教育勅語の話題も、すでに3回目になってしまいました。
更新が遅くて申し訳ありません。
さて、もう一度、教育勅語の要約文を見直してみましょう。
(以下引用)
私(天皇)は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、良心を孝行し、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を高め、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(引用以上)
明治天皇の、というよりも、1890年当時の日本政府が、国民に「こうであってほしい」という願いだということは、すぐにわかりますよね。
しかし、教育勅語と聞くと、もうスイッチが入ってしまうバカが沢山います。読んでいてムカムカする人もいらっしゃると思いますが、一応、彼らの言い分も聞いてみましょう。●この論文の筆者などが、典型的な「スイッチ入りまくり人間」です。
(以下引用)
「教育勅語」は「大日本帝国憲法」を道徳的・教育的に裏付けたもので、天皇制絶対主義教育の最高規範として、発布以来終戦まで、日本の教育の渕源及び大綱となった。そして絶対的権威を持つ聖典として、日本人形成の上で絶大な影響力を与えた。その内容の骨子は軍事的国防思想・国教思想・立憲思想という3つの基本的な柱によって構成されており、前段では、日本の国体が教育の原理であるとし、その具体的内容は家族国家間の倫理によって説明されている。中段には忠、孝など封建道徳の徳目と国憲国法の遵守という立憲的徳目とが混在しているままに臣民倫理が説かれており、下段では、教育勅語の正当性を説き、臣民の実践を絶対的に要請している。
「教育勅語」の煥発により、教科書には「家」や「祖先」などの家族主義的要素と「天皇」などの国家主義的要素が強調されるようになった。これは国民各自の生活の場である家族という集団に対する情緒的な愛着と、家父長制に対する伝統的な忠誠の2つの要素をすべて天皇へと集中させ、国民の「皇民」とし、天皇を頂点とする「家族国家」によって統一することを狙ったものであった。こうした教科書による国民の洗脳はその後もますますエスカレートしていった。
(中略)
実際、特攻隊員の手記などを読むと、「天皇」の為に「お国」の為に、命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めているものが多く、驚かされる。彼らにとって特攻隊員に指名されることは、教育で培われた「忠君愛国」の精神を十分に発揮する場であり、神である天皇のために戦える機会が与えられたことを意味する、栄誉ある使命だったのである。
(引用以上)
この卒業論文の筆者は、典型的な日教組に洗脳されている考え方をしています。なんでもかんでも敗戦に結びつけて戦前のものを非難することで、「自分は善人だ、良心的だ」と思いこもうとしているのが、ありありと見て取れます。
それに、典型的な「軍隊アレルギー」の持ち主だということもわかります。「命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めてい」ない軍人や自衛隊員がいたら、困るのは自分のような普通の国民だという当たり前のことも理解できていないようです。
いったいどういう大学教育を受けたのか知りませんが、卒業した後、人権とか平和とか教職員組合とかが名前に付いてる変な団体に入って人生を(あるいは、教え子を)狂わせないでほしいものですね。
特攻隊と言えば、玉砕もしなかったくせに特攻隊員であったことをウリにしている社会主義者の国会議員(●このお方のことです)がいますが、彼もその頃はもう分別の付く年齢になっていたのです。玉砕するくらいなら自由を求めて戦えばよかったはずです。それを、いまごろになって「あの頃は反対できる雰囲気ではなかった」などと言い訳をしているのです。日本のために死んでいった仲間に対して、恥ずかしくないのでしょうか?
こういう人たちは、日本が戦争で敗北を喫したショックと、それにも関わらず自分が何もできなかった無力感にさいなまれて、戦前の日本文化を非難することで免罪符にしようとしているだけです。
さて、教育勅語に対する批判の多くは、日本で戦後主流となった「個人の尊重」「自由」「平等」「権利」といった、美しい響きのする概念に立脚しています。
それが、今の価値観から歴史を裁こうとしている愚かな行為であることは再三述べてきましたが、私はそれだけでなく、自由、権利といった言葉に最高の価値を置くこと自体に大きな問題があると思います。
塾で生徒を残した後、心配している親御さんに、今から帰る旨生徒に電話で一報させることがよくあります。
そうすると、そのうち何人かが、残ってもいないのに塾の電話で家庭になにやら連絡を取るようになってしまいます。そういう生徒に注意すると、
「授業料を払っているから当然の権利だ」
というのです。子どもだけでなく、どうやら親もそういうことを家で吹聴していたようです。
日本人であれば、こういうときに「塾も大変だろうから」と少しは相手を思いやると思うのですが、戦後教育にどっぷり浸かっているこの子どもとその親には、そういう観念はこれっぽっちもないようです。
そうなると、相手を思いやっている方が一方的に損をすることになります。まるで、自分の国のドラマで日本人を悪の権化として描きながら、少しでも自国の批判をすると「謝罪しろ」「賠償しろ」とわめき始めるどこかの国の人たちと、その国にも気を遣ってしまう日本との関係のようになるわけです。
また、私は生徒の学力をつけるために宿題を普段より多めに出したとき「人権侵害だ」と言われたことがあります。もちろん、ふざけて言っているのでしょうが、子どもは「権利」とか「人権」という言葉を、自分にとって嫌なものはとにかく避けよう、排除しようという文脈で使っているわけです。そういえば、私も教師に何かを強制されると、「個人の自由はどうなるんですか」などと反発したことがあったように覚えています。
こういう経験からわかるのは、結局日本では
個人の尊重、自由、権利といった言葉が、何かを
サボるための理由として使われてしまう
ということです。
考えてみると、「俺の考えを尊重しろ」「俺の自由だ」「俺にもこういう権利があるからよこせ」というのは、ある意味消極的な概念で、そこから何かを生み出したり、人と人とがつながったり、そういうプラスの側面はでてきにくいわけです。
逆に、「勤勉」であるとか、「協調性がある」とか、「他人のためになることをしようとする(利他精神がある)」ことは、それによって社会全体の生産性が増し、安定した生活をみんなが送れるようになるのです。これこそ、まさに教育勅語の精神なのです。自由・平等・権利を第一にするよりも、勤勉や協調性、利他精神を基調にする方が、面倒ごとが少なくて済むのです。
日本が、敗戦の焼け野原があったにも関わらず、世界に類を見ないような豊かな国を作り上げたのは、教育勅語の精神を忠実に守っていたからに他ならないのです。
もっと具体的に言えば、高度成長が可能だったのは、教育勅語の精神が息づいていた戦前生まれの人たちの努力によるところが大きかったのです。
それとは逆に、高度成長期が終わりを告げ、1990年代になると、急に日本がおかしくなってきます。
冷戦終結によって、アメリカの対日戦略が変化したこと(例えば、CIAのドッチェ長官が、「冷戦後最大の敵は日本」と公聴会で発言している)や、日本の官僚主導の経済の仕組みが世界の常識に合わなくなってしまったこともあると思いますが、一番大きい原因は、戦後教育を受けた人間たちが社会の中で責任ある地位に就くようになってしまったことだと私は思います。
考えてもみてください。自由だ平等だ権利だと「洗脳」され、なんでも自分中心の考え方だった人たちが、権力を握ったらどうなるのか。「権利」があるからと、自分の「自由」に物事を押し進めようとするに決まっています。
日本の社会で、青少年の凶悪犯罪だとか、不倫だとかセクハラだとか援助交際だとか、恥ずべき現象が表に出てきた(それ以前の社会でも「全く存在しなかった」とはいえない)のはいつからでしょうか。全て、教育勅語で育った世代が第一線を退き、戦後教育しか知らない世代が台頭してきてからでしょう?勤勉や利他精神が失われると、ろくなことにならない証拠です。
もちろん、教育でも戦後教育の悪癖は見事に現れています。私が勝手に「自己実現教」と名付けている考え方がそれです。
以前●このブログでも述べたように、日本の(特に団塊の世代の)教師は、努力して自分の夢を叶えようという、自己実現の考え、言い換えれば利己的な発想ばかり植え付けてきました。それが、いわゆる戦後教育だったと言っても過言ではないでしょう。
しかし、「これがほしい」「こうなりたい」という利己的な願望は、結果的にはほとんどの人が挫折せざるをえないものです。なぜなら、自分の願望を実現できるだけの才能や環境や財産的基盤を持っている人は、世の中にはごく少数しかいないからです。それが、たまたま高度成長という時代のせいで、見えにくくなっていたというだけなのです。
それにも関わらず、教師たちはいつも「努力すれば○○になれる」という、功利的な側面しか教えられませんでした。無理もありません。教育勅語に刻まれている精神を捨ててしまえば、もう利己主義しか残らないのです。
そんな折り、日本は戦後初めて泥沼の不況に陥ってしまいました。将来にあまり希望を持てないようなニュースが次々と報じられます。そうなると、「頑張れば○○になれる」という主張は全く力がなくなってしまいます。利己主義は、世の中がうまく行っているときにしか機能しないのです。
「自由・平等・権利」という指導原理がすでに破綻しているのです。これでは、いくら人間的に魅力のある教師でも、生徒を指導するのは困難です。いわゆる「学級崩壊」は起こるべくして起こったと言えるでしょう。
私が言いたいのは、教育勅語に読み込まれた勤勉や利他の精神は、その表現に時代的な限界はあったものの、いつの時代にも通用する指導原理であるということです。
なにも、教育勅語を復活させろ、あれを毎日生徒児童に暗唱させろ、ということではありません。教育勅語が言っていたように、個人の自己実現以上に大切なものがこの世の中にはあるのです。そして、それを伝えることこそ、大人の義務なのではないか、と私は思います。
まあ、馬鹿げたコラム(●こちらの記事で取り上げています)をホームページに掲出して、生徒に手を出すことを正当化しようとしている日教組には何を言っても無駄でしょう。
しかし、私が言ったようなことを理解し始めている人たちもいます。
「愛国心」盛り込み、教育基本法改正へ (現代教育新聞社ウェブサイトより)
http://www.gks.co.jp/y_2001/gov/data/03032803.html
(以下引用)
教育基本法改正について検討していた中央教育審議会は20日、愛国心や公共心などを盛り込むよう求めた答申をまとめ、遠山敦子文部科学大臣に提出した。答申では、新たな理念として「社会に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自立心の涵養」「日本の伝統文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」など挙げ、教育の基本目標を「21正規を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」とした。文科省は、改正法案の策定作業に取りかかり、開会中の通常国会への法案提出を目指す。
(引用終わり)
このような試みが、日教組や社民党、共産党、民主党の元社会党一派の妨害に負けずに是非成功してほしいと思います。
更新が遅くて申し訳ありません。
さて、もう一度、教育勅語の要約文を見直してみましょう。
(以下引用)
私(天皇)は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、良心を孝行し、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を高め、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(引用以上)
明治天皇の、というよりも、1890年当時の日本政府が、国民に「こうであってほしい」という願いだということは、すぐにわかりますよね。
しかし、教育勅語と聞くと、もうスイッチが入ってしまうバカが沢山います。読んでいてムカムカする人もいらっしゃると思いますが、一応、彼らの言い分も聞いてみましょう。●この論文の筆者などが、典型的な「スイッチ入りまくり人間」です。
(以下引用)
「教育勅語」は「大日本帝国憲法」を道徳的・教育的に裏付けたもので、天皇制絶対主義教育の最高規範として、発布以来終戦まで、日本の教育の渕源及び大綱となった。そして絶対的権威を持つ聖典として、日本人形成の上で絶大な影響力を与えた。その内容の骨子は軍事的国防思想・国教思想・立憲思想という3つの基本的な柱によって構成されており、前段では、日本の国体が教育の原理であるとし、その具体的内容は家族国家間の倫理によって説明されている。中段には忠、孝など封建道徳の徳目と国憲国法の遵守という立憲的徳目とが混在しているままに臣民倫理が説かれており、下段では、教育勅語の正当性を説き、臣民の実践を絶対的に要請している。
「教育勅語」の煥発により、教科書には「家」や「祖先」などの家族主義的要素と「天皇」などの国家主義的要素が強調されるようになった。これは国民各自の生活の場である家族という集団に対する情緒的な愛着と、家父長制に対する伝統的な忠誠の2つの要素をすべて天皇へと集中させ、国民の「皇民」とし、天皇を頂点とする「家族国家」によって統一することを狙ったものであった。こうした教科書による国民の洗脳はその後もますますエスカレートしていった。
(中略)
実際、特攻隊員の手記などを読むと、「天皇」の為に「お国」の為に、命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めているものが多く、驚かされる。彼らにとって特攻隊員に指名されることは、教育で培われた「忠君愛国」の精神を十分に発揮する場であり、神である天皇のために戦える機会が与えられたことを意味する、栄誉ある使命だったのである。
(引用以上)
この卒業論文の筆者は、典型的な日教組に洗脳されている考え方をしています。なんでもかんでも敗戦に結びつけて戦前のものを非難することで、「自分は善人だ、良心的だ」と思いこもうとしているのが、ありありと見て取れます。
それに、典型的な「軍隊アレルギー」の持ち主だということもわかります。「命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めてい」ない軍人や自衛隊員がいたら、困るのは自分のような普通の国民だという当たり前のことも理解できていないようです。
いったいどういう大学教育を受けたのか知りませんが、卒業した後、人権とか平和とか教職員組合とかが名前に付いてる変な団体に入って人生を(あるいは、教え子を)狂わせないでほしいものですね。
特攻隊と言えば、玉砕もしなかったくせに特攻隊員であったことをウリにしている社会主義者の国会議員(●このお方のことです)がいますが、彼もその頃はもう分別の付く年齢になっていたのです。玉砕するくらいなら自由を求めて戦えばよかったはずです。それを、いまごろになって「あの頃は反対できる雰囲気ではなかった」などと言い訳をしているのです。日本のために死んでいった仲間に対して、恥ずかしくないのでしょうか?
こういう人たちは、日本が戦争で敗北を喫したショックと、それにも関わらず自分が何もできなかった無力感にさいなまれて、戦前の日本文化を非難することで免罪符にしようとしているだけです。
さて、教育勅語に対する批判の多くは、日本で戦後主流となった「個人の尊重」「自由」「平等」「権利」といった、美しい響きのする概念に立脚しています。
それが、今の価値観から歴史を裁こうとしている愚かな行為であることは再三述べてきましたが、私はそれだけでなく、自由、権利といった言葉に最高の価値を置くこと自体に大きな問題があると思います。
塾で生徒を残した後、心配している親御さんに、今から帰る旨生徒に電話で一報させることがよくあります。
そうすると、そのうち何人かが、残ってもいないのに塾の電話で家庭になにやら連絡を取るようになってしまいます。そういう生徒に注意すると、
「授業料を払っているから当然の権利だ」
というのです。子どもだけでなく、どうやら親もそういうことを家で吹聴していたようです。
日本人であれば、こういうときに「塾も大変だろうから」と少しは相手を思いやると思うのですが、戦後教育にどっぷり浸かっているこの子どもとその親には、そういう観念はこれっぽっちもないようです。
そうなると、相手を思いやっている方が一方的に損をすることになります。まるで、自分の国のドラマで日本人を悪の権化として描きながら、少しでも自国の批判をすると「謝罪しろ」「賠償しろ」とわめき始めるどこかの国の人たちと、その国にも気を遣ってしまう日本との関係のようになるわけです。
また、私は生徒の学力をつけるために宿題を普段より多めに出したとき「人権侵害だ」と言われたことがあります。もちろん、ふざけて言っているのでしょうが、子どもは「権利」とか「人権」という言葉を、自分にとって嫌なものはとにかく避けよう、排除しようという文脈で使っているわけです。そういえば、私も教師に何かを強制されると、「個人の自由はどうなるんですか」などと反発したことがあったように覚えています。
こういう経験からわかるのは、結局日本では
個人の尊重、自由、権利といった言葉が、何かを
サボるための理由として使われてしまう
ということです。
考えてみると、「俺の考えを尊重しろ」「俺の自由だ」「俺にもこういう権利があるからよこせ」というのは、ある意味消極的な概念で、そこから何かを生み出したり、人と人とがつながったり、そういうプラスの側面はでてきにくいわけです。
逆に、「勤勉」であるとか、「協調性がある」とか、「他人のためになることをしようとする(利他精神がある)」ことは、それによって社会全体の生産性が増し、安定した生活をみんなが送れるようになるのです。これこそ、まさに教育勅語の精神なのです。自由・平等・権利を第一にするよりも、勤勉や協調性、利他精神を基調にする方が、面倒ごとが少なくて済むのです。
日本が、敗戦の焼け野原があったにも関わらず、世界に類を見ないような豊かな国を作り上げたのは、教育勅語の精神を忠実に守っていたからに他ならないのです。
もっと具体的に言えば、高度成長が可能だったのは、教育勅語の精神が息づいていた戦前生まれの人たちの努力によるところが大きかったのです。
それとは逆に、高度成長期が終わりを告げ、1990年代になると、急に日本がおかしくなってきます。
冷戦終結によって、アメリカの対日戦略が変化したこと(例えば、CIAのドッチェ長官が、「冷戦後最大の敵は日本」と公聴会で発言している)や、日本の官僚主導の経済の仕組みが世界の常識に合わなくなってしまったこともあると思いますが、一番大きい原因は、戦後教育を受けた人間たちが社会の中で責任ある地位に就くようになってしまったことだと私は思います。
考えてもみてください。自由だ平等だ権利だと「洗脳」され、なんでも自分中心の考え方だった人たちが、権力を握ったらどうなるのか。「権利」があるからと、自分の「自由」に物事を押し進めようとするに決まっています。
日本の社会で、青少年の凶悪犯罪だとか、不倫だとかセクハラだとか援助交際だとか、恥ずべき現象が表に出てきた(それ以前の社会でも「全く存在しなかった」とはいえない)のはいつからでしょうか。全て、教育勅語で育った世代が第一線を退き、戦後教育しか知らない世代が台頭してきてからでしょう?勤勉や利他精神が失われると、ろくなことにならない証拠です。
もちろん、教育でも戦後教育の悪癖は見事に現れています。私が勝手に「自己実現教」と名付けている考え方がそれです。
以前●このブログでも述べたように、日本の(特に団塊の世代の)教師は、努力して自分の夢を叶えようという、自己実現の考え、言い換えれば利己的な発想ばかり植え付けてきました。それが、いわゆる戦後教育だったと言っても過言ではないでしょう。
しかし、「これがほしい」「こうなりたい」という利己的な願望は、結果的にはほとんどの人が挫折せざるをえないものです。なぜなら、自分の願望を実現できるだけの才能や環境や財産的基盤を持っている人は、世の中にはごく少数しかいないからです。それが、たまたま高度成長という時代のせいで、見えにくくなっていたというだけなのです。
それにも関わらず、教師たちはいつも「努力すれば○○になれる」という、功利的な側面しか教えられませんでした。無理もありません。教育勅語に刻まれている精神を捨ててしまえば、もう利己主義しか残らないのです。
そんな折り、日本は戦後初めて泥沼の不況に陥ってしまいました。将来にあまり希望を持てないようなニュースが次々と報じられます。そうなると、「頑張れば○○になれる」という主張は全く力がなくなってしまいます。利己主義は、世の中がうまく行っているときにしか機能しないのです。
「自由・平等・権利」という指導原理がすでに破綻しているのです。これでは、いくら人間的に魅力のある教師でも、生徒を指導するのは困難です。いわゆる「学級崩壊」は起こるべくして起こったと言えるでしょう。
私が言いたいのは、教育勅語に読み込まれた勤勉や利他の精神は、その表現に時代的な限界はあったものの、いつの時代にも通用する指導原理であるということです。
なにも、教育勅語を復活させろ、あれを毎日生徒児童に暗唱させろ、ということではありません。教育勅語が言っていたように、個人の自己実現以上に大切なものがこの世の中にはあるのです。そして、それを伝えることこそ、大人の義務なのではないか、と私は思います。
まあ、馬鹿げたコラム(●こちらの記事で取り上げています)をホームページに掲出して、生徒に手を出すことを正当化しようとしている日教組には何を言っても無駄でしょう。
しかし、私が言ったようなことを理解し始めている人たちもいます。
「愛国心」盛り込み、教育基本法改正へ (現代教育新聞社ウェブサイトより)
http://www.gks.co.jp/y_2001/gov/data/03032803.html
(以下引用)
教育基本法改正について検討していた中央教育審議会は20日、愛国心や公共心などを盛り込むよう求めた答申をまとめ、遠山敦子文部科学大臣に提出した。答申では、新たな理念として「社会に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自立心の涵養」「日本の伝統文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」など挙げ、教育の基本目標を「21正規を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」とした。文科省は、改正法案の策定作業に取りかかり、開会中の通常国会への法案提出を目指す。
(引用終わり)
このような試みが、日教組や社民党、共産党、民主党の元社会党一派の妨害に負けずに是非成功してほしいと思います。
今回、非常に多くのみなさんから
ご意見をいただき
本当に心強い気持ちになりました。
草の根運動で、ひろめていくしかないですよね。
>それ以上でもそれ以下ではないですね。
そうですね。近頃某人民共和国が「親日国」の多い東南アジアに攻勢をかけていることからも窺えます。
小泉首相は、政治勘が鋭いのか、近頃の首脳会議でかなり特定アジアに対する(先生攻撃的な)反撃を試みていますね。彼の内政に対する感覚ははっきり言って最悪だと思いますが、日本を守ろうという意識は少なからずあるようです。歴代の首相との違いを感じますね。
>現実離れした理想だけを理由に犠牲になった
>尊い先人を侮辱することは許されないことです。
私はこの「侮辱」の中に、共産主義の原点を見ます。すなわち、人間同士のつながりの否定、自分自身を生んだ文化伝統に対する敵意です。
そういうものに何の疑いもなくはまってしまったのが「団塊の世代」という連中です。以前別のところのコメントでも述べましたが、私は日教組を叩いている一方で、彼らの非責任・反日的思考とも戦っているような気がします(笑)。
「愛国心=軍国主義・戦争」と解釈する人は感情だけでし[た]歴史を理解できない人
↓
「愛国心=軍国主義・戦争」と解釈する人は感情だけでし[か]歴史を理解できない人
「愛国心=軍国主義・戦争」と解釈する人は感情だけでした歴史を理解できない人だと改めて思いますね。
時代背景を無視して、現代の価値観に置き換え唱える偽善者から学ぶものは「戦争=悪」だけです。最も避けなければならないことは確かですが、全否定することも愚かです。現に実社会でも世界的に武力による抑止力は機能しています。「非武装都市化」を言う人もいますが、自分の家庭内で存分に実践していただきたいとおもいます。
戦争はその時々の外交の延長線上であってそれ以上でもそれ以下ではないですね。理想は理想として言うことは問題ありませんが、その現実離れした理想だけを理由に犠牲になった尊い先人を侮辱することは許されないことです。
「血を流さない現代の戦争」経済戦争でもまったく同じです。これ以上恩知らずの偽善者が増えて欲しくないですね
>切り開くために努力した結果のひとつに
>過ぎないのです。
私も歴史の授業の度に、このようなことを伝えようとがんばっているのですが、なにしろ受験というハンデがあるので、そればっかり教えてもクビにならない日教組にはなかなか勝てません(笑)。
あのときの人々が本当に頑張っていたということを、どうしても子どもたちにわかってもらいたいです。そして、それは無駄な努力ではなく、貴い犠牲だったんだと。
事後法的に歴史を裁くのは、共産主義特有の、原理から逆算することしかできない病理だと思われます。私は、勅語の文言も、その時代にしてはよくがんばったと思うのですが・・・。
大東亜戦争の敗北もまた、その運命を切り開くために努力した結果のひとつに過ぎないのです。戦争は日本の罪ではなく、人類の悪行です。それを理解せずに、かつての戦争の是非を述べるのは愚かな行為です。ましてや、大日本帝国の全てを否定してはいけないと思います。
ただ、日本は過去から目を背けない強い心も持ち合わせていると信じています。
>自分がすべて責任を持って判断することになります。
ヨーロッパは昔から激烈な競争社会
→どんなに努力しても失敗することがある
→努力が足りない、自分のせい、というだけでは耐えられない
→神の運命なのだという諦め
というのは、私の勝手な理解ですが、takeyanさんと
相通ずるものがありますね。
日本人は意外と気楽にやってきたようですが、どうも
ひとつの柱がでんと存在する、というわけでは
ないようです。天皇制、仏教、神道、自然信仰、
様々な要素が絡み合っているとしか言えませんね。
あえて中心を作らない方がよい・・・ということも
考えられますね。ただ、森元首相がおっしゃった
「天皇中心の神の国」というのも完全に外れでは
ないと思います。
天皇には現世を統治する能力はほとんどなかった
のですから、今の世の中も江戸時代に戻っただけ
だといえます。
今になってあえて女系天皇の導入により天皇の権威を
潰そうとするような一部勢力がいるのは気になります。
利他精神を中心にすえるのは方向として私も全面的に同意しますが、何が中心におけるかというと、私には見つからないのです。
逆に言うと、それほどキリスト教やイスラム教などの一神教は人の心をコントロールしていますね。
宗教に頼るというのは弱い人間の特性のように考える日本人がわりと多いのですが、実際、手軽な判断基準としての宗教のない社会では、自分がすべて責任を持って判断することになります。
それはそれで、ものすごく重い負担のように思えるのです。
「利他精神の涵養」という意義を、戦後の教育が
否定しているところに怒っています。
自己実現を至高の価値として捉える戦後教育は、
右肩上がりがもはやありえなくなった現代ではもはや
リアリティを失っています。
だからこそ、利他精神の重要性を知るべきだと思う
のです。
いろんな国で戦前の日本人の姿勢を称える発言が
なされているのも、我々の祖先が、いろんな「からくり」に
囚われていたにも関わらず、利他精神を持って外国と
付き合っていたからだと思います。
我欲の追求という、アメリカと同じフォーマットで
国を運営していては、バブル崩壊のような変事が
ある度に、日本という国そのものにさえ絶望して
しまうでしょう。そうなると、いわゆるアノミー状態
になり、信じられないような暴挙に出てしまうのです。それを防ぐ意味でも、利他精神を国の文化の
中心に据えようと努力することは意味があると
思います。
さて、立憲制とキリスト教社会は密接に結びついています。そして、キリスト教国でない立憲主義国(さらには資本主義国も。なお、ここで資本主義国とは資本市場がある程度機能している国をさす)は世界史上まれです。なぜなら、キリスト教と立憲主義は思想として一体不可分なほど強固に結びついているからです(ちなみに資本主義も同根。そして、日本が法治国家として不完全なのもある意味同根)。
では、なぜ日本で立憲君主制に近い明治・大正時代が生まれたか、というと、これは天皇制をキリスト教の代わりに利用した伊藤博文たちの発明があります。
そして、神と人の契約のごとき君主と人民の契約という、法治国家の基礎的な「契約概念」が天皇陛下と臣民の契約という形で日本に導入されました。その背景あっての教育勅語なのです。
現在、その思想的柱だった天皇制が、ある意味連合国の不用意な対応により、半分骨抜きにされたままの状態になっています。
欧米では一神教の絶対神に誓って法を守る風土があり、倫理の柱には宗教があります。日本では明治時代以来あった「絶対神たる天皇陛下の家族」という考えが終戦で骨抜きにされた結果、思想的な寄る辺が消滅し、それ以来日本人は倫理的・思想的に漂流しています。
ということで、日本人にとって、必要なのは何らかの思想的な支えであり、その選択肢を模索しているのが現状であると考えた方が問題解決には近いと思います。
まず、天皇陛下の(お)立ち位置を戦前に戻さない限り、教育勅語を丸ごと復活させたとしても、戦前には戻りません。そういう意味で、左翼はあまりに無知です。
一方で、教育勅語ではなく、教育基本法でもない、日本人の精神的な寄る辺、柱を考える際に、前提として日本人にはキリスト教の代わりに何が必要かと考える必要があるのですが、ここが難しいです。
結論になりませんが、こういったことをつらつら考えつつ、いつも悩んでいます。
知人である研究者にはキリスト教に皆で入る、という冗談を言う人もいます。一理ありますが、これは無理ですね~。
なお、刺激的な思想なので、お読みになったら削除してくださいね。