『愛恋英詩抄』
1949年4月20日、『愛恋英詩抄』が新月社から発行されました。
帯の解説曰く
「英文学の粋と云われる英詩について、その当初五百年間の代表的詩宗、並びに有名な若干の米詩人の、「愛恋」を主題とした不滅の傑作を選び系譜的に分類排列を試みた、豪華清新な詞華集である。」
ということです。
重訳者は京都大学英文学科出身の左右田實。シェイクスピア、バイロンらに混じってフィッツジェラルドのルバイヤートの初版本、第72歌、第73歌の2篇が重訳されています。
『愛恋英詩抄』奥付
第72歌
ああ 春は薔薇(そうび)とともに過(す)ぎゆくかや
青春の香(か)におう書巻(まき) とじんとやする
枝々(えだえだ)の間(あい)にうたいし夜啼鶯(よなきうぐいす)
たれか知る いずらゆいずら またもとびしを
第73歌
恋人(よきひと)よ いましとおのれ 「運命(さだめ」)に謀(はか)り
けうとなきこの企画(からくり)の手にも入りせば
ふたりして跡形(あとかた)もなくうちくだき さて
わくなみの希望(のぞみ)にちかく更(か)しましものを
フィッツジェラルドの初版本の原文は以下の通りです。
LXXII
Alas, that Spring should vanish with the Rose!
That Youth's sweet-scented Manuscript should close!
The Nightingale that in the Branches sang,
Ah, whence, and whither flown again, who knows!
LXXIII
Ah Love! could thou and I with Fate conspire
To grasp this sorry Scheme of Things entire,
Would not we shatter it to bits-and then
Re-mould it nearer to the Heart's Desire!
このフィッツジェラルドの第73歌こそ、前回岩波文庫篇でしつこく言及したボドレー写本第157歌に他なりません。つまりボドレー写本第157歌は、フィッツジェラルド初版本の第73歌(第2版本では第108歌、第3版本、第4版本、第5版本では第99歌)で、岩波文庫版では第2歌であるということです。少しややこしいですが……。
ヘロン-アレンはオーマ・ハイヤームのペルシャ語の四行詩を原典に忠実に英訳しました。そのため、フィッツジェラルドの四行詩とはかなりの違いが見受けられます。フィッツジェラルドは創作的な意識を持ち、あえて原詩どおりには翻訳しなかったのです。試行錯誤してルバイヤートの英訳に取り組み、「通り一遍の単なる翻訳詩」から「韻を踏んだ納得のできる美しい詩」にバージョンアップさせる苦労をペルシャ語の先生であるカウエル教授に手紙でたびたび報告しております。
ルバイヤート初版本でフィッツジェラルドは「TRANSLATED INTO ENGLISH VERSE 」とタイトルに書き入れました。「英詩に翻訳した」という意味ですが、この「TRANSLATED」は「変換した」という意味を強く持ちます。ここには翻訳者の美的意識やより高みへ上るための詩的表現の追求は存在しません。AをBに置き換えるだけなのです。
フィッツジェラルドが苦労して創り上げたルバイヤートですが、フィッツジェラルド自身、当初は翻訳以上の行為を行ったという意識は少なく、単なる翻訳どいう意味の「TRANSLATED」でも問題は感じなかったのでしょう。
しかし、フィッツジェラルドのルバイヤートが世に受け入れられ第2版本を出すころには少し様子が変わります。「自分の詩は単なる翻訳詩ではない」と考え始めたのですね。そこで、第2版本以降では「TRANSLATED」では正確に自分の行為を表現していないと気づくんですね。「TRANSLATED」はやめにしました。タイトルを「TRANSLATED INTO ENGLISH VERSE 」から「RENDERED INTO ENGLISH VERSE」と変えたのです。いずれも日本語では「英詩に翻訳した」というまったく同じ意味ですが、「RENDERED」には翻訳以外に「演じる, 演出する、〈音楽を〉演奏する」といった創作的行為が内包された意味合いを持ちます。そのため第2版本のルバイヤートでフィッツジェラルドは自分の訳詩という行為は「TRANSLATED」という「置換行為」ではなく「RENDERED」という「創作的行為」であると宣言したのですね。ですから、ヘロン-アレンの直訳詩とフィッツジェラルドの創作が含まれた翻訳詩が、違って当然なのです。
オーマ・ハイヤームがペルシャで11世紀に創りあげた素晴しい四行詩は、19世紀のイギリスでフィッツジェラルドの降臨的な神の手によって仕上げが施されたのです。こうして、ルバイヤートは真の完成を見ました。それまでには、様々な人々がルバイヤートの翻訳を試みたり、紹介したりしておりますが、いずれも歴史の闇の中に閉じこめられていました。ですから、あえていえばフィッツジェラルドがいなければルバイヤーはいまだに民族詩の中に埋もれたままの知る人ぞ知るの詩に留まっていたのではないでしょうか。
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