日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

クレーマー vs 学校~真に必要とされる「教育環境の改善」

2007年06月19日 01時42分55秒 | 子供の教育
  一応教育だの勉強だの謳っているブログなので、こういうニュースも扱ってみます。

親の理不尽な要求、抗議に学校苦慮…読売調査
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20070618ur01.htm

--------以下引用--------

 子供の通う学校に理不尽な要求や抗議を行う親に、全国の公立小中学校や教育委員会が苦慮している実態が、読売新聞の調査で明らかになった。

  (中略)

 調査対象は、全国の道府県庁所在地と政令市、東京23区の計73市区の教育委員会。公立小中学校における親のクレームについて尋ねたところ、67教委から回答があり、40教委が身勝手な要求や問題行動に「苦慮している」と回答した。

 具体例の中では、「自宅で掃除をさせていないから、学校でもさせないでほしい」「(子供同士で小さなトラブルになった)相手の子を転校させるか、登校させないようにしてほしい」など、我が子かわいさから理不尽な要求に至るケースが目立った。

 また、勉強の進み具合が遅れている中学生に小学生の問題を解かせたところ、「子供が精神的に傷ついた」と抗議したり、子供が起こした自転車事故なのに、「学校の指導が悪い」と主張したりする例もあった。

 親が学校現場を飛び越して、教育委員会や文部科学省に、メールや電話で苦情を持ち込むことも多く、ある教委では、抗議の電話が6時間に及んだという。暴力団とのつながりをほのめかし、圧力をかけようとするケースもあった。

 親からの継続的なクレームに対応するため、教師が部活動の指導やテストの採点作業の時間を奪われたり、精神的なストレスを抱えたりすることも多く、「教育活動に支障を来している」との声が出ている。

 今回の調査に対し、「事例を公表することで当事者が再びクレームをつけてくる恐れがある」との理由から回答を避けた教委もある。

 一方、18教委では、クレームを想定した対策を実施。「管理職と教務主任を対象に研修を実施」(佐賀市)、「教委に親対応の専門職員を置いている」(奈良市)、「目に余る時は警察と連携する」(名古屋市)といった取り組みのほか、問題行動を起こす親を精神的にサポートする必要があるとして、「臨床心理士と協力して対応する」(東京都江東区)という教委もある。また、東京都港区では今月から、クレームに対し、学校が弁護士に相談できる制度をスタートさせた。

 教育再生会議も今月1日に公表した第2次報告の中で、精神科医や警察官OBなどが学校と保護者の意思疎通を手助けする「学校問題解決支援チーム(仮称)」を各教委に設置するよう提言している。

--------引用以上--------

>67教委から回答があり、40教委が身勝手な要求や
>問題行動に「苦慮している」と回答

  思ったより少ないんですね。全ての教育委員会が言うかと思いました。

  しかし、中身の濃い馬鹿ばかり、まあよく集めたもんですね。

>「自宅で掃除をさせていないから、学校でもさせないでほしい」

  こういう親は、二十歳になると自動的に子供が掃除をするようになるとでも思っているんでしょうか。放任主義などと嘯いて、子供に躾を施さないタイプにありがちな言動です。

>勉強の進み具合が遅れている中学生に
>小学生の問題を解かせたところ、
>「子供が精神的に傷ついた」と抗議したり

  やらせていること「それ自体」には何の問題もありません。むしろ感謝してほしいものですが、教員の側ももう一工夫必要でしたね。
  もしかしたら、何も言わずに問題を解かせて、それでも手が動かないので「おい、それ小学生の問題だぞ?」などと言ってしまったのかも知れません。そりゃ傷つきますよ。私が中学生だったら、怒鳴り散らしています。
  中学生でもいちおう意地や矜持を持っているのですから、「もう少し戻ってやってみようか」と前置きした上で、それをやることの必然性をきちんと相手に伝える努力はした方がいいです。そうしないと、せっかくの厚意が無駄になってしまいます。
  子供というのは、頭の良し悪しに関わらず、自分を見下している視線や発言にはかなり敏感です。そういう態度を隠せない教員というのは、自分に素直すぎるのでしょう。「俺は本当にこいつのことを思いやっているなぁ」と、自分で自分を騙すくらいセルフコントロールができないとダメです。
  それを積み重ねれば、相手も気持ちよく勉強に取り組めたり、学校に来るのが嫌でなくなるのですから、結局相手のためになります。そういう「マナー」は、言ってみれば他のビジネスと変わるところはありません。
  学校の先生は、そういう点で素直すぎる人が多いように感じます。あまり有り難くないことです。

>抗議の電話が6時間

  よくもまあそんなに喋ることがあるな・・・と思いますが、そこまで鬱積するまでに何かできることはなかったのかと思います。

  私の仕事(塾講師)が教員のそれよりベターだ、と言うことができるものが一つだけあります。それは、何か折に触れてこちらから家庭に電話を入れて、親御さんと話せる機会を持つようにしていることです。
  そういう電話の効用は、ひとつには「ガス抜き」です。みなさんも、友達にモヤモヤした心境をうち明けるだけで、問題は解決しなくてもスッキリした経験はありませんか。誰かに聞いてもらいたいという気持ちは、親御さんも同じなのです。
  また、こちらが何をしているのか具体的に伝える機会にもなります。親御さんは、意外と子供がどんな風に教わっているかご存じではありません。たとえば、一生懸命数学を教えてやったのに、親御さんはその事実を全く知らないというのはざらです。
  だから、私は電話をしたときに「こんなことをやっている」「こういうところが良くなった」と、きちんと伝えるようにしています。それも、何か具体的なアクションを起こしたら「すぐに」電話するように心がけています。そうすれば、多少なりとも感謝されるというわけです。
  そういう電話が生きるのは私の仕事が塾の仕事であり、親も子供もそういうつもりで来ているからだという反論をなさる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、公立学校はいろんな生徒がいて当たり前なのですから、いろんな家庭に対してもコミットしていける気構えがなくてはいけません。それが嫌なら、教員など志すべきではないでしょう。

  もしかしたら、学校教員は、塾とは違って電話をかけている時間などないという批判をする方もいるかもしれません。

  それは、なかなか良い線を行っています。記事の中にも、

>親からの継続的なクレームに対応するため、教師が
>部活動の指導やテストの採点作業の時間を奪われたり、

  という部分があるからです。

  いろいろ話を聞いてみても、私は学校の先生という仕事は忙しいと思います。もちろん、空き時間にボーっとしている先生もいるんでしょうが、やはり多くの教員が仕事に忙殺されています。特に、私が言及したような電話云々をするのに都合がいい夕方以降が大変なようです。

  すこし話がそれますが、そういう現状を放置して、「高い給料をもらっているのだから我慢しろ」と、愚にも付かない罵倒を浴びせているブログが多いのは残念です。昨今の社会保険庁職員に対する怨嗟の声といい、どうも我々は公務員にたいして謂われのない敵意を持ちすぎなのではないでしょうか。
  そういうのを扇動しているのはマスコミなのですが、日頃メディアリテラシーだのマスコミはマスゴミだのと吹聴しているような方々が、いとも簡単に、マスコミに乗せられて「言論リンチ」に走っているのはなんとも滑稽です。教員に対する風当たりの強さにも、そういう弱いもの虐め的な匂いがします。

  さて、それならどうすればいいでしょうか。

  簡単です。教員の持つ授業数を減らし、デスクワークや電話かけなどの家庭へのケアができる時間を作ればいいだけです。
  もちろん、それに伴って給料は少し減額させてもらいます。しかし、それによって、かえってほっとする教員が多いのではないかと思います。授業の教え手が足りない場合は、非常勤の職員を入れればいいのです。これには、教員免許保持者に能力を発揮する場を与えるという意味合いもあります。もちろん、働き次第では正規の教員として採用する機会を与えてもいいでしょう。
  また、一つのクラスの担任を二人にするというのも提案します。相方がいることで、生徒を違った視点から見ることができる上に、なんといっても悩みを共有できる教員のガス抜きになるという利点があります。
  この二つを導入するだけで、学校という空間が「くたびれきった大人の巣」でなく、生き生きした活動の場になるのは間違いありません。

  ひるがえって、キョーイクカイカクを至上命題に掲げていたはずの安倍内閣がやっていることは、

>教育再生会議も今月1日に公表した第2次報告の中で、
>精神科医や警察官OBなどが学校と保護者の意思疎通を
>手助けする「学校問題解決支援チーム(仮称)」を
>各教委に設置するよう提言している。

  安倍内閣のキョーイクカイカクって、いっつもいっつも「提言」ばっかりですね。みなさんも、さっさと実行に移せばいいのに、と思いませんか。
  教員の業務を整理し、授業数を減らし、家庭と意志疎通できる時間を増やすことでしか、教員に対する不信感は払拭しません。それなのに、安倍内閣の肝いりのナントカ会議は、まわりくどいことばかりしています。そればかりでなく、
  
>精神科医や警察官OB

  を学校に入れようとしているあたり、初めからクレームを入れてくる親を「異常者」「危険人物」扱いしていることが伝わってきます。
  この会議のものの考え方は、腰痛の患者に対して、ただ痛み止めを出すだけのお医者さんを彷彿とさせますね。腰痛は血行が悪かったり、筋力が低下したり、姿勢が悪かったりすることから起こるのに、痛み止めを処方しても根本的な治療にはなりません。それどころか、消炎鎮痛剤は血行を悪くするので、服用し続けるとかえって病状が悪化することもよくあります。
  学校に対するクレーマーが続出しているのは、学校教育、なかんずく教員の仕事内容やそれを取り巻く環境に歪みが生じているからであり、クレーム処理班が出てきたからといって解決するものではありません。そこをわからない人間たちに、教育再生ができるとは到底思えません。

  教員の破廉恥な行状に眉をひそめてばかりいないで、彼らが働く環境の改善にもっと目を向けるべきでしょうね。

「ふるさと納税」で露呈する、政治家の愚かな教育観

2007年06月10日 23時50分10秒 | 子供の教育
  私は猛烈に腹が立っています。以下のニュースのせいです。

<子供公費負担>誕生から高校卒業1600万円 総務省試算
http://www.excite.co.jp/News/politics/20070610030000/20070610M10.118.html

--------以下引用--------

  子供の誕生から高校卒業までに自治体が負担する額は平均1599万9000円にのぼることが9日、総務省の試算で明らかになった。内閣府が02年度に実施した「社会全体の子育て費用に関する調査研究」に基づいて試算。住民税の一部を出身自治体に納めることができる「ふるさと納税」の議論に活用していく方針だ。

 (1)保育や教育などのサービス提供(現物給付)(2)児童手当、育児休業給付など(現金給付)(3)扶養控除などによる減税分(支払い免除)――を算出して合算した。その結果、子供1人あたりの年間公費負担は、5歳までが62万6000円、6~11歳が100万2000円、12~14歳が103万8000円、15~17歳が103万9000円。これらを合計すると約1600万円となった。

 ふるさと納税を提唱する菅義偉総務相は「地方の首長から『将来をになう子供たちに高校卒業までに公費をかけるが、還元してもらおうと思うと子供たちは都会に出てしまう』との陳情を受ける」と語っている。総務省は生涯を通じた受益と負担のバランスという見地から新制度導入の必要性を裏付けるデータと位置づけたい考えだ。

--------引用以上--------

  どこに腹が立ったか、お分かりでしょうか?

  ここです。

>ふるさと納税を提唱する菅義偉総務相は
>「地方の首長から『将来をになう子供たちに
>高校卒業までに公費をかけるが、
>還元してもらおうと思うと子供たちは
>都会に出てしまう』との陳情を受ける」と語っている。

  この部分に、問題があるのか?と思われた方もいるでしょう。では、これを少しずらして、こんな風にしてみたらどうですかね。

>山田太郎文部科学大臣は
>「日本各地の親から、『将来を担う子供たちに
>社会人になるまでにいろいろお金をかけるが、
>還元してもらうと思うと子供たちは
>独立したりお嫁に行ったりしてしまう』との陳情を受ける」
>と語っている

  こんな風に、子供に対して投下資本の見返りを求める親がいたらどう思うでしょうか。なんか、変だと思いませんかね。

  どうも、最近の大人社会には、こういう風に何でも「投資とリターン」という観点で捉えるような風潮が蔓延しているように思います。

  私は塾で勤めていますが、時折「小4から通わせているんだから、いいところに受かってもらわないと困る」ということを、担当の私に面と向かっておっしゃる親御さんがいます。
  面白いもので、そういう家の子供に限って、学力が伸び悩んだり、子供自身が鬱屈とした精神状態で受験勉強に臨んでいる傾向があります。親御さんが「投資とリターン」という観点から子供を採点していることを、子供自身も感じ取っているのでしょう。子供は、頭では分からなくても、感覚で感じ取るものです。
  子供も別の人格なのですから、「なるようにしかならんさ」と腹を決めてもらう方が、かえって良い結果を生むように思うのですが、大人になるとプライド(のようなもの)が邪魔をして、そういう考えがなかなか払拭できないようです。
  そういう場合、私は、親御さんの意向を受けて本人を追い込むようなことはしません。紆余曲折を経て、親御さんが良い意味で開き直ってくれるのを待つようにします。人間は自動販売機ではないのですから、出した金の分だけ結果を要求するのは間違っているのです。
  幸い、今までは少数の例外的な親御さんを除いて、最後には子供に対する認識を改めてくれています。大抵は親御さんが期待した「配当」は返ってこないのですが、受験を終えて晴れ晴れした表情をしていると、私もほっとします。

  しかし、困ったことに、行政のトップにいる方々が、地域の若者を株や不動産のように捉えており、それを当然のことと思っているようです。

  どうやらこの試算は、「ふるさと納税」とかいう安倍政権の新たな政策の推進材料として行われたようです。
  ふるさと納税というのは、簡単に言えば、個人住民税の一部を自分が生まれ育った故郷の自治体などに納めることのできる仕組みです。
  格差の拡大を止められない(というか、止めようという気すらない)安倍政権としては、これを「地方と中央(東京)の格差是正」の一手段として、結構気合いを入れており、ピーアールにも余念がないようです。
  地方自治体としても、歳入がアップするのですから、そりゃあ反対するつもりはないでしょう。

  しかし、繰り返しますが、「かけたお金を返してほしい」という視点を教育に持ち込むことには反対です。

  そういう価値観に染まりきっている意見を一つ紹介しておきましょう。

http://members.jcom.home.ne.jp/dosyu/furusato-04.html

--------以下引用--------

落ちこぼれの中から、偉大なスポーツ選手に育ち、高額のふるさと納税する人物が誕生するかもしれないし、登校拒否の生徒が世界に通用する偉大なる作家になって外貨を稼ぎふるさと納税する可能性がある。そうすると、小中学校の教育者達は、学校の勉強という基準の他に流動的な「物差し 」を持って生徒に接する必要に迫られる。個々の児童、生徒の個性を尊重し、その才能を伸ばすのが真なる教育であるという本質的なビジョンに辿りつくであろう。

--------引用以上--------  

  なんだか、夢いっぱい(笑)ですね。しかし、成功した人間が必ず税を納める仕組みを作るならいざしらず、納税「できる」だけなのですから、こんなことを妄想されても困るわけです。
  それなら、納税義務を定めればいいではないかなどと思う方もいるでしょうが、そうなると今度は何度か転居をしている人間の徴税をどのように行うのかという問題が出てくるわけです。
  まあ、そんな仕組みを作るのは無理でしょう。やはり、上記の文章は妄想に過ぎません。

  だいいち、この引用した文章の腹が立つところは、結局納税額の多寡で教育の成果を判断しているという点です。
  教育、なかんずく「公教育」の目的は何かという点について、このブログは一貫した観点に立っています。それは、「社会に出たときに困らないための必要最低限の能力を身につけさせること」です。
  それならば、工業製品を作るのと変わらないのかというと、そうではないのです。教えるべき事柄がはっきり決まっていたとしても、子供は一人ひとり人格が異なるのですから、それを修得させるために様々なアプローチが必要になってくるのです。
  そして、そういうアプローチを試みるには、どうしても子供をよく見て考えなければならず、相互の信頼や人間的な交流が求められるのです。
  逆に言えば、叱るとか、誉めるとかいった所作は、何を教えるか、どういった人間になってもらいたいかという目的を達成するためのものです。そういうものがなく、こころの教育だの、個性の尊重だの、美しい題目を唱えていても何も生まれません。
  そうして出てくる「結果」というのは、子供の数だけあっていいのです。その子が社会に出て、他人とうまくやっていきながら、普通に生活できれば、それが「正解」なのです。
  それこそが、憲法にいう「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)ということなのではないでしょうか。もっとクサイ言葉でいえば、「愛」です。

  上のサイトの文章を書いた人間は、税金を稼いできて財政に貢献する人間を育てることが教育の目的だとでも言わんばかりの論調です。こういう人間は、どんなに頭がよかろうが、学歴が高かろうが、最低の人間と言わざるを得ません。どんな時でも大人の側から子供に「具体的利益をもたらす人間でなければ存在価値がない」というメッセージを発してはいけないのです。そんなのは教育ではありません。

  だいいち、地方の財政を好転させたいなら、地場産業を発展させて税収を上げたり、若者が離れていかずに済むような町作りをしたりすればいいのではありませんか。「出て行くならどうぞ、でもお金はちょうだい」という発想は、ものを買い与えさえすれば子供は喜ぶと思うバカ親と全く同じ発想です。
  昔の日本には、●上杉鷹山●山田方谷のように、地域のために何ができるかを考えて必死に取り組んだ「真の改革者」がたくさんいました。彼らの生涯を少しでも学べば、一番大切なのは、その土地やそこに生まれ育った人たちを愛することだというのがわかるはずです。

  翻って、「金を出してやったのに地元に納税しないとは何事だ」などと考えている地方の首長に、そういう真っ直ぐな気持ちがあるでしょうか。私には、独りよがりの被害者意識しか伝わってきません。
  若者が立派な大人になって巣立っていく、それだけでなぜ喜べないのでしょうか。かけた金が返ってこないのが嫌だというのなら、学校など全廃すればいいのです。

  安倍首相も、教育カイカクだの美しい国だの吹聴しているなら、こういう愛のない愚かな大人達を叱りつけてほしいものです。

言葉の暴力?

2007年02月14日 01時43分30秒 | 子供の教育
  最近の教育をおかしくしている原因は何か、よくわかるニュースを見つけたので、それについて少し論じてみたいと思います。

女子生徒に「勝手に死ね」発言の教諭停職
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20070206-152758.html

(以下引用)

福岡県教育委員会は6日、「文部科学大臣に手紙を書いて自殺する」と言った女子生徒に対し「勝手に死ね」と不適切な発言をしたとして、北九州市の県立高校に勤務する英語の男性教諭(49)を停職1カ月の懲戒処分にした。

 県教委によると、教諭は昨年11月8日に2年生のクラスで授業中、女子生徒の私語を注意したところ口論となり、「自殺する」と言った生徒に「勝手に死ね」と発言した。同月7日には文科省が伊吹文明文科相あてに自殺予告の手紙が送られたことを公表していた。(以下略)

(引用以上)

  最初に断っておきますが、この教師が、他の生徒に体罰を行っていたという問題はとりあえず置いておきます。

>「勝手に死ね」と発言した

  正直、これは言ってはいけませんね。相手の存在を否定する言葉を言った時点で、教育する側としてはアウトです。たとえば、「おまえなんて要らない」「何をやってもダメだな、おまえは」などというのがそうです。
  私も、さすがにこういった文句は口にしたことはありません。

  しかし、最大の問題点は、この発言自体ではないのです。

>女子生徒の私語を注意したところ口論となり

  この部分の方が、はるかに問題です。

  確かに、資質に欠けていたり、配慮の欠ける言動をする教員がいるのは事実でしょう。教える側が、それを改善する努力をすべきなのは間違いありません。
  しかし、それを理由に生徒側に抗弁を認めてしまったら、子供はますます図に乗り、本当に必要なことを教えようとしても「つまらない」「興味がない」という理由で、知識・理解の伝授を拒絶しようとするでしょう。そうなれば、本当に努力して子供のためになろうと考えている教師まで被害を被ることになります。

  よくこういう議論をすると、「そもそも子供を引きつける話術や人格のない人間は教員になる資格はない」という反論をしてくる人がいます。
  これは、もっともなように聞こえる指摘ですが、残念ながら公教育の性質を無視した暴論です。
  公教育は、その性質上、多数の教員を雇わざるをえません。その中には、それほど能力がないという人間も混じってくるでしょう。小学校の教員だけで30万人以上いるのです。全ての教員が人格者であり、子供を引きつける技術の持ち主でなければダメという方が、現実的ではありません。
  もちろん、社会に適応できるだけの知識や理解能力の育成をするために、授業技術の向上や知識の蓄積、人格の陶冶には勤めなければなりません。しかし、それを、これだけ沢山いる教員たちに要求するなら、そのような向上を図りたい(図らざるを得ない)ような仕組みという担保を設けることが絶対に必要です。
  たとえば、それが教員の免許制だったり、校長による勤務評定の充実であったりするわけです。
  あるいは、もう少し現実的に考えて、教員がカバーすべき範囲を狭くするべきです。指導要領を改定して、もっと基礎教育(読み書きそろばんや、物事を着実に実行したり、我慢して話を聞いたりできる能力の養成)に重点を置いたカリキュラムにすることなどがそうです。そうすれば、多少資質に欠ける人間や、もともと教員を志していなかった中途採用の社会人でも、きちんとした成果が出せます。
  どうせ教員の資質云々を非難するなら、ここまで考えてほしいものです。私から言わせれば、ここまで考えることすらせずに、正義の味方づらで日教組を叩いているような人間の方が言語道断です。

  それでも、「つまらない授業を拒絶する自由があっていいじゃないか」などとおっしゃる方に一言申し上げます。

  それで
  子供の理解者にでも
  なったつもり
  なんですか??


  授業を聞きたくないという子供の言い分を理解する人間など、私に言わせれば大人失格です。

  私は子供を実際に教えていて常々思うのですが、絶対に子供の世界に下ろしてはいけない本音というものがあるのです。
  たとえば、「嘘を付くのはしかたがないときもある」という言葉です。大人の世界では暗黙の了解が成立しているのでしょうが、子供がこれを聞いたらおしまいです。子供には、「しかたがない」というのがどのような場合なのかわからないからです。あげく、都合のいい解釈をして、「不誠実でも結果がよければいい」という風にねじ曲げられてしまいます。
  「つまらないことは聞く必要がない」という理屈も同じなのです。
  いかに「聞く必要がない」とはいえ、まともな大人であれば、曲がりなりにも相手の言い分を聞き、その上で判断するという作業を行っているはずです。その上で、価値の有無を判断しているのです。それなら、問題はありません。もちろん、立場や状況を考えて、聞くふりくらいはしておいてもいいでしょう。
  しかし、子供に初めからその理屈を教えると、少しでも子供自身にとって不都合がある事項は、「つまらない」とみなされ、初めから遮断されてしまうのです。
  だから、どんなに妥当な本音であっても、「つまらないことは聞く必要がない」という理屈を子供に教えてはいけないのです。

  どうも、今の世の中で見られる子供の乱れというのは、大人自身が野放図に「本音語り」をしてしまっていることも大きな原因ではないかと思います。
  そういう姿勢をただすためにも教育委員会にはがんばってほしかったです。せめて、「ことの発端となったのは、生徒の話を聞こうとしない態度であり、当該教員がカッとなったことも理解できなくはない」と言うべきでした。その上での停職処分なら、周囲にいる真面目な教師もどんなに救われたことでしょう。
  残念ながら、教育委員会がそのようなメッセージを発した形跡はありません。ただ、不穏な言葉が出たので処分した、というだけです。

  私語を注意した人間だけが(本人の落ち度はあったにせよ)不利益をこうむったというわけです。

  そういうところに来て、果たして、

>文部科学大臣に手紙を書いて自殺する」と言った


  ような子供が、真摯に反省するのでしょうか。

  そうだとしたら、これこそ、教育上よろしくないと思うのですが・・・。

卒業生に贈った言葉

2006年03月04日 23時15分27秒 | 子供の教育
  以前、受験クラスの小学6年生に向けて、最後の授業で話した内容を、抄録としてまとめてみました。
  なぜ勉強するのか?という疑問に、少しでも良い答えを返したいと思う親御さんや、これから社会に出ていく若い皆さんに読んでいただければ幸いです。


  今からする話は、「これからの社会ではどんな人間が必要とされるのか」という問題についての、私なりの考えである。

  ある中華料理店について考えてみたい。仮に「来来軒」としておく。来来軒は、私鉄のターミナル駅から30分ほどのK駅から、さらに20分ほど歩いた住宅街にある。オープンしたのは1979年だ。味は可もなく不可もない。営業時間は、午前11時から午後9時までで、これは開業以来変わっていない。
  最近、その来来軒が、営業不振で苦しんでいる。主人はいつものように生真面目に食事を提供し、忙しいときも最善のサービスを提供してきたつもりである。それなのに、昼食時以外の客足がどうも寂しくなる一方である。
  今までこの方法で十分家族を養って行けたのに、今や潰れる寸前である。なぜだろう。主人には原因がわからない。

  実は、主人が目を向けずにいた外の世界では、大きな変化が起こっていた。

  ひとつは、「情報化」である。

  ラーメンを食べたいと思った人たちの行動パターンが、ここ十年くらいすっかり変わってきていた。以前であれば、家でインスタントや生のラーメンを作るのが面倒なら、近くの定食屋や中華料理店を訪れるのが普通だった。
  しかし、今はそうではない。うまいラーメンを食べたいと思ったら、まずラーメン好きは何をするかというと、雑誌のラーメン特集の記事を見たり、評判の店ばかり集めた本を読んで、これはと思った店を訪ねるのである。中には、人気があって、昼時でなくても行列している店がある。味や麺の太さなど、様々な情報が出ている本や、インターネットの専門掲示板などが、食べたいラーメンを選ぶ為の情報を、一昔前とは比べ者にならないくらい膨大なものにした。
  そして、そういう「おいしいラーメン」の店の中に、来来軒の姿はない。

  この情報化と同時に進んでいったのが、「ボーダーレス化」である。

  「ボーダー」というのは、境界という意味である。「レス」というのはケアレスミスの「レス」で、「無い」とか「欠けている」という意味である。つまり、ボーダーレスとは、「物事の境界線がどんどん取り払われる」ことである。
  ボーダーレス化は、情報化によって促進される場合がある。都内や郊外にうまいラーメン店があっても、その存在を知らなければ誰も食べにいかない。ところが、マスコミが取り上げたり、インターネット上の口コミに乗ったりという形で、その存在が知られると、来来軒のような店から客がそちらへ流れていくことになる。
  また、社会の変化がボーダーレス化を進めることもある。最近は自動車が普及したので、多少遠くの店でも足を運べるようになった。歩いていけるところに競争相手がいるとは限らなくなったのである。
  国際的な話で言えば、日本の製造業も、人件費の安い中国企業を相手に安く性能のいいものを作らなくては競争に勝てなくなっている。これも、中国への外国企業の進出が盛んになったことによるボーダーレス化である。
  さらに、情報化だけでなく、競争原理がボーダーレス化を進めることもある。来来軒の敵は、同じラーメンや中華料理の店だけではない。宅配ピザ、24時間営業の総菜屋、冷凍弁当を出すコンビニ、全てが胃袋を巡るライバルである。

  情報化、ボーダーレス化が進むことの意味は、「いつ、どこから競争相手が現れるか分からない」ということである。これは想像以上に大変なことである。なにしろ、今までと同じ努力をしていると、だんだん落ち目になっていってしまうのだ。現代の競争社会は、下りのエスカレーターを登るのとよく似ている。
  確かに、そんなのは間違っているということはできるだろう。しかし、そうはいっても社会全体が情報化、ボーダーレス化しているのは事実である。それに完全に背を向けることは、社会から逃げ出すことを意味している。

  では、来来軒がどうすれば生き残れると思うだろうか?

  私は、あえてそれをここで教えたりしない。自分で考えてみればいいと思う。それが、私のあなたたちへの最後の宿題だ。もっとも、ただ突き放すのはかわいそうなので、出題の意図ぐらいは教えてもいいだろう。それは、「社会の変化に合わせて、いかに自分自身を変化させていくか」ということだ。それは、成長ということもあれば、改革という場合もあるだろう。

  ここで大切なことがある。あなたたちの多くが、「来来軒には個性というものがない」と思ったことだろう。しかし、来来軒が生き残るためには、ただ個性だけを追求すればいいというものではないということを言っておきたい。
  
  社会に求められる人というのは、「個性的な人物」ではない。

  社会に求められ、必要とされる人とは、「自分の個性を社会や他人が望む形で表現できる人物」である。

  戦後の日本は、憲法にあるように、個人を尊重するという考えで運営されてきた。しかし、本当はそうではなかったと私は思う。「人のため」「社会のため」と思って、嫌なことを投げ出さすに我慢してきた人たちが、戦後の経済発展を築いたのである。
  あなたたちが生きていく中で、自分の思うように物事が進むことはほとんどないだろう。勉強したらしただけ成績が上がったわけではないように、思い通りにならないことは世の中では沢山ある。まして、今はボーダーレス化の時代だ。並大抵の努力では、他人を上回ることは出来ない。
  そんなとき、自分のためにだけ努力すればいいと教えられてきた人間は、「自分さえ諦めればいいんだ」と思って、努力を放棄してしまうだろう。引きこもりやニートというものは、そうやって生まれたのだと私は思う。彼らに、自分のために頑張れというのは間違っている。
  厳しい世の中だからこそ、他人の役に立つという価値が大切になってくる。他人の役に立つというのは、金のように減ることはない。増えていく一方である。確かに目に見えて自分を豊かにしてくれることは少ないだろうが、人を騙したり、蹴落としたりする必要もないので、気持ちよく生きられるはずである。

  ただ、人の役に立つというのは、ひとりよがりでは絶対にいけない。そうならないように、必要なものを教えておこう。これは、同時に、ボーダーレス化した社会で生きていくために必要な力でもある。

  一つ目は、「自分の考えを誤解無く相手に伝えられる能力」である。
  誤解されていいことは何もない。だから、相手にとってわかりやすい言葉を選んで、誤解される可能性を可能な限り低くしよう。せっかくいいことをしても、相手に伝わらないなら仕方がない。

  二つ目は、「知らない人と話せる能力」である。
  知っている人とだけ話せればいい、というのは、高度成長期の大企業や役所の中だけの話である。どこから競争相手が出てくるか分からない時代は、自分が馴染みのない場所を訪ねなくてはならないことが多くなる。人見知りで、得をすることはない。これからの学校生活でも、なるべく知らない人と無難な話ができるようにしておこう。引きこもりは、知らない人間に挨拶程度のこともできない人間が多い。これでは、社会に出ても孤立してしまう。
  
  三つ目は、「苦しいときに我慢できる精神力」である。
  少し失敗して投げ出している人間は、何もつかむことはできない。苦しくなったら場所を変えればいいだろうと思っている人間は、いつまで経っても居場所を見つけられない。嫌だなと感じた時が、我慢のタイミングである。そこを過ぎれば、出口は見える。
  自分が勉強やスポーツの練習など、努力を強いられているときは、これはいつか自分がだれかを喜ばせるための準備だと思いなさい。そう思えば、決して無駄にはならない。

  仕事も、好きな仕事を選ぶのではなく、選んだ仕事を好きになるようにすればいい。世の中の95%の人は、望み通りの仕事に就けないと私は思う。だとすれば、それからどうするかが大切である。
  私も、決して本当に望んで始めた訳ではない塾講師と言う仕事が、今ではとても好きになった。こうして、自分の話を聞いてくれる人間がいて、その中からたった一人でもいい、この日本という国や、自分の周りにいる人たちのために役に立ちたい、自分を捨てたいと思う人間が出てくれれば、安い給料でも我慢できる。合格というのは、あなたたち自身へのごほうびというだけではなく、私へのごほうびでもある。
  試験場で諦めそうになったら、私でなくてもいい、支えてくれたいろいろな人たちの顔を思い出すといい。それでももう諦めるというなら、もう私は止めない。私はそんな人間が開成中学や筑波代付属駒場中学に受かっても、少しも誉めてやるつもりはない。そういうやつは、きっとどこかで自分の為だけに生きる人生につまづくだろう。
  最後まで諦めなかったとしたら、たとえどんな結果が出ても私は認めてあげるつもりでいる。それでも、ここまで遊びたいのも我慢してきたあなたたちが、結果を出せないはずはない。不安なのはみんな同じだ。逃げるのではなく、乗り越えよう。
  今まで本当にありがとう。



【行っては】素晴らしい修学旅行を企画する学校【いけない】

2005年11月27日 00時06分34秒 | 子供の教育
  すみません、神本議員の話は一旦中断します。

  ★厳選!韓国情報★という面白いブログがあります。その記事が、教育にも大いに関連したものなので、ここで紹介します。

★<丶`∀´> 韓国へ謝罪修学旅行に出かける良心的な学校の数々を紹介するニダ!
http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/42976413e28ccd4e19a2d9a588fd7f03

  進学情報としても有益ですね。日教組推奨の私立高校ばかり出ているといっても過言ではありません。
  是非ともご覧ください。

小泉首相を誹謗する人に言いたいこと

2005年11月20日 00時57分24秒 | 子供の教育
  明日早いので、今日は小さなネタです。

  毎日新聞が、以下のような記事を書いていました。
  教育と大いに関連あります。是非ご覧ください。

(以下引用)

<小泉首相>独自の「日中友好論」展開 APEC全体会議

 【釜山・伊藤智永】アジア太平洋経済協力会議(APEC)の21カ国・地域の首脳がそろった18日の全体会議で、小泉純一郎首相は議題と関係なく独自の「日中友好論」を展開した。中国に胡錦濤国家主席との会談を断られたが、胡主席も列席する国際会議の場で、一方的に自分の立場を主張してしまう政治パフォーマンスだった。


(引用以上)

  私個人の見解としては、小泉首相の経済政策は全く支持するつもりはありません。派遣労働者の規制を緩和する「雇用破壊」を行っており、経団連の要求丸のみだからです。(派遣労働者なら福利厚生が不要で、要らなくなるとすぐ首を切れるので、リストラがしやすい)
  しかし、首相には評価すべき点がたくさんあります。北朝鮮による日本人拉致という問題が日の目を浴びたのも、小泉政権だったからこそです。また、他国の慰霊や霊的信仰に対して、干渉してくるバカな国が日本の周りにたくさんいることを気づかせてくれたのも、首相が自分の意志を貫いて靖国神社にお参りしたからこそでしょう。

  それを、どうでしょう。この毎日新聞の態度!!

  朝日新聞という、もっとひどいメディアはありますが、毎日の記事も明らかに偏見が差し挟まれていますね。読んでいて腹が立ちます。

  何も、私は首相というものは批判してはいけない、などと言うつもりはありません。国の将来を思うのであれば、良くない点は多いに、批判すべきでしょう。

  しかし、どうもこの国のメディア(特に、朝日や毎日系列)は、権力の座にいる者に対して、国民の反感を煽るような報道をわざとしているのではないかと思えるような節があります。
  子どもを教えていて気になったのですが、首相のことを、子どもがやたらと「小泉」と呼びつけにすることが多いのです。
  子どもは、大人の鏡ですから、どこかで小泉首相を小馬鹿にしている大人がいるのでしょう。(だいたいは、平和とか人権が大好きな日教組の教師でしょうが)そして、それに「お墨付き」を与えているのが、大新聞の態度なのではないかと思います。

  権威に対する盲信は危険ですが、逆に権威を全く尊重しないこともまた危険です。それは、規範意識が低くなってしまうからです。
 「怖い人」「敵わない存在」がいる、と思うのは、大事なことです。そうでもなければ、人間は必ず「自分は何でもできる」と傲慢になってしまいます。
  これが子どもとなると、より症状は深刻になります。
  子どもは生まれただけでは「人間」ですらありません。放っておけば勝手に育つのは、本能を持った動物だけです。
  だからこそ、親を中心とした大人が、社会から見て妥当だと思える価値観を「注入」しなければならないのです。このことを欠くなら、もうそれは「教育」とは言えません。その過程において、「怖い人」「敵わない存在」があることが重要になります。ルールや社会規範の存在を、有無を言わさず分からせることができるからです。
  
  ところが、戦前に対する反動なのか、いわゆる「リベラル」だとか「左翼」だとかいう人々には、子どもに価値観を教え込もうという姿勢が全く見られません。日教組がよく主張する、「子どもも対等の人格」「何でも言い合える信頼関係」などという言葉がそれを象徴しています。  

  私が以前、●教育勅語を扱った記事で申し上げたとおり、戦前の教育は決して権威一辺倒ではなく、むしろ他の国に例を見ないような「利他精神」の浸透という大きな成果を挙げていたのです。
  ところが、敗戦後アメリカに占領されると、戦前の仕組みを誹謗すれば「善人」であり「インテリ」であるという妙な風潮が広まりました。戦後間もないころの選挙で、共産党が大きく議席を伸ばしているのも、「戦前に弾圧されていた人たちだから何かいい人たちに違いない」という贖罪意識が日本人にあったからでしょう。
  そういった国民の「リベラル化」「脱・戦前化」を後押ししていたのが、朝日や毎日のような左翼的メディアだったのです。

  その頃の日本であれば、まだ権威を否定する論調に少しは意味があったのでしょう。少なくとも害は大きくありませんでした。なぜなら、戦前生まれの人々が保守的な傾向を維持して、うまくバランスが取れていたからです。
  ところが、それがおかしくなりはじめるのが、教育勅語を全く知らず、戦後教育オンリーで育った団塊の世代と言われる人々が大きくなってきた頃からです。旧世代にはなかった、おかしな現象が次々出始めるのです。
  まず、1960年代から70年代にかけての「学生運動」です。戦後教育の、「反権威」「反権力」教育が、大学生を中心とした反社会的暴動という形で吹き荒れました。
  そして、団塊の世代が子育てを始めた80年代には「校内暴力」が始まります。「反権威」は、身近にいる教師や学校というものに矛先を向けたわけです。
  さらに、90年代になり、この世代が社会の中で重要な役割を占めるようになると、「地下鉄サリン事件」「援助交際」」「親父狩り」といったモラルの低下が見られるようになります。自分たちが権威を否定してきたために、道徳的倫理的なモデルを演じることが出来ず、社会を混乱に陥れていることがよくわかります。
  非常に強引な解釈かも知れませんが、要するに戦後教育しか知らない世代が増えるにつれて、世の中におかしな事件が起こるようになっているような気がするのです。

  団塊の世代と、戦前育ちの人々を比べてみると、どうも子どもにどう見られるかという大人としての自覚が欠けているような気がしてなりません。昔は、大人が「俺には俺の(親としてではない)人生がある」「どう生きようと俺の勝手だ」などという自分本位の発言はしなかったはずです。それが、団塊の世代以降はむしろ、それがよくある風景になってしまっています。ドラマなどで、良き父親・母親を演じるのに疲れた役柄が多い(子育てが「自己実現」を邪魔する悪になっているという描き方がされている)ことに、それが現れています。
  私は、こういった事柄を、「非責任」と言っています。そもそも責任のある立場に就こうとしていないのです。
  「いつまでも若くありたい」「いくつになっても女として見られたい」「自分の人生を楽しみたい」・・・気持ちは分かりますが、子どもを一人前の人間にするということをもう少し重視してほしいと思います。

  その第一歩として、子どもの前で権威を否定しないということをやってみてはいかがでしょう。
  先ほども言いましたが、子どもが規範意識を持たないのは、大人がそういうことを許容する言動をしているからです。その最たるものが、権威の否定なのです。「そういうつもりで言ってない」と言ってもダメです。子どもに「反権威」だと受け取られている時点でアウトです。
  例えば、私のような塾の先生が、子どもを「デブ」だの「チビ」だの「ブサイク」だの、容貌を誹謗するような発言をして、「お子さんの悪口を言うつもりはなかった」と言ったら、許せますか?それと同じなのです。

  批判をするにしても、きちんと評価すべき点を挙げて、「しかし、こういうところを改善してほしい」という風に、言い方を考えるべきです。だいいち、首相のことを呼び捨てにして、何か得をすることでもあるんですか?
  ある意味、中華意識を丸出しにして日本を誹謗中傷罵倒してくる国々に対し、「お前たちの言いなりにはならないぞ!」という態度で臨んでいるのが小泉首相だという見方もできるのです。
  朝日や毎日は、金正日や北朝鮮を非難すると、「大事なのは宥和の精神」「友好関係こそ第一だ」などとバカなことを言うくせに、小泉首相のことになると、なんでもかんでも「パフォーマンス」「劇場型政治」、さらには「女子どもをターゲットにしたずるいやり方」などと、100%決めつけをします。●こういう情けない野党を勝たせたいのはわかりますが、彼らの態度は「反権威」を助長し、国民に対して政治権力への反感を植え付ける結果になっています。
  それが政治的な無関心にもつながっていると言えるのではないでしょうか。「選挙に行きましょう」「政治は大切です」という前に、お前らが権威を侮辱するような態度をやめろ!!と言いたいです。
  日本人は政治に対して絶望しているというより、権力に対して要らぬ反感を抱きすぎて、政治に求める役割を見失っているだけなのでしょう。そして、その反感を生み出しているのが、上に挙げたような誹謗としか思えない記事を平気で掲げるメディアなのです。
  
  権威の持つ「重み」を尊重した上で、現実的な批判をできるよう、まずは我々大人からがんばっていきたいですね。

  ・・・あ、小さな記事にするつもりだったのに

伊豆の国の殺人~家族の終焉

2005年11月02日 23時38分15秒 | 子供の教育
  北海道新聞のウェブ版に、こんな記事が出ていました。

(以下引用)

「母に親しみ感じない」 逮捕の女子高生が供述  2005/11/02 22:10

 母親(47)に劇物のタリウムを摂取させたとして、殺人未遂容疑で逮捕された静岡県伊豆の国市の女子高生(16)が、県警の調べに「母親にはあまり」親しみを感じていなかったと供述していることが2日、分かった。

 県警は2人の間にトラブルがなかったかどうかなど動機の解明を急ぐとともに、女子高生が母親の容体の変化などをつづったブログ(日記風サイト)を基に、事実関係の裏付けなどを進めている。

 調べでは、女子高生は父親については「小遣いをくれるから好き」などと多くを話すが、母親のことに関しては口数が少なくなるという。

(引用以上)

  最も近しい大人である母親に対して何の親しみも湧かない。
    (こんなので本当に仲の良い友達などできるのか?)

  父親が好きなのは、小遣いをくれるから。
    (まるで少女買春!)

  そして、母親を殺害する家庭をブログで記録。
    (おぞましさはもとより、通報されると思わないのか!?)

  家族共同体の終焉。これこそが、日教組が誇らしげに語る戦後民主主義教育の「成果」なのです。
  
    たまたまこういう事件が起こっただけで、教育のせいにするな?

  たまたま・・・でしょうかね?大阪教育大学付属池田小学校の児童大量殺人だけではなく、17歳の少年による佐賀県の西鉄バスジャック殺人事件17歳の少年が愛知県で「人を殺してみたかった」と主婦をめった刺しにして殺した事件、枚挙に暇がないと言った方が適当です。

    学校教育の外側で起こった問題であり、教師に責任はない?

    子どもの心が荒んでいるのは、世の中が競争社会だから?   

  百歩譲ってそういう原因が介在していたとしても、教育の場でそうした「間化」をくい止めるために、日教組はどんな努力をしたのでしょうか?

  大人や権威に対する尊敬、恐れを身につけさせようとせず、
  生徒を対等の人格だと扱って注意も叱責もしない。


  この国を必死になって築き上げてきた先人たちの悪口を
  盛んに吹聴し、自国の歴史に誇りを持てなくさせる。


  挙げ句の果てに、何の成果も上げられない「平和・反戦」や
  「人権」ついての教育。


  分数のわり算もまともにできない理系の大学生を生む
  「ゆとり教育」という名の手抜き教育。


  子どもや社会にとって、何にもプラスになっていません。
  仮に、そうでないとしたら、日教組は自分たちの教育が、どんな風に世の中に還元されているかをきちんと説明すべきです。

  まあ、どだい無理な注文でしょう。日教組は政治運動以外何もしていないのですから。

  このような社会状況の悪化に対して、何も建設的な提案をしようとしない日教組は、明日にでも解散すべきです。

「夢」「がんばって」・・・いい加減にしろ!!(怒)

2005年10月30日 01時08分25秒 | 子供の教育
  いつも感じるのですが、どうしてこう教育の世界には「夢」や「努力」、「理想」「個性」といった、綺麗だけれど抽象的な言葉がたくさん飛び交っているのでしょう?日教組がバカの一つ覚えのように繰り返す「平和」や「反戦」や「人権」となると、唱えている人間自身が暴力行為で学力テストを妨害したり(「旭川学力テスト事件」などが有名)、人の親の職業に文句を付けたりしている(※注)ので、もはやブラックユーモアとしか思えません。

  ※自衛官の息子さんや娘さんに「あなたの父親は人殺しだ」という
   不届きな教師が結構いた(いる)らしいです。


  どうも、我が国は若者や子どものことを考えるとき、こういう言葉で具体的な対処をせずにお茶を濁していることが多いのではないでしょうか。

  10月26日のことですが、YAHOOのニュースでこんな記事を見つけました。厚生労働省職業安定局(サイトは●こちら)のやっているキャンペーンらしいです。

(以下引用)

<眞鍋かをり>ニート、引きこもりにエール

 「若者の人間力を高めるための国民運動」のイベントが26日、東京都千代田区の東京国際フォーラムであり、タレント・眞鍋かをりさんと五輪柔道三連覇の野村忠宏さんが若者にエールを送り、歌手の川嶋あいさんが応援ミニライブを開いた。
 ニートや引きこもりなど問題が増えている若者を支援しようと、経済界や労働界などでつくる「同国民会議」(議長、奥田碩・経団連会長)が主催。眞鍋さんは「若者サポーター」として、参加した約300人の若者らに「社会に出て大人として働くためには、能力よりも先に人間力が必要。若者のみなさんは、自信を持って、人間力を高めて、生き生きとした生活を送って」と呼びかけた。また、野村さんは「目標を持って自分を奮い立たせてください」と訴えた。
 その後、若者と識者らのトークセッションがあり、川嶋あいさんが熱唱し、「夢を一つは持って、火の中に飛び込む意気込みでがんばって」と激励した(毎日新聞)

(引用以上)

  うーむ、素直に賛同してしまいたくなりますが、ちょっと疑ってかからなくてはいけませんねぇ。突っ込み開始です。

>東京国際フォーラム

  ニートになるような「若者」がこんなところまで眞鍋かをりの話をわざわざ聞きにくるんでしょうか(笑)。警視庁の一日警察署長と同じで、ただタレントを呼んで予算を消化しているだけのような気がします。

  お次は、何とか国民会議のトップの方。

>議長、奥田碩・経団連会長

  ニートやフリーターを生んだ主犯格のご登場ですね(笑)。経団連のメンバーである大企業が正社員の雇用を減らして、いつでもクビを切れる派遣社員に大幅に雇用をシフトしたことと、中国に生産拠点を大幅に移転したことで、将来の職業の見通しが立たない若者が増えているのが、悲しいことに現状なのです。
  そういう現状をまさか奥田さん自身が「私が悪かった」と言うわけにもいかないのでしょうが、若者の成長=企業の労働力確保という意図が見え見えで、興ざめです。
  まあ、奥田さんとしてはトヨタの車が売れればいいのかな?
  
  さて、眞鍋かをりの発言に行きましょう。

>人間力が必要。

  ●このサイトに、中身らしきものがあります。

 >「人生を考える力」「コミュニケーション能力」を身につけさせ、
 >「働くことの理解」を深めさせるなど、社会に出る前の若者が
 >「生きる自信」と力をつけることができるようにします。
    (鍵括弧は、筆者による)

  上で「 」をつけたものは、確かに重要です。  
  しかし、それなら文部科学省と連携しないとだめだと思います。それに、上のトヨタの会長のところで言いましたが、大企業がリストラしやすいだけの今の産業構造にも手を着けた方がいいでしょう。
  まあ、確実に言えることは、「人生を考える力」や「コミュニケーション能力」や「働くことへの理解」を身につける教育にとって、暇さえあれば日本の悪口を言いながら変な授業(例えば、●こういう授業です)をやっている日教組の組合員以上の不適任者はいないということです。

>自信を持って、人間力を高めて、生き生きとした生活を送って 

 あの・・・それが出来ないから、みんな苦しんでるんじゃないですかねぇ?
  なぜ社会に出るとき若者が無防備なのか、経済構造や教育の現状をきちんと見直さなければ、ニートというのはなくなりません。こんな呼びかけなら誰にでもできます。どうやって人間力を高めるか、それを具体的に提示すべきなのではないでしょうか。
  聞くところによると、眞鍋さんはヒット数日本一とかいうブログ(●このブログのこと)を運営しているらしいですが、その中身と同様、あまり中身のない呼びかけですね。

 最後は、川嶋あいという歌手(?)の発言。

> 夢を一つは持って

  さあ、出てきましたよ!戦後教育が生んだ癌、「自己実現教」のご登場です。
  「自己実現教」とは、私の勝手な造語です。「夢を持ってなりたい自分になる」という発想をその根本教義にしている、一種の宗教と言ってもいいでしょう。「努力すればできないことはない!」「君たちは何にでもなれる!」などという文句で、年端もいかない若者を勧誘している戦後の新興宗教で、その最大の信者が「団塊の世代」「学校の教員」(日教組とは限らない)です。
  無自覚に「夢」や「希望」という単語を連発するのがこの宗教の信者の特徴の一つです。もちろん、夢や希望を持つな、などと私は言うつもりではありません。しかし、「夢が叶うにはこういう条件が必要だ」「誰にでも可能ではないのだ」ということをきちんと教えなければ、ただの無責任になってしまいます。人生すら狂わせ兼ねません。
  ニートになってしまうのは、いざ社会と接触を持とうというときに、今まで教えられてきた「頑張れば叶う夢」とのギャップが大きすぎてショック症状になってしまうことも原因の一つです。この国民会議とやらも、そういうギャップをきちんと若者に伝えて、「世の中は甘くないんだぞ、でも一緒にがんばってみようや」と呼びかけるべきなのです。それなのに、最後には結局「夢」。もう、馬鹿馬鹿しくて笑うしかありません。プロデュースしている厚生労働省の役人自身が、「夢を追いかけなきゃ人生じゃない!」などという幻想を捨て切れていないのでしょうね。

そして、締めの一言がこれです。

>火の中に飛び込む意気込みでがんばって

  あんた、ひとを殺す気ですか(笑)。最近のマスメディアには、こういう類の、人生がまるで博打であるかのような発言は結構多いですね。もちろん、「焼死」してしまっても、自己責任というわけです。
  今の若者の大多数が求めているのは、コツコツ努力すればちゃんと老後まで暮らしていける生活なのではないでしょうか。「自己実現教」の狂信者がどうなろうと勝手ですが、真面目な人や純粋な人をけしかけて、火の中に飛び込ませるような真似はやめるべきです。

  さて、けなしてばかりだとトヨタの会長さんに悪いので(笑)、建設的なことも書いておきましょう。
  こういうイベントにお金をかけるなら、「使命感」や「利他精神」といった、我欲の充足による自己実現でない価値を若者に教える内容にすべきです(たとえば、日本の漁船の安全のために頑張っている海上保安庁の職員に「使命感」というものについて語ってもらう)。
  人の役に立つ、ということは、誰にでもできます。極端な話、真面目に働いて暮らしていけるだけで、両親という他人を喜ばせることができます。そういう喜びを感じながら暮らせるなら、人生が生きるに値しないなんてことは絶対にありません。
  ところが、夢を叶えるとなると、こうはいきません。なぜなら、才能や運というものが絶対に必要になるからです。夢を叶えることが人生の意味だと強調してしまったら、そのための条件を備えていない大多数の人間には生きている価値がないことになってしまいます。「頑張れば、みんな松浦亜弥とかイチローとかホリエモンになれるんだよ!」と言っているのと同じです。誰にでもきらりと光る何かがある、なんて言っても無駄です。「きらりと光る何か」がお金にならないものなら、社会は見向きもしません。それが現実です。だから、「自分らしく生きて夢を叶える」ことを人生の目標にするなと私は言っているのです。「なりたい」「したい」という我欲の追求には限界があることを、子どもや若者にちゃんと教えるべきです。

  今の若者は、夢や希望や理想を伝えられすぎて、社会に出る前から疲れてしまっているのではないでしょうか。
  だから、『世界に一つだけの花』のような歌が流行るのです。ああいった歌には、「自分(らしさ)」という言葉は腐るほど出てきても、「他人」「社会」「国」という概念は絶対に出てきません。若者たちは心のどこかで、自己実現が無理だということがわかってきたので、人と関わらない「自分(らしさ)」に逃げ込もうとしているのではないかという気がします。そこには「人のために何かをしよう」というメッセージはありません。そんなことばかり考えているから、自分の殻に閉じこもってしまうのです。
  若者に外を向いて自分を律していく力強さを与えるのが教育の役割ではないかと、私は思います。しかし、日教組が言うような「個性の尊重」「自由と平等」では、他人のために自分をコントロールしなくていいんだというわがままやずるさが増幅されるだけで、そういう力を与えることはできません。
  それで、挙げ句の果てに、役所が税金を使って「人間力」とか「夢を持って」などと呼びかけているわけです。単語こそ変わりましたが、結局は日教組の平和や人権と同様、中身がない抽象的な言葉であることは変わりありません。呼びかける前に、何か教育の現場で具体的なアクションを起こせばいいと思うのですが・・・。

  結論として、こんなイベントはやるだけ無駄です。。

  日教組教員を含む教師たちも、若者に「周りが何を言おうと自分らしく生きろ」とか「いつまでも9条を守って平和な日本を」などと語りかけている場合ではないです。特に日教組は、義務教育が「子供たち一人ひとりが確かな学力や生きる力を身につけ、社会人となるためのセーフティネット」だと主張しているのです(●日教組のホームページ左のフレームにある「義務教育が危ない!」を参照)。だったら、もっと具体的なプログラムを提唱してみろ!!と言ってやりたい気分です。

わたしの尊敬する教育者(その2)

2005年10月06日 01時51分38秒 | 子供の教育
  画像の男性の方は山口良治さんという方です。名前は知らなくても、少し説明すれば、「ああ、『スクール・ウォーズ』の人ね」という反応が返ってくるひとです。

  「スクール・ウォーズ」(くわしくはこちらのサイトをご覧ください)というドラマは、ある高校ラグビー部が、荒廃の中から立ち上がり、やがて全国制覇を成し遂げるようになったという、実話に基づく学園ものドラマです。私は小学生の時、このドラマを土曜の9時に見るのが本当に楽しみでした。ラグビーも面白いのですが、先生と生徒の人間模様が(オーバーですが)とても心を打つのです。大人になって、DVDで見ても感激します。
  そのモデルになった元伏見工業高校のラグビー部監督にして、元ラグビー全日本代表の名フランカーが、山口先生なのです。

  山口先生の話は、それこそ本も沢山出ているので、それをご覧になるといいと思います。私は、教育者としての山口先生について、印象に残ったエピソードをいくつか取り上げてみたいと思います。

  まずは、伏見工業に赴任した年度に行った校門での服装検査があります。
  山口先生は赴任してしばらく、思うようにラグビーを教えることもできず悶々としていたことがありました。しかし、「教師として全力を尽くそう」と思い立ち、次の朝から校門での服装検査を始めたのです。
  思いついたらすぐやるというのは、素晴らしいことです。そして、通りかかる生徒の服装を注意するという簡単にやれそうなことを始めるというのも、さすがという感じがします。
  校内改革うんぬん、といって会議を開いてああでもないこうでもない、というのもいいのですが、そういう話し合いをすると必ず理由を付けて「できない」と言い出すバカが出てくるものです。そして、そのバカを説得するために、せっかく出てきた案がどんどん修正されてしまう。これでは、何のために会議をやっているのかわかりません。
  思い立ったら、自分の出来そうなことを、すぐにやる。そして、小さい成功を収める。それが、大きな物事につながる自信になるのです。
  校門での服装検査を始めて3週間ほどで、校則違反の服装は激減したそうです。山口先生が教師として活動していくとき、この体験は大きな自信になったでしょうね。
  そして、もうひとつ素晴らしいのは、校門に立って声をかけることで、生徒の存在を認めてやったことです。
  いじめられるとき、一番辛いのはなんでしょう。悪口を言われたり、蹴られたりするのもいやですが、一番きついのは絶対に「無視」です。なにしろ、自分の存在を認めてもらえないわけですから、それが続けば自殺してしまうのもわからなくはありません。
  服装に文句を付けるというのは、不良の生徒からすれば「いちゃもん」には違いなのですが、それでも何もしないで素通りするよりは、絶対に気分がいいはずです。声をかけてもらえなかれば、自分から因縁をつけるしかないのですから・・・。
  これに似たことで、私が極めて重要だと考えているのは「あいさつ」です。
  最近の子供はあいさつもしないし、何かあっても「すいません」と言わないのでけしからん、という人がいます。その通りだと思います。
  しかし、よく考えてみてください。子供が日常生活で大人から「おはよう」とか「こんにちは」と声をかけられる経験に乏しかったとしたら、そもそもあいさつなどする気になるのでしょうか。あいさつをしない原因は、周囲の大人があいさつをしていないことである可能性が高いです。だいいち、「近頃の子供は」などと言っている人は、自分から声をかけているのでしょうか?(私は、必ず自分から生徒に「こんにちわ」と言います)
  あいさつは、大人からしなければダメなのです。声をかけてもらって、存在を認められた経験が多ければ、子供は自然にあいさつをするようになります。それでもあいさつしてこないなら、「おまえも、あいさつぐらいしろ」と言ってやればいいのです。それも立派な社会教育です。
  そもそも、大人の側があいさつなんて馬鹿馬鹿しいと思っているから子供もやらなくなるのです。そういう大人が多すぎるのです。金にならなければ、目に見えた効果が出なければ・・・さびしいことですね。
  先の話で服装の違反が激減したのは、山口先生が一人一人に声をかけたということと無縁ではないはずですし、先生が本気で服装を改めさせようと思っていたからこそ、その思いが通じたのではないでしょうか。何事も、真剣にやらなければ相手に通じないのです。

  すごいな・・・と思った話は、親の前で泣きながら生徒をぶん殴った話です。
  親御さんが止めに入ると、山口先生は「話してきくような子だったら、こんなことになるか。あんたは黙ってみていろ」と言い放ったそうです。
  その後、その生徒はだんだん真面目になっていったといいます。
  もちろん、生徒を殴ってしまうことがいいことであるはずがありません。しかし、それにも関わらず山口先生はやってしまったわけです。なぜ、手が出てしまったのでしょうか。
  子供の面倒を見ていると、こいつのこの言動は絶対に許せないと思うことがあるはずです。私だったら、人の話を聞こうとしないことや、理由もないのに他人をバカにすることです。
  そういう場面を見ると、このままこの子は悪い方へ落ちていってしまうのではないか、という危機感を感じてしまうのです。そして、それがも、手の着けようもないワルの生徒だったら、殴ってでも止めさせなければならない・・・きっと、山口先生はそう思われたのでしょう。
  こういうことを言うと、必ず「体罰はいけない」とか「子供を対等の人格として扱わなくてはいけない」と、言い出す大馬鹿野郎がいます。
  そんなことを言ってのうのうとしていられるのは、その子のことはどうでもいいと思っていて、面倒くさいことはしたくないと思っているからです。
  自分の愚かな振る舞いに気づいていない子供は、崖から落ちそうになっているのと同じです。そんなとき、いちいちみなさんは119番に電話して「今子供が崖から落ちそうになっています」などと言いますか?なりふり構わず助け出さなくてはいけないと思いませんか?人の話を軽んじる態度や、他人を平気で傷つける行為は、小さいことのように思えますが、それと同じなのです。
  山口先生が、こんなことをおっしゃっています。

  「子供の立場に立つ」教育とか子育てということが流行のように
  いわれる。いったい子供のどの立場に立ってやるのか。その子が20歳、
  30歳になったとき、どんな大人になっているか、将来を見通しての
  ことであるのか。そうでなかったら、こんな無責任な言い方はない
  だろう。


  この言葉を聞いて思うのは、全ての元凶は大人自身が今さえよければ、自分さえよければと思っていることに尽きる、ということです。
  今子供に嫌われたくないから、叱らないでおこう。今子供の辛そうな顔を見たくないから、部活もやめさせよう。今勉強が出来なくなると自分のせいで落ちたと言われるから、家の手伝いはさせないでおこう・・・こういう配慮は、全て大人が自分のためにやっているだけの、ずるい浅知恵でしかありません。そんな浅知恵を弄したとしても、子供は何の感謝もしないでしょう。それどころか、「大人なんて、ちょろいもんだ」と思いさえします。子供というのは、素直ですがものすごくずるい生き物でもあるわけです。
  だいいち、なぜ子供と接するのに、自分が得をしよう、楽をしようなどと思うのでしょうか。それは、戦後の「自由で平等な」教育のせいで、「誰かの役に立つ人間になる」ことや、「社会のために働く」ことが、損なことだと思われるようになってしまったせいです。
  山口先生は、こんなことも言っています。

   「自分はスポーツで素晴らしい経験をしたから、スポーツ
  の素晴らしさを伝えていくという社会的使命を担っている」


  自分が素晴らしいと思ったことを、他人、なかんずく、子供に伝えていきたいと思うこと、それが教育というものの原点なのではないか、そう感じさせられます。
  私は、社会の授業などをするときに、旅先で撮ってきた写真を見せて、生徒に「ここに書いてある○○というのは、こういうものだ」と伝えることをよくやります。
  そんなことをしても、1円も給料は変わりません。それなのに、そうしようと思うのは、ビジュアルだとよく伝わるからというわけではなく、自分が素晴らしいと思ったものを伝えたいという気持ちがあるからです。
  そうやって、他人と関わっていく中でしか、本当の自己実現は達成できないと思うのです。
  日教組の馬鹿教師が、頼みもしないのに「日本兵にはらわたを引きずり出される中国人女性」の写真(もちろんニセモノ)を子供に見せて喜んでいる話を聞いたことがありますが、そういうのは洗脳というので、一緒にしないように(笑)。
  
  このまま終わるとこのブログの管理人の品性が疑われるので、最後は、先生のこんな言葉で締めくくりたいと思います。

  「教育って感動だと思います。子供たちのちょっとしたことに
  周りの大人が一緒になって喜んであげることが子供たちに感動を
  与えるための第一歩です」

  

わたしの尊敬する教育者(その1)

2005年09月29日 00時47分07秒 | 子供の教育
  あの、初めに断っておきますが、トップにある写真は私ではありませんよ(笑)。
  この方は、非行カウンセラーの伊藤幸宏さんという方です。
  『体当たり子直し』(小学館)や『僕たちはいらない人間ですか?』(扶桑社)といった、青少年問題に関する本を書かれているひとです。

  伊藤さんの人となりはこちらをご覧になっていただければわかりますが、私からも簡単に説明させていただきます。
  伊藤さんは、もともと神奈川の大暴走族連合のトップでした。警察の壊滅作戦によって逮捕されて刑務所暮らしをした後、自動車修理工場に勤める傍ら、ボランティアで非行少年少女の更生活動をなさってきました。
  経歴からして「ユニーク」ですが、この人の子供へのアプローチは、本当に唸らせられるものがあります。私の子供に対する考え方が、この人の著書を読んで一変したほどです。

  たとえば、非行少年を更生させるときに、わざと生まれ育った場所から離れたところに住ませて働かせるということをなさっています。これは、本当に鋭いなと思いました。
  非行も心の病の一種だとすれば、他の多くの精神疾患と同じように、原因になっているのは人間関係や対人環境なのです。だから、非行をしていた環境に戻れば、せっかく少年院で改心しても、また非行の道を歩んでしまうのです。これを何とかするには、場所を変えるしかありません。
  伊藤さんが素晴らしいのは、それをたった一人でも「実践」している点です。もっとも、個人が出来ることには限界があり、こういう取り組みこそ国や自治体の助けがほしい、と著作の中でおっしゃっています。
  教科書の中身を若い人たちが自信を持てるように変えていくのも大事ですが、こういった、子供を「すくい上げる」活動も、また充実していてほしいものです。そういう仕組みこそ、本当のセーフネットだと思うのですが。

  また、伊藤さんは著作の中で、一番良くないのは「親都合の子育て」だと、喝破されています。
  これは、私の体験でも、思い当たることがあります。
  教育熱心なご家庭の中には、少なからず自分の子供のことをわかっていない、わかろうとしない親御さんがいるのです。
  一番分かりやすい例は、子供の学力から見れば到底届きそうにもない志望校を、子供に押しつけてしまっている親御さんです。面白いことに、そういう家庭に限って、生徒の学力が勉強すればするほど下がっていくことが多いのです。
  親御さんとしては、なるだけレベルの高い学校に入れることでその子の将来をいい方向に向かわせたいと思っているのだと思うのです(もちろん、単なる見栄というのもあるかもしれませんが・・・)。
  ところが、勉強をしている子供はつまらなさそうにしていることがほとんどです。当然でしょう。志望校の受かるレベルまで成績が上がらなければ、絶対に親に肯定してもらえないのですから、勉強が「苦役」になってしまうのです。
  それを見た親御さんは、余計に焦ってしまうのです。私たち塾講師にも、何とかしてくれ、受からせてくれ、と督励してきます。
  私はもうそういう親御さんの対処法を覚えたのですが、そうでない真面目な先生などは、それを真に受けて課題をどんどん出します。残して教えていても、義務感が先に立つからどうしても深刻な顔をして接してしまいます。そうなると、子供はますます勉強がつまらなくなる・・・もう、最悪の悪循環です。

  これをどうしたら克服できるのでしょうか?実は、簡単なのです。親御さんが自分にとって都合のいい志望校を捨ててしまえばいいだけの話なのです。出発点が間違っているのです。それを改めない限り、誰も幸せにはなれません。  
  はっきり言いますが、頭のいい子と、そうでない子というのは、どうしても同じことをやっても差が付いてしまいます。しかし、それと子供が真っ当で幸せな人生を歩めるかどうかは別問題です。親御さんにできる一番のことは、その子が出来る範囲で最大限の努力をしたら、受かろうが落ちようが「よくがんばったね!」と言ってあげることです。そういう温かい励ましは、子供ならみんなお父さん・お母さんに言ってもらいたいはずなのですから。

  これは、あくまで受験に限った話なのですが、これが家庭内の話ならどうでしょうか。(以下の話は、パクリではなく、私が勝手に作ったたとえ話です)

  とても甘えん坊の子供がいるとします。この子には、何の非もありません。そういう性格の子なのです。さんざん甘えさせる(なるべく沢山口をきいてあげたり、一緒に遊んだりする)ようにすれば、そのうち勝手に親から離れていきます。
  ところが、一戸建てを買ってしまい、そのローンを返済するために、お母さんが夜までパートに出てしまうようになると、この子は少しずつおかしくなってきます。家のものをわざと壊したり、学校で弱いものイジメをしたりし始めます。原因をきいても、よくわかりません。
  伊藤さん流に言えば、これは子供が寂しいから構ってほしいというサインを出しているのです。みなさんも、子供の頃、よくありませんでしたか?親や友達に相手をしてもらえないから、わざとひどいことを言ったり、悪いことと知りながらものを壊したり・・・私はかなり身に覚えがあります(笑)。それと同じです。
  親御さんは、ともすると、このような子供の変調を、「しっかりしなさい」などとかえって叱ってしまうことが多いです。それが、間違いなのです。子供は構われたいのです。だから、ほうっておいてはいけません。もしかしたら、その子は近い将来非行に走ってしまうかも知れない。子供は簡単に成長していきますが、落ちていくのもまた簡単なのです。
  しつこいですけど、今はやりの、「世界のまずしさ」なんてほうっておいて構いません。白いバンドを300円で買っても、アフリカの内戦やイラクの空爆は終わりません。親御さんなら誰にでもできる社会貢献は、小さい子供にはたくさん甘えさせることなのです。それがゆくゆくは、健全な人格を育成することにつながるのです。

  勘違いしてはいけないのは、甘えさせるというのは、ほしいものを買い与えることなんかではないということです。
  伊藤さんの著書の中で、心理学者の佐々木正美先生(どんな考えの方かはこちらをご覧ください)がおっしゃっているのですが、ものを買い与えたりするだけの接し方は、最悪に「粗末な育てられ方」です。相手の気持ちを受け止めもせず、物で気をそらしているだけなのですから、当然です。
  物を買ってやるから言うことをきけ、というのは、大人の都合で子供の気持ちを軽んじている典型例ですね。なにか、「援助交際」というものにつながる匂いがします。ああいう売春行為を抵抗無くやれてしまう子供というのは、きっと大人との関係を物や金を通してしか築いてこなかったのでしょう。情けない話ですね。

  私が子供に対して自信を持って接することが出来るようになったのは、もちろん教える対象についての理解が深まったというのもあるのですが、伊藤さんの著作を読んで感銘を受けたことが大きいと思います。
  みなさんも、よかったら伊藤さんの本を読んでみてください。本当に教育や非行少年更生を実行している方の言葉は、重みがあります。
  そして、それらの言葉は、まさにみなさんの「うちの子」にもぴったり当てはまることなのです。

  最後に、今回の話に関連したこのブログの記事として、
 ●「結果への足し算」「結果からの引き算」
 ●結果を出せばいいとうビョーキ
  があります。
  よかったら、ご覧になってください。

叱るにはエネルギーが要る

2005年09月26日 23時50分07秒 | 子供の教育
  久々に、雷を落としました。
  同じようなケースで、参考になれば幸いなので、私がどういうことを考えながら叱ったかというポイントを交えながら、紹介したいと思います。

  相手は、中3の女の子です。
  可愛い感じのするムードメーカー的な女の子ですが、どうも最近タガが緩んできているなという感じがしていました。
  もともとかなり出来る生徒なのですが、英語の小テストでは毎回不合格、それでも平気でいるのです。当然、出せと言った宿題を出すのも遅い。あげくに、学力からしてみたらもう100%受かるような都立校を志望校にしてしまいました。

  ここのところ運動会があって授業に遅れがちだったのですが、会が終わった当日も授業に出ませんでした。
  このごろの中学生というのは、どういうわけかイベントのあとに「打ち上げ」なんてやるのですね。こういうのをどうして大人の教師が止めないのか不思議です。まあ、子供としたら解放感に浸りたいということなのでしょうが、どうも私には理解できません。
  そのあげく、代休だった今日も(今の中学校は休みだらけですね。さすが日教組、サボる機会が増えるのは大歓迎というところでしょうか)、親戚のところに遊びに行って2時間のうち1時間を遅刻。

  クラス担任の方は休んだ分を空いている時間でフォローすればいいと思っていたようですが、私はもう我慢できませんでした。

  ここで止めないと、多分このまま受験が終わってしまう。きっと、勉強なんてこんなもんだと思ってしまう。それだけは、避けなくてはいけない。

  そういうこともあって、呼び出して職員室で叱りました。
  まず、わざと他の子を呼んでおいて、待たせておくことにしました。その生徒と話をしながらちらっと見てみると、さすがにこれからどういうことが待ちかまえているか感づいているらしく、少し顔が青い。

  さて、その子の番です。
  怒鳴ったりせず、これまであった嘗めたような態度を鋭い口調で指摘し続けました。おまえは勉強を嘗めているんじゃないのか、と尋ねると、もちろんそうではないと言います。(ここで「嘗めちゃ悪い?」と言う子なら、多分平手打ちが飛んでます)その子が開き直っていなかったというのは、声がか細くなって、目が潤んできていたことからもよくわかりました。変な言い方ですが、叱るときは、そういう相手に表情の変化が分かるようになると、もう職人芸の域(笑)に入っているのかも知れません。自分で言うのも変ですが・・・。
  それから、本来もっとできるはずなのに、手を抜いてしまうことはよくないことだ、先生はあなたの能力を買っているからこうやって改善のための警告をしているんだ、と伝えました。この辺から、だんだん声のトーンは丸みを帯びた感じにしていきます。もちろん、計算しての上です。

  面白いものですね。その子は最後に自分からどこの学校の過去問を買えばいいか、尋ねてきました。別に、私ではなくて、明日担任の方に話せばいいはずなのですが・・・。
  誰でも経験があると思うのですが、叱責されたあとの子供は必ず何か違う会話をして救われたいとすがるような気持ちを持っています。そうでもしないと、息が詰まってしまうし、許されたいと思ってそうするのでしょうね。
  そういう段階まで来たら、もう表情を緩めても大丈夫です。逆に、この段階まで来たら、先ほどまで問いつめた非を蒸し返しては絶対にいけません。その子は、二度と本音で話してくれなくなってしまいます。
  誰だって、救われたい一心で言葉を発したのに「だからどうしたんだ!?」などと言われたら、愕然とするでしょう。
  かといって、ここで軽口ばかり叩いたら、せっかく保ってきた緊張感が台無しになってしまいます。あくまで、緩い坂を下るようにして気持ちを軟着陸させなければいけません。

  人間は、理屈だけで生きているわけではないのです。それも、この年まで来てやっと身に沁みて分かったことなのですが・・・。

  最後は笑顔も何回か浮かんだので、まあうまく行った方でしょう。


  私が頭に来てしまったのは、二つの点で彼女の行いをこれ以上許すわけにはいかなかったからです。

  まず、私たち講師の側の指示を軽んじているという点です。
  言うことを聞かないと、どんな大人も初めは叱ります。しかし、そのうち根負けしてしまいます。面倒くさいので、なんとなくそのままにしてしまうのでしょう。
  しかし、これでは子供に調教されているようなものです。子供には、「この人の言うことは素直に聞かなくてはいけない」と、思わせるのが原則です。日教組や人権派弁護士が好きそうな言葉ですが、子供を「対等の人格」だと認めたら絶対に嘗められてしまうのです。

  そして、もう一つは、前にも挙げたように、「このまま行ったらこいつはダメになる」という危機感です。
  出来ない子は、出来ない子なりに精一杯努力をしなくてはいけないし、頭の良い生徒は最大限まで学力を伸ばさなければいけないのです。そうでなければ、これから進む高校や大学、そして社会人としての生活でさえ、「この程度でいいか」という、ふぬけた態度をとり続けることになる。
  そんな大人に、日本という国を任せられるでしょうか?
  こんなことを言うとオーバーだろうと思うかも知れませんが、私はどの生徒にも日本人として恥ずかしくない人間になってほしいと思って接しています。たかが塾じゃないかと思う人もいるでしょうし、私も基本的に「塾なんて要らない」と考えています。
  しかし、不幸にして受験という目的を達成するための場所で出会ったのですから、せめてものこと、受験勉強をするという一種の「苦役」を通じて、社会に通用する人間になってほしい、人の役に立てる能力や精神力の持ち主になってほしいと思っています。

  戦後の日本の教育が一番良くなかったのは、教師自身が「国を背負う人間を育てる」という使命感、いわば教育に必要な背骨みたいなものを失ってしまったからだと思います。
  自由で想像力豊かな人格形成、などというものは、残念ながら公教育では無理です。天才を理解できるのは、それに近い能力を持っている少数のエリートだけだからです。
  それならば、日本という国や、地域社会、もっと小さい単位なら家族や友人のためになる人間になる、という現実的な目標を目指すしかないのです。

  こういうことを言うとすぐに、「自分の生きたいように生きればいいのであって、国のためなどというのは価値観の押しつけだ」などという人がいますね。

  私から、そういう人々に声を大にして言いたいことがあります。


あなたは子供に迎合してるだけだ!!!


  自分で勝手に自信喪失しているだけなら勝手ですが、それを子供に対する接し方に持ち込んで善人ヅラしている大人は、一生子供と接しないでもらいたいです。
  自分の国や自分の人生に誇りを持っている人間なら、絶対に子供を放っておくことはしないはずです。
  「ほっとけない、世界の貧しさ」などと唱えている場合があるなら、側にいる子供をほっとかないでください。遠いところにある実現しそうもない理想を唱えるのが、今の日本人(戦後教育を受けた日本人)は本当に好きですね。たぶん、そういうお題目を唱えていれば、何かいいことをしているのだという錯覚に陥っているのでしょう。
  本当に大切なのは、大人が今ここにいてできることを、諦めずにひとつひとつ子供に対して実行していくことなのではないでしょうか。親であれ、教師であれ、大人一般であれ、同じことだと思います。
  
  無軌道になりがちだった少年・少女時代が誰にでもあるはずです。
  そんなとき、みなさんは、うわべは楽しそうでも、本当は「なんか違うな」と思いながら笑っていたんじゃありませんか?
  そのときのことを思い出しながら、言葉をよく選んで叱ってあげてください。それで恨まれることはまずありません。
  ひととき、「あいつウザイ」などと思われるかも知れませんが、それだけ叱ったのが効いているということです。くれぐれも、むくれた顔を見て、慌てて方針を変えるようなことがないようにしてください。嘗められたらダメなのは、犬のしつけと同じです。

  しかし、叱るというのはなかなかエネルギーがいりますね・・・

相撲と「ソップ」と本当の優しさ

2005年09月13日 01時37分48秒 | 子供の教育
 「神のいどころ」というブログで紹介されていたインドネシア独立戦争と日本軍兵士たちの話を再紹介します。リンクをクリックして、是非ご覧ください。今の歴史教科書にいかに「嘘」や「自虐」が多いか、よく分かると思います。
 本来縁もゆかりもないはずの現地の人と一緒になって、独立戦争を戦うなんて、今の日本人からしてみたら信じられませんよね。しかし、戦前の人たちは本当にそういうことをしていたのです。

 みなさんに是非とも知っていただきたいのは、日本にとっての「アジア」というのは、生ゴミ入り餃子を売りつけて平気でいる国や、枯れ草に緑のペンキを塗るのを緑化計画と称している変な国ばかりではないということです。インドネシアのように、「正しい」」評価をしてくれる国だってあるのです。
 そして、それは、戦後の教育でさんざん悪者扱いされてきた「戦前」生まれの人々の活躍によるところが大きいのです。
 別に、靖国神社にお参りしなくてもいいです。そういった人々に感謝する心を忘れず、謙虚に海外の友好国と付き合っていきましょう。

 まあ、それはいいです。では、今日は「呼び捨てにされたのは生まれて初めて」の続きを書きます。

 本当の優しさというのは、どんなことだろうと考えてみます。
 そうなると、どうもいけませんね。我々は「相手のことを考える」とか「時には強く叱ることもある」などと、観念的なことばかり口にしてしまいます。
 そこで、私は、相撲の世界で続いてきたある伝統について、お話したいと思います。

 入門してからそれほど年月がたっていないからでしょうか、ひょろっとした体型のお相撲さんを、昔から「ソップ力士」と言います。
 「ソップ」というのは、「スープ」がなまったものです。
 ちゃんこ鍋のスープは、ラーメンか何かのように、鳥ガラから取るそうですね。だから、鳥ガラのように痩せている力士、ということで、「ソップ」という風に呼ぶようになったそうです。

 こういった力士たちは、最近までは、なかなか身体を大きくする(有り体に言えば、「太る」)ことができなかったと言います。
 なぜなら、ちゃんこ鍋を作って食べるとき、先に箸をつけるのは、先輩力士なのです。肉や野菜の多くは、先輩たちにだいたい平らげられてしまったそうです。そうなると、「ソップ力士」たちは、文字通り「ソップ」だけを食べることになるのです。
 そんな不平等な、と言っても仕方がないのです。元関脇・玉海力である河邊幸夫さんも、「相撲の世界は番付が全て」だと言っています。

 その河邊さんが、リンク先のサイトでこんなことをおっしゃっています。彼は、下っ端の時代に「ちゃんこ番」という料理係をやらされていた経験があります。

 「 ちゃんこ番は4、5日に1回の割合で回ってきました。入門前は
  炊事なんてやったことがありませんから、先輩がやっている
  のを見て覚えるんです
   だいたい1か月もしないうちに包丁を持たされました。
  『おい、おまえ、そこの野菜を切っとけ』と言われてね。
  でも、見ただけでは覚えられるものではなく、なかなか
  うまく切れないわけです。切れないと殴られる。
   千切りなんかは、先輩に『これはだれが食うんだ。馬が
  食うんじゃないんだ。もっと細かく切れ』とどなられる。
   そうこうして不器用な手つきでやっているうちに、不思議な
  ことに2、3か月もしてくると、ちゃんと千切りもできるように
  なるんです。」

 この話を聞いて、「相撲界はとんでもないところだ。新弟子の人権をなんだと思っているんだ。もっと同じ人間として扱うべきだ。料理より練習をやって、合理的に強くなるべきだ」と、思った方、いらっしゃいますか。

 はっきり申し上げます。
 あなたのような人が沢山いるから、日本の子供たちはおかしくなってしまったのです。お願いですから、考え方を今すぐ変えてください。そうでなくても、今まで自分が信じてきた「個人の尊重」とやらを、疑ってみてください。
 それができないと言うなら、どうか一生子育てや、子供を教育する立場になどつかないで頂きたい。(これ、本気で言ってます)
 
 私がとやかく言うより、河邊さんの言葉を引用した方が早いでしょう。

 「 当時は、
  『強くなるために来たのにこんなことばかりやらされて
  悔しい、こんなことをやるために、ここにいるんじゃない』
   と思いましたよ。後から考えると、その悔しい思いが、
  強さの元になっていくんですね。」

 この言葉からもわかるように、「ちゃんこ番」は、若い力士の交感神経を鍛えるための「合理的な」システムなのです。

 全力で相手にぶつかる。あっという間に勝負が付く。土俵際でうっちゃられることもある。怪我をすれば番付が落ちる。力士の世界は、塾講師の世界と比べるのがおこがましくなるような、本当に厳しい世界です。

 そんな世界で、職業人として食っていくとき、最後の防波堤になるものはなんでしょうか。そうです。ピンチに交感神経を働かせること以外にありません。相手に勝つ、自分に勝つ、それだけを考える状態を作り出すしかないのです。

 河邊さんが玉海力として土俵に上がっていた頃、番付が伸びていかない時期があ
りました。夜遊びばかりしていたからです。なかなか、そのクセが抜けない。
 そんな折り、親方が急死します。そこから心を入れ替えた玉海力は、稽古に身を入れるようになります。そして、十両、幕内と出生していくことになるわけです。
 
 それが可能だったのは、彼が「ちゃんこ番」を経験したからに他なりません。ちゃんこ番の頃に味わった試練が、いざというとき力を出せるような、強い自律神経を育んだであろうことは、今までの私の話を見ていただければよくわかると思います。
 逆に、ちゃんこ番の経験がない、大学出身の力士は、大切なところで怪我をしたり欠場したりということが多いような気がします。
 相撲の世界は、良い面があるからこそ、ちゃんこ番という伝統を残しているのです。

 しかも、最後に残った「ソップ」というのは、一番栄養が残っている部分でもあるのです。
 もちろん、お腹がいっぱいになるような栄養、今時の肥満児がたくさん摂取している「栄養」ではありません。ミネラルやビタミン(後者は熱に弱いものが多く、それほど残ってはいないだろうが・・・)だけが残っているわけです。それが、健康な体と、のちのちの大食に耐えうる強い胃腸を作っているのではないか、と私は密かに思っています。

 どうです。
 これこそが、「本当の優しさ」ではありませんか?

 「ソップ」で育った若者が、引きこもりになるでしょうか。「自分のやりたいことが見つからない」と、ニート(NEET、Not in Employment,Education,or Trainingの略。くわしくはこちらをご覧ください)状態に陥ったりするでしょうか。絶対にありません。苦しい状況に陥ったら、きっと彼らの交感神経はフル稼働して、最後の最後まで戦い抜くことができるはずでしょう。
 若者は、いつも腹を空かせながら、大人の作り上げた規範に挑戦していくべきなのです。全ての若者がそうなるはずだ、とは言いませんが、そういう若者が多ければ多いほど、社会は活力を増す。私はそう信じています。

 是非とも、お子さんをお持ちの親御さんや、私のような立場の方に申し上げたい。その時は嫌な顔をされたとしても、本当に意味のある厳しさ、本当の優しさは、大人になったときに必ず報われる、と。
 子供に対する誠実な気持ちは、必ず伝わります。たとえ、それが自分の命がついえたあとであってもです。 河邊さんの親方が、本当に理不尽な仕打ちばかりする(あるいは、させる)人だったら、親方の死後、玉海力が心を入れ替えたでしょうか?
 
 ひとりでも多くの大人、親御さんに、「ソップ」の持つ本当の優しさを理解してほしい、私はそう思っています。
 

「呼び捨てにされたのは生まれて初めて」(その2)

2005年09月07日 00時26分15秒 | 子供の教育
 改めてタイトルを見ると、本当に異様ですね・・・。
 もっとも、これが教育に携わる人間の置かれている現状なのです。

 さて、今日は子供時代に交感神経が発達していないと、どんな弊害があるかという点についての話です。

 前回述べたことを、おさらいしておきましょう。
 人間の自律神経(自分の意思でコントロールできない神経)は、緊張や興奮・ストレスと関係のある「交感神経」と、リラックスや弛緩と関係のある「副交感神経」とに分かれています。
 そして、交感神経は、陸に上がった我々の祖先が、獲物を倒すために発達させたものであると考えられています。
 一般的に、ストレスがかかると、交感神経が優位に立ちます。
 人間の身体には「恒常性」(ホメオスタシス)というものが備わっており、ストレスがかかると正常な状態を保とうという反作用が生まれます。たとえば、緊張すると汗をかきます。あれは、汗を分泌することで副交感神経を働かせようとしているからです。

 ところで、「ストレス」と聞くと、どのようなことを想像するでしょうか。

 ストレスが原因で病気になる、心が蝕まれる・・・どうもストレスというのは悪玉だと考えられているようです。なるべくなら、ストレスなど持ちたくはないと思う人がほとんどでしょう。それなのに、現代社会は、どうもいろいろなところでストレスを感じさせるようにできているような気がする・・・。
 我々はストレスというものを一方的に悪だという烙印を押して、それを排除することに熱中してきました。その、最大の成果が「文明社会」というものです。何でもすぐに手にはいるので、我慢する必要もほとんどありません。面倒くさいことは、機械がなんでもやってくれます。

 でも、待ってください。

 それで、本当に我々がストレスから解放されたのでしょうか?

 それどころか、かえって新しいストレスに晒されてしまっているようにも思えます。たとえば、エアコンによる冷やしすぎで身体がおかしくなるというようなストレスは、エアコンが普及していなかった昭和30年代にはほとんどなかったことです。それに、外的環境にストレスを感じなくなったせいか、人間関係などのストレスでずいぶん悩まされることになっています。
 面白いものですね。我々は、生活を便利に、なるべく我慢の要らないようにしてきたはずです。それなのに、文明が発達したせいで、新しいストレスに晒されているのです。
 このようなイタチごっこを続けていて、いつかは本当に、「誰もストレスを感じない社会」というのが来るのでしょうか?

 そんなことは絶対にありません。

 極端なことを言えば、ストレスを取り除こう、我慢はやめよう、という考え方の方が間違っているのです。
 それは、人間には、ストレスというものが「必要」だからです。

 ストレスを受けると、交感神経が優位に立つということは、再三述べてきました。
 交感神経が優位になると、ノルアドレナリンやエンドルフィンといった脳内物質が分泌します。これらは、いわゆる「脳内麻薬」と言われるもので、分泌している間は、辛さや苦しみ、疲労感などを感じなくなります。
 こんな経験はないでしょうか。スポーツをやっていて、ちょっと足をひねってしまった。だけど、夢中になってプレーしていたら、痛みを忘れてしまった。そして、その夜風呂に入ると、一気に痛みが襲ってきた・・・。
 私にも、肩や肘の関節がもとから悪いのですが、論文式の試験で答案を書いていると、いつの間にか痛みを感じなくなるということがよくあります。
 こういった現象は、脳内麻薬によってもたらされたものだと言えるでしょう。例えば、エンドルフィンは、モルヒネ(麻酔に用いられる)と同じ作用で、苦しみを和らげる効果があります。(アドレナリンの仲間は、興奮して集中力を上げる効用がある)
 こういった脳内麻薬は、高いストレスがかかったときに、身体がこれに対応するために分泌するのです。つまり、生命の危機や獲物をどうしても捕らなくてはならない状況に陥ったとき、交感神経が優位に立ち、脳内麻薬を分泌させることによって、平常時には考えられないような活動をすることができるのです。
 人間の身体には、ちゃんとストレスに対応できる仕組みが備わっているのです。

 そこで、今の子供を見てください。
 彼らは、徹底的にストレスを排除した生活を送っています。腹が空けばすぐに食べ物にありつける、両親の手伝いや家の仕事をやるわけでもない。

 特に、ストレスが完全な悪というレッテルを貼られているのは、教育の現場です。 
 落ちこぼれる子がいるからと、教える内容はどんどん削減されていく。詰め込み式の暗記教育は子供の個性を殺すからと、何の具体的な成果も挙げられない「総合学習」をやらされる、校則に違反しても叱られないし、秩序を乱しても教師に殴られることもない。怖い先生は人気が無くなるので、みんな「物わかりの良い」大人になる。挙げ句の果てに自由、平等、権利、個人の尊重・・・わがままを貫き通すのに都合のいい概念を、周りの大人(主に「学生運動」を経験した「団塊の世代」が中心)が吹聴してくれる。

 そして、挙げ句の果ては、「呼び捨て去れたことのない子供」ですよ。

 子供が交感神経を鍛える場所など、どこにもないではありませんか!!

 陰湿ないじめや不当な差別は、確かに悪いものでしょう。しかし、だからといって、「かわいそう」「つらそう」と、何でもかんでも子供の足枷を外していくことが、本当に人間を尊重している教育と言えるでしょうか?

 本当に「種としての」人間を尊重するなら、体罰を復活させ、校則は厳しく守らせ、大人に楯突くことを100%許さず、若者の世迷い事や軽挙妄動には冷たく接するべきです。
 別に、私は体罰をどんどんやれ、などと主張するつもりもありません。「お辞儀の角度は45度で」というような無意味に細かい校則を作れなどと言うつもりもないです。 
 少ないルールでも良い、絶対に守らせようとする大人がいる。子供は不完全極まりない生き物ですから、どうしてもルールを逸脱してしまう。そのたびに大人に注意される。間違っているのは事実だから、反論することもできない。

 そうやって育った子供が、性格が歪んでしまうでしょうか?

 全く逆です。「絶対に大人になって見返してやる」「負けてたまるか」と思った子供は、自分の前にある規範を乗り越えようと、必死に生きようとするはずです。ストレスは、交感神経を発達させるという役割もあります。
 そうやって「無慈悲で、強大な大人」との衝突を経た子供は、いざという時に力を発揮できる可能性が高いでしょう。明治時代や戦前に生まれた人たちは、ほとんどがそういう人だったのではないでしょうか。

 私は、戦前の教育は少しも間違っていないと思います。なぜなら、子供の交感神経をきちんと鍛えておいて、困難があっても脳内麻薬を分泌させて、普段よりも高いパフォーマンスを発揮させることができたからです。

 「学力よりも個性を育てよう」とか、「子供を対等の人格として扱い、共に学ぼう」などと言っている人(左翼的な理想ばかり唱えている人々)は、そういうことをわかっているのでしょうか?

 子供を守ってやろう、子供に辛い思いはさせないでおこう、そんなことを考えている時点で、教育者として「失格」だと私は言いたいです。
 子供を育てる、すなわち、適度に交感神経を発達させるには、ストレスは絶対に必要なのです。そうやって子供と向き合うことこそ、本当の優しさなのではないでしょうか。

 次回は、このテーマの締めくくりとして、「本当の優しさ」というものについて、昔から日本で行われているある格闘技の世界の話を紹介してみたいと思います。(つづく)

「呼び捨てにされたのは生まれて初めて」(その1)

2005年09月05日 01時01分25秒 | 子供の教育
 9月初旬に、私の塾(というより、会社)は、後期の指導体制を周知するために、職員を集めた会合を催します。
 毎回、そこで地区責任者が変更点やら注意事項やら、あまり面白くないことを話すのです。組織としてやっている以上、こういう行事を設けて一体感を作り出すという目的なのでしょう。
 だいたい予想通りの話を聞いていると、一つだけ面白い話がありました。今年あったというあるクレームの話です。

 その頃、ちょうどテーマが「言葉の暴力は禁止」とかいうのに移っていました。
 その中程で、責任者の方が取り上げたクレームの実例を聞いて、私は背筋がぞっとしてしまいました。

 ある先生が、入ってきて2週間くらいの生徒を、いわゆる「呼び捨て」にしたのだそうです。私の塾は、受け取り方によっては呼び捨てにされて不快感を催す、という理解をしており、原則として呼び捨ては禁止されています。
 数日後、その生徒の親からクレームが来ました。社是に従わなかった分、多少のお咎めは仕方がないでしょう。呼び捨てにされた生徒と信頼関係が成立していなければ、嫌な感じがするのは確かだと私も思います。
 しかし、そのクレームの、理由になっている部分がすごいのです。

「うちの子は、呼び捨てにされたのは生まれて初めてで、ものすごくショックを受けて帰ってきた。おたくでは先生たちにどういう指導をしているのか」

 どうです?

 もう、こういうのは常識になってしまっているんでしょうかね?

 呼び捨てが人生で、初めて。
 ということは、親も、子供を「○○くん」「○○ちゃん」と読んでいるのでしょうか。
 そんなのは、家庭の方針だろう、と言われればそれまでです。それに、子供を「くん」「ちゃん」で呼び育てて、人格がおかしくなるという証拠もありません。
 私が驚いたのは、その方針自体ではないのです。

 呼び捨てにされた程度で「ショック」を受けている子供が、受験や、その後に続いている人生で起こるトラブルに、まともに対処できるのでしょうか?
 私は、はっきり言っておきます。
 そんな子供は、ろくな受験もできないでしょう。そして、失敗したことを他人のせいにし、被害者面をして生きていくに違いない、と。

 ところで、昔からよく、痛みを知る、苦労をして人間を磨く、そういう経験を積むと、良い人間になると言われています。
 これらは、今までは、科学的な根拠は全くない、ただの人生訓でしかありませんでしたが、最近私は科学的根拠を見つけました。(笑)
 それは、「自律神経」です。

 自律神経は、「交感神経」と「副交感神経」と、2種類に分けることが出来ます。
 「交感神経」というのは、緊張やストレスと関係のある神経です。これが働くと、毛穴が締まる、筋肉がこわばる、心拍数が上がるなどの現象が起こります。
 これに対して、「副交感神経」は、リラックスや身体の弛緩(=ゆるみ)と関係のある神経です。こちらが優位になると、毛穴が開き汗が出る、脈拍が遅くなる、尿や鼻水が出やすくなる、という変化が見られます。
 この二つの神経は、心の働きときれいにつながっています。例えば、危険を感じると、人間は鼓動が早くなったり、背中がこわばったりしますが、それは交感神経が働いている証拠なのです。逆に、風呂にはいると副交感神経が働くので、尿意を催したり、血行が良くなって身体がだるくなったりします。
 交感神経が発達しているのは、人間や他の陸棲動物の特長です。
 海に住んでいるイカには、副交感神経しかないそうです。餌はすぐ側にあるし、食べられそうになったら逃げればいい(逃げ切れないのがいても、他にたくさんの個体がいるので種の保存には問題ない)。だから、緊張する必要がないのです。
 それに対して、陸に上がった生き物は、ただでさえ重力に抗って行動しなくてはならない上、獲物を捕らえて食べなくてはなりません。だから、自分を興奮させて、敵を攻撃する必要が出てくる。交感神経が優位になると、ドーパミンやノルアドレナリンという、いわゆる「脳内麻薬」が大量に放出されることからも、それが分かります。

 人間が獲物を捕ることは今ではあまりありません。しかし、生きていく上で困難や危機に直面したとき、これを乗り越えなくてはならない場面はいくらでもあります。そういうときに、交感神経をフル稼働させることによって、人間はピンチに打ち勝つことができるようになっているのです。
 たとえば、仕事に夢中になっている人は、食べることや寝ることも忘れて没頭します。これは、交感神経が働きっぱなしだから、身体もそれに従っているのです。一番極端な例は、「覚せい剤」です。あれを打つと、完全に交感神経優位になります。だから、食べたり寝たりせずに何かに集中できるのです。食べる=消化器官の活動は副交感神経の働きと関係があります。また、寝ている間に体温が上がったり汗をかいたりするのは、副交感神経が活発になっているからです。交感神経が勝っていると、副交感神経に関係のある活動がストップしてしまうのです。

 私が思うに、今の子供は、交感神経を鍛える訓練をほとんどしていない、いや、子供によっては全くしていないと感じています。

 それがもたらす弊害については、次回詳しく述べたいと思います。

「結果への足し算」「結果からの引き算」

2005年05月23日 01時00分55秒 | 子供の教育
この前、ある生徒(小6)の親御さんと面談
する機会がありました。

お父さんが面談にいらっしゃっていたので、
いろいろ話をさせていただきました。
どうも本人が結果にきちんと結びつく努力を
せず、勉強そのものに満足してしまっている
ことが不満なようです。

しかし、本音は別のところにあったらしく、
面談の終盤に差し掛かったところで、
こんなことをおっしゃいました。

「先生、4年生の頃から通わせているんです
から、ここはひとつなんとか学力を伸ばして
いただいて、○○中には合格させてくださる
ようお願いできませんか」

要約すれば、
「お金を出した分、ちゃんと受からせてほしい」
ということなのでしょう。

もちろん、私は合格させるつもりなので、
最大限の努力をさせていただく、と伝え、
具体的な方向性を示し、その面談は終わりました。

さて、考えてみてください。

私は、この後「この子を必ず受からせよう!」
と決意を固めたでしょうか?

正直に言うと、
私はそんな気に少しもなれませんでした。

もちろん、やるべきことをやれば結果を出す
可能性を「高める」自信はあります。
しかし、それと同時に、
あと1、2回のテストで成績が上がらなかったら
何を言われるか、そういうマイナス面が
どうしても頭をよぎってしまうのです。
さらに踏み込んで言うと、こちらのやっている
ことが信頼されていないのだな、と、
いささか不愉快な気分にもなりました。

そのお父さんは、こういうことを私に伝えれば、
私が「やばい、受からせないと!」と思って
より一層のサービスを提供するようになると
思っているのでしょうか?

これは別に自分が努力したくないから言っている
というのではありませんが、
塾の先生に対してああしてくれ、こうしてくれ、
というプレッシャーをかけてくる家庭の子供が、
親御さんの期待通りの結果を出すことは
ほとんどありません。
普通なら、要求をすればそれに応える形で
目標に近づいていくはずなのですが、
どうしてそうなってしまうのでしょう。

子供が手抜きをせず、塾の指導が間違ったもので
ないとしたら、何かしらの形で子供は必ず進歩
しています。
それを一つ一つ、評価してあげるべきです。
このことを、私は「結果への足し算」と呼んでいます。

逆に、何でも結果から逆算して今の状態を
捉えていく姿勢は、「結果からの引き算」とでも
いうべきでしょうか。
このような姿勢のよくないところは、結果が
出るまではどんな努力も「ゼロ」になってしまう
可能性があることです。

文化祭・体育祭シーズンも終わり、受験まであと3ヶ月。
模試の成績がいまいち振るわない。

「結果からの引き算」ばかりしてきた子供は、
この事態をどう捉えるのでしょうか?

それでも、「受かりたい!がんばる!」と思えばいい?

そう思った方に逆にうかがいたいのですが、
子供ってそんなに「ポジティブ」で「タフ」なものですか?
自分のやってきた努力がいまだにゼロなんですよ?
それでも、まだがんばろうと思えるというあなたは、
自分がそれで成功したから相手もできるはずだと
思っているだけなんじゃないですか?

「結果への足し算」というのは、一見悠長なやり方に
見えますが、思いがけない事態に陥ったときに、
努力を継続しやすいのです。
あとは、早いうちから余裕のある計画を立てて、
それに従って一歩一歩進んでいけば、
きっと良い結果に結びつくでしょう。
そうでなくても、第2、第3の目標を達成することが
できる可能性が高いです。
そうすれば、「やってよかった」「努力すれば報われる」
という気持ちを持ちやすいのです。

これに対して、「結果からの引き算」は、結果が出なければ
全てが無になるわけですから、順調に物事が進まなくなった
とき、そこで挫折してしまう危険が高いのです。
そうでなくても、いつも現状に対して不満を持つことになる
わけですから、努力を継続すること自体が難しい状況でも
あるのです。

どちらがいいか、みなさんにはもうお分かりですよね?