南会津生活記

南会津での日々の〝ひとコマ〟をご紹介しています。
by s-k-y (presented by taito)

南山六義民の見た風景 プロローグ

2011年01月21日 06時28分32秒 | いにしえへの思い
南会津には江戸時代から永く語り継がれてきた「南山御蔵入騒動」という歴史物語があります。

そのあらすじ
「1720年(享保5年)の初冬、南山御蔵入の農民が年貢の引下げなどを求め、当時ここを統治支配していた幕府の代官に直談判!埒が明かないと見るや翌1721年(享保6年1月)、百姓代表15名(後に18名追加)が江戸へ登り幕府勘定所へ訴状を差し出した。
初めのうちは南山領内271ケ村が結束した行動を示したのですが、幕府側は地元の切り崩し策を図り、結局は1722年(享保7年7月)、『農民を扇動して一揆を策謀した』として、指導者と目される名主3名、百姓3名を斬首のうえ、見せしめのため田島鎌倉崎にさらし首にした。
しかし、百姓が差し出した願いは的を得ており、幕府は直轄支配から会津藩への預け支配に切り替えつつ、百姓の要求に沿った改善を行い、打ち首となった農民らの努力は報われたのでした。」
これを「南山御蔵入騒動」といい、犠牲となった6名は南会津の人々によって「南山義民」と讃えられています。


とまぁ、このあらすじは相当に短縮していますので、興味のある方はこちらをどうぞ→〝旧南会津郡役所HP〟

お代官様への一揆そして弾圧、という時代劇に出てきそうなストーリーですが、善悪二元論のハリウッド映画的には捉えたくはないので、少々調べるとなるほど面白い


まずは人口
1603年に江戸幕府がスタートしてから人口は増え続け、1713年にピークに達したようです。それから徐々に減少し天保の大飢饉で有名な1840年代に底を打ちます。その後は明治にかけて増加・・・
さて、南山御蔵入騒動は1720年に勃発!人口面で言えば最も人口がピークの頃に起こったといえます。
生産量が上がらなければ、当然食料には事欠く訳で、騒動の遠因かな~と素人考えを巡らせます
(参考文献:川口洋著「18・19世紀における会津・南山御蔵入領の人口変動とその地域的特徴」)



では生産量は?
南会津地方は平地が少なく、耕作地には恵まれていません。
お隣の会津藩石高23万石に対し、南山御蔵入領は5万石程度。。。
しかも、この頃は気象学的に「小氷期」と言われる低温期であったらしく、有名な天保の大飢饉があった1800年代程ではないにしろ、低温障害の稲が多かったことでしょう。
人口は過去最大、しかし農作物は冷害で不作と来れば、生活はキビシイ限り
(参考文献:「江戸時代の気候」



次に財政危機・・・
歴史の教科書でも有名な「徳川吉宗の享保の改革」!
享保の改革の目玉施策がスタートしたのは1722年以降のようですが、それ以前から「倹約と増税」による財政再建が始まっていたでしょうし、中央政府が出先機関である代官に税徴収の厳格化を強いたのは容易に想像できること!南山御蔵入領の代官も中央政府の手前、厳しい態度で望んだのかな!?とも想像できます。
本社の指示を実直にこなそうとする出先支店長の悲哀を感じます



深読みしすぎかもしれませんが。。。
赤穂浪士の討ち入りは1702年。御蔵入騒動の18年前です。いくら情報伝達が遅い世とは言え、当時の大ニュースが人伝では伝わっていたでしょう。騒動当初に『下郷の石窟に47人が結集し行動を起こそうと決意した』という下りを読むと、伝聞した人たちが多分に赤穂浪士を意識して脚色したことが伺えます。
まっ、南山義民たちがこの物語の影響を受けたかどうかは分かりませんが、〝決死の行動〟であることでは共通しています。
何より、こういった行動を受ける側が「もしやあんな事になったら!」と危機意識を強め、断固とした措置に出る事も考えられます。しかも相手が〝浪士〟でもない〝農民〟とくれば「○○の分際で!」と厳しさも一層高まるもの



最後に。。。
当時、税の徴収役として郷頭という役人が置かれていました。
他の地域では廃止された役職が南山御蔵入領には残されており、悪い事に郷頭の中には私腹を肥やす者もいたことから、この中間管理職的郷頭と地元代表の名主との摩擦はあったようです。
勿論、悪い郷頭もいれば農民側に立った良い郷頭もいたようですが。。。
広大で山々に隔てられた南山御蔵入領内を統治するには何らかの管理システムが必要だったでしょから、郷頭制度が残っていたというのも必要に迫られてのことだったのでしょうが、その役職を担う人格が問題だったのでしょうね!
まっ、〝システムは良くても人の資質による〟というのは現代にも共通する事ですが



これらを眺めてみると、人口や気象といった大きな流れに税制や人の資質といった人災が組み合わさって起きた不幸な出来事、と見えて仕方ありません
そんなことに思い巡らしつつも、行動を起こした33人、その中でも打ち首さらし首となり義民と呼ばれるようになった6人、彼らはどんな景色を眺めながら「やらねば!」と思ったのか


さらし首となった瞳にこの風景が映ったかどうか…
でも、山々はその時と同じように彼方にそびえ、月が流れ行きます。

イタリアの歴史モノ著書で有名な塩野七生氏は、著書の中で「歴史と地理は表裏一体であるというのが私の信念」と言っています。ボクも同感です!彼ら義民がどういう風景の中で生活したのか、それぞれの集落に立って、彼らの目線でそこから見える風景を見てみたい


プロローグが少々長くなりましたが、「南山義民の見た風景」シリーズのスタートです。
構想2年、草稿2ヶ月、なかなか文面がまとまらなかった企画ですが、興味のある方はお楽しみ下さい





●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1、 その2

エピローグ






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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
すごーい!感動! (夢子)
2011-01-22 21:59:05
 そんな歴史があったなんて知りませんでした。
興味深いお話…
構想二年とか、これから楽しませて頂きます。
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Unknown (めい)
2011-01-23 00:20:49
いろんな歴史があるのですねー
skyさんならではの じっくり撮り歩いた
面白そうなシリーズが始まりましたね
写真とお話 楽しみです^^
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夢子さんへ (s-k-y)
2011-01-24 05:55:00
ありがとうございます。
意外と知られてないですよね!
会津にとって唯一の農民一揆、どこまで描き記せるかプレッシャーですが、お楽しみください。

 
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めいさんへ (s-k-y)
2011-01-24 05:56:51
ありがとうございます。
結局はただの集落探訪になりそうですが…
それはそれでダラダラと綴っていきますので、お付き合いいただければ嬉しい限りです。

 
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