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書物逍遥 『人情本』の変遷

2010年02月01日 00時05分18秒 | Weblog
江戸時代後期、人情本というサブカルチャー文化が花開いた時期があった。中心は南仙笑楚満人。知らないって。じゃあ、為永春水なら、御存知でしょう。南仙笑楚満人改め為永春水を中心とした作家集団が、婦女子を主たる読者層にして、商家の若旦那と彼を廻る恋物語を異母兄弟や恋敵などを絡ませて華麗な口絵や挿絵で読ませる、中本形式の読み物文化・人情本の世界が花開いたのだ。草双紙が毎丁挿絵が挿入されているのに対して、人情本は読本の形式を受け継いだ中本だけに、挿絵は少ない。1冊20数丁のボリュームで、挿絵はわずか2~3丁しかない。外はすべて文章である。挿絵が少ない分だけ、読み手には想像の世界が広がるのであろう、婦女子達はこぞって人情本に夢中になった。手元にあるゆまに書房刊行の『日本小説書目年表』によれば、1841(天保12)年の刊記のある人情本は15冊もある。

人情本というジャンルをこの世に確立させたのは、 十返舎一九であった。1819(文政2)年に双鶴堂鶴屋金助から上梓された『清談峯初花』が、その嚆矢である。『清談峯初花』の表紙、口絵、挿絵をご覧頂こう。



『清談峯初花』 十返舎一九 双鶴堂鶴屋金助 
1819(文政2)年 人形町通乗物町 



『清談峯初花』 序文・晋米斎玉粒


『清談峯初花』 挿絵


随分とあっさりしている。しかし、この『清談峯初花』の形式が受け継がれて、天保期の為永春水一派による人情本ブームへと繋がるのだ。無論、このことは最近の人情本の研究により判明した事で、十返舎一九は自身が人情本の元祖であったと知る由もなかったことであるが。また、『清談峯初花』は文化年間に誕生し写本で読み次がれた作者不詳の『江戸紫』を殆んど剽窃して成立した内容であると前田愛が指摘している。江戸時代には版権という概念が存在せず、内容を流用し自分の作品に仕立てることは、悪事ではなく一般的なことであった。現在の言葉でいうインスパイアされた作品が横行していたわけである。

『清談峯初花』のような挿絵の垢抜けない人情本は、作者・為永春水や絵師・歌川國直らによって華麗なデザインの華やいだ世界へと変質していく。天保期に為永春水の手によって創られた人情本『遊仙奇遇錦廼里』を見て頂こう。特に色摺りの口絵が、見事である。




『遊仙奇遇錦廼里』 為永春水 歌川國直



『錦廼里』 口絵 静斎英一


私は林美一の所蔵する人情本の美しさに魅かれ江戸の出版文化にのめりこんでいった。ところが、摺りと保存の良い人情本には、めったに出会うことが出来ない。古書で見かけないその理由とは何であろうか。それは、一つには人情本が当時流行の小説で、何人もの人によって読まれたため保存が悪くなったことと、もう一つには、1941(天保12)年に始まった老中・水野忠邦の「天保の改革」が考えられる。この改革により、人情本は全面的に禁止され、文政から天保時代に数多く上梓された人情本の多くが板木もろとも廃棄された。さらに、作者である為永春水も咎められて手鎖の上、入牢させられ亡くなってしまったことに要因があるのではないか。まことに、悲しい結末が人情本出版には秘められているのだ。であるから、私が蒐集を始めた30年以上も前から、林美一の所蔵するような摺り保存極美の人情本は、余り見かけない。それでも、収集を30年以上も続ければ何冊かは入手できるもの。今回のように口絵も美しい人情本もおいおい紹介していこうと思う。
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