南会津生活記

南会津での日々の〝ひとコマ〟をご紹介しています。
by s-k-y (presented by taito)

絵日記(1/23~1/29)

2011年01月30日 06時34分38秒 | 絵日記

【1月29日(土)】

毎月恒例、愛犬の美容室通いのため会津若松市へ
先月の大雪がまだ残ってますね~
赤瓦に化粧直しした鶴ヶ城にも雪。。。あ~瓦が見えない






【1月28日(金)】

今週も無難にお仕事終了~、プラプラと寄り道しての帰り道。
そう言えばこのお店で作ってる〝ニシンの山椒漬け〟美味しかったんだよな~、それに〝しめサバ〟も。。。また買おっと






【1月27日(木)】

ザーと雪が降ってるように見えますが、実際には粉雪がサラサラと降ってました。
極寒に付きパウダースノーです






【1月26日(水)】

久々の日の光
日の光をオデコに受けるとスイッチが入るような気がします。
何のスイッチかは分かりませんが






【1月25日(火)】

久々の星空フォト
雪を三脚代わりに、星がギリギリ流れない程度に、雪山を入れてのプチバルブ撮影。
至福の夜遊びです






【1月24日(月)】

お天気の朝、久々にお月様が望めました。
これはっと、EF70-300mmを付けて久々の月フォトです。


300mmなら実寸でこのサイズ、楽しめます





【1月23日(日)】

週末、消防署の方々と消防団員が総出で巡回!
何事かと思えば、雪が積もった消火栓の除雪作業
いざという時のために欠かせない大切な作業、日曜日にもかかわらず皆さんご苦労様です







前の週はこちら
絵日記(1/16~1/22)




南山六義民の見た風景 喜四郎編その3

2011年01月27日 06時00分19秒 | いにしえへの思い
喜四郎の実家とされる家の前で通りを眺めます。
過ってはもっと道幅が狭く、除雪車も無かったので雪がテンコ盛りにあったことでしょう。



小栗山という名前を冠したものは無いかな~と探していると、ありました小栗山集会所!



喜四郎は打ち首に際し、歌を詠んだとされています。
「いたづらに花さく春を過ごしけり 寝ざめものうき秋の夜すがら」
〝ものうき〟とは、心が晴れない様?〝秋の夜すがら〟とは、寝られるの意味?
ようやくグッスリと安らかな眠りにつくことができる?とか、そんな意味でしょうか?国語、特に古文は苦手なのでよく分からんです



石碑によると喜四郎享年47歳。17歳の子どもがいたようですが、最後に会えたかどうか?
ただ、その子は曝されていた首を小栗山に持ち帰ることは出来たようです。



喜四郎の時代、通り沿いに家屋が張り付き、限られた平地で耕作し、木を切り出しまた植え、時には野尻川で魚を求め、山に入っては獲物を求め。。。
四方を山に囲まれた集落で税の厳しい取り立てに晒されていたとすれば、それはもう限りない閉塞感に陥ったことでしょう。


しかし、この閉塞感から彼は動きます。
親交のあった黒谷村儀右衛門のところ、相談役であったとされる大田集落の観音寺や直訴の作戦会議が行われた界集落の安照寺、さらによく訪れていたという小塩村清左衛門のところと、いずれも吉尾峠や松坂峠あるいは鳥居峠を越えての40キロ前後の踏破行。。。



吉尾峠は現在では県道小林会津宮下停車場線といいますが峠手前で道路が無くなっている交通不能の道路です。松坂峠は現在では県道布沢横田線といいますが冬期通行止め。鳥居峠は国道401号といいますがやはり冬期通行止め。。。難所ばかりですね!
代官所のある田島までは舟ヶ鼻峠を越えてやはり40キロ。舟ヶ鼻峠は現在では国道400号といい、最近新しいトンネルが出来て雪道でもOK でも、それまではやはり冬期通行止めの難所でしたから、ここ小栗山から出ていこうとすると雪山登山モードでなければ無理無理



「旧暦の12月に安照寺に集まり」とありますから、畑仕事の終わった秋以降に行動を起こし、そして雪降る中、方々行き来をしていたことになります。
ここに佇み、この山々を歩いて越えて隣町に行こうなどとは考えもつかない!
その強い意志、思いは及びません。



物語の中では最も取り上げられる喜四郎。
彼の思いを垣間見るまでには至りませんでしたが、ここ小栗山を後にし、次の義民の里へ向かいます。









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 喜四郎編その2

2011年01月26日 05時49分28秒 | いにしえへの思い
集落内を歩いていると、昔からの家屋を利用した民宿があっちにもこっちにも!?
どうやらすぐ近くにある沼沢湖周辺の観光地化に即応して、民宿業が営まれてきたようです。
沼沢湖周辺には自然休養村センターあり、妖精美術館あり、湖水浴場あり、スキー場もあり。。。訪れる方々が多いんでしょうね!かねやま観光ガイド



以前は農林業中心だったでしょうが今ではそれで生計を立てるのも厳しいでしょうし、サービス業が中心の町となってきているのでしょうか。。。
昔の古民家の佇まいはそのまま活かしてあって、おかけで田舎暮らしを体験するには最適



農業といってもこの辺では稲作ではなく、からむしや大麻の栽培が中心だったと思われます。
すぐお隣の昭和村では伝統工芸としてからむし織が伝承されていますし、御蔵入騒動から66年後の天明8年(1788年)の記録に「古町村から梁取村を経て布沢村までの沿道の畑には、からむし、大麻が多く、からむしを用いて布を織っていた」とあります(川口洋著「18・19世紀における会津・南山御蔵入領の人口変動とその地域的特徴」より)。古町や梁取は伊南川沿いですので地域は多少ずれますが、それでも布沢は昭和村と吉尾峠ひとつ隔てたお隣さん、この地域全体がからむしの産地であったことが伺えます。何より、からむし織のメリットは畑仕事が出来ない冬期の内職として、雪国に広まっていたようです。
おや?爺様、それはからむし?ではないか



からむし織などの付加価値の高い製品が珍重されるようになったのはいつ頃だったか?御蔵入騒動の頃はまだまだで生活は困窮を極めていたのでしょう。家族や親類縁者、村人たちの窮状を眺めながら、喜四郎の胸の内には湧き上がるものが 喜四郎は無二の親友の黒谷村儀右衛門を自宅に招き、直訴への決意を打ち明け、儀右衛門もそれに応えます。



親友が第一陣として出発する際、儀右衛門が別れの歌を詠んでいますが、喜四郎もまた尽きぬ思いを歌で残しています。
「民のため身は武蔵野に消ゆるとも かねてちかいし事な違ひそ」
江戸で命を落とすこととなっても、願いは叶えるぞ!と、そんな決意の歌でしょうか?



メイン通りをそれて路地裏をぶらり
国道400号の山側と谷側、それぞれ一本ずつ町道があり、それ沿いの狭いエリアに家屋が肩寄せ合っています。



最近は温泉も出たらしく、こちらのお宿は唯一温泉が楽しめるそうです。
この時はそうとは知らず…、分かってれば入ってきたのにな~



見上げれば白山神社、登って上から見渡してみたいけど。。。無理だな~









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 喜四郎編その1

2011年01月25日 06時22分12秒 | いにしえへの思い
演出家平田大一氏による舞台「南山の息吹」で取り上げられている御蔵入騒動、そのサブタイトル「南山義民喜四郎伝」として名前が挙がっているのが小栗山村出身の喜四郎です。

現在でいうところの金山町大字小栗山。
ボクの住む南会津町田島から国道400号で昭和村を通り過ぎ金山町へ向かい、国道252号との交差点の2キロ程手前、谷深くには野尻川が流れています。

ここに立って見渡す限り、耕作地に適した平地は少なく、あるとしても谷沿いの斜面に段々畑がある程度かな?雪が多くてよく分かりませんが
南山御蔵入騒動記録研究会による「南山六義民の碑建設記録」誌(以下「記録誌」と呼びます)によると、ここから見える屋根の家が喜四郎の実家とされ、末裔が住んでいると記されています。
ここか~~~と想像以上の環境に絶句です。。。



集落内の広場には〝義民の碑〟が建てられています。石碑は大正9年、案内板は平成6年にそれぞれ建立されたようです。
義民と言って真っ先に上がる名前、喜四郎。なぜに喜四郎なのでしょうか?

御蔵入騒動の伝聞としてまとまったモノははっきりせず、記録誌によると明治二十年から大正六年にかけて行われた室井平蔵氏による調査と昭和三年に建立された石碑によりあらすじが垣間見えます。
その後、昭和三十八年に義民の一人である界村兵左衛門が書き残したとされる名主文書が発見され、これにより御蔵入騒動の全容が判明し、絵入りの昔話として物語が確立されたようです。
つまり、物語の構成の拠りどころとされているのは兵左衛門の名主文書であり、この中で喜四郎に関する記載が多くあることから物語の中心に据えて描かれることが多くなっていると思われます。



また、喜四郎は南山領内→江戸→南山領内→宿屋小川屋潜伏中に逮捕、と移動していることから活動的に描きやすく、また坂本竜馬の寺田屋事件を思わせる逮捕劇に様々なエピソードを盛り込み易かったのかもしれません。
義民6人の中で喜四郎は唯一、代官所のある田島で打ち首になっています。
領民の見ている前で死んでいった喜四郎に皆の思いが惹かれていったのは自然なことかもしれません。



ただ、冷静に見てみると…
六義民の内、黒谷村儀右衛門、布沢村茂左衛門の2人は江戸で直訴途中で投獄されているので別として、御蔵入領内で資金調達をしていた4人の内、喜四郎以外の界村兵左衛門、新遠路村久次右衛門、滝沢村喜左衛門は江戸へ送られ、そして5人は江戸で打ち首となっています。しかし、喜四郎だけは江戸へ送られることなく南会津町田島の代官所で打ち首となっています。
なぜ喜四郎だけが?喜四郎は特別だったのか…

その理由は…、おそらく名主層と領民という格の違いだったのでは?
直訴が江戸の奉行所で審議されている間、領内の主要な名主は呼び出され聞き取り調査を受けていました。つまり、名主は奉行所の取り調べ対象であり必然的に刑罰を下す対象であったのでしょう。一方、領民はその対象ではなく代官所の管轄であり、従って刑罰を下すのも領民に対しては代官所が行う必要があったのではなかったか。。。

結果として、喜四郎は地元で打ち首となり、そのお蔭で英雄でありかつ涙を誘う対象として長く愛されることとなったのでしょう。



記念碑の近くには小さなお宮様。喜四郎の実家とされる家のすぐ近くでもあります。



その裏には小さな公園。。。すべて雪で埋まってます




ブラブラしていると地元のじい様登場!「何撮ってんだ?」「義民?この上の方さ墓があっけど、埋まってる。今頃来てはダメだべ~、ハハハハハッ(笑)」
義民と尋ねて直ぐに反応が返ってくるあたり、やはり地元では有名なのですね!
今頃来てはって…、ごもっとも!もう少し早く来ようと思ってたんですけどね~



昔ながらの木製の電柱、凍て付きます。。。









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





絵日記(1/16~1/22)

2011年01月23日 07時30分06秒 | 絵日記

【1月22日(土)】

毎日毎日、よく降り続きます。
あちこちに雪の山、でも登ってみるとまだ沈む
雪が降って締まってその上を歩けるようになるはずですから、まだまだ降り足りないということ?






【1月21日(金)】

あら綺麗、街灯、いつもこんなんだったっけ?
と見上げると、模様の主はツララ!ひとりご満悦です






【1月20日(木)】

新年のご挨拶に行き付けの飲み屋さんへ
お母ちゃん曰く、おととい店を開けたばかりだとのこと。
無理せず、細く長くね


帰り道、ほろ酔い気分でパシャ
気が付けば大寒のこの日、寒かった






【1月19日(水)】

ここ最近、夜フォトばかりだな~






【1月18日(火)】

キュッキュッとパウダースノーを踏みしめる音が響きます。
いい雪質です






【1月17日(月)】

視界不良






【1月16日(日)】

ワンコの散歩をしていると向こうから近づいてくる物体が…


あら!?このワンコは確かこの先の子?ひとりで散歩、というか脱走?


おいで~と声をかけると寄っては来るものの、手を差し伸べるとヒラリとかわし一人のお散歩続行!
後日、お家にはちゃんと戻ってました







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絵日記(1/10~1/15)