南会津生活記

南会津での日々の〝ひとコマ〟をご紹介しています。
by s-k-y (presented by taito)

南山六義民の見た風景 喜左衛門編その2

2011年02月10日 06時20分56秒 | いにしえへの思い
滝沢村の名主であった喜左衛門。彼もまた、新遠路村の久次右衛門同様に物語中で紹介されるエピソードは無く、影の薄い存在でありながら最後には打ち首さらし首となっています。
物語上影が薄いのに打ち首とは割に合いませんね



物語の中で「直訴は規則で禁ぜられ、直訴をすれば願い出たことは取り上げられても生命はない。」とのくだりがあります。映画やテレビの時代劇などでも同じようなことを言っており、そのような印象が定着しているのでは?しかし実は、直訴そのものが処罰の対象になるわけではなく『徒党を組んで騒動を起こし狼藉を働いた』ことが処罰対象であり、正式な行政手続きを踏んだ直訴は処罰の対象ではありませんでした。ただ、死を覚悟した直訴が一般に数多く伝えられ、直訴=死罪という誤解が浸透していったと考えられています。

南山義民も正式な手続きを踏むため奉行所に申し出ています。無謀なことをやったと思われがちですが、物語をよ~く読んでみるとしっかりと段取りを踏んで直訴をしていたことが伺え興味深い!(これについて詳しくはまた次回)
しかし〝正式〟を〝不当〟へと導くあたり、幕府側の巧みさであり結局は直訴=死罪の事例のひとつともなってしまった・・・



参考にしているサイトの中に、新潟県佐渡島で起こった興味深い出来事が記載されています。
佐渡は当時、南山御蔵入領と同じ幕府直轄領、この百姓たちが「正徳年中(1711~16年)にこの窮状を幕府より派遣されてきた巡検使に訴え、その結果、当時勘定奉行の要職にあった荻原は罷免されてしまいました。」とあります。参考資料→(江戸時代の飢餓と百姓一揆を見直す

このような話が八十里越街道を行き来する越後国の商人を介して御蔵入領内にもたらされたのでは?
御蔵入騒動は1720年から勃発。そして、義民として讃えられる6人はいずれも御蔵入領内の西部地区出身、つまりは八十里越街道に近い人々。。。
単なる偶然か…



隣国の成功事例を聞いたからと言って誰でも行動に移すものではなく、それはそれで苦境に立たされているからこそ〝藁おもつかむ〟思いで直訴を決意したのでしょう。特に、喜左衛門は滝沢村の名主。村人たちの様子を見かねて代表して行動を起こした、か?



ボク「じいさま~、雪かき大変ですね~。義民のこと知ってますか~」
雪かき中の翁「神社はそこ上がっていったとこだ。雪に埋まるけんど腰までだがら大丈夫だ!」
この集落で唯一会話を交わせた翁。何度問いかけても、会話はすれ違いなのでした
それもまた良し



まだまだ昼間の時間帯。
降りしきる雪に街灯が灯ります









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ






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