南会津生活記

南会津での日々の〝ひとコマ〟をご紹介しています。
by s-k-y (presented by taito)

南山六義民の見た風景 エピローグ

2011年03月04日 06時21分55秒 | いにしえへの思い

〝南山六義民の見た風景〟を辿っていて意外に感じたのが、明らかな閉塞感に包まれた集落は小栗山集落と新遠路集落。あとの4集落は開放感があり比較的いい雰囲気。また、文献を紐解いていても水呑み百姓の大一揆とは違って、読み書きが出来て理性的な名主層が力を合わせての行動であったことが垣間見え、テレビの短絡的な時代劇を連想すると見誤ります。
ただ残念なのが、当時の記録が圧倒的に少ないこと。名主兵左衛門の記録は貴重な拠りどころとして、それを補う別の古文書や代官側の記録が少ないような気がします。まだまだ発掘途上で、それを専門とする方々にぜひとも頑張っていただきたいところ
さて、いろいろと文献をあさっていて、書きそびれた記事を2つほど綴って終わりとしたいと思います。



まずひとつ、南山六義民の見た風景を辿っていて、名前の不思議に立ち止まる

江戸への直訴先発隊15人と後発隊18人。彼らの名前の内、「衛門」とつくのが26人。「兵衛」とつくのが5人。そして喜四郎のように「郎」とつくのが2人。
調べてみると「衛門」と「兵衛」は平安時代の官職の呼び名で、衛門府には左衛門府と右衛門府の二つが置かれ門の警備を担っており、また兵衛府は皇室の護衛を担っていました。
これらの呼び名はやがて武家に広まり、江戸時代に入る頃には大衆化し、多少なりとも格を重んじた地域の有力者たちは、幼少名「儀助」を成人を迎えたら「儀右衛門」というように付けていったのでしょう。

●○ 儀右衛門の出身地「黒谷集落」 ○●




もしかすると兄弟で右と左を交互に付けて、兄の孫右衛門が右だから弟は左で茂左衛門!と付け替えていたのかも
いずれにしても、名前に「衛門」や「兵衛」と付く農民は中流階級以上であったと推察されます。

●○ 孫右衛門と茂左衛門の出身地「布沢集落」 ○●




そのような〝格〟に届かなかった一般的な農民は、成人後に改名せず「助」や「郎」に留まっていた!?
江戸への直訴33人の内、「郎」とつくのは喜四郎と川島集落の長四郎。この二人は俗に言う水呑み百姓でありながら、志高く、直訴メンバーとして奮闘していたのでしょう。
長四郎も後に義民と評されたかもしれませんでしたが、残念ながら江戸で牢獄死となっています。

●○ 喜四郎の出身地「小栗山集落」 ○●





もうひとつ、南山六義民の見た風景を辿っていて、お金に立ち止まる

江戸への直訴先発隊15人を送り出した後、地元に残った名主たちのお仕事は直訴チームのための金策 直訴チームの宿泊費は、2月7日に江戸入りし8月23日に捕えられるまでの約200日間×15人。一泊千円としたって300万円、一泊5千円としたら1,500万円 プラス食費に後発隊の旅費にと、相当な金額が必要となります。

●○ 久次右衛門の出身地「新遠路(にとうじ)集落」 ○●




御蔵入騒動記録誌によると、伊南村の名主与五左衛門が一金二分、名主差兵衛が一金一分をそれぞれ取りまとめたとする古文書があるとされており、名主それぞれが少しずつでもお金を工面しようとしていた姿が垣間見えます。

●○ 喜左衛門の出身地「滝沢集落」 ○●




御蔵入領内にあって、兵左衛門、喜左衛門、久次右衛門の名主三人は、地元の引締めと資金集めに苦労していたことでしょう。いっそ自ら江戸へ出向いていた方が気が紛れたかも知れませんが、それではお膝元がまとまらない。
代官側の取り調べが厳しくなる中、気苦労が絶えなかったことでしょう

●○ 兵左衛門の出身地「界集落」 ○●


さて、そもそもこの〝お金〟が御蔵入騒動の伏線だったのではないかと勝手な仮説を立てていました。
というのも。。。江戸幕府は1600年のスタート時から、それまでの自給自足経済から貨幣経済へと移行を進めていきます。1600年代後半には貨幣経済が農村内にも浸透していき、お金になる商品作物や織物などの商用品の生産が増えていったようです。しかし、ここ御蔵入領では自給自足が主流を占め貨幣経済に移行しきれていなかったのではなかったか?結果として困窮を訴えることになったのでは?
残念ながらボクの勝手な推論を裏付ける文献には出会えませんでしたので、これは単なる仮説止まりとして、突っ込むのを止めときます



●●○ プロローグ ○●●
最後に再び六義民を祀った六地蔵のもとを訪れます。

それぞれのお顔にそれぞれの地元の風景が映るようで。。。
彼らの心境に迫ることも思い巡らすことも遠く及ばず、ただ、彼らをとおして再び南会津を巡り、ただの来訪者から地域の一員としての探訪者へと一歩前進できたかな~と。。。ブツブツ



ボクには珍しく文字数の多いシリーズ。
アップしようと決めた日までに原稿が間に合わず四苦八苦したり、文献あさりばかりで文章がまとまらなかったり。。。 それでも駄文にお付き合いいただき、また予想以上に多くの皆さんに遊びに来ていただきました。本当にありがとうございました。

足掛け三ヶ月に及んだ〝南山六義民の見た風景〟、書きそびれたことも多々ありますが、
これにてお終いです。

来週からは義民のふる里を巡る途中で出会った風景を一気にご紹介。いわゆるストック写真のアップです。お楽しみに







●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 兵左衛門編その2

2011年03月03日 05時57分10秒 | いにしえへの思い

集落内をプラプラ歩いていると、じい様と遭遇
義民知ってますか?の問いに、じい様・・・???
じい様曰く「あっちさ古い民家あっから行ってみな!」
ホ~~~、そうですか? 移築されたのかな?と行ってみることに



言われるがまま訪れたここは南郷民俗館
移築された古民家は江戸時代当時の豪農宅のようで、町の重要文化財とのこと。
残念ながら兵左衛門の家ではありませんでしたが、当時の主流だったこのような曲屋の家屋が、やはりこのように雪の中に埋もれるようにあったことでしょう



御蔵入騒動記録誌によると、「兵左衛門はかなり豪胆な人物であったらしく、1693年(元禄八年)に幕府が松川新道開削工事を施工した折りに下請けながら大峠・板室間の工事を250両で請負った。」とあります。松川新道とは、1683年に日光周辺で発生した大地震によって当時の幹線道路であった下野街道(現在の国道121号)が通行出来なくなり、代替路として作られた松川街道を指します。

奇しくも3年前探訪し、去年は松川街道から三倉山トレッキングもしていたルート。義民を辿っていて再びこの街道の歴史に触れるとは。。。驚きとともに考え深い



この工事を250両で請け負ったということは、1両が5~10万円程度として、1,250~2,500万円もの工事を請負い、人を集めて指揮していた 兵左衛門はこの界集落周辺地域のみならず南山御蔵入領きっての有力者だったことが伺えます。ツワモノです



ツワモノ振りは「勘定奉行所の御門前にてさえ百姓に彼是と指図している」と指摘されるほど!
江戸に呼びつけられた後でもこの振る舞いですから、相当に胆の座った人物だったのでしょう。



兵左衛門の墓は界集落の近くにある安照寺にあるそうです。
ここは直訴を行おうと有志たちが集った謀議の場。
兵左衛門を中心に様々な意見が飛び交い、やがて切なる願いは13ヶ条の直訴案へと姿を現し、みんなの意志が一つになっていったのでしょう。



集落の真ん中に立ち、兵左衛門が見たであろう景色を眺めながらボ~~っとします
写真の右側の山陰には南郷スキー場あり、さいたま市の保養施設あり。。。
でもここはそんな開発とは無縁で、当時の空気感が味わえる静かな空間を残しています。
この山を眺め、伊南川を眺め、兵左衛門は何を思っていたのか。。。



義民の見た風景を歩んでいて、最大の難事は、家や道や電線はいいとして、河川改修で水の流れが変わり、さらに農地基盤整備で田畑の配置が様変わりしていること。。。
唯一ボクの味方は彼方にそびえる山々
それを眺めながら、当時の様相に想像を巡らし、パシャ

兵左衛門、あなたは地域のツワモノとして、多分に代官や郷頭から煙たがられる存在だったのでしょう。
しかし、それを分かっていながら、立った。
地域のツワモノとして、恥じることない最後を選んだのですね







●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 兵左衛門編その1

2011年03月01日 05時55分51秒 | いにしえへの思い
南山六義民最後を飾るのは、代官側に立つ郷頭から「こ奴こそが首謀者」と名指しされた兵左衛門。
そのふる里、界集落です。

この地域は、伊南川沿いに日当たりのよい耕作地が広がるものの、御蔵入騒動の5年前にあたる1715年(正徳五年)の記録によると「御国粟、稗の儀百姓、水呑等まで飯米不足の者食候(正徳五年指出帳)」と言っているほど米作に恵まれず、「早稲種五品に品種を統一しているところに冷害の深さがみられ、畑作は麻、大豆、粟、稗等が主作物。」であったようです。(庄司吉之助著「幕末に於ける土地集積-商業的農業と金納小作料について-」より)
その一方で「大麻、麻織物は主な現金収入源であり、年貢上納金、日常消費物資の購入に当てられていた。」とあり、以後には「明治維新前に在りては伊北大麻は野州麻と並び東京、大阪の市場に歓迎せられ、相当の収入を得た。(南会津郡誌)」とされるほど発展していきます。



御蔵入騒動から50年程後の1775年の記録によると、界集落から5km程離れた大新田集落の商人が、「麻織物や煙草を、大新田村から駒止峠を越え、糸沢村を経由して山王峠を越え、会津西街道を通って宇都宮に出て、奥州街道を通って江戸に送付した。逆に江戸からは、茶を御蔵入領に移入していた。」との記録があります。



また、界集落の川向にある鴇巣集落が属する伊南伊北郷では「江戸、越後と往来する商人が1800年代には村ごとに存在していた。」とされています。(川口洋著「18・19世紀における会津・南山御蔵入領の人口変動とその地域的特徴」より)



これらのことから、界集落周辺の地域では米不足を補うため伊北布の生産に力を入れ、それを商人が江戸や越後へ売り歩き収入源とする経済構造だったことが伺えます。
実は、この商人の存在無くしては江戸への直訴は実現しなかったのではないか?と思えてなりません。



そう思うに至ったのが、江戸での「宿屋」です。
江戸への直訴チーム15人は、直訴と悟られないよう個々に江戸を目指し、予め決めておいた宿屋に集合しています。田舎育ちで江戸の右も左も分からない者たちだけでは、予め集合する宿屋を決めておくのは困難!しかもその宿屋は、訴訟や裁判のため地方より出てきたものを宿泊させた専門の宿屋である馬喰町(日本橋)の〝公事宿〟
この情報を予め入手した上での江戸行きですから、江戸の情報に長けていた商人の介在は必要不可欠です!
物語の表舞台には出てこない人々の力添えが垣間見た気分です



さて、この公事宿、「公事宿には、訴訟に必要な諸書類の雛形が備え付けられてあり、公事宿の下代(げだい)などは、それによって書類を勘造していた。」とあり、直訴チームが〝訴訟の作法〟や〝訴訟先〟について、ここで指南を受けた可能性があります。



商人と公事宿、その道の玄人が介在する中で、義民たちの直訴は進められていったのでしょう



さて、今の界集落で有名なものと言えば、何といっても〝花泉酒造
最近では小洒落たレストランも併設されて、イイ感じ



彼らは義民の伝承者?はたまた商人の末裔?
銘酒を生み出す職人の手が、屋根の雪下ろしに精を出します。








●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 儀右衛門編その2

2011年02月24日 05時57分37秒 | いにしえへの思い

直訴のため江戸へ向かった儀右衛門ら15人。
「どうしよう~」と迷いそうなものですが、計画的に行動に移していきます。

その前に。。。直訴はある程度作法化されていたようです。
Wikipedia「直訴」によると、「駕籠訴の場合、始めに行列の前方より訴状を捧げて訴人が行列に接近する。すると供侍がこれを制止。接近と静止を繰り返した後に初めて供侍は『再々にわたるので仕方なく』として訴状を受け取り、事情聴取のため身柄を拘束する。身許が確認され訴状の内容に虚偽など問題がなければ訴人は解放される。」などなど。また「事件がもみ消されるのを防ぐために複数の方面に対し直訴を行うという訴訟戦術もしばしば採用されていた。」ともあります。
つまり、もし直訴がご法度であれば申し出即処罰であったはずで、こういった流儀が存在していたということ自体、直訴がご法度ではなかったことを示しています。



では、御蔵入騒動での直訴はどうだったかというと。。。
儀右衛門らは勘定奉行所へ願い出るのを分かっていながら、まずは慈悲深いと評判の良かった寺社奉行所に直訴を持っていきます。寺社奉行所では「当方かかわりなし」としつつも直訴状の写しを取り、「管轄は勘定奉行である!」として親切にも「月当番は○○だ」と言って紹介状を書いています。この寺社奉行所への申し出が直訴を揉み消されないようにするための準備行為であたったのでしょう。

その後、勘定奉行所へ向かい、受付の侍と「恐れながら」「無礼な奴ら」のやり取りをした上で、「百計つきて江戸に出てきたのだな!」と受付の侍は〝仕方なく直訴状を受理する〟というポーズをとっています。このように〝仕方なく〟という風を装うのは、多分に侍が直訴を受け取るうえでの大義名分を作るための儀式であたのでしょう。侍はここで見得を切り、農民側は見得を切らせてあげる。阿吽の呼吸だったのでは。。。
このように、儀右衛門らはやみ雲に直訴をしたわけではなく、〝直訴の作法〟に酷似した行動を取っていたことが伺えます。また、奉行所側もその作法に乗っ取って対処していたように思われます。



月当番の勘定奉行から担当は勘定組頭が取り扱う案件となっていきます。ことを深刻に受け止め勘定奉行所の中でもより上の地位の者に担当が変わったのでしょう。ここで、奉行所側は直訴内容を分析し「十三ヶ条中、六ヶ条はお上の政治に関することなので条項を取り除くように」と伝え、現実的解決策を探っていた節があります。逮捕されるまでは六ヶ月もの期間がありましたから、もし、そこで直訴文を調整していたのなら、結果は変わっていたことでしょう。

しかし、儀右衛門らは初心を貫きます。
そのため、奉行所側は直訴組が「御蔵入領民全ての代表」ではなく「農民を扇動して一揆を策謀した」という筋道を立て、これに沿うような供述を得ようと御蔵入領内での事情聴取をすすめ、約一年かけて筋道を組み立てていきます。ストーリーを描いて捜査をするあたりは現代のどこぞの検察官とよく似ていますね
正式な手続きを踏んで願い出ていたのに…、一揆策謀者と仕立て上げられ、さぞかし無念であったことでしょう。ここで儀右衛門らの運命は潰えたのです。



儀右衛門は名主の次男。ある程度の財産はあったでしょうが、次男ということで名主家への影響を回避する上での人選だったのかもしれません。逮捕された時点で財産没収などの先々の運命は覚悟したでしょうが、ここで儀右衛門の息子の与市がクリーンヒットを放ちます
与市が田島の代官所に呼び出され父の所業を問いただされた時、与市は毅然と「親を裏切るような孝行心の無い行いは出来ませぬ!」と言い放ったといいます。これに感心した勘定奉行組頭は与市を黒谷村に返し、儀右衛門の家督を受け継ぐことを認めています。
奉行所側もいいところがあります



義民知ってますか~の問いに、「あっちの寺さ墓があっけど、雪で埋もれでっぞ~」と。。。ですよね~
教えられた方向にあるお寺へ向かいます。



儀右衛門は江戸へ向けて家を出る時、歌を詠んでいます。
「玉くしげふたたび帰る身ならねば 名ごりはつきぬふる里の山」
〝くしげ〟とは櫛や簡単な化粧道具を入れておく箱や蓋の意味で、枕詞として使われ「身」にかけることが多いようです。玉は櫛笥(くしげ)の美称。でも、自分のことを美称するとは思えませんので、これでは少々意味が通じないかな?

となるともう一つの言葉としては、本居宣長著で社会の弊害を古道の精神によって是正すべきことを説いた国学書「玉くしげ」があります。こちらを当てはめれば「社会の弊害を是正しようとしているが再び帰ることは出来ないだろう、ふる里が名残惜しいな~」となるのかな?これの方が意味が通じるのですが、これでは矛盾が生まれます。本居宣長が「玉くしげ」をまとめたのは1787年、御蔵入騒動の65年後、引用するには無理があります

後世の誰かの歌なのか、それとも書き換えられたのか?はたまた別の意味があるのか
たとえ後世の創作だとしても、心境を語るにふさわしい歌であり、またここからの景色がそれを感じさせてくれます。



それにしても、山間の集落に比べれば断じて環境のいい黒谷集落。
それでも儀右衛門は立ち上がった
それは〝自分さえ良ければいい〟といったものではなく、みんなが辛いのなら〝我々がそれを打開しよう〟という地域経済の牽引者としての使命感か、あるいは名主家として地域を守ろうとする責任感か、はたまた両方か。。。
とても魅力的な存在として、ボクの中に残ったのでした。








●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 儀右衛門編その1

2011年02月22日 06時25分55秒 | いにしえへの思い
喜四郎と意気投合し江戸への直訴を決意した儀右衛門。
彼のふる里、黒谷集落です。

黒谷集落は尾瀬を源とする清流伊南川と名峰会津朝日岳に端を発する白沢川との合流点に位置し、双方から供給される肥沃な土壌によって豊かな耕作地帯が広がります。川からはアユやイワナが獲れ、山からはクマやイノシシを獲っていたでしょうから動物性タンパク質にも恵まれていた、かな
さらに、伊南川と並行して走る沼田街道(現在の国道289号)で物流にも不自由なく、優れた地勢的スペックを有している地域であることを感じます。

黒沢村はやがて朝日村の中心地となり、昭和の大合併で只見町へと組み込まれていきますが、今でも朝日地区の中心地として行政機関や診療所などが置かれる地域の要的存在となっています。そのため、集落規模も大きく、御蔵入騒動当時の黒谷村を忍ぶには相当の想像力が必要です


ただ、御蔵入騒動記録誌によると、町中から少々離れたところにある集落が儀右衛門の実家のあった場所らしい なので、今回はその集落を中心に散策です!



この豪雪、厳寒の中、猫がお出迎え!と思ったら逃げちゃった



ここも御多分に漏れず、高齢&過疎化の波がやってきています。
と、先を歩く翁、上へ向かって何やら話をしています。



見上げると…、これまた翁、屋根の雪下ろし中
それだけ落とせば家には問題ないでしょうから、無理しない方が。。。
雪下ろし中の事故のニュースを聞いて雪の少ない地域の皆さんは理解し難いでしょうが、このような危険な状況が雪国では繰り広げられているのです。
その後諦め、無事に降りられました。よかった



儀右衛門はこういった地域で名主の次男として生まれ育ちます。そして、「読み書きが堪能であった」とされており、それ相当の教養を有していたことでしょう。また、小栗山村喜四郎ら小作農民との交流もあったことから人望もあり、所謂〝できる男〟だったのかもしれません。
出発前に直訴組が守るべき約束事を界村兵左衛門が文案を作り儀右衛門が清書しています。
 1.この度の直訴は御大法に背くことだから生きて再び帰ることは考えないこと。
 2.御蔵入全体の問題をとりあげ、自分の村の小さなことはとりあげないこと。
 3.経理は入用品を一組ごとの帳面に記載して、後で一括精算すること。
 4.血気にまかせて乱暴したものは、帰国させるから十分につつしむこと。
 5.長期に渡ることを覚悟して、その間の物見遊山や遊び事は一切しないこと。
 6.長期に渡る覚悟であるから、半途にして仮病を装ったり同志を誘って帰国することを厳に慎むこと。

このような約束事を考え守らせようとしたことから、これを創案した界村兵左衛門こそが直訴の中心的存在であり、儀右衛門はその意を受け江戸へ向かった直訴チームの真のリーダーだったのでは?
ただ、江戸の奉行所に出向くにあたって〝格〟は必要なので、名主である布沢村孫右衛門を直訴チームの精神的支柱としてかつぎ、実質的リーダー兼参謀として儀右衛門があたったのでは?



さてこの約束事、1番の「生きて再び帰ることは」を読むと決死の覚悟が伝わりますが、それ以外はどうも雰囲気が違う 3番の「後で一括精算」あたりを読むと、後の無い決死の行動のはずが〝後で精算〟とは。。。1番との間にギャップを感じます。
つまりは、1番は心構えを示しつつ、2,3番で村ごとの不公平感が出ないよう気配りをし、4,5,6番で仲間の引締めを図ったのでしょう。
裏を返せば、村ごとの思惑が多々有り、とりまとめに苦慮していたのかもしれません。何せ南山御蔵入領271村をまとめていたのですから。。。



また、15人も居れば中には引締めを図らなければならないメンバーがいたかもしれません。
血の気の多い者、遊び心いっぱいの者、弱気な者などなど。。。
それぞれの人間性を思い描き、創作したくもなります









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ