ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

青年海外協力隊 活動終了

2012年03月31日 18時03分41秒 | 青年海外協力隊たちの活動
 
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【日本に帰ってきてすぐに驚いたこと】

・服の色がまるでそろえたように黒ばかり。茶、グレーの暗い色を好む日本人。
 それがずらりと、エスカレーターではしっこ一列に並ぶ。 
     
・目があっても微笑まないこと。
・人々が下を向いている。ケータイとにらめっこしている。
     
・水道の水がものすごく冷たくてびっくり、トイレの便座があたたかくてびっくり。 スーパーのトイレでさえも。
・ホテル代が高い。(ホテル代に限らずだけど)
・お茶が甘くない。砂糖が入っていない。
・お菓子を置いておいても蟻がなぜこない。
・重い荷物を持って東京の駅の階段をエンヤコラ運んでいても誰一人、手伝ってくれる人がいない。
・電車が時間ピッタリ、バスまでほぼ時間通り。
・帰国プログラムで休憩がたったの10分。
・どの駅員さんも、尋ねたことに嘘なく正確かつ丁寧に答えてくれる。




【しばらくしても まだ驚いていること】

・新しく行く学校から1年間の予定表をもらったこと。
 (1年分の予定をこんなに細かく出すなんて。すでに決まっているなんて。タイでは次の日の予定も確かじゃなかった。)
・新しく行く学校の、4月からの職員の動きが、15分刻みの会議の連続だったこと。
・会議でワーワー意見を言える空気。堂々と不満顔だってできる。
 (タイは上下関係・年齢は絶対で、地位や年齢が上の人へ意見することは絶対なかった。)
・サインよりも印鑑がとーーーーっても重要な、印鑑社会であること。
・みんながそろうまで、ごはんを目の前にしながらも、じっと待っている一斉に「いただきます」の食文化。
・どこの時計を見てもたいして狂っていないこと。
・年齢と恋人の有無を誰もなかなか聞いてこないこと。
・女の人が髪を結ぶのにゴム1つという地味さ。
・ワイドショーのネタがあまりにくだらないこと。なんて幸せなんだ、日本は。
・車が全然通らない道でも、赤信号で行儀よく人々が待っている。
・お店の店員さんがお菓子も食べてないし、ごはんも食べていない。
・日本のお米の もちもち度。
・日やけ止めを塗らなくても外に出られちゃう。
・AKB48が一躍スターになっている。
・レストランの水がタダ。
・カラムーチョとは名ばかりで全く辛くないこと。
     

タイのお父さんお母さんからハガキが届いた。
私が自分で住所を書いておいてきたハガキ。
だけど、宛名の私の名前がない。私があわてて書き忘れてしまったのだ。
それでも届く、日本の郵便。 いや、すごい。
     




いやいや、びっくりする。
地味で、謙虚で、他人行儀で、丁寧で、頑なで、どこもかしこもきれいできちんとしている日本に帰ってきた。

今はすぐにタイを引き合いに出してしまうし、毎日タイ料理が恋しいし、
日本のお笑いを見ても一緒に笑えなくなっている自分に愕然とする。
健康診断で飲んだバリウムは、これがココナッツミルクだったらいいのにと願った。
     

一時帰国していたことがあるから、この逆カルチャーショックははじめてじゃないはずなのに、
不思議と一時帰国時よりもショックがある。
最後の4ヶ月間、どっぷりとタイに浸かりきっていたためだろう。
駆け抜けた感のある最後の4ヶ月は、まともにぐっすりと眠った覚えもなく、
タイにいるときには感じなかった疲れが、日本に戻ってどっと押し寄せた。
もう、ブログを書くのもおわりと思うとそれも妙な気分で、
最後と思うとなかなか腰が上がらなかった。

だけど、思い出に浸る暇もなく引き戻され、月曜日からは日本の学校での本格的始動。
     



洗っても洗ってもまだうす黒いままの足の裏。
いつも裸足だったからか、ガサガサのかかと。
速攻治療が必要な奥歯。
母親が嘆くすでに日本人の色ではない足や手。
未だかつてないバサバサもじゃもじゃの髪。
未だかつてない肌荒れ状態。
タイでぽってりと増えた体重。
「どうしちゃったの?」と驚かれるこれらすべて、私の勲章。
どうだ! という誇らしい気持ち。
寒くったって、周りがみんなダウンジャケット着てたって、半袖でがんばっちゃうくらい。
      


タイの東北部コンケンで、
現地の人と同じものを食べ、同じ言語を話し、タイ人の中に入って仕事をし、
同じように生活をし、気持ちを分け合ったんだぞ、その勲章だい!と誇らしい。
      


得たものは言葉では言い尽くせない。
心を揺さぶられる感動があったし、
別れたくないと思う出会いがあり、
出会えてよかったと思う人々がいる。
    

    

    

    

    

    



一時帰国せざるをえなかったときのことは、今思い出しても苦しい。
日本にいる間、罪悪感や後悔や、劣等感や自己無用感、焦燥感、なんやかやでいっぱいになった。
けれど、それがあったからこそ、無我夢中で最後の4ヶ月間を駆け抜けられた。
一時帰国したときに見えたこともたくさん、
そこからタイに再出発したことで得たこともたくさんたくさんある。
そんなことがあったこと、それは私は人より恵まれていたのじゃないかと思うほど。
     

虹の足の中にいるものは、虹の足の中にいることを気づかないように
幸せの中にいるものは、幸せの中にいることを格別驚きもせず、幸福に生きている。
そんな詩をここにのせたのも、一時帰国していたとき。   (→ 過去ブログ 「虹の足」

虹の足から離れて見えた、今までいたタイという虹の色。
その時にやっと見えた虹に、もう一度、もう一度と すがりつきたい思いだった。


タイに無理して戻らなくてもいいと言ってくれた人、
タイで待っていると言ってくれた人、
お帰りなさいと言ってくれた人、
黙って ただただ見守ってくれた人、
たくさんの人に支えられた。
今度は自分がそれを返せる人になりたいと思った。

協力隊として技術移転ができたかと言えば、きっとたいしたことは何もできていない。
できることを模索して、その時その時一生懸命だった。
ふと思い出したのが、この言葉。
日本を旅立つときに、読んだこの言葉。  (→ 過去ブログ 「これからの始まり 今日出国」



    なぜ、途上国に支援に行くのか。
    出発前の100人の訓練生に聞けば、100通りの答えが返ってくる。
    一様に彼らは饒舌(じょうぜつ)だ。たとえ言葉すくなでも、話し方には決然とした響きがある。
    帰国したばかりの隊員に、どうだったかと尋ねれば、遠いまなざしで口ごもる。
    そしてぽつりと「暑かった」と答えたりする。
    2年という派遣期間で、何かを成し遂げたと思うなら、それは傲慢(ごうまん)というものだろう。
    ただ、現地の人々と、あるときは笑い、あるときは悲しみ、あるときは反目(はんもく)し、
    草の根として心を通い合わせた日々。
    ほとんど個人的な体験と呼んでいいこれらの日々の積み重ね以上の、
    どんな国際協力があるだろうか



私の活動期間は、賞味1年3ヶ月に満たない。
でも、長さじゃないなと思うくらい満ち足りていて、これ以上はできないと思う限界までやったつもり。
だけど、その1年数ヶ月で、草の根として心を通い合わせたというのは、おこがましいし、
結局自分は日本人だったと思うこともある。
けれど、タイ人の中に人間対人間として一人の人間がそばにいた記憶が残ることが、
それが、たまたま日本人だったというそんな出来事が、
本を作るよりも、大きなプロジェクトを成し遂げるよりも、日本とその国を近づける、
ささやかで大きな国際協力なのじゃないかと思う。
    


タイが大好きになり、
タイが多くの国の中の1つではなく、ただ1つの国となり、
タイが好きすぎて、タイのことをちょっとでも悪くいわれようものならば目をひんむいて
ガブガブと噛みつきたくなるくらい、タイにぞっこんになって帰ってきた。

そして、同時に、タイを鏡として日本を見た。
大らかな人々、人を許し合う度量の深さ、土壇場の行動力、敬虔な信仰、タンブンの精神、愛国心、すばらしい国、タイ。
      
だけど、その正反対な部分を持つ日本も、唯一無二のすばらしい国。
これだけの完成度、緻密さ、豊かさ、日本ほどの国はないと思う。
何より、私がこんな経験をできたのは、日本があってこそ。
支えてくれたのは日本の国。
日本に生まれたからこそ、タイに協力隊として行くことができた。
たかだか1年数ヶ月タイに暮らし、タイが大好きになったとしても、
日本人の血が流れる私の、バックグラウンドは生まれ育った日本。
だから、タイを愛するのと同様に、いやそれ以上に日本を愛したいと思う。
     



訓練所から始まり、同じ時に世界に飛び立ったたくさんの仲間たち。
タイで出会えた宝物のような人、宝物のような思い出。
尊く切ない経験。

行って生で感じた、世界の人たちから見る日本。
日本のODAでつくられたメコン川にかかる国境橋、パラオの島々をつなぐ大きな橋、
途上国へ日本からのたくさんの支援、「日本といえばJICA」という国もある。
日本人の多くはそのことを知らないが、国民の多くが日本のことが大好きという国も世界にはたくさんある。
タイの洪水支援に寄せるタイ人たちの日本への感謝、
ラオスの人たちの日常にあふれている日本の開発援助、マラウイの人たちの日本好き。
自国、日本という国への誇りや愛国心を、私はタイではじめて感じた。 
きっと世界中で隊員仲間たちが感じた。
    


それを日本に持ち帰ってこれからがまた始まり。
「協力隊としての2年間が自分が思う以上に一生にかかわってくる」
と、何度かいわれたことがある。
この2年間がこれからの教員生活約30年間の原動力となる、その予感がしている。
    

       

    

ブログを書くことは、毎日私が自分を見つめる時間として大事な時間だった。
発信することで、タイを知ってほしいと思い、書きながら自分自身も調べること、勉強することが多かった。
私は中学の教師だが、中学生にもここから世界を見てほしいと願ってきた。
私自身も中学・高校の時そうであったように
中学生たちは、となりにいる友だちとの関係が壊れたら、それで世界が終わった、
どうやって生きたらいいの、死んだ方がいいとまで感じるほどに、極端に狭い狭い世界で生きている。
生徒たちには、今自分が生きている世界以外にもたくさんの世界があることを知ってほしかった。
世界は今いる場所だけではない。そこが嫌なら逃げ出しなさい。
どこへなりとも行きなさい。 違う世界を見ておいで。
     
また、大人であっても教師であっても完璧ではなく、つまずきぶつかりながら一生懸命に生きていることも、
見てほしかった1つの面。


日々、たくさんの人に見てもらえて、自分でも驚き、同時に責任を重く受け止めなければと思った。
私のあずかり知らぬところでこのブログがつながり発信されていき、
メディアのもつ影響力も十分に感じている。

今でこそこんなに長々と思ったことを書いているが、
最初は心の内を公に吐露するなんて恥ずかしくてたまらなかったこと。
今でも、読めば赤面してしまう時期の記事がたくさんあり、恥ずかしくて自分では目を通せない。
今後、日本での教師生活を私的にブログに綴る趣味は今のところ私にはない。

このブログを書く時間も全て、タイの人たちに充ててしまうという選択肢もあったけれど、
私には、このブログを書くことは必要な時間で、それも含めて貴重な経験だった。

日々消えていくはずの思い。 
人間は忘れていくからこそ前に進める。
だけど、その時その時に感じた新鮮さを、ここに残しておけることは、私の財産の1つ。


最後に、どんな言葉を載せようか、どんな詩をここに載せようかと考えたけれど、
今までに十分発してきたじゃないかと思った。
隊員仲間が、私から私以上の感受性で受けとってそして教えてくれたから、私はもうお腹いっぱいの気分。 
         (→ ケニア・エイズ対策隊員かの「自分の感受性くらい」   ガーナ・小学校教諭隊員の「虹の足」
      


配属先の活動終了で一段落、任地を出ることで一区切り、タイを出国して何となく終わりを感じ、
東京での帰国プログラムから福岡に帰る飛行機で実感がわき涙をひざにぽとぽと落とし、家に帰ってきた。
私のやってきた活動はタイで生きていき、タイの特別支援教育の発展とともに成長し
これからもずっと終わることないものと信じる。
そして、日々、切り離せなかったこのブログの終了をもって、私の目に見える協力隊活動は終了とする。


日本では桜が1つずつ花開いている。
タイ人が憧れ、見て見たいと切望していた桜。
自分の色で咲いている桜。
      


青年海外協力隊 22-1次隊 養護 タイ王国派遣
心からの感謝をもって 
       これにて、活動終了。

 














可能性と希望の続く道

2012年03月23日 03時50分08秒 | 青年海外協力隊たちの活動
                    この記事は写真・映像掲載者本人の了承済みです






タイのお母さんから電話がかかる。
「元気にしているの?家には着いたのね、日本は寒い?
 お母さんとお父さんはタイで日本の娘を思っているからね。
 この間電話したときに出た人はさちえのお母さん?」

東京で帰国プログラム中、タイ語で自宅に電話がかかったと母親から聞いていた。
やっぱり、タイのお母さんだったのか。

「さちえのお母さんが言った“JICA”と“東京”の言葉がわかったのよ。
 さちえは東京でJICAの研修を受けているからまだ家に帰ってなかったのよね。
 私は日本語はわからない。
 でも、さちえのお母さんが言うことはすべてわかったのよ。 全部よ。」

いつもいつも、タイのお母さんには感動させられる。
分かりたいと思うから、相手に近づいて、心で分かったのだと思う。
単語単語が分からずにあたふたする程度の私だけど、
もっと大きく、このお母さんのようでありたいものだと思う。
     


お母さんが伝えたいことがあるという。
お母さんのナムプリックのお店に来た、コンケン大学の関係者が
自閉症の子どもたち数十名と関わっている。
私の日本人の娘が書いたと、「よく分かる自閉症」を見せると、
ぜひ使わせてほしいともらっていったということ。
詳細は電話で全て理解することができなかったけれど、大まかにこういうことなのは分かった。
それを、知らせてくれたお母さんの電話だった。


あの本がその先、どう使われていくのか。
私の手は離れて、私はいないタイで、タイ人たちの手により、どう使われていくんだろうと
考えると、可能性は全くの未知数で、分からなすぎてくらっとするような感じがある。
だけど、その可能性は あの本を作るのを途中であきらめていたら生まれなかったもの。
あの本を生み出す過程で得たものも含めてすべて、なかったもの。
あきらめて途中で引き上げてしまっていたら、なくなっていただろう可能性。


様々な立場から様々な人たちが、叱咤激励してくれたこと、
黙って見守ってくれたこと、必要な支援をしてくれたこと、理解してくれたことに
日々感謝が募っていく。
     





私の理解者の一人、マハサラカムに住むある先生から連絡が来る。  
「ウドンタニーに住む日本人の女性に本が渡りました。
 彼女のブログでそのことが書かれています。」  (→ 「さとうきび畑 IN THAILAND」

ご本人からもメールを受けとる。
「冊子を受けとりました。覚えていてくれてありがとうございます。」 

タイのためにとか、タイの子どもに関わりたいとか、そんな思いがあったけれど、
タイにいる日本人や日本人の子どものことに、目を向けていなかったと気づいた。
すぐ近くにいる日本人を助けられなくて、何が国際協力だろうと、
協力隊員になる前に学校現場で常々思っていたことを思いだした。

配属先第9特別教育センターは無料の施設であり、給食も無料、宿舎も無料で寝泊まりできるが、
保護者が付き添わなければならないし、タイ人の中に日本人の親子が入って生活をともにするのは
かなり大変なことだっただろうと想像できる。
     
今は自宅にいるその親子は、また第9特別教育センターに通うことを検討しているという。
そういうタイに住む日本人に、日本人だからこそできることがあるんじゃないかと思う。
思ったところで、もう私の協力隊生活は終わってしまったのだけど、
何か役に立てばと、日本語版の「よく分かる自閉症」を送る。



日本語版も完成した。
これをタイ事務所に送って、あとのことをお願いする。
これで私のできることも、活動もとうとう本当に終わりかなと思う。

本からうまれるものも もちろんだけれど
タイのもつ、これからの可能性を考えるとわくわくする。
そこに関われたことを幸せだと思う。


潰えることなく、未知数の可能性がタイの未来にある。

     







青年海外協力隊員が見たタイ

2012年03月20日 22時56分21秒 | 青年海外協力隊たちの活動

今ある気持ちはどんどん忘れていくもの。
忘れていくからこそ前に進んでいける。

だけど、その時の思いを、新鮮さを、感動を、思い出せるきっかけは残しておきたい。

1年9ヶ月で見た、私のタイを残す。

派遣前訓練をうけた訓練所からの思い出深い2曲にのせて。
1曲目、前半は配属先 第9特別教育センターでの子どもたちや先生との日々。
2曲目、後半は私が見たタイの人々、大切な任地コンケンの人々。

大切なタイの人たちにも歌の歌詞を知ってもらいたく、
コンケン大学の先生の手を借りて、二人でタイ語に訳す。


いつか、私と縁あった人たちが、偶然にこの映像を見つけることがあるかもしれない。
そんな、また出会える偶然も いつかあると願って。




     




     「一期一会」   中島みゆき

   見たこともない空の色  見たこともない海の色
   見たこともない野を越えて 見たこともない人に会う
   急いで道をゆく人もあり
   泣き泣き道をゆく人も
   忘れないよ 遠く離れても 短い日々も 浅い縁(えにし)も
   忘れないで私のことより あなたの笑顔を忘れないで

   見たこともない月の下 見たこともない枝の下
   見たこともない軒の下 見たこともない酒を汲む
   人間好きになりたいために
   旅を続けてゆくのでしょう
   忘れないよ 遠く離れても 短い日々も 浅い縁も
   忘れないで私のことより あなたの笑顔を 忘れないで

   一期一会の はかなさつらさ
   人恋しさを つのらせる
   忘れないよ 遠く離れても 短い日々も 浅い縁も
   忘れないで私のことより あなたの笑顔を 忘れないで
   忘れないよ 遠く離れても 短い日々も 浅い縁も
   忘れないで私のことより あなたの笑顔を 忘れないで
   あなたの笑顔を 忘れないで






   「糸」   中島みゆき

   なぜ めぐり逢うのかを
   私たちは なにも知らない
   いつ めぐり逢うのかを
   私たちは いつも知らない

   どこにいたの 生きてきたの
   遠い空の下 ふたつの物語

   縦の糸はあなた 横の糸は私
   織りなす布は いつか誰かを
   暖めうるかもしれない


   なぜ 生きてゆくのかを
   迷った日の跡の ささくれ
   夢追いかけ走って
   ころんだ日の跡の ささく

   こんな糸が なんになるの
   心許(もと)なくて ふるえてた嵐の中

   縦の糸はあなた 横の糸は私
   織りなす布は いつか誰かの
   傷をかばうかもしれない

   縦の糸はあなた 横の糸は私
   逢うべき糸に 出逢えることを
   人は「仕合わせ」と呼びます





「仕合わせ」とは「運命のめぐりあわせ」のこと。
「幸せ」の意味とはまた違うものだが、
「めぐり合わせ」と「幸せ」の2つ繋がれた最後の言葉にはっとする。


「仕合わせ」と呼べる「幸せ」にめぐりあったことがあるか。

 出会えた私は幸せだったのだ。




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私が望むガイドブックの使われ方

2012年03月18日 17時05分14秒 | 青年海外協力隊たちの活動

JICAタイ事務所とたくさんの人の協力でできあがった、「よく分かる自閉症」500冊。
この本は配属先、コンケン第9特別教育センターから、各特別教育センターへ、
教育省へと送られる。
それとは別に現在1名のシニアボランティアが活動しているバンコクの特別教育センターにも50冊を送付。 
      
タイの特別教育関係機関には配属先を通じてこうして送られるのだが、
私ががそれよりもさらに嬉しくて、自分のやったことの意味やこれからの可能性を感じたのは、
地域の人からの発信。

ナムプリック屋のお母さんがつなげてくれた縁。
屋台のおばちゃんに自閉症の甥っ子がいることがわかり、学校に行けない、支援の手立てがない子どもと保護者の手に渡ったこと。
      


何度か一緒にサイバーツをして以来、私を娘と呼んで送別会をしてくれたり
最後まで見送りに来てくれた女性が、地域にある自閉症の人たちが暮らす家に
本を持って行ってくれるとかって出てくれたこと。

配属先にしかできないことがあるように、
地域に根ざす人たちにしかできないことがある。
地域の人たち同士のつながりがあってこそ、だからこそ渡る家庭がある。
配属債のセンターから、個別教育計画の登録がされていない家庭に本が届くことはないが、
地域の人たちはそれらの情報をよく知っていて、私の思いも知っていて、
両者をつなげてくれた。
まるで奇跡のようだった。

奇跡はまだ続いていて、帰国報告会でこの出来事を伝えたところ
日本語教師や青少年活動、作業療法士の隊員が本をほしいと言ってくれた。
私の学校にも手立てのない子がいる、私のセンターにもいる、
私の配属先の人たちに障害者のこと、自閉症のことを知ってほしいと。

そうなのだ、場所は特別教育センターだけではない。
どこにでもいる、普通学校にも地域のあちこちにも。
関わらないなんてことは絶対になく、みんな何らかの形で関わっていくことなのだ。
私の思いを知ってくれた隊員から、また様々に発信されたらこんなにうれしいことはない。
    


自閉症を理解する周囲が増えることが、自閉症の子どもと保護者を手助けし
障害を取り除いていく一助になる。
だから、本人の手に渡るのみが道ではない。


マハサラカムで日本語を教えるお世話になった先生からも電話がかかる。
このブログを見て、そうだと思った。
ウドンタニーにいる知り合いに自閉症の息子がいる。
センターに通っていないため、支援はない。
母親は日本人でタイ語が読めないが、父親が読めるので、父親に本を渡したい。

もう一つ課題が生まれた。
私のやるべきこと。
タイ語で完成して終わったものとしていたが、隊員仲間や日本人の母親、
日本人が同時に理解できるように、日本語版を作っておきたい。
灯台もと暗しで気づかなかった。けれど重要なこと。
気づけてよかった。


配属先から各教育センターに3冊ずつ送られた本は
JICAのボランティアがこんな本を作りました、という事にスポットライトが当たって、
私の配属先はちょっとした自慢なのかもしれないが、
送られた先の自閉症の子どもたちに手渡ることはなく、
きっと本棚に並び、いつまでもきれいなままであり続けるだろう、と思う。

けれど、私の理解者である人たちが、地域の人々が橋を架けて渡してくれた本は
本当に必要とされ、実際に手に取り見てもらえるだろう。

私の願いは、この本がボロボロになって読まれていくこと。
つけた絵カードを実際に切り取って使ってくれること。
私の子どもはこうなのね、僕はこうなんだな、と子どもを理解したり、
自分を理解したり、ホッと楽になって荷を下ろす、そのきっかけがひとつでもここで生まれること。

そして、教師たちがパニックを起こした子どもを押さえつけるこなく、
「パニックを起こさせない」指導に方向性を変えていってくれること。
      


この本がどこにつながっていくだろう。
学校にまったく関与されない子どもと保護者の家に、
また地域の人の手を通じて渡るかもしれない。
隊員の手を通じてどこかでまた道が開けるかもしれない。
そんな可能性を考えると、胸がぎゅうっと締め付けられるような感慨がある。


療養一時帰国からタイに戻って来て以来の4ヶ月間。
たった4ヶ月間でここまでができたのはたくさんの人の助けがあったから。
さしのべられたたくさんの手に、心から感謝している。
黙って見守ってくれた人たち、日本で支えてくれた人たちに、心から感謝している。


私の仕事はここまで。
燃えつきた私は、もし、まだ第9特別教育センターで仕事を続けるかときかれても、
どんなに食堂のおばちゃんが大好きでも、どんなに信頼する先生がいても、
答えは「いいえ」。
短かったけれど、終わりが見えるからこそできたことだったからだ。
      


名残惜しい思いで日本に帰れるなんて、幸せなことだ。
別れがつらいと思える人たちと出会えたことも。

あとは、私が歩いてきた道が、作ってきたものが、
私がいなくなってもタイで細々とつながってくれるだろうか。
どんな芽が出るのか、どんな関わりを持っていくのか、
遠く日本から見守る。
      


つながる

2012年03月14日 18時54分16秒 | 青年海外協力隊たちの活動


ナムプリック屋のお母さんが言った。
「このソイローポーショーに、自閉症の甥っ子がいる人がいるのよ。
 昨日、店に来たから、さちえが作った本を見せたのよ。
 わかりやすいように、お母さんが読んで聞かせてあげたの。
 彼女はとても喜んで、その本が欲しいって言ってたのよ。」 (→ 過去ブログ 「自閉症ガイドブック完成」


私の活動最後に作った自閉症のガイドブック。
一冊をお母さんに渡していたが、まさかこういうつながりが生まれるなんて思いもせず、
目からうろこが落ちる思い。
そうか、そうだった、求められる場所は配属先のセンターとは限らないのだ。
お母さんから聞くと、その子は14才だが学校には行かず、ずっと家にいるのだという。
配属先でその話を聞いたことはないので、おそらく、個別教育計画も作ることなく、
第9特別教育センターにもかかわらず、放置されてしまっている子。


立派な特別教育センターがコンケンにあるし、知識も技術もそろっているけれど、
それがみなにいきわたっているかというと、そうではないのだと
放置されている子どもの存在がすぐ近くにあると、お母さんの話を通じて肌に感じる。


この近所にいながら、私は知らなかったこと。
地元の名士であるお父さんお母さんたちだから人々から頼られ、
様々な情報が入り、だから知っているのだ。
ぜひ、この本を渡してほしい、センターに来られない子どもや保護者にこそ、
家の中でこの本が手助けになることを願うし、
そういう手をさしのべられていない人たちにこの本が役立てば嬉しいと伝える。


配属先にいって、本を10冊もってくる。
お母さんにわたして口を開こうとすると、先にお母さんが言う。
 「この本はお母さんが預かるのね。
 そして、自閉症の子どもがいるのっていうお客さんがいたら
  この本の説明をして渡してあげるのね。」
      

すごい、お母さんはどうして私が言おうとすることが分かるの?
「お母さんはさちえが何をしたいか、わかるのよ。
 さちえをみて、何を考えているのかなあって、お母さんも考えているからね。」

「自閉症の子どもと親にこの本がわたれば、きっと役立つはずよ。
さちえは とてもいいことをしている。 お母さんは嬉しい。」

お母さんからそう言われることが、私は何よりも救いで、
「ディージャイ」(うれしい)と一言言って、あとは泣きそうになってこらえるばかり。


センターの中ばかりを見て足元を見ていなかった。
センターに来られない子どもたち、センターに在籍を登録されていない子どもたちが
たくさんいて、学校にも行かずに過ごしている。
なんの手段も知識も情報も入らない、
そういう子どもたちと親にこそ、この本が渡ればと思うが、
お母さんがその役割を担ってくれるなんて。
どこまでも、お母さんたちは私の支えで、応援者で理解者だ。



本をほしいと言った人は、驚いたことに、いつも朝も夕も顔を合わせて
おしゃべりをしていたソイローポーショーの屋台のおばちゃんだった。


本をもらいに来て話す。
「さちえはこんな仕事をしてたのねえ。 
 今までこんな話をしたことがなかったものね。
 私の甥っ子は自閉症で知的障害もあって、学校には行っていないの。
 母親がきっと喜んで、この本を読むと思う。
 ありがとう、さちえ。」
      


ソイローポーショーの人たちとは、仕事の話をすることはほとんどなく、
いつも他愛のない話をしていた。
最後に、こういうつながりが生まれるなんて。
      



お母さんに預ければ、きっと大丈夫だ。
私を理解してくれるお母さんから説明され渡されるこの本は、きっと
私の望む使われ方をするだろう。
そして、きっとお母さんは、学校に行けない子どもと保護者たちの支えにも、
理解者にもなってくれる。


明日は任地を離れるというときに、まず一冊を渡すことができ、
これからにつながるそのチャンスに間に合ったことの幸運。
すべてお母さんのおかげだ。



つながっていく、目に見えないものを感じた。
先のことは見届けられないけれど、
私のやりたかったこと、願ったことにつながっていくのじゃないかと。

モンゴル隊員 踊る

2012年01月24日 05時29分09秒 | 青年海外協力隊たちの活動

モンゴルから同期の隊員仲間がやってきた。
韓国で乗り換え、飛行機で9時間。
さらにバスで長い時間をかけて。
-27℃の世界から、23℃のタイへ。
気温差 50℃。
     





一人は保健師、一人は幼児教育の2人。
私の配属先第9特別教育センターにぜひ来たいと言って
遠路はるばる来てくれたありがたい友達。
それならば、ぜひ何かやってもらえないかお願いしたら、
モンゴルのダンスを見せようと、衣装も音楽も準備してきてくれた。


朝の集会で、モンゴルのダンスを披露。
前々から友達がモンゴルから来ること、モンゴルの踊りを見せてくれることを
伝えていたため、楽しみにしてくれている人もいた。

上半身はモンゴルの民族衣装のハンターズ、その下には日本のTシャツ、
下半身はタイシルクの伝統衣装のスカートをはいて、
インターナショナルファミリーな格好で、モンゴルの踊りを踊る。
     


タイの手先までも優雅なラムタイと違い、ゆるやかで激しい緩急のある踊り。
激しい寒さと暑さの二極性のモンゴルの気候、そして
そこで培われたモンゴルの人々の気性を表しているように感じる。
タイの人たちも釘付け。
     


もともと受け入れ体勢のよいタイの人々ではあるけれど、
ハンターズというモンゴルの衣装の美しさは、
美しいものを愛するタイの人たちのセンスにぴったりきたよう。
     


子どもたちは人なつこく笑う。
     






自閉症クラスにも入る。
見学者には慣れているセンターの先生達だけど、それでも
普段よりも気合いが入っているのが分かる。
     


幼児教育の隊員が「ミッキーマウスダンス」を踊るという活動をやってくれた。
音楽に合わせて子どもも大人も、2人の真似をして踊る。
これが、大うけ。
音楽はコミカルで楽しく、踊りが好きな人たちでもあり、
笑いながら、はしゃぎながら、熱気むんむんのダンスに。
     


ハンターズのきらきら光る衣装が気に入ったのか、
ダンス中の2人に近づいてにこにこと見つめる子。
     


途中「ギャッギャッギャ」という音楽になるとみんな大うけ。
その音が気になって音楽元を確かめに来る子。
     


わあわあ騒ぎながら、それぞれが楽しんだ時間。
言葉も全く通じないモンゴル隊員たちが、
言葉を媒介せずとも、歩み寄ろうとする気持ちと音楽で
ともに楽しみを共有できるのだと見せてくれた。




「ああー、楽しかった-。」
と口々にいいながら、ふうふう息を切らして休憩するお母さんたち。
誰かが気づく。
「あれ、そういえば、クーサーイはラムタイ(タイダンス)は踊れないの?」
「モンゴルに行ってた友達がモンゴルダンスを踊れるようになってるなら
 クーサーイはラムタイが踊れなきゃでしょ!」
鋭く突っ込みだした。
そこでにわかのラムタイ教室。
「こうやって、こうやって、指をそらして、もう一方の手は反対にして。」
「こう?こうかな?」
     

手ほどきを受けていたけれど、「きー! 指がつっちゃう!」
     

つりそうな指にひいひい言いながらやっていると
お母さんたちが大うけ。
今日は大うけまくり。
     


配属先のセンター内を見学しても、先生達の授業の様子を見ても、
設備の充実ぶり、先生達の自信たっぷりの堂々たるところ、
子どもたちを一人一人見た授業が成り立っているところに
驚き、感心しきりのモンゴル隊員たち。
     










3日をコンケンで過ごし、朝は2日ともサイバーツ(喜捨)をした。
私にもハンターズを作ってきてくれて大感激。
ハンターズはオーダーメイドで作るのだそうだ。
上はモンゴル衣装、下はタイ衣装、
そして、あいさつはワーイ(タイのあいさつ、合掌)。
      


このインターナショナルないでたちで、
朝日が昇るころに、僧侶がやってくるのを待つ。
     


タイは95%が仏教徒。それも大変敬虔な仏教徒が多数。
モンゴルも仏教が多く、チベット仏教を信仰しているという。
2人と一緒に、いつものナムプリック屋の前でサイバーツする。
    

    

  


僧侶もびっくりしたことだろう。
僧侶は笑ってはいけない、怒ってもいけない。
ただ「いる」だけなのだという。
心なしか、いつも見せない笑顔、いや、びっくりした笑いが見えるような・・・。
     


浴衣で待っていたり、赤ちゃんも一緒だったり、
まあ-、この日本人はいつも変わったことばかりする、なんて思われているのかな。
      (→ 過去ブログ 「タイの家族と初詣」   「ピーマイ行事」


いつものソイローポーショーをこんな目立つ格好で歩き、
いつもの屋台の人たちのところへ行くと、
「スーワイスーワイ!」とほめてくれる。
    


ナムプリック屋さんでもそうだが、
「スカートがきれい! 選ぶのが上手!」
「今日はなんてきれいなの! すてき!」
と、とにかくほめてくれるタイの人たちに、モンゴル隊員はびっくり。

タイ料理の種類の多さとおいしさにもびっくり。
私も張り切ってあれこれ食べさせたが、2人も本当によく食べてくれた。
    


常々、食文化は日本よりも断然豊かであると思うタイ。
1年中米がとれ、あたりにはバナナの木があり、外で寝ても死ぬことはない
食糧不安も寒さの恐ろしさもない。
島国、かつ四季のある日本にはない、のんびりとした命をつなぎ方をする国。

モンゴルでは1年のうち9ヶ月が冬で、最低気温は50度にも及ぶため、
野菜が育たない。
食事は肉が中心となり、バラエティも少ないという。
協力隊の行く国のほとんどすべてがなんらか食の問題があるものだが、
それがない、とにかく何でもかんでもおいしいというタイは
やはり、特別な国だと思う。
屋台でもこれだけの数がどこにでもあるというのは特別としか言いようがない。
    


私をいつも大切にかわいがってくれるナムプリック屋のお父さんお母さんも
モンゴルから友達が来るのを楽しみにしてくれていて
心からもてなしてくれる。
イサーン料理のフルコースを作ってくれたり、ラッキーの曲芸を見せてくれたり。
    


モンゴルにはないふんだんな果物をむいて食べさせてくれる。
      



2人も一緒にけん玉をしたり、フラフープをしたり。
     


モンゴルの踊りを披露すると、お母さんが喜んで一緒に踊る。
タイ人って大人も子どももお年寄りも、
音楽がかかると踊らずにいられないほどに、みんなが踊りが好き。
お母さんもモンゴルダンスを真似して踊る、その姿がかわいい。
言葉は違っても、一緒に楽しさを共有している。
    


タイの人たちに見せようと、モンゴルの風景や人々の写真のデータも
持って来てくれた。
写真を見ながら、全く別世界の雪景色、草原の景色、食生活
ヤギの血を一滴も大地に垂らさぬよう解体する技術、
ゲルと呼ばれる移動式の家、
部屋の中を彩る美しい色彩の刺繍
その暮らしぶりに興味津々で、
「これはなに?これは?」と質問がとまらないお母さんたち。
     


2人が持って来てくれたおみやげ。
かわいいゲル(移動式の家)型の箱に入ったチョコレート。
そして、モンゴルの乾燥チーズ。
「くせがあって、匂いがきついから食べられない人もけっこういる。」
と前置きするチーズだったが、私には甘くて酸っぱいこのチーズがとても美味しいと感じた。
    


けれど、お父さんは口に入れたとたんに泣きそうになり、出してしまった。
お母さんは匂いをかいだ時点から、「私は食べられない。」と断固として拒否。
2人とも私が日本食を作っていると口にする前から「アローイ!(おいしい)」を連発すような
相手にとても気を遣う人であるにもかかわらず。
よっぽどのことであったに違いない。
もともと、チーズ文化のないタイでもあり、輪をましてこの匂いには。
     

甥っ子のジアップは、すぐに飲み下せるように水を片手にもってトライしてみるものの
口に入れるとやっぱりダメ。
飲み込めない。
     
うーん、私はおいしいと思うのだけど、2人は
「モンゴル隊員でも食べられない人がけっこういる。」
と言うくらいだからくせが強いものなのだろう。
お母さんが
「さちえは食べられるの? さちえは嫌いな物が全然ない!」とびっくりして言う。
私はいい意味で、敏感じゃないのかもしれない。


モンゴルのミルクティーという塩味のきいたミルクティーもおいしくいただく。
お母さんたちは、チョコレートならば
「アロイアロイ」とやっと口にすることができた。
世界中、チョコレートならば多少の味の違いはあっても、大きく外すことがないなと思う。
どの国でもチョコレートの土産があるのは、大きく外さないからか。
     



乾季で涼しいとはいえ、モンゴルと比べれば気温差は50度。
暑さに参っていたモンゴル隊員だけど、タイの美味しい食べものには
好奇心旺盛、食欲旺盛で、モリモリと食べてくれ、
そのためか暑くてもなんとかバテずにすんでいた。


ソンテウを初めて自分たちで止めて、身振り手振りで支払いもする。
優しいタイ人たちから見守られながら。
     


モンゴルにもこういう乗り物はあるの?ときいたら
「あるわけないじゃない!死んでしまう!」
たしかにそうだ。
時には気温マイナス50度にも達する寒さがあるのだから。
ついつい、自分のいる世界が基準となり、それが全世界のような気持ちに
なってしまっていると気づいた。
    


コミュニケーション上手な友達は、すっかり近所の人からも気に入られ、
近くの商店のおじちゃんは、友達の写真をこんな風に加工して
たくさんたくさんプレゼントしてくれた。
「おもしろいだろう? iPad。 アメリカニュース」といって嬉しそうなおじちゃん。
腹がよじれるほどに、笑った。
      



2人がタイに来て驚いたこと。
  食べ物がどれもこれもおいしいこと。
  種類がとんでもなく多くとてもじゃないが食べ尽くせないこと。
    (モンゴルでは1週間あればひととおりのメニューは出尽くしてしまう)
  人が優しいこと。
  みなが微笑むこと。 
  よくほめること。
  治安が(モンゴルに比べて)とてもよいこと。 スリに遭わないこと。
 
果物も、食べものも、残そうとせずしっかりと食べた2人。
買い物から帰ってきて、うれしそうにチューブのたまご豆腐を取り出し
「食べたかったの。」と、
チュウチュウすすっておいしそうにしているではないか。



心に残ったこと
  私の配属先センター
  ナムプリック屋のお父さん、お母さん、ジアップの見返りを求めない優しさ。


お母さんに初めて会ったのは朝のサイバーツ(喜捨)。
その時のお母さんの言葉。
「一緒にサイバーツできて嬉しい。初めて会ったけど、一緒にサイバーツしたから
 また必ず会えるのよ。」
こんなことがさらりと言えてしまうお母さんの人間性、心のあり方に
友達は驚き、感動したのだという。
    

敬虔な仏教徒であり、微笑みの国の人々であり、優しいタイ人たち。
確かにそうなのだが、それは大まかなイメージであって、人それぞれの個性も性格もある。
ナムプリック屋のお父さんやお母さんたちのように優しくて、
思いやりがあるのが当たり前のタイ人というわけではなく、特別な人たちだと思う。
       


お母さんたちを見ていても、近所の人たちを見ていても
そのお母さんたちに踊りや写真を見せ、
身振り手振りとカタコトの英語で接するモンゴル隊員を見ていてもまた思うことがある。
言語が違っても、近づきたい知り合いたいという気持ち次第でどんなにだって近づけるし
反対にその気持ちがないもの同士は、最初から相手をシャットアウトした状態で、
それ以上近づくことも知ることも、楽しさを共有しあうこともできない
異世界のもの同士で終わってしまう。
まったく距離は遠いままなのだと。


人と人との距離は、
その人が今いる場所によるものでも、言語の隔たりによるものでもない。


相手に向ける関心や、思いの強さ次第で、
場所や言語は大きな意味を持たなくなる。
     


タイはすごい、タイ人はすごい、タイってすばらしいと言ってくれたモンゴル隊員は、
タイも好きになったけど、やっぱり
自分の暮らすモンゴルを恋しく思い、この旅でより考え、より好きになったのではないかと思う。
離れてみて分かることや、比べてみてわかること、痛感することがある。



私も、モンゴル隊員からは刺激をもらった。
タイでの当たり前と思っていたタイ人の優しさや、この近辺の治安にしても
食事にしても、全て当たり前のように思うようになっていた自分にもハッとした。


モンゴル隊員が帰ったあと、私の部屋にこっそり置かれていた一通の絵はがき。
そこには、お礼の言葉と一緒にこう書かれていた。
 「これまでにさっちーが関係を築きあげてきたタイの人たちと会えて
  その生活に入り込ませてもらって、嬉しかった。」


寒い国からタイにやってきて、私の任地にも来てくれた友達。
2010年4月、派遣前訓練をうけるために福島の二本松訓練所に入り
2ヶ月間をともに過ごした。
7月にそれぞれが任国に旅立ち、もう1年7ヶ月が過ぎた。
仲間みんなそれぞれに、いろんな出会いがあり喜びがあり苦しみがあり、
実りがあった時間。



ふりかえると、私のタイ生活。
家族、隊員仲間、同僚、たくさんの人たちが私の任地コンケンにも来てくれたが、 
彼女たちが私のタイでの生活、最後の訪問者になるだろうと思う。


現職参加の私の任期は1年9ヶ月。
一般の隊員よりも3ヶ月短く、一足先に日本に帰る。
彼女たちがいる間に、私もモンゴルに、彼女たちの暮らす任地に
日本から恩返ししに行けたらと思う。
     


私も、彼女たちの生活に入って 彼女たちの見るものを見てみたい。
    

カンボジア通信

2012年01月20日 01時33分41秒 | 青年海外協力隊たちの活動
福島にある二本松訓練所。
そこで、2ヶ月間の派遣前訓練を共に生活した仲間がいる。
そのうちの一人、カンボジアに派遣された同じ生活班の仲間、
私と同じ現職参加の隊員から、原稿の依頼が来た。

彼は、所属している日本の小学校に、毎月カンボジア通信を送っている。
見せてもらうと、文化、生活習慣から言葉、食事、活動
きれいにまとめられていて、おもしろい。
きっと子どもたちも楽しく読んで、カンボジアってこんなところなんだなあ
こういうところで生活しているこの学校の先生がいるんだなあと、
それぞれに想像を膨らませているだろうと思う。


私は、学校を離任してきたために、所属する学年も学校も事実上ない。
だから、こういうことができる人はうらやましいなと思っていたけど、
学校としてつながらなくても、元同僚の先生とつながっていれば、
スカイプのテレビ電話で日本の学校と国際交流ができないかなとか、
タイの学校と日本の学校でつながれないかなとか、
いろいろ思っていたときもあった。

結局、任期終了はすぐそこに迫っていて、そんなこともできずじまいだった。
このカンボジア通信を見て、こうしてこつこつと1年7ヶ月、
通信を送り続けた仲間もいたんだなと尊敬の念を感じる。

彼のカラフルで見やすくておもしろい カンボジア通信の1枠に
載せてもらったタイの記事。
日本の小学校の校長室前に掲示されて、子どもたちが見てくれる、
知るはずもなかった子どもたちが、タイを知る。
機会をくれたカンボジア隊員に感謝!
           




フィリピン養護隊員とティーム・ティーチング

2012年01月11日 20時15分37秒 | 青年海外協力隊たちの活動

 

22年度1次隊の青年海外協力隊員約400名のうち、
同じ福島の二本松訓練所で派遣前訓練を受けた仲間は約200名。
その1人、フィリピンで活動する同期隊員がコンケンにやってきた。
    


彼女は、フィリピンの島にある 私と同じ養護隊員。
訓練所では、語学の学習が日々の主な日課ではあったけれど、
職種別に分かれて勉強する機会もあり、同じ養護隊員の彼女ともよく話をした。
久々の再会。
     (→ 過去ブログ「ラオス隊員コンケン来訪」   「フィリピン同期隊員 コンケン来訪」



うれしかったのは、まず、タイに来る目的の一番は、
私の活動する第9特別教育センターを見ること、私の活動を見ること、
といってくれたこと。
その言葉は本当に本当に真実だと思った。
彼女は一人でやってきたし、
タイ入国後一目散にコンケンに来る計画を立てていた。
彼女の本気っぷりが分かる。




そして、もう一つ、
私が何か活動を一緒にしたいと伝えると、自分もそのつもりだったと
2人の意思が共通していたこと。
事前に活動を考えてくれていて、
「こういうゲームはどうかな」と、布や新聞紙など、学習材を用意して持って来てくれた。
布は彼女が同僚に頼んで、フィリピンの町の手工芸工場からわけてもらってきたたもの。
考えてくれてたんだ、と本気が伝わる。
     


「しっぽとりゲーム、こうやってしっぽをつけるの。
第9特別教育センターの子どもたちにもできるかな。」、と、
夜には2人で打ち合わせ。 
T・T(ティームティーチング:複数の教員がチームを組んで授業すること)が
できている、と実感できて、すごくうれしいし、打ち合わせも楽しい。
ずっと一人でやってきたことが、二人でできる。
それも、意思の疎通ができて思いが通じ合える相手はそうそういない。
「ほらほら、こうやってしっぽにするの。」
      


協力隊員でも
魅力的なタイ王国に観光に行きたい、買い物に行きたい、マッサージに行きたい、
という人はたくさんいるが、こうやって本気で私の活動を見たい
関わりたいと思ってくれるそんな仲間がいることがうれしい。





配属先、第9特別教育センター、自閉症クラスで
彼女が持って来てくれた学習材「しっぽとりゲーム」をコンケン風に
「恐竜のしっぽとりゲーム」にして、やってみる。
朝からいつも一人でやっている紙芝居づくりも、いわずとも手伝ってくれて・・・
かゆいところに手の届く気配りがありがたい。
     


しっぽに見立てた布をズボンに挟み、追いかけあって、しっぽを取り合う。
とられないように気をつけながら逃げ、そうしながらも誰かのしっぽを奪う
という、注意力、目視力、思考力、集団の中に属して一緒に楽しめる力
いろんな力が必要になる、それを楽しみながらやれるゲーム。
私と彼女でまずやってみせると、それだけで大うけ。  
子どもも楽しんだけれど、それ以上に保護者が楽しんでしっぽを追いかけっこ。
   



次に「新聞紙のりゲーム。」
音楽にあわせて体を動かし、音楽が止まったら新聞の上に乗り、
保護者は子どもを抱っこ、みんなで5つ数える。
回数を繰り返すごとに、新聞紙を小さくたたんでいき、
新聞紙の上に乗るのが難しくなっていくというゲーム。
      

親子で抱きしめあって抱っこのスキンシップが楽しんでできるし、
数を数えたり、バランスを保ったり、これもいい学習ができるゲーム。
これも、私と彼女でまずやってみせると、踊りでも抱っこでも大うけ。
おじいちゃんに抱っこされ、お母さんに抱っこされ、先生に抱っこされ。
   



どちらも、優勝者には手作りのメダルを彼女から渡してもらい、
興奮の中でゲーム終了。
みんなすでにちょっと疲れてはいたけれど、この際と思って
「ダイノーサオモーング!」までやって楽しいことの連続。 (→過去ブログ 「感動したダイノーサオモーング!」)  
短い時間にてんこ盛りだったので、子どもたちも慣れた頃に終わってしまった。
だから、これを明日もまたできたらなと思う。
      

「フィリピンからきたこの先生が考えてくれました。」
保護者たちも「ほほお~」とうなずきながら
「楽しかった!」といい顔。



子どもたちのこと、保護者のこと、子どもたちとの活動のことを
同じ教員同士で話せることが、本当に久しぶりのことで、
準備から活動まで、全てが充実した時間で私も楽しく、心強かった。

彼女は活動中も子どもたちや保護者の様子をよく見ていて、
活動中にも気がついたことを伝えてくれる。
そんな話が活動中にできて、活動中にどんどん改善していけるのも嬉しいし、
彼女の言葉がタイの先生達に敬意をはらったものであるのも嬉しかった。
     


このセンターに彼女が来てくれたことは、このセンターの先生達にとっても、
「日本の教師同士2人集まればこういうことをやるんだ。」
「先生2人でメインとサブになり、同時に子どもたちを見るんだ。」
と驚きがあったに違いないと思う。
なにより、私たちが大事にしたのは子どもが楽しめること。
だから、先生達が
「子どもたちが笑っている。」
というところで、驚いてくれていたら嬉しい。

ゲーム中、先生達も一緒に笑っていたし、子どもたちが楽しむ様子を
カメラを取り出し写真に撮っていた。
その写真が、やった誰活動として誰の手柄になるのかは私の知るところではないけれど、
きっと、驚いたからカメラを取り出したに違いないのだから、それだけでも
やった甲斐があったと思っている。
     


彼女の本気のセンター訪問は、
「さちえの友達が遊びに来た」
以上のものとして、センターの人たちに感じ取ってもらえたと思うし、
私もずっとずっとやりたかった T・Tができたことに加え、
刺激と意欲をもらった。
来てくれて、本当にありがとう。
     



活動に関すること以外にも、うれしかったことがある。
タイの人たち、タイの食べもの、全てを好きだと受けとってくれたこと。
彼女はなんでも美味しいといって食べたし、イサーンのソムタムもネームもタイのお菓子も
全部美味しいといってくれた。
      
そのたびに、タイの人たちはすごく喜ぶ。
自分の好きなものを好きといってくれたら、ものすごく嬉しいもの。
おいしいと思うものを、一緒においしいと感じてくれたら嬉しいもの。
だから、私はタイで何でも好きになりたかった。
実際に苦労することなく、何でも好きだった。
タイの人たちはそれをすごく喜んでくれたけれど、その気持ちが彼女の
「おいしい!」「これ好き!」の言葉を通して私も分かる。
     


彼女のメモ帳には、私と会うまでにすでにいくつもタイ語のメモがあった。
自分からタイ語を使ってタイ人と話そうとしていたし、
わからなくても、相手のいっていることを口に出してよく繰り返していた。
よく人を見て、タイ語が分からなくてもその雰囲気から状況を
理解しようとしていたし、だからほとんどの内容を理解していた。
ホント、大事なのは言葉そのものじゃないな、心だな、
言葉は意思伝達のための1つの手段に過ぎないな、とまた彼女を見て思う。
      


サイバーツも絶対やりたいの!といってくれる気持ちがうれしくて、
朝はタイのスカートを巻いて一緒にサイバーツをした。
「朝からこんなことができるなんて、こんな気持ちになれるなんていいね。 
 それにこうして朝の時間をナムプリック屋のお父さんたちと過ごして
 話ができることにも大きな意味があるね。」
という彼女は何でも分かってくれている。
     



私のブログもよく見てくれている人だから、センターの中の掲示物でも
「これ、ブログで見てた! だから見たかったの!」
と喜んで、興味深げにしげしげと見つめ、写真に撮る。
理解者がいるって、なんてありがたいことだろう。
そして、来てくれるなんて。
   



彼女がタイで驚いたことはなにか尋ねてみた。
食文化の豊かさ、人々の優しさ、笑顔、
高級車や新車に乗る人々が多いこと、
人を受け入れることが上手で慣れていること、
しんがしっかりしていること、
私の配属先の先生達から感じるプライド。
私の配属先の教材の豊富さ、先生達の知識、
すでにあらゆるものが十分そろっていること。

なるほど、なるほど、と思う。



同じ協力隊同士、フィリピン事情、タイ事情を言わずとも分かるところもたくさんあり、
予定が変更になっても、当日その時間になるまで先が読めなくても
互いにそんなもんだと思っている。
お互いに、そうそう、わかるかわかる、こういう感じだよね ふふふ、と
特に説明しなくても自然と受け入れているところがたくさんある。
そもそも、彼女が来タイするまでに互いの忙しさやネット事情により、
なかなか連絡ができなかったが、互いにやきもきもしていない。
自然で、互いの生活に負担も無理もなく常に心地よかった。


何でも認めて、「そうそう、そうよ、それでいいのよ」
と肯定する彼女の姿勢にも、教師としても人間としても
尊敬すべきところがたくさんあった。
       


国を超えて、一緒に活動できたこと。
任期の最後に うれしかった。

いい、仲間をもったものだ。
この協力隊生活で得たものは大きいぞ。











ポスターの青年海外協力隊員

2011年11月18日 17時54分13秒 | 青年海外協力隊たちの活動
日本で、電車の中吊り広告で青年海外協力隊募集のポスターを見た。
テレビではCMまでやっている。

    

日本の震災の影響もあって、協力隊の応募者は減っているのだと聞いた。

ポスターを見ると、複雑な気分になる。
協力隊募集のポスターは笑顔の隊員と途上国の子どもが
明るい日差しの下、笑顔で向き合う。
テレビのCMもそう。
爽やかに風が吹く中、肌の黒い子どもの肩に協力隊員がそっと手を乗せ笑顔でほほえむ。
とにかくさわやかで、明るい。
こういうイメージを打ち出したいのだろうと思うのだが、
ポスターの中で笑顔を見せる協力隊員は作られすぎてきて、真の姿ではないと思う。

絵になるからか、日本人とは肌の色が全く違う国の子どもとの写真が
こうして広告に使われることが多いのも、いつもひっかかるところ。

私もそういうポスターに惹かれ、憧れた一人で、
隊員の多くがそうだと思うが
こういうポスターで意識的に与えられるイメージから、憧れや理想が過度に膨らむように思う。

実際の協力隊員は、理想とのギャップに苦しみ、異文化世界でうまくいかないことの連続。
四苦八苦しながら生活している。
つまづき転びながら、その中で道を見つけ、意義を見つけ、存在価値を見いだしていく。
協力隊員が任国の人たちに「してあげる」側であるなんていう考えは、全くの間違いだったと
ほとんどの隊員が任国で知り、そこからまた新たなスタートをする。

こんなに苦しいことがありました、
その時こうやってのりこえました、
こんなに大変でしたが、こうやって助けられました、
それこそ、協力隊の真の姿で、それを見せられるような広告にはできないんだろうか、と思う。

このポスターには作り手の意図があるのだろう。

私は、よほど、涙を流している隊員の横顔でもポスターに使う方が
真実だと思える。
イメージや第一印象というのは、とても強い力を持つもの。
応募してくる人たちに夢と希望だけではなく、
こういう苦しさもあり、こうやって乗り越えていくのが協力隊の生活なのだと、
本当の部分を見てもらいたいような気がする。

朝の集会  聴覚障害の子どもたちのダンス

2011年11月07日 03時23分17秒 | 青年海外協力隊たちの活動

配属先、コンケン 第9特別教育センターでは、毎朝8:30から集会がある。
知的障害、肢体不自由、自閉症、聴覚障害のクラス全ての子どもたちと、その保護者が
センター正面にある庭に集まり、連絡事項を聞く。
     


そして、輪になり、歌にあわせて体を動かす。ちょっとしたダンス。

この歌とダンスがとてもよくできていて、子どもたちが楽しめるものになっている。
毎日毎日繰り返すというのもいい。
自閉症の子どもたちは毎日決まったものがあるととても落ち着く。
いや、自閉症のみならず、どんな人でもあてはまることだ。


私は、最初の頃はまったく分からずついていけなかった。
それでも子どもたちの前に立たされて見本とさせられるので、
子どもたちに申し訳なく、CDを借りて家で猛特訓をしたり、休み時間にも練習をしたり。
タイ人は細かことを気にしないし、できないということを責めないので、
私ができなくても、全く意に介さず、できないまま子どもたちの前に立たせ続けて気にもとめない様子だった。

覚えようと努力しつつ、しかしなかなか覚えられないのにいらだちながらも、
時がたつうちに次第に覚えて子どもたの前でなんとか見本ができるようになった。


この歌とダンスは、タイの各県にある特別教育センターどこも共通してやっていることらしい。
他のセンターに見学に行ったときにも目にした。   (→過去ブログ 「職員旅行」


何曲か決まった曲を流すのだが、最後に決まって流れる曲がある。
それが穏やかなしっとりとした曲で、振り付けも穏やか。
その曲が流れると騒がしくしていた子どもたちも不思議とぴたりとおとなしく落ち着き始める。
歌が終わると、みな静かな穏やかな雰囲気となり、集会は終了。
魔法のような曲だと思った。

この曲は教室でも授業の始まりや最後にも使われていて、子どもたちの情緒を安定させたり、
静かな気持ちにさせたいときに効果的に使われている。

こういう歌を作ることも、ダンスをつくることも、それをCD化することも、
各県の特別教育センターで共通して実施することも、タイって本当にすごい。
日本でだってできていないことを、タイでやっている。
学ぶこと、頭が下がることが多すぎる。

ただ、難を言えば、せっかくこんな素晴らしいものを作っているのに、
つめが甘い。
いまいち、生かされていない。
見本である先生達がだらだらと体を動かし、そもそも子どもたちの前に立たず、一カ所に集まって先生同士でおしゃべりする。
だから、見本もなく子どもたちと保護者で勝手にやっているときもある。
音楽は毎日流れるけれど、通り一辺倒にやるだけで、参加している子への励ましや、終わったときにほめることをしない。
ああ、もったいない!!
こんなにすばらしいものがあるのに!


一事が万事だが、だいたいそのパターン。
ものはある、だが生かし切れていない。
ものはそろっているが、使い方が雑でまめさがない。

それも、タイのいいところだけど、ああ、もったいない!

熟練の先生達がおしゃべりしている間、子どもたちの輪の中にいるのは私だけという時もある。
子どもたちを褒めているのも、私だけ。
子どもたちを褒めるときにしゃがんでいるのも私だけ。
だったのだが、
半年以上が過ぎた頃、ある一人の先生が、子どもの目線にあわせてしゃがんでほめているのを見た。
聴覚障害学級の若い先生だ。
以前はなかったこと。
それを目にしたときは、嬉しかった。自分が同じ目線で褒められているように嬉しかった。







ある朝の、聴覚障害学級の子どもたち。
歌の「サワッディー」にあわせてワイ(タイ式のあいさつ)するダンスをする。
音楽は全く聞こえていないのだが、前にいる私や、周囲の大人子どもをよく見て
ちゃんと音楽にあったタイミングで、胸の前で合掌する。

3人の子どもが押し合いながら 私の前に来ておどってみせる。
 みてる? ほめてくれる? という子どもたちの気持ちが伝わってくる。
上手! これはたっぷりとほめられなくっちゃ。

      











手話

2011年11月06日 04時44分57秒 | 青年海外協力隊たちの活動

日本では聴覚障害の子どもたちに関わった経験はないのだが
タイで、この配属先第9特別教育センターでは、週に2日、
聴覚障害学級にいっている。
それはたぶん、私の履歴書に手話ができると書いてあったからだ。


もう8年ほど前になるが、私の家がある福岡県糸島市で
無料で手話の初級講座があり、受講して簡単な手話を勉強した。
そのとき、
言葉に頼っていたコミュニケーションがいかに狭いものだったかを初めて感じ、
手話ってなんて美しくて、なんてのびのびとした表現方法だろうと思った。
伝えようとする気持ちさえあれば、なんとしてでも伝わるものだとも感じた。

そのあと、横浜市で個別支援学級を受け持った時に、
手話を使って歌を歌ったり、手話をダンスにしてみんなで楽しんだりした。
手話は連想ゲームのように関連性があり、わかりやすく、どの子たちも
歌にあわせて楽しんで使っていた。


手話は美しい。
タイでもやはり、美しい。

タイの手話は、アメリカの手話を元にしているため、日本の手話とは全く違う。
残念ながら、私が覚えた日本での手話は使えないが、
子どもたちと一緒に私もタイの手話を学んでいっている。
   


たとえば 「正午」 
時計の針が2本。12時を指している状態の手話。
    


聴覚障害クラスには、先生が3人いるが、うち一人の先生は聴覚に障害がある。
ジェオ先生というこの先生。
口話はほとんどできないが、身振り手振りでコミュニケーションを上手にとる。
私とも、タイ語を介さないが、かえってタイ語を介さない身振り手振りの方がよく通じ合えることがある。
心根が素敵で、私の大好きな先生だ。

明るくて元気で、その身振り手振りでの表現がとても上手で、
楽しいことはとことん楽しそうに、
悲しいことは心底 悲しげに、
表情も豊かに表現するので、おもしろく、いつも惹きつけられる。


子どもたちに 絵本を手話や身振り手振りで聞かせる。
子どもたちはジェオ先生から目が離せない。
    


カードを使って、果物の名前を手話で勉強中。
    


お母さんも一緒に、教わった手話を練習する。
    



お母さんが横で一緒にやってくれているよ。
    



ジェオ先生のすばらしさは、顔の表情にもある。
こんな顔をされたら、私が子どもならがんばりたくなる。
教師の表情って、大事だ。
     


一対一で手話の練習。
ジェオ先生が教える手話を
       


そのまま まねる子。 上手!!! 
表情まで一緒じゃないの!!
       



笑いあり、悲しそうな顔あり、表情筋豊かに 楽しく手話の勉強。
      







話す練習

2011年11月05日 04時29分23秒 | 青年海外協力隊たちの活動
聴覚障害のクラスでの一コマ。

話す練習。


口から息を吐く。
鼻をつまんでみようか。
ほら、今口から息が出てるでしょう。
そうやって、言葉を出すんだよ。
    



「フ」の口はね、こうやって作るんだよ。
ローソクの火を消してみよう。
フーッ!
ほらその口の形が「フ」だよ。
    
  机の上に直接ローソクを立てちゃうところが、タイなんだな・・・。



一人ずつ、自己紹介をしてみよう。
名前を言ってごらん。
これから、ずーっと 自分の名前とつきあっていくからね。
相手の顔を見て自己紹介をしよう。
    



先生の口をよく見て、まねしてみて。
    


おやつの時間。
お菓子と牛乳をもらったら、手話か口話で「ありがとう。」
上手にできました。
    




長いvs短い  大きいvs小さい 

2011年11月04日 04時03分07秒 | 青年海外協力隊たちの活動

聴覚障害のクラスで 太鼓を叩く   (→関連記事  11/2ブログ 「聴覚障害クラスで 太鼓の音で「ハイ!」」


ある日のこと。
先生が取り出したこれ、お菓子。
プリッツのようなお菓子。
    

何に使うのか子どもたちも興味津々だが、
私も興味津々。
先生、それ、何に使うんですか?


太鼓を叩いたら、すぐに手を挙げるというルールで、ゲームが始まる。
子どもたちは音が聞こえない。
だから、よく見ていないと太鼓を叩いた瞬間がわからない。
集中してよく見ること。
練習するうちに、集中力も養われるし、
叩くという動作と、叩かれた瞬間に伝わってくる振動が結びつくようにもなる。

しかし、いつも同じことをしていても子どもたちが飽きてしまうので、
子どもたちが楽しめるように、今日はお菓子が登場。
太鼓が叩かれたことに即座に反応して手をあげる子どもたち、その一番乗りだった子に
プリッツを一本選んでもらうというおまけつき。

ただし、このプリッツ、短いものもあれば長いものもある。
子どもたちは引き抜くまで分からない。

先生から、私がプリッツ係を託された。
プリッツを折って、長いものから短いのものまで用意して、さあ、どうだ!
選ぶ子どもの目も真剣。
    

引き抜いたプリッツが短かったときには、残念な悲鳴が上がる。
プリッツのおまけでゲームはさらに盛り上がる。
楽しみがあるために、太鼓を見つめる子どもたちの集中力もぐんとアップ。

しかも、プリッツを使って、「長い」と「短い」の手話と口話も教える。
プリッツを引いた子は、みんなの前で、
口で「長い」といいながら手話も披露する。


子どもたちが楽しみながら勉強できている。
すばらしい学習だ。

ムッ先生というこの先生、以前、たくさんの先生達の中で唯一、子どもたちの目線までしゃがんで会話して見せた先生で、
日本でなら当然の行為のようだが、ここでは他にそんな先生はいない中、
なんて柔軟な先生なんだろうと、私はうれしくて感動したことがあった。
こんな学習展開を考えるのも、さすが。
ムッ先生のやり方に感動しちゃう。

ムッ先生が、子どもの指を使って教える。 「長い」「短い」
      


そのあとは、折り紙を折りながら、
「大きい」「小さい」の勉強。
手話や口話で、「大きい」「小さい」を練習していく。
楽しみながら、生活の中で使いながら、それでこそ生きた勉強。やりたいと思う勉強。
     


一緒にやる

2011年11月03日 03時44分10秒 | 青年海外協力隊たちの活動
子どもたちの毎日の活動は、
歌を歌い体を動かすことや
集団でゲームをすること、
色紙や色鉛筆、ハサミなどを使って作品を作ること、
お菓子を食べて牛乳を飲むこと、
計算や文字を練習すること、
などがある。

どれも、教育的効果と目的があって、
情緒の安定を図ったり、手と目の供応動作を促したり、
他者との遊びでコミュニケーション能力を養ったり、
全て大事な活動だ。


そして、それぞれの発達段階に応じてではあるが、
手を貸さず、自分でやらせて自信を持たせることが大事な子、
大人が手を添え一緒にやり達成させることが大事な子がいる。


それをよく見極めてその子にあった支援法を、
全教師が共通理解して行うことがとても重要なのだけど、
その辺はまちまちで、先生それぞれ。
ちょっと、残念なところ。


この子は、まだまだ幼く、情緒が安定しないため、保護者が一緒に
手を取りながらも一つ一つの経験を積んでいくことが必要な子。

家族からとても愛されていて、おじいちゃん、おばあちゃんが毎日センターについてきてくれる。
何をやっても、にこにこ笑ってほめるおじいちゃんとおばあちゃん。
愛されているって、人間にとってとても大事なことだ。
     


よし、じゃあ、私と一緒に今から のりと色紙を使って作品作りをしましょう。
     


後ろからがっちりガードして手を取り、のりに指を近づけるけれど
     


手につくのりの感触が大嫌いなこの子。
なかなかすんなりとのりを触れません。
そっぽを向いてしまう。
がんばれがんばれ~ この経験も大事なのよ~
     


カメラに興味を示して のり付きの指で そ~っと触ろうと・・・  
キャー! だめ だめ!
     



    

聴覚障害クラスで 太鼓の音で「ハイ!」

2011年11月02日 03時24分58秒 | 青年海外協力隊たちの活動
聴覚障害クラスでの一コマ。

音は全く聞こえない子どもたち。

その子どもたちの前で、太鼓を叩く。
「1回だけ叩くよ、叩いた瞬間に手をあげてね。」と教えてから叩く。
それまでは頭に手を置いて待つんだよ、わかった?
      

     
その1回がいつなのか、子どもたちはじっと見つめて先生の手の動きを注視する。
じっと見ていないと、いつ叩かれたのか見逃してしまう。
音が聞こえない子どもたちだから、目でしっかりととらえないといけない。

     
じーっと見ているのを確認して、
           
 

さあ、叩くよ、叩くよ、今から叩くよ~ わざと時間をおく。
ながく集中する練習なのだ。
      
     

太鼓をポン!と叩く。
            

目を離していなかった子は、その次の瞬間には「ハイ!」と手をあげる。
一番はやかったのはだれだ~?
一番はやかった子をほめるほめる。
すると、次こそはボクが、私が!と 次への気合いが入る子どもたち。


中には、集中力がもたずちらちらと他の場所を見てしまい、
叩かれた瞬間を見逃してしまう子もいる。

がんばれ、がんばれ。
君たちには、目で集める情報や、そこから情況を理解して判断していく力が
これからとても大事になる。
がんばれ、がんばれ。