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南会津生活記

南会津での日々の〝ひとコマ〟をご紹介しています。
by s-k-y (presented by taito)

南山六義民の見た風景 茂左衛門編その2

2011年02月17日 05時50分28秒 | いにしえへの思い

日当たり良く、雪の消えた道路をおばあちゃんの三輪車が行きます。
この先、左手方向が新遠路集落滝沢集落へ繋がる松坂峠。現在の県道352号(布沢横田線)ですが、冬期は通行止め!あまりの雪の多さに道があることすら分かりません
まっすぐ行くと夕沢集落、その先が吉尾峠。現在の県道153号(小林会津宮下停車場線)ですが、奥のブナ林散策路入口をもってその先は道が無くなっています。かつては峠の向こうの昭和村から奥さんを迎えたという方もいて、歩いて吉尾峠を越えて行き来していたそうです。



御蔵入騒動で逸話をひとつ。
茂左衛門は江戸で打ち首となり、田島でさらし首となりましたが、茂左衛門の奥さんが赤ん坊を抱えて夫の首を取りに行きます。吉尾峠を越え舟ヶ鼻峠へ、夜中、舟ヶ鼻峠の山中に赤ん坊を隠し田島まで行って首を持ち帰り、無事に布沢に埋葬したとのこと。茂左衛門は幸せ者です



かつては普通に使われていた峠道、車社会の今となっては雪原の中埋もれ、忘れ去られた街道となりつつあります。



撮り歩いていると「あぶねぇぞ~」と声が!?
指差す方を見上げると。。。屋根の雪に亀裂。徐々に亀裂が開き、まもなく道路に落ちるだろうとのこと 下は道路、直撃を受ければ大惨事!
こういう危険な場所は殆どの家で屋根の雪下しをしているのですが、ここのお宅は空き家。



過疎にキケンが潜みます



こちらからはおばあちゃんの甲高い声が響きます。
「○○くん、無理しねでいいよー。△△さ頼むがらいいよー」、心配そうに見上げる姿。
それでも黙々と雪をかく男性。胸が熱くなります。
この男性、60歳前後でしょうか!?高齢者が高齢者を支える地方。ただ撮り歩いている自分が恥ずかしくなります



御蔵入騒動記録誌には孫右衛門実家とされる茅葺民家の写真が載っています。これを見せながら訪ね歩くと「昭和40年頃の水害で流されたぞ~」と 残念!
でも、場所はこの辺と教えられると、なるほど後ろの地形がそっくり!
ここが義民発祥の地…、当時に思いをはせながら周囲を見渡します
 


義民を輩出した布沢。その強い意志は現代に「ブナ原生林の保全」という形で受け継がれ、優れた自然保護活動に贈られる米国の「シーコロジー賞」を受賞するまでになっています。



布沢地区の国有林にはブナの原生林が広がっていますが、戦後まもなく線路の枕木の需要が高まると林野庁による伐採が始まり、多い年でブナ林40ヘクタールが姿を消していきました。「このままでは間違いなく災害が起きる」と1965年に有志が伐採阻止運動を開始。孫右衛門実家が流された69年8月の大洪水で9人が犠牲になると、ブナの治水機能が見直され住民一体となった署名活動に発展!40年近い地道な活動の結果、林野庁が03年に国有林を全面的に伐採禁止とし「郷土の森」に指定、06年には森林生態系保護地域に指定するなど、地域の活動が森林保全として結実しています。(ブナの写真はこちら→布沢のブナ林
また、廃校となった木造校舎を宿泊施設「森の分校ふざわ」に改築し、住民運営のもとで原生林の魅力を伝える活動もしています。


布沢のエネルギー、なぜかこの集落に立つと力をもらえるような…
これぞパワースポット、孫右衛門と茂左衛門の里なのでした







●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 茂左衛門編その1

2011年02月15日 06時03分38秒 | いにしえへの思い
江戸への直訴組(15人)の中では唯一の名主であったのが孫右衛門、その弟で打ち首となって義民と呼ばれるようになった茂左衛門、この二人のふる里が布沢集落です。

恒例の「義民、知ってますか?」の問いかけに、
「この上の寺さ墓あっけど、雪でダメだ~」「今日は寺の人は○○さいってっがらいねえぞ!」とすぐに返事が返ってきました ご親切にありがとうございました。



この上のお寺とは龍泉寺!ここに茂左衛門の墓があるらしい。。。



当然登ってみます すると雰囲気よろしいお寺が
豪雪に埋もれるようにありますが、でも、除雪がしっかりとされていて。。。
除雪機が見当たりませんので、地域の方々がここへ機械を運び除雪してるのでしょう。



この布沢集落。ここに来るたびに磁場といいますか、パワースポットといいますか、何か不思議な〝気〟を感じます 以前も今頃の時期に集落探訪してますが、やはり好印象→2010布沢集落探訪
いいお天気だったせいもありますが、心地よいエネルギーを感じます



御蔵入騒動から66年後の天明8年(1788年)の記録では「古町村から梁取村を経て布沢村までの沿道の畑には、からむし、大麻が多く、からむしを用いて布を織っていた」とあります(川口洋著「18・19世紀における会津・南山御蔵入領の人口変動とその地域的特徴」より)。山間の集落ということもあり、稲作の収量は決して多くなく、その他の農作物で生計を立てていたのでしょう。

江戸時代、一般的な地域では、租税は米穀生産量に対し五公五民といった租税が課せられていましたが、農民はそれ以外に繭、生糸、綿、小豆、粟、野菜などの商品作物もつくって収入を得ていたことから、それなりに生計は立てられていたようです。(参考資料→江戸時代の百姓は本当に貧しかったか?

しかし、孫右衛門・茂左衛門がいた当時の御蔵入領では、「代官側は小穀割という所得税のような税金を取る方法を考えだし、大麦・小麦・小豆・ひえ等の収穫高に応じても金を納めさせた」とあります。米から税金は取るし、それ以外の農作物からも税を取り立てられては、さすがに疲弊していったでしょう



村人の様子を見かねてか、布沢村の名主であった孫右衛門は直訴に旅立ちます。
しかし、幕府側は孫右衛門ら直訴組が『徒党を組んで騒動を起こし狼藉を働いた』というストーリーを描くため、御蔵入領民の事情聴取を始めます。これはマズイと、ここで弟の茂左衛門登場!
兄孫右衛門に代わって江戸で自分が頑張るのでふる里へ帰って母を安心させて欲しい!と…
実はこの行動、ここで初めて重罪を覚悟しての自衛策を取ったのでは。。。



当時、罪に問われれば財産が没収される危険性があり、他の直訴の例をみると、代表者には家督を息子の代に譲ってご隠居となった老人や、妻子と離縁し影響を最小限にしようという策を取ることが多かったようです。
つまり、孫右衛門は名主であり、直訴組の形勢不利と見るや名主家への影響を避けるため弟の茂左衛門が身代わりになったのでは?この結果、孫右衛門は茂左衛門の打ち首に免じて追放刑に留まり、「孫左衛門の実家」とされる家が現代に残るほど家督が継承されています。

テレビの時代劇に描かれるような農民の単純な直訴と思われがちですが、義民たちは彼らなりの自衛策を立てながら必死に対応していた、そんな姿が浮かび上がります








●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 喜左衛門編その2

2011年02月10日 06時20分56秒 | いにしえへの思い
滝沢村の名主であった喜左衛門。彼もまた、新遠路村の久次右衛門同様に物語中で紹介されるエピソードは無く、影の薄い存在でありながら最後には打ち首さらし首となっています。
物語上影が薄いのに打ち首とは割に合いませんね



物語の中で「直訴は規則で禁ぜられ、直訴をすれば願い出たことは取り上げられても生命はない。」とのくだりがあります。映画やテレビの時代劇などでも同じようなことを言っており、そのような印象が定着しているのでは?しかし実は、直訴そのものが処罰の対象になるわけではなく『徒党を組んで騒動を起こし狼藉を働いた』ことが処罰対象であり、正式な行政手続きを踏んだ直訴は処罰の対象ではありませんでした。ただ、死を覚悟した直訴が一般に数多く伝えられ、直訴=死罪という誤解が浸透していったと考えられています。

南山義民も正式な手続きを踏むため奉行所に申し出ています。無謀なことをやったと思われがちですが、物語をよ~く読んでみるとしっかりと段取りを踏んで直訴をしていたことが伺え興味深い!(これについて詳しくはまた次回)
しかし〝正式〟を〝不当〟へと導くあたり、幕府側の巧みさであり結局は直訴=死罪の事例のひとつともなってしまった・・・



参考にしているサイトの中に、新潟県佐渡島で起こった興味深い出来事が記載されています。
佐渡は当時、南山御蔵入領と同じ幕府直轄領、この百姓たちが「正徳年中(1711~16年)にこの窮状を幕府より派遣されてきた巡検使に訴え、その結果、当時勘定奉行の要職にあった荻原は罷免されてしまいました。」とあります。参考資料→(江戸時代の飢餓と百姓一揆を見直す

このような話が八十里越街道を行き来する越後国の商人を介して御蔵入領内にもたらされたのでは?
御蔵入騒動は1720年から勃発。そして、義民として讃えられる6人はいずれも御蔵入領内の西部地区出身、つまりは八十里越街道に近い人々。。。
単なる偶然か…



隣国の成功事例を聞いたからと言って誰でも行動に移すものではなく、それはそれで苦境に立たされているからこそ〝藁おもつかむ〟思いで直訴を決意したのでしょう。特に、喜左衛門は滝沢村の名主。村人たちの様子を見かねて代表して行動を起こした、か?



ボク「じいさま~、雪かき大変ですね~。義民のこと知ってますか~」
雪かき中の翁「神社はそこ上がっていったとこだ。雪に埋まるけんど腰までだがら大丈夫だ!」
この集落で唯一会話を交わせた翁。何度問いかけても、会話はすれ違いなのでした
それもまた良し



まだまだ昼間の時間帯。
降りしきる雪に街灯が灯ります









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 喜左衛門編その1

2011年02月08日 05時59分32秒 | いにしえへの思い
小栗山集落と新遠路集落から一転、開けた空間に広がる集落。
喜左衛門のふる里、滝沢集落です。

ここは沼田街道沿いであるとともに、越後の国々から会津藩へ向かう際の通り道ともなっており、人とモノの行き来がある程度あったいにしえからの幹線道路沿い!



その下地と地勢的ポテンシャルから、この旧街道は現在では新潟方面と会津若松方面とを結ぶ国道252号として拡張整備され、また、JR只見線が並行して走ります。さらに、只見川では水力発電のためのダム建設が行われ、川の様相は様変わり!
おかげで御蔵入騒動当時を忍ぶのは少々難しい



南山御蔵入騒動の記録誌によると、明治二十年から大正六年にかけて行われた室井平蔵氏の調査で「集落の東側、水田地帯の真ん中にある墓地に喜左衛門の墓があり」とされており、その傍らに案内板があるようです。その頃とお墓の位置は変わってなかった
お墓の手前、雪の中に一筋の段差のように見えるところをJR只見線が走り、奥の方には只見川が悠々と流れています。



近くには只見川の支流滝沢川があり、その上流2km程のところには女滝・男滝という名瀑とおう穴群があるとのこと!この雪ですから、とても滝までは辿り着けませんが。。。見たかったな~
山側からの伏流水が多いせいか、ここは道路に水を吹き出す消雪装置が設置されています。
ここまで豪雪の中では強い味方



この集落には裏路地が無く、家々の間口は全てこの国道からの出入り!
しかも、出入り口の位置が高い
洪水が来そうなところでもないのに、不思議な様相です。



少々時代は違いますが。。。。
御蔵入騒動の50年程後の1700年代後半の記録では、越後国の商人が八十里越街道を通って「鱒、塩引、にしん、いかなどを背負って会津地方を行商した」とされおり、その後、越後国の商人と御蔵入領民衆の両者が物資の輸送量の増加を計るため御蔵入領の代官所に八十里越街道の拡張工事を願い出ています。これによって1841年に整備拡張され、ようやく馬を使っての物資輸送が出来るようになったとされています。(川口洋著「18・19世紀における会津・南山御蔵入領の人口変動とその地域的特徴」より)
このことから、御蔵入領にあっても貨幣経済が浸透するとともに、越後の商人が輸送量増加を願うほどに御蔵入領の購買意欲が旺盛になったとされています。



裏を返すと、八十里越街道が拡張される前の御蔵入騒動当時は、荷役が背負って行き来する程度の物流量しか必要としなかったということで、経済力の乏しさが伺えます



それでもここ滝沢集落は、越後国から八十里越街道を抜けて会津藩へ向かう玄関口的位置にあり、ある程度の交易活動はあったのでは?また、今まで見てきた小栗山集落と新遠路集落よりも開けた土地が多く、山側からの伏流水で水も豊富。しかも、只見川が運んできた肥沃な土壌をもってすれば、ある程度の収穫高は確保できたことでしょうから、そこそこの経済基盤はあったのでは

見渡しながら思いを巡らします








●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

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南山六義民の見た風景 久次右衛門編その2

2011年02月03日 06時00分08秒 | いにしえへの思い
南山御蔵入騒動の物語の中で、久次右衛門が登場するエピソードはありません。新遠路村の名主であった彼は、江戸へ直訴に出向く役回りではなく、地元にあって直訴メンバーのための資金調達と地元の結束&引締め役を担っていたのでしょう。
物語の最後で江戸へ送られ、打ち首となった旨が記されているだけです。

物語の大筋は界村兵左衛門の書き残した名主記録によりますので、兵左衛門が書き記さないと存在として浮上して来ないのが惜しいところ。久次右衛門は影が薄い!



そもそも御蔵入領は18組に区分され、記録を残した界村兵左衛門は和泉田組、新遠路村久次右衛門は大塩組に属していました。志は同じでもそれ程は交流がなかったのかもしれません。





雪が激しく降る日だったせいもありますが、ここ新遠路に佇むと、小栗山集落で感じた閉塞感と心細さに包まれます



家族総出で、または集落内の人々が助け合いながら、ここでの生活を営んでいます。
住めば都と言いますが、でも、地域毎のハンディキャップは確実に存在する訳で、その状況に応じた支援は必要です。



御蔵入騒動から120年後の天保14年(1843年)の記録によると、「南山御蔵入領は田畑が少なく、領主は会津藩領から米を買って夫食米(困窮した農民への貸付米)としている。」とあります。しかし御蔵入騒動当時、直訴へ踏み切った人々にはそれが無かった。。。
何らかの支援が欲しいという切実な思いから、新遠路村を代表して名主である久次右衛門が動いた、または動かざるを得なかった、そういう状況だったのでしょう。



新遠路村久次右衛門は直訴計画を練った安照寺へ、また田島の代官所へ、そして江戸へ、この先の松坂峠を越えて行ったはずです。



この先、松坂峠。冬期通行止めとなる難所の山道です。
峠の向こうは布沢村、義民のひとり茂左衛門のふるさとです。
ここを越えて行こうという意志の強さ、つくづく感心させられるのでした









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

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