南会津生活記

南会津での日々の〝ひとコマ〟をご紹介しています。
by s-k-y (presented by taito)

絵日記(2/19~2/26)

2011年02月27日 06時39分25秒 | 絵日記

【2月26日(土)】

日差しが春めいてきて、でもまだ風は冷たく。。。
そんな中、会津高原駅に降り立ったご夫婦、旅館はあっちだこっちだと言い争いしながら、歩む二人旅。
見送ります






【2月25日(金)】

ニュースでは全国から春の知らせ。
南会津でも暖かな日差しを感じられるようになってきました






【2月24日(木)】

久々に行き付けの料理屋さんでおかあちゃんの料理に舌鼓
通称晩酌セット、それを食べ尽くすと何かしら作ってくれます。注文要らずの店なのです






【2月23日(水)】

こうして見るとまだまだ雪が多いな~






【2月22日(火)】

雪がキラッキラ


シャリッシャリ フッと吹くと融けてしまう結晶たち。キレイでした






【2月21日(月)】

日常フォトでこのレンズを使うのは久々…?初めて?
これで撮ると、ブツッと音がするように日常が切り取られる不思議な感触。
今週はこれで行こう、とひとりご機嫌なにでした






【2月20日(日)】

久々に眺める風景。吾妻山から噴煙が上ります。
福島市のフォトを載せると山嵐さんの声が聞こえてきそうです。
「見慣れてる風景はつまんね~な~」と。。。






【2月19日(土)】

雪が無い! 当たり前か!!
久々に帰省しました。約4ヶ月ぶりに行き付けの床屋さんへ行き、さっぱり
行き付けの銀塩写真屋さんへもご挨拶に行き、しばし談笑。
福島市は春でした。







前の週はこちら
絵日記(2/13~2/18)



南山六義民の見た風景 儀右衛門編その2

2011年02月24日 05時57分37秒 | いにしえへの思い

直訴のため江戸へ向かった儀右衛門ら15人。
「どうしよう~」と迷いそうなものですが、計画的に行動に移していきます。

その前に。。。直訴はある程度作法化されていたようです。
Wikipedia「直訴」によると、「駕籠訴の場合、始めに行列の前方より訴状を捧げて訴人が行列に接近する。すると供侍がこれを制止。接近と静止を繰り返した後に初めて供侍は『再々にわたるので仕方なく』として訴状を受け取り、事情聴取のため身柄を拘束する。身許が確認され訴状の内容に虚偽など問題がなければ訴人は解放される。」などなど。また「事件がもみ消されるのを防ぐために複数の方面に対し直訴を行うという訴訟戦術もしばしば採用されていた。」ともあります。
つまり、もし直訴がご法度であれば申し出即処罰であったはずで、こういった流儀が存在していたということ自体、直訴がご法度ではなかったことを示しています。



では、御蔵入騒動での直訴はどうだったかというと。。。
儀右衛門らは勘定奉行所へ願い出るのを分かっていながら、まずは慈悲深いと評判の良かった寺社奉行所に直訴を持っていきます。寺社奉行所では「当方かかわりなし」としつつも直訴状の写しを取り、「管轄は勘定奉行である!」として親切にも「月当番は○○だ」と言って紹介状を書いています。この寺社奉行所への申し出が直訴を揉み消されないようにするための準備行為であたったのでしょう。

その後、勘定奉行所へ向かい、受付の侍と「恐れながら」「無礼な奴ら」のやり取りをした上で、「百計つきて江戸に出てきたのだな!」と受付の侍は〝仕方なく直訴状を受理する〟というポーズをとっています。このように〝仕方なく〟という風を装うのは、多分に侍が直訴を受け取るうえでの大義名分を作るための儀式であたのでしょう。侍はここで見得を切り、農民側は見得を切らせてあげる。阿吽の呼吸だったのでは。。。
このように、儀右衛門らはやみ雲に直訴をしたわけではなく、〝直訴の作法〟に酷似した行動を取っていたことが伺えます。また、奉行所側もその作法に乗っ取って対処していたように思われます。



月当番の勘定奉行から担当は勘定組頭が取り扱う案件となっていきます。ことを深刻に受け止め勘定奉行所の中でもより上の地位の者に担当が変わったのでしょう。ここで、奉行所側は直訴内容を分析し「十三ヶ条中、六ヶ条はお上の政治に関することなので条項を取り除くように」と伝え、現実的解決策を探っていた節があります。逮捕されるまでは六ヶ月もの期間がありましたから、もし、そこで直訴文を調整していたのなら、結果は変わっていたことでしょう。

しかし、儀右衛門らは初心を貫きます。
そのため、奉行所側は直訴組が「御蔵入領民全ての代表」ではなく「農民を扇動して一揆を策謀した」という筋道を立て、これに沿うような供述を得ようと御蔵入領内での事情聴取をすすめ、約一年かけて筋道を組み立てていきます。ストーリーを描いて捜査をするあたりは現代のどこぞの検察官とよく似ていますね
正式な手続きを踏んで願い出ていたのに…、一揆策謀者と仕立て上げられ、さぞかし無念であったことでしょう。ここで儀右衛門らの運命は潰えたのです。



儀右衛門は名主の次男。ある程度の財産はあったでしょうが、次男ということで名主家への影響を回避する上での人選だったのかもしれません。逮捕された時点で財産没収などの先々の運命は覚悟したでしょうが、ここで儀右衛門の息子の与市がクリーンヒットを放ちます
与市が田島の代官所に呼び出され父の所業を問いただされた時、与市は毅然と「親を裏切るような孝行心の無い行いは出来ませぬ!」と言い放ったといいます。これに感心した勘定奉行組頭は与市を黒谷村に返し、儀右衛門の家督を受け継ぐことを認めています。
奉行所側もいいところがあります



義民知ってますか~の問いに、「あっちの寺さ墓があっけど、雪で埋もれでっぞ~」と。。。ですよね~
教えられた方向にあるお寺へ向かいます。



儀右衛門は江戸へ向けて家を出る時、歌を詠んでいます。
「玉くしげふたたび帰る身ならねば 名ごりはつきぬふる里の山」
〝くしげ〟とは櫛や簡単な化粧道具を入れておく箱や蓋の意味で、枕詞として使われ「身」にかけることが多いようです。玉は櫛笥(くしげ)の美称。でも、自分のことを美称するとは思えませんので、これでは少々意味が通じないかな?

となるともう一つの言葉としては、本居宣長著で社会の弊害を古道の精神によって是正すべきことを説いた国学書「玉くしげ」があります。こちらを当てはめれば「社会の弊害を是正しようとしているが再び帰ることは出来ないだろう、ふる里が名残惜しいな~」となるのかな?これの方が意味が通じるのですが、これでは矛盾が生まれます。本居宣長が「玉くしげ」をまとめたのは1787年、御蔵入騒動の65年後、引用するには無理があります

後世の誰かの歌なのか、それとも書き換えられたのか?はたまた別の意味があるのか
たとえ後世の創作だとしても、心境を語るにふさわしい歌であり、またここからの景色がそれを感じさせてくれます。



それにしても、山間の集落に比べれば断じて環境のいい黒谷集落。
それでも儀右衛門は立ち上がった
それは〝自分さえ良ければいい〟といったものではなく、みんなが辛いのなら〝我々がそれを打開しよう〟という地域経済の牽引者としての使命感か、あるいは名主家として地域を守ろうとする責任感か、はたまた両方か。。。
とても魅力的な存在として、ボクの中に残ったのでした。








●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 儀右衛門編その1

2011年02月22日 06時25分55秒 | いにしえへの思い
喜四郎と意気投合し江戸への直訴を決意した儀右衛門。
彼のふる里、黒谷集落です。

黒谷集落は尾瀬を源とする清流伊南川と名峰会津朝日岳に端を発する白沢川との合流点に位置し、双方から供給される肥沃な土壌によって豊かな耕作地帯が広がります。川からはアユやイワナが獲れ、山からはクマやイノシシを獲っていたでしょうから動物性タンパク質にも恵まれていた、かな
さらに、伊南川と並行して走る沼田街道(現在の国道289号)で物流にも不自由なく、優れた地勢的スペックを有している地域であることを感じます。

黒沢村はやがて朝日村の中心地となり、昭和の大合併で只見町へと組み込まれていきますが、今でも朝日地区の中心地として行政機関や診療所などが置かれる地域の要的存在となっています。そのため、集落規模も大きく、御蔵入騒動当時の黒谷村を忍ぶには相当の想像力が必要です


ただ、御蔵入騒動記録誌によると、町中から少々離れたところにある集落が儀右衛門の実家のあった場所らしい なので、今回はその集落を中心に散策です!



この豪雪、厳寒の中、猫がお出迎え!と思ったら逃げちゃった



ここも御多分に漏れず、高齢&過疎化の波がやってきています。
と、先を歩く翁、上へ向かって何やら話をしています。



見上げると…、これまた翁、屋根の雪下ろし中
それだけ落とせば家には問題ないでしょうから、無理しない方が。。。
雪下ろし中の事故のニュースを聞いて雪の少ない地域の皆さんは理解し難いでしょうが、このような危険な状況が雪国では繰り広げられているのです。
その後諦め、無事に降りられました。よかった



儀右衛門はこういった地域で名主の次男として生まれ育ちます。そして、「読み書きが堪能であった」とされており、それ相当の教養を有していたことでしょう。また、小栗山村喜四郎ら小作農民との交流もあったことから人望もあり、所謂〝できる男〟だったのかもしれません。
出発前に直訴組が守るべき約束事を界村兵左衛門が文案を作り儀右衛門が清書しています。
 1.この度の直訴は御大法に背くことだから生きて再び帰ることは考えないこと。
 2.御蔵入全体の問題をとりあげ、自分の村の小さなことはとりあげないこと。
 3.経理は入用品を一組ごとの帳面に記載して、後で一括精算すること。
 4.血気にまかせて乱暴したものは、帰国させるから十分につつしむこと。
 5.長期に渡ることを覚悟して、その間の物見遊山や遊び事は一切しないこと。
 6.長期に渡る覚悟であるから、半途にして仮病を装ったり同志を誘って帰国することを厳に慎むこと。

このような約束事を考え守らせようとしたことから、これを創案した界村兵左衛門こそが直訴の中心的存在であり、儀右衛門はその意を受け江戸へ向かった直訴チームの真のリーダーだったのでは?
ただ、江戸の奉行所に出向くにあたって〝格〟は必要なので、名主である布沢村孫右衛門を直訴チームの精神的支柱としてかつぎ、実質的リーダー兼参謀として儀右衛門があたったのでは?



さてこの約束事、1番の「生きて再び帰ることは」を読むと決死の覚悟が伝わりますが、それ以外はどうも雰囲気が違う 3番の「後で一括精算」あたりを読むと、後の無い決死の行動のはずが〝後で精算〟とは。。。1番との間にギャップを感じます。
つまりは、1番は心構えを示しつつ、2,3番で村ごとの不公平感が出ないよう気配りをし、4,5,6番で仲間の引締めを図ったのでしょう。
裏を返せば、村ごとの思惑が多々有り、とりまとめに苦慮していたのかもしれません。何せ南山御蔵入領271村をまとめていたのですから。。。



また、15人も居れば中には引締めを図らなければならないメンバーがいたかもしれません。
血の気の多い者、遊び心いっぱいの者、弱気な者などなど。。。
それぞれの人間性を思い描き、創作したくもなります









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





絵日記(2/13~2/18)

2011年02月19日 06時27分37秒 | 絵日記

【2月18日(金)】

雨の一日、雪もだいぶ消え、歩く人の姿も多くなってきたような?

お気に入りの魚屋さん、中では・・・!? アンコウの吊るし切り
いいネタが入ったのかな?






【2月17日(木)】

湯野上温泉郷を一望できる高台へ、ここに上ったのは久しぶり






【2月16日(水)】

ぶらり外回り
ここまでお天気が良くなるとは。。。日焼けしそう


周囲は雪がテンコ盛り、でも、着実に春が近づいていますね






【2月15日(火)】

歩いているすぐ隣を除雪車が爆走していきます。
毎日ご苦労様です






【2月14日(月)】

徐々に気温が上がってきたところで、再び氷点下10度を下回る日々。
最低気温と最高気温との寒暖の差は20度以上、寒さが堪えます。






【2月13日(日)】

ひとり、雪山の頂上で雪遊び
ボタ雪が吹雪く中、南会津の子どもはたくましい!







前の週はこちら
絵日記(2/6~2/12)




南山六義民の見た風景 茂左衛門編その2

2011年02月17日 05時50分28秒 | いにしえへの思い

日当たり良く、雪の消えた道路をおばあちゃんの三輪車が行きます。
この先、左手方向が新遠路集落滝沢集落へ繋がる松坂峠。現在の県道352号(布沢横田線)ですが、冬期は通行止め!あまりの雪の多さに道があることすら分かりません
まっすぐ行くと夕沢集落、その先が吉尾峠。現在の県道153号(小林会津宮下停車場線)ですが、奥のブナ林散策路入口をもってその先は道が無くなっています。かつては峠の向こうの昭和村から奥さんを迎えたという方もいて、歩いて吉尾峠を越えて行き来していたそうです。



御蔵入騒動で逸話をひとつ。
茂左衛門は江戸で打ち首となり、田島でさらし首となりましたが、茂左衛門の奥さんが赤ん坊を抱えて夫の首を取りに行きます。吉尾峠を越え舟ヶ鼻峠へ、夜中、舟ヶ鼻峠の山中に赤ん坊を隠し田島まで行って首を持ち帰り、無事に布沢に埋葬したとのこと。茂左衛門は幸せ者です



かつては普通に使われていた峠道、車社会の今となっては雪原の中埋もれ、忘れ去られた街道となりつつあります。



撮り歩いていると「あぶねぇぞ~」と声が!?
指差す方を見上げると。。。屋根の雪に亀裂。徐々に亀裂が開き、まもなく道路に落ちるだろうとのこと 下は道路、直撃を受ければ大惨事!
こういう危険な場所は殆どの家で屋根の雪下しをしているのですが、ここのお宅は空き家。



過疎にキケンが潜みます



こちらからはおばあちゃんの甲高い声が響きます。
「○○くん、無理しねでいいよー。△△さ頼むがらいいよー」、心配そうに見上げる姿。
それでも黙々と雪をかく男性。胸が熱くなります。
この男性、60歳前後でしょうか!?高齢者が高齢者を支える地方。ただ撮り歩いている自分が恥ずかしくなります



御蔵入騒動記録誌には孫右衛門実家とされる茅葺民家の写真が載っています。これを見せながら訪ね歩くと「昭和40年頃の水害で流されたぞ~」と 残念!
でも、場所はこの辺と教えられると、なるほど後ろの地形がそっくり!
ここが義民発祥の地…、当時に思いをはせながら周囲を見渡します
 


義民を輩出した布沢。その強い意志は現代に「ブナ原生林の保全」という形で受け継がれ、優れた自然保護活動に贈られる米国の「シーコロジー賞」を受賞するまでになっています。



布沢地区の国有林にはブナの原生林が広がっていますが、戦後まもなく線路の枕木の需要が高まると林野庁による伐採が始まり、多い年でブナ林40ヘクタールが姿を消していきました。「このままでは間違いなく災害が起きる」と1965年に有志が伐採阻止運動を開始。孫右衛門実家が流された69年8月の大洪水で9人が犠牲になると、ブナの治水機能が見直され住民一体となった署名活動に発展!40年近い地道な活動の結果、林野庁が03年に国有林を全面的に伐採禁止とし「郷土の森」に指定、06年には森林生態系保護地域に指定するなど、地域の活動が森林保全として結実しています。(ブナの写真はこちら→布沢のブナ林
また、廃校となった木造校舎を宿泊施設「森の分校ふざわ」に改築し、住民運営のもとで原生林の魅力を伝える活動もしています。


布沢のエネルギー、なぜかこの集落に立つと力をもらえるような…
これぞパワースポット、孫右衛門と茂左衛門の里なのでした







●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ