてくれるって。
 だから、どこにもいく必要はないからね。
 あとちょっとじゃないの。」


大家さんの奥さんも、私の好きなラーッナー(あんかけ)を作って
もってきてくれる。
そして、お母さんと一緒に
「私もいるから大丈夫、なんの心配もいらない。
 となりの部屋と間違えたのよ、きっと。
 勘違いよ、うるさいのはさちえじゃないから大丈夫。
 さちえもお隣がうるさかったでしょう。
 となりには注意したからね。
 怒らないであげてね。音楽が好きで音楽がとても上手な子なのよ。」

問題点はちょっと違うのだけど、
二人がわーわー互いにうなずきあって 一生懸命で、鼻息荒く
盛り上がって言うものだから、その中にいてなんて私は恵まれているんだろうと
ぐぐぐっと 涙が上がってくる。


気をつけて、寝るときにも携帯を枕元において、
そういう人がいるのだということを念頭に置いて、
なるだけ目立たないように行動して、
と、スタッフからも言われ、戸締まりをいつもよりも確認する。


目立たないように、と思っていても、目立っているのが日本人で
私のことはこの界隈で誰もが知っている。
そして、みんなが私に優しくしてくれること、
私も長いこと知らなかったのだが、お父さんとお母さんのナムプリック屋は
とても有名で、お父さんは地元の名士であり、誰もが知っている尊敬される人であり、
そういう人たちと家族のようにべったりとしている私は、誰かに恨みを買ったのかもしれない。


貼り紙は大家さんが持って行った。
だけど、その文字はしっかりと覚えていて、どんな憎々しい思いでこれを書き、
どういう気持ちで階段を上がり、セロテープを持ち、私の部屋に貼ったのかと
考えるとゾッとするものがある。
タイでこういうことをされるとは、こういうことをする人がいるとは思いもしなかったが
こういう思いをしながら反省したことや、再確認したこともある。


みんなが優しくしてくれ、声をかけてくれ、大切にしてくれるけれど
中には、そうではない人もいるということ。
私はここを離れたくはないということ。
私を大事にしてくれる人たちは、本物だということ。
その人たちにずっと守られてきたということ。
      




キットウン

2012年03月12日 08時37分44秒 | 日記


タイに来てたくさんのタイ語を覚えたが、タイ生活最後に近づき、
この言葉はこういうことだったのかと、身をもって実感している言葉がある。

「キットゥン」
恋しい、会いたい、さみしいというような意味合いで、
日本語にはない言葉。    (→ 過去ブログ 「恋しい」


タイ人はよく、「キットゥン」を使う。
少し顔を見なければ、「キットゥン」(会いたい)
会えたときにも「キットゥン」(会いたかった)
恋人同士ではもちろん、友だち同士でも、先生と生徒でさえも、「キットゥン」
果物や食べ物にも「キットウン」。
犬のラッキーだって、お父さんがいないと キットゥン。   (→ 過去ブログ 「ポーメー」
      


タイに来た当初はよくタイ人が口にするこの言葉になじめなかったが、
今は、なんて素敵な言葉なんだろうと思う。


相手に好き、大切、と伝える言葉。
「さみしい」という言葉はマイナスだけだが、
「キットゥン」はあなたがいないとさみしい、いてほしい、あなたに会いたいという意味があり、
相手が自分にとって大事な存在だといっている言葉。
キットゥンといわれて嫌な人はいない。

日本人はいわない言葉、日本語にはない言葉。
日本人にはない、タイ人の率直さ、相手を喜ばせたい素直な心の表れがここにあると思う。


用事でここ数日バンコクにいっているナムプリック屋のお母さんが電話をしてくる。
「キットゥン さちえ!(さちえに会いたい)
 さちえ キットウン メーマイ?(さちえはお母さんに会いたい?)
私だって、キットウン キットウン!を連発する。


食堂のおばちゃんが別れるときにいった。
「キットウンさちえナ (さちえに会えないのは寂しいわね)」


私のお別れにと、ごちそうを並べてお別れ会をしてくれながら、
果物屋のおばちゃんがいう。
「さちえが日本に帰ったらキットウンね (会いたくてさみしいわね)」
     


屋台の人たちがいう。
「キットウン アハーンイサーンマイ? (タイ料理が恋しい?)
 キットゥン ポンラマイ タイ マイ? (タイの果物が恋しい?)
 キットウン ナムプリック マイ? (ナムプリックが恋しい?)」
     


今、別れを惜しみながら、 このキットゥンの言葉を体全体で感じ、
まさしく今、理解している。

キットウン 恋しい 会いたい、 大好き、大事。


「ええ?日本人はキットウンってどうしていわないの?」
と驚かれるけど、ホント、ホント。 こんないい言葉をいわないなんて。



部屋の荷物をひっくり返して、仕事の合間合間に荷造りしている毎日。
寝るところはどこ?というような部屋の中。
ドアの外で何か気配がする。
ドアを開けると犬のラッキーが入ってきた。
このアパートの2階まで上がってくることはあったけど、私の部屋に入ってくるなんてはじめてのこと。
お父さんお母さんがバンコクにいって、キットウンでたまらないのだ。
     


ごそごそ、部屋の中をかぎまわって
     


わーい、いいもの見つけた!と喜んでスーパーのビニール袋をくわえていく。
ビニール袋でひとしきり遊んだラッキ-。
      


そのあとも、私の部屋の前に座り込むラッキー。
お父さんお母さんがキットウンでたまらないラッキーの気持ちは、私もよく分かる。
「ラッキー さみしいねえ。 キットウンだねえ。」
とラッキーと慰め合う。
すやすやと部屋の前で寝てしまったラッキー。
      


「キットウン」
会いたかった、会いたい、あなたが大事、会えて嬉しい、恋しい

タイマッサージスクール

2012年03月11日 07時59分19秒 | 日記

タイではあちこちにマッサージの看板が立ち、安い値段でタイマッサージがうけられる。
うける方もいいけれど、人の体のどの部分をどうやって触れていくことで
マッサージとなるのか、タイマッサージをちゃんと知りたいと思っていた。
今後、肢体不自由の子どもたちや、それ以外の子どもたちとの学習にも使えるかもしれない。
人をマッサージするのも好きだし、せっかくのタイ生活、自分の知識として持ち帰りたい。
けれど、今まで4日や5日といったまとまった休みがとれることがほとんどなかった。

最後のバタバタの中だけど、今しか時間はない、とも思い、
マッサージスクールに通うという願いを行動にうつす。
      


マッサージといえば、バンコクのワット・ポーが有名。
なぜか日本人に人気なのはチェンマイのロイクロマッサージスクール。
インターネットで申し込めるし、日本語のテキストがあるから、
タイ語が話せない日本人には敷居が低くて入りやすいのだろう。


だけど、つい最近まで知らなかったのだけど、マッサージはどの県でも習える、
コンケンでも習えるのだと近所のみんなや配属先の人たちが教えてくれた。
コンケン大学にもあるし、仕事の帰りに通えば1週間で終わるのよ、と。

しかも、値段が大きく違う。
ロイクロマッサージスクールに申し込むと、マッサージベーシックコース 20時間で5500バーツ。(1万6500円程度)。
コンケンだと、知り合い価格500バーツ(1500円)から。


しかし、私もそれを知ったのが、ロイクロマッサージスクールに申し込んだあとのこと。
泣く泣く、バスに乗り12時間かけてチェンマイへ。
それも、3日間コースを講師の都合上、2回に分けるため、今週2日、来週1日と
2度もチェンマイへいかなくてはならない。



タイ語でのレッスン。
やはり日本語のテキストがあるというのは、理解が深まっていい。
優しい先生が、丁寧にやってみせてくれる。
     


先生とマンツーマンで、教えてもらっては、実践する、その繰り返し。
      

復習したくて、帰りにはマッサージ店に入ってみたものだから、
講習も含め一日に何度もマッサージをされた体は、もみ返しも来て
あちこちが痛い。


あいたたたたた・・・。
と言いつつも、さあ、右、左、足、腰、
タイマッサージ、自分のスキルにして持ち帰ろうじゃないの。