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当ブログは●こちら移転しております。gooブログは7月末で凍結いたします。
私はラーメンが好きなのですが、近くの店に食べに行っても、「この小麦はアメリカから来たんだろうか・・・農薬が入ってないといいけどな」「高菜が食べ放題になっている。ということは、安い中国産だろうな。食べんのやめた」などと考えてしまうタチです。
その「ラーメン」にまつわる記事から今日の記事を始めたいと思います。
十勝産カップラーメン?(PDF)
http://www.kanbou.maff.go.jp/www/jikyuuritsu/report17/38-39.pdf
文字化けにより引用できないので、本文を参照いただきたいのですが、北海道十勝地方の農協が、地元商工会議所との連携で、十勝産の小麦粉を使ったカップラーメンを「開発」したという事例です。
このカップラーメン、どうやら、初めは生の麺にする方向だったのですが、開発元の得意分野がそちらだったということで、カップラーメンになってしまったという経緯があるようです。そして、いざ売り出す段階になったら、その場で食べる人が少なく、贈答用にどんどん売れていったということです。
この文章の締めくくりは、このようになっています。
>このように、農外との連携によって地域の農産物の魅力を発掘し、
>消費者に受け入れられやすいものを創り上げていくというのも
>食糧自給率の向上につながる取り組みです。
農水省の担当者がどう考えているのかはわかりませんが、この部分は非常に重要です。それは、農産物やその加工品は「商品」であり、流通に乗せて初めて価値が生じるものとして扱われているということです。
流通というのは、生産地から離れた場所に産物を届けるということです。「生産者」から「卸売業者」がものを買い上げ、それを「物流」に乗せて、他の卸売業者や「小売店」にたどり着き、最後に「消費者」の手に渡るという経路を採るのが一般的です。
そして、流通の過程では競争が行われるのが一般的です。安く売って高く売れば儲かるわけですから、当事者はなるべく安い値段で「生産者」から仕入れたり、競合他社より安い値段で小売店に卸したりという行動を取るようになるのです。こういう仕組み自体は、江戸時代くらいから日本でも当たり前になってはいました。
重要なのは、現代ではこのような流通の過程に「外来種」が参入していることです。戦後日本が工業化に成功し、大きく経済成長したので、通貨である日本円が外貨に対して強くなり、輸入がしやすくなりました。同時に、経済成長によって人件費や地価も値上がりしたので、日本で作られたものが割高になってくるという現象が起きます。そこで、競争に勝つために、より安い輸入品が導入されるようになったというわけです。この傾向は、今でも変わっていません。
むしろ、外国との相互依存は拡大しています。私はどうも体が受け付けない(食べると翌日腹の調子がおかしくなる)野菜ですが、オクラというと「フィリピン産」が一般的であり、ゆずは国産が多いものの「韓国産」がかなりのシェアを占めていて(たとえば●この商品は韓国産を使用)、冷凍食品コーナーで商品の原産国を確認すれば「中華人民共和国」の文字が踊っているのが、我々の日常生活です。
ここで忘れてはならないのは、食料品を輸入し始めたのは、「必要だから」ではなく「利益が出るから」「安いから」という動機だったということです。
そんなのは当たり前だろう、と思う方がほとんどでしょうが、これはかなり重大なことなのです。本来、食べるものというのは、食べるために存在するのです。それが、流通という過程が入り込むことによって、金、すなわち貨幣を獲得するための手段に成り代わってしまっているのです。
そもそも、カップラーメンにしてまで十勝産の小麦を売らなくてはいけないのはなぜかというと、「お金を出してもらう」ためです。十勝の農家の人たちがカップラーメンをうちで食べたのかどうかはわかりませんが、自分や家族や近所の人に食べさせようと思って作ったのではありません。流通システムの中に放り込んで、金に換えるためだったはずです。
これは裏を返せば、金がたくさんで回っている場所に農産物が引き寄せられるということでもあります。お金がたくさんで回っているのは「大都市」です。たとえば東京には平成16年の統計で全国の企業の16.5%が集中しています。東京都の人口は全国比10%前後ですが、その数字を大きく上回っています。こういう場所では、それだけ金が回っていますから、全国の食料品も同じくらい東京の企業によって取り引きされていると考えた方がいいでしょう。
ここで、困ったことが二つ出てきます。
一つは、様々な流通過程を経ることで、生産者の顔が見えにくくなることです。
ラーメン屋に行ったとき、私は時たま「この肉、どこ産ですか」と店の人に聞いたりするのですが、ほとんどは「わかりません」で終わってしまいます。どうも、現場でものを売っている人々は、材料に関しては卸業者に任せきりというケースが多いようです。
それどころか、積極的に混ぜモノや産地の偽装までして利益を上げようという企業もあるようです。●「ミートホープ」事件がその典型です。まあ、さすがに黒く色を付けてふやかした段ボールを肉まんに詰めたり、髪の毛から醤油を作ったりするような日本の流通業者はいないようですが・・・。
すぐ近くに生産現場があれば、文句の一つも言えるでしょうし、何より隣近所の人間に害悪を与える居心地の悪さが、混ぜモノや偽装をかなりの程度食い止めることは容易に理解できます。ところが、間に「商社」(どんな人々かは●ウナギを扱った記事を参照)が入ってしまうと、妙な方向に話が行ってしまうわけです。
もう一つは、農産物の需給が売れるか売れないかという点に左右され、必要かそうでないかという点が後回しにされてしまうことです。
みなさんはよく、ブルドーザーでキャベツを潰している光景を見たことがありませんか。いわゆる「生産調整」というやつです。繰り返しになりますが、市場経済というのは、貨幣価値の獲得を唯一無二の目的としていますから、作りすぎてしまえば安くなってしまうのです。
そこで、農水省は「野菜価格安定制度」のような公的補助を与えています。要するに、社会主義です(●こちらのホームページを参照)。ものすごく卑近なたとえをしてしまえば、あまり魅力のない男女であっても、仲人が話をつけて結婚に持ち込んでしまうのに似ています。
リンク先の筆者の方は、この制度を批判し、「魅力的な野菜を作って販路を開拓すればいい」と主張しています。どこかで聞いたことがあるなぁ、と思ったら、そっくりなことを言っている人々がいました。安倍内閣です。
「強い農業」をめざす自民党
http://www.jimin.jp/sansen/enzetsu/hnakagawa.html#nogyo
--------以下引用--------
高知は“フルーツ王国”と言われるほど、豊かな農産物を産出する地域でもある。この農産物を、アジアのお金持ちにどんどん輸出する。朝採れた高知の農産物を、高知龍馬空港を経て、夕方には上海の食卓に並べる。もうそういう時代だ。そうして、農家の人たちが1兆円もうける農政をどんどんやっていく。そのための競争力強化の手当や政策をどんどんやっていく。これがわれわれ与党の自民党の農政だ。(7月15日高知県高知市)
--------引用以上--------
多分中川幹事長が発言者だと思うのですが、これが典型的なグローバリストの発想です。またぞろ卑近なたとえですが、「おまえに魅力がないのが悪いんだ。魅力をつけて、外国人でもいいから金持ちや美女をゲットしろ」という感じでしょうか。貨幣価値の獲得だけを考えると、こういう発想になります。
輸出相手国との関係が悪化したらどうなるだろうとか、急激な変化に耐えられる農家がどれほどいるだろうかとか、自給率が下がったらどうするんだとか、そんなことは関係ありません。グローバリストの発想では、「付いてこられない人間が悪い」のです。
そうやって、正社員は派遣社員に置き換えられ、役所の仕事は外注に出され、外国人労働者がどんどん導入されているというわけです。私のような普通の国民が「そんなのやめてくれ」という仕組みが導入されていく裏は、ほとんど全てグローバリストの策動だと思った方がいいでしょう。
そういう世の中を素晴らしい世の中だと思う方は、是非自民党か公明党に投票して下さい(笑)。「他にどこに投票すればいいんだ」という疑問に対する答えは、もう散々ブログに書いてきたので、ここでは割愛します。
こういった食料品の流通の現状に関しては、(グローバリストと、彼らの伴奏で踊っている人々を除いて)誰もが何かしら釈然としないものを感じていると思います。だからこそ、「地産地消」(作られたものを作られた場所やその付近で消費する)というキーワードがいろいろな場面で提唱されているのでしょう。
しかし、その地産地消の実体はお寒いものです。都会の人間は流通の過程で全国のもの、もっと言えば世界のものが手に入りますから、本気で地産地消を実現しようとしません。
また、生産現場である地方も、●「道の駅」のような施設を作って売るくらいしかしません。そういうところで地元の農作物や加工品を買っているのは、都会から来た観光客というのが現実なのです。
いや、彼らは努力しないというより、やりようがないのです。金を持っていない地方の生産者は、販路や流通の手続きを握っていないので、常に卸売りや大規模小売店に対して弱い立場に置かれてしまうのです。
魅力のある品物を作って売ればいい、という論理は、ここでは通用しません。なぜなら、それは結局貨幣価値の獲得に向けられた行動原理であり、いくら魅力を高めても、地産地消にはつながりません。
逆に、アフリカ諸国のモノカルチャー(商品作物の単一栽培)のように、作ったものを一生口に入れることができないという馬鹿馬鹿しい事態を生むだけです。
先に紹介した、検疫施設のない空港から定期便もない上海に農作物を売ればいいとデマを振りまいている与党幹事長など、それをわかっていてあえてグローバリストのお手伝いをしているのでしょう。こういう人間こそ、選挙で痛い目に遭わせるべき人間です。こういう腐った人間は、どうせ自分のところにはちゃっかり利益誘導をしているのでしょうが。
競争に勝てばいいじゃないか、みんな努力すれば世の中はよくなる・・・この言葉が、古今東西、様々な社会でいったい何度提唱されたことでしょうか。残念ながら、それで世の中がよくなった例を私は知りません。
そうなると、付け焼き刃の対策ではなく、根本的な部分にメスを入れるしかありません。そうです、「貨幣価値の獲得」という、流通の大前提を換えてしまうのです。
具体的に言えば、地産地消を促すためには、産地か、もしくはそのすぐ近くでだけ通用する「食料品用の通貨」を導入してしまえばいいのです。たとえば、地元で作られた食料品、もしくは農林水産物に限定したクーポンを発行するというのはどうでしょう。
実は、こういう政策を訴えている政党があるのです。「平和党」がそれです。
平和党が訴えている政策は、「自然主義経済」というものです。自然にあるものは生まれて成長したのち、年老いて死んでいきます。人間なら人生八十年なわけですし、野菜なら生育した後収穫すれば腐ってしまいます。つまり、「自然から生まれたものは全て減価する」ということです。
それなのに、この世界にたった一つだけ減価しないものがあります。それが通貨です。減っていかないどころか、貯めておいて人に貸せば「金利」などという訳の分からない収入が入ってきます。
この金利という力が貧富の差をどんどん拡大していくというのは、少しものを考えられる人ならわかるでしょう。何しろ、金を元々持っている人間はそれを貸すだけで収入を得られるのに対し、金を持っていない人間は彼らから金利を出して借りるしかないからです。
この仕組みが非常に不公平な仕組みであるというのも、直感的にわかるはずです。頭のいい人がこの仕組みを肯定していたり、おかしな点を直視しようとしないのは、彼ら自身が受益者か、もしくは受益者になれると信じている(だまされている)からです。
自然主義経済というのは、こういう金というものの異常さを認め、乗り越えようとしていく考え方です。その中核は、自然界にある諸物同様、金も減価させるべきであるというもの(減価する通貨)です。
この自然主義経済は、第二次大戦前にオーストリアのヴェルグルという町ですでに実践されています。その説明を●「経済の民主化に向けて」というサイトから引用してみましょう。
--------以下引用--------
この小さな町は当時、他の町同様不況に喘いでいた。1932年春にはわずか人口4216人の町で350人が失業しており、そのうち200人以上は失 業保険も切れていた。税収も減り、町役場も破産の危機にあった。そこで町長であったミヒャエル・ウンターグッゲンバーガーはこの苦境から脱出するために、 1932年7月に地域通貨として「労働証明書」の発行を決断した。
1・5・10シリングの労働証明書が印刷され、町役場から建設労働者に賃金として支払われた。各紙幣は月末になると有効期限を迎え、それを再度有効 にするには額面金額の100分の1のスタンプが必要であった。つまり、たとえば1000円の労働証明書を今日(5月9日)に受け取ったとすると、この紙幣 は5月31日までしか有効ではなく、今月中にこの紙幣を使いきれなかった場合には10円のスタンプを買って貼らなければならない。そのためこのお札を受け 取った人間はこのお札を手元に置いておくのではなく使うことを推奨され、これによりヴェルグルの経済活動が息を吹き返した。平均でわずか5490シリング の通貨供給で250万シリング以上の取引がわずか1年あまりの間に起こり、町役場はこのお札のおかげで公共事業に10万シリング以上支出ができるようにな り、また失業も4分の1減った。
--------引用以上--------
>各紙幣は月末になると有効期限を迎え、それを再度有効 にするには
>額面金額の100分の1のスタンプが必要であった。
つまり、月に1%減っていく仕掛けになっているのです。銀行の貸付(信用創造)は債務者に金利という金を払わせますから、ちょうど逆になっているわけです。これなら、「貯める」より「遣う」方がはるかにいいということになるでしょう。
もちろん、この通貨には、発行された地域でしか遣えないという欠点があります。しかし、それがいいのです。
今の田舎の経済の仕組みを簡単に言うと、農家が農作物を売って貨幣価値を獲得し、その貨幣を使って●ジャスコのような大規模小売店舗で生活必需品を買うというのが定番になっています。以前私の同僚だった女性が結婚し、愛媛県の新居浜という町に移り住んだのですが、「ジャスコしか行くところがない!」と言っていました。地方の方で、思い当たるフシのある人はきっといるはずです。
そして、ジャスコはジャスコで流通の過程での競争に勝ちたいわけですから、売ればより利益になる商品を売ろうとするはずです。だから、●新居浜のジャスコではベトナム産のエビが50円で売っていたり、アメリカ産のヒレカツ用豚肉が88円(ただし両方ともご奉仕品。笑)が売っていたりするのです。遠くから連れてきても、儲かればそれでいいからです。
もちろん、ジャスコのような店は、良い品を安く提供しているのから売れているんだ、何が悪いんだと反論するでしょう。しかし、もし新居浜店の業績が傾いたら、そこから逃げ出すはずです。当然でしょう。彼らの目的は貨幣価値の獲得なのであって、地域生活を維持することではないからです。
ところが、自然通貨で商売をすれば、そういう事態がほとんど起こらなくなります。自然通貨を使うと、地域から吸い上げた利益を本社に引き上げるという行為ができなくなるので、大規模店舗が進出しにくくなるからです。そうなると、地元の人間がものを作り、それを地元に提供するというサイクルが形成されるようになります。
ここで忘れてはいけないのは、自然通貨と我が国の通貨である日本円は共存ができるということです。そもそも、地域間の取引には地域を越えて通用する貨幣が必要でしょうし、貿易もゼロになることはないでしょう。
しかし、地元でミカンを作っているのに、安いオレンジジュースが幅を利かせるという現象は確実に起こらなくなるはずです。地域のものは地域で使う方が絶対に有利になるからです。
こういう政策を掲げる平和党のような政党を、農家の方たちが応援してほしいものです。
もちろん、現時点でいきなり自然通貨を全国で導入することはできません。だから、当面はグローバリストによる農水省や農協、そして農家個人への攻撃を妨害しなくてはならないでしょう。
しかし、それは単なる先延ばしに過ぎません。本当に農業を守りたい、地域を守りたいなら、最後は経済の仕組みから変えるしかないのです。
そうすれば、地域経済も息を吹き返し、日本国としての食糧自給率も自然と向上していくはずです。
減価する通貨による「自然主義経済」・・・どこかの自治体が、ヴェルグルの町のような英断を下してくれないものでしょうか?
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私はラーメンが好きなのですが、近くの店に食べに行っても、「この小麦はアメリカから来たんだろうか・・・農薬が入ってないといいけどな」「高菜が食べ放題になっている。ということは、安い中国産だろうな。食べんのやめた」などと考えてしまうタチです。
その「ラーメン」にまつわる記事から今日の記事を始めたいと思います。
十勝産カップラーメン?(PDF)
http://www.kanbou.maff.go.jp/www/jikyuuritsu/report17/38-39.pdf
文字化けにより引用できないので、本文を参照いただきたいのですが、北海道十勝地方の農協が、地元商工会議所との連携で、十勝産の小麦粉を使ったカップラーメンを「開発」したという事例です。
このカップラーメン、どうやら、初めは生の麺にする方向だったのですが、開発元の得意分野がそちらだったということで、カップラーメンになってしまったという経緯があるようです。そして、いざ売り出す段階になったら、その場で食べる人が少なく、贈答用にどんどん売れていったということです。
この文章の締めくくりは、このようになっています。
>このように、農外との連携によって地域の農産物の魅力を発掘し、
>消費者に受け入れられやすいものを創り上げていくというのも
>食糧自給率の向上につながる取り組みです。
農水省の担当者がどう考えているのかはわかりませんが、この部分は非常に重要です。それは、農産物やその加工品は「商品」であり、流通に乗せて初めて価値が生じるものとして扱われているということです。
流通というのは、生産地から離れた場所に産物を届けるということです。「生産者」から「卸売業者」がものを買い上げ、それを「物流」に乗せて、他の卸売業者や「小売店」にたどり着き、最後に「消費者」の手に渡るという経路を採るのが一般的です。
そして、流通の過程では競争が行われるのが一般的です。安く売って高く売れば儲かるわけですから、当事者はなるべく安い値段で「生産者」から仕入れたり、競合他社より安い値段で小売店に卸したりという行動を取るようになるのです。こういう仕組み自体は、江戸時代くらいから日本でも当たり前になってはいました。
重要なのは、現代ではこのような流通の過程に「外来種」が参入していることです。戦後日本が工業化に成功し、大きく経済成長したので、通貨である日本円が外貨に対して強くなり、輸入がしやすくなりました。同時に、経済成長によって人件費や地価も値上がりしたので、日本で作られたものが割高になってくるという現象が起きます。そこで、競争に勝つために、より安い輸入品が導入されるようになったというわけです。この傾向は、今でも変わっていません。
むしろ、外国との相互依存は拡大しています。私はどうも体が受け付けない(食べると翌日腹の調子がおかしくなる)野菜ですが、オクラというと「フィリピン産」が一般的であり、ゆずは国産が多いものの「韓国産」がかなりのシェアを占めていて(たとえば●この商品は韓国産を使用)、冷凍食品コーナーで商品の原産国を確認すれば「中華人民共和国」の文字が踊っているのが、我々の日常生活です。
ここで忘れてはならないのは、食料品を輸入し始めたのは、「必要だから」ではなく「利益が出るから」「安いから」という動機だったということです。
そんなのは当たり前だろう、と思う方がほとんどでしょうが、これはかなり重大なことなのです。本来、食べるものというのは、食べるために存在するのです。それが、流通という過程が入り込むことによって、金、すなわち貨幣を獲得するための手段に成り代わってしまっているのです。
そもそも、カップラーメンにしてまで十勝産の小麦を売らなくてはいけないのはなぜかというと、「お金を出してもらう」ためです。十勝の農家の人たちがカップラーメンをうちで食べたのかどうかはわかりませんが、自分や家族や近所の人に食べさせようと思って作ったのではありません。流通システムの中に放り込んで、金に換えるためだったはずです。
これは裏を返せば、金がたくさんで回っている場所に農産物が引き寄せられるということでもあります。お金がたくさんで回っているのは「大都市」です。たとえば東京には平成16年の統計で全国の企業の16.5%が集中しています。東京都の人口は全国比10%前後ですが、その数字を大きく上回っています。こういう場所では、それだけ金が回っていますから、全国の食料品も同じくらい東京の企業によって取り引きされていると考えた方がいいでしょう。
ここで、困ったことが二つ出てきます。
一つは、様々な流通過程を経ることで、生産者の顔が見えにくくなることです。
ラーメン屋に行ったとき、私は時たま「この肉、どこ産ですか」と店の人に聞いたりするのですが、ほとんどは「わかりません」で終わってしまいます。どうも、現場でものを売っている人々は、材料に関しては卸業者に任せきりというケースが多いようです。
それどころか、積極的に混ぜモノや産地の偽装までして利益を上げようという企業もあるようです。●「ミートホープ」事件がその典型です。まあ、さすがに黒く色を付けてふやかした段ボールを肉まんに詰めたり、髪の毛から醤油を作ったりするような日本の流通業者はいないようですが・・・。
すぐ近くに生産現場があれば、文句の一つも言えるでしょうし、何より隣近所の人間に害悪を与える居心地の悪さが、混ぜモノや偽装をかなりの程度食い止めることは容易に理解できます。ところが、間に「商社」(どんな人々かは●ウナギを扱った記事を参照)が入ってしまうと、妙な方向に話が行ってしまうわけです。
もう一つは、農産物の需給が売れるか売れないかという点に左右され、必要かそうでないかという点が後回しにされてしまうことです。
みなさんはよく、ブルドーザーでキャベツを潰している光景を見たことがありませんか。いわゆる「生産調整」というやつです。繰り返しになりますが、市場経済というのは、貨幣価値の獲得を唯一無二の目的としていますから、作りすぎてしまえば安くなってしまうのです。
そこで、農水省は「野菜価格安定制度」のような公的補助を与えています。要するに、社会主義です(●こちらのホームページを参照)。ものすごく卑近なたとえをしてしまえば、あまり魅力のない男女であっても、仲人が話をつけて結婚に持ち込んでしまうのに似ています。
リンク先の筆者の方は、この制度を批判し、「魅力的な野菜を作って販路を開拓すればいい」と主張しています。どこかで聞いたことがあるなぁ、と思ったら、そっくりなことを言っている人々がいました。安倍内閣です。
「強い農業」をめざす自民党
http://www.jimin.jp/sansen/enzetsu/hnakagawa.html#nogyo
--------以下引用--------
高知は“フルーツ王国”と言われるほど、豊かな農産物を産出する地域でもある。この農産物を、アジアのお金持ちにどんどん輸出する。朝採れた高知の農産物を、高知龍馬空港を経て、夕方には上海の食卓に並べる。もうそういう時代だ。そうして、農家の人たちが1兆円もうける農政をどんどんやっていく。そのための競争力強化の手当や政策をどんどんやっていく。これがわれわれ与党の自民党の農政だ。(7月15日高知県高知市)
--------引用以上--------
多分中川幹事長が発言者だと思うのですが、これが典型的なグローバリストの発想です。またぞろ卑近なたとえですが、「おまえに魅力がないのが悪いんだ。魅力をつけて、外国人でもいいから金持ちや美女をゲットしろ」という感じでしょうか。貨幣価値の獲得だけを考えると、こういう発想になります。
輸出相手国との関係が悪化したらどうなるだろうとか、急激な変化に耐えられる農家がどれほどいるだろうかとか、自給率が下がったらどうするんだとか、そんなことは関係ありません。グローバリストの発想では、「付いてこられない人間が悪い」のです。
そうやって、正社員は派遣社員に置き換えられ、役所の仕事は外注に出され、外国人労働者がどんどん導入されているというわけです。私のような普通の国民が「そんなのやめてくれ」という仕組みが導入されていく裏は、ほとんど全てグローバリストの策動だと思った方がいいでしょう。
そういう世の中を素晴らしい世の中だと思う方は、是非自民党か公明党に投票して下さい(笑)。「他にどこに投票すればいいんだ」という疑問に対する答えは、もう散々ブログに書いてきたので、ここでは割愛します。
こういった食料品の流通の現状に関しては、(グローバリストと、彼らの伴奏で踊っている人々を除いて)誰もが何かしら釈然としないものを感じていると思います。だからこそ、「地産地消」(作られたものを作られた場所やその付近で消費する)というキーワードがいろいろな場面で提唱されているのでしょう。
しかし、その地産地消の実体はお寒いものです。都会の人間は流通の過程で全国のもの、もっと言えば世界のものが手に入りますから、本気で地産地消を実現しようとしません。
また、生産現場である地方も、●「道の駅」のような施設を作って売るくらいしかしません。そういうところで地元の農作物や加工品を買っているのは、都会から来た観光客というのが現実なのです。
いや、彼らは努力しないというより、やりようがないのです。金を持っていない地方の生産者は、販路や流通の手続きを握っていないので、常に卸売りや大規模小売店に対して弱い立場に置かれてしまうのです。
魅力のある品物を作って売ればいい、という論理は、ここでは通用しません。なぜなら、それは結局貨幣価値の獲得に向けられた行動原理であり、いくら魅力を高めても、地産地消にはつながりません。
逆に、アフリカ諸国のモノカルチャー(商品作物の単一栽培)のように、作ったものを一生口に入れることができないという馬鹿馬鹿しい事態を生むだけです。
先に紹介した、検疫施設のない空港から定期便もない上海に農作物を売ればいいとデマを振りまいている与党幹事長など、それをわかっていてあえてグローバリストのお手伝いをしているのでしょう。こういう人間こそ、選挙で痛い目に遭わせるべき人間です。こういう腐った人間は、どうせ自分のところにはちゃっかり利益誘導をしているのでしょうが。
競争に勝てばいいじゃないか、みんな努力すれば世の中はよくなる・・・この言葉が、古今東西、様々な社会でいったい何度提唱されたことでしょうか。残念ながら、それで世の中がよくなった例を私は知りません。
そうなると、付け焼き刃の対策ではなく、根本的な部分にメスを入れるしかありません。そうです、「貨幣価値の獲得」という、流通の大前提を換えてしまうのです。
具体的に言えば、地産地消を促すためには、産地か、もしくはそのすぐ近くでだけ通用する「食料品用の通貨」を導入してしまえばいいのです。たとえば、地元で作られた食料品、もしくは農林水産物に限定したクーポンを発行するというのはどうでしょう。
実は、こういう政策を訴えている政党があるのです。「平和党」がそれです。
平和党が訴えている政策は、「自然主義経済」というものです。自然にあるものは生まれて成長したのち、年老いて死んでいきます。人間なら人生八十年なわけですし、野菜なら生育した後収穫すれば腐ってしまいます。つまり、「自然から生まれたものは全て減価する」ということです。
それなのに、この世界にたった一つだけ減価しないものがあります。それが通貨です。減っていかないどころか、貯めておいて人に貸せば「金利」などという訳の分からない収入が入ってきます。
この金利という力が貧富の差をどんどん拡大していくというのは、少しものを考えられる人ならわかるでしょう。何しろ、金を元々持っている人間はそれを貸すだけで収入を得られるのに対し、金を持っていない人間は彼らから金利を出して借りるしかないからです。
この仕組みが非常に不公平な仕組みであるというのも、直感的にわかるはずです。頭のいい人がこの仕組みを肯定していたり、おかしな点を直視しようとしないのは、彼ら自身が受益者か、もしくは受益者になれると信じている(だまされている)からです。
自然主義経済というのは、こういう金というものの異常さを認め、乗り越えようとしていく考え方です。その中核は、自然界にある諸物同様、金も減価させるべきであるというもの(減価する通貨)です。
この自然主義経済は、第二次大戦前にオーストリアのヴェルグルという町ですでに実践されています。その説明を●「経済の民主化に向けて」というサイトから引用してみましょう。
--------以下引用--------
この小さな町は当時、他の町同様不況に喘いでいた。1932年春にはわずか人口4216人の町で350人が失業しており、そのうち200人以上は失 業保険も切れていた。税収も減り、町役場も破産の危機にあった。そこで町長であったミヒャエル・ウンターグッゲンバーガーはこの苦境から脱出するために、 1932年7月に地域通貨として「労働証明書」の発行を決断した。
1・5・10シリングの労働証明書が印刷され、町役場から建設労働者に賃金として支払われた。各紙幣は月末になると有効期限を迎え、それを再度有効 にするには額面金額の100分の1のスタンプが必要であった。つまり、たとえば1000円の労働証明書を今日(5月9日)に受け取ったとすると、この紙幣 は5月31日までしか有効ではなく、今月中にこの紙幣を使いきれなかった場合には10円のスタンプを買って貼らなければならない。そのためこのお札を受け 取った人間はこのお札を手元に置いておくのではなく使うことを推奨され、これによりヴェルグルの経済活動が息を吹き返した。平均でわずか5490シリング の通貨供給で250万シリング以上の取引がわずか1年あまりの間に起こり、町役場はこのお札のおかげで公共事業に10万シリング以上支出ができるようにな り、また失業も4分の1減った。
--------引用以上--------
>各紙幣は月末になると有効期限を迎え、それを再度有効 にするには
>額面金額の100分の1のスタンプが必要であった。
つまり、月に1%減っていく仕掛けになっているのです。銀行の貸付(信用創造)は債務者に金利という金を払わせますから、ちょうど逆になっているわけです。これなら、「貯める」より「遣う」方がはるかにいいということになるでしょう。
もちろん、この通貨には、発行された地域でしか遣えないという欠点があります。しかし、それがいいのです。
今の田舎の経済の仕組みを簡単に言うと、農家が農作物を売って貨幣価値を獲得し、その貨幣を使って●ジャスコのような大規模小売店舗で生活必需品を買うというのが定番になっています。以前私の同僚だった女性が結婚し、愛媛県の新居浜という町に移り住んだのですが、「ジャスコしか行くところがない!」と言っていました。地方の方で、思い当たるフシのある人はきっといるはずです。
そして、ジャスコはジャスコで流通の過程での競争に勝ちたいわけですから、売ればより利益になる商品を売ろうとするはずです。だから、●新居浜のジャスコではベトナム産のエビが50円で売っていたり、アメリカ産のヒレカツ用豚肉が88円(ただし両方ともご奉仕品。笑)が売っていたりするのです。遠くから連れてきても、儲かればそれでいいからです。
もちろん、ジャスコのような店は、良い品を安く提供しているのから売れているんだ、何が悪いんだと反論するでしょう。しかし、もし新居浜店の業績が傾いたら、そこから逃げ出すはずです。当然でしょう。彼らの目的は貨幣価値の獲得なのであって、地域生活を維持することではないからです。
ところが、自然通貨で商売をすれば、そういう事態がほとんど起こらなくなります。自然通貨を使うと、地域から吸い上げた利益を本社に引き上げるという行為ができなくなるので、大規模店舗が進出しにくくなるからです。そうなると、地元の人間がものを作り、それを地元に提供するというサイクルが形成されるようになります。
ここで忘れてはいけないのは、自然通貨と我が国の通貨である日本円は共存ができるということです。そもそも、地域間の取引には地域を越えて通用する貨幣が必要でしょうし、貿易もゼロになることはないでしょう。
しかし、地元でミカンを作っているのに、安いオレンジジュースが幅を利かせるという現象は確実に起こらなくなるはずです。地域のものは地域で使う方が絶対に有利になるからです。
こういう政策を掲げる平和党のような政党を、農家の方たちが応援してほしいものです。
もちろん、現時点でいきなり自然通貨を全国で導入することはできません。だから、当面はグローバリストによる農水省や農協、そして農家個人への攻撃を妨害しなくてはならないでしょう。
しかし、それは単なる先延ばしに過ぎません。本当に農業を守りたい、地域を守りたいなら、最後は経済の仕組みから変えるしかないのです。
そうすれば、地域経済も息を吹き返し、日本国としての食糧自給率も自然と向上していくはずです。
減価する通貨による「自然主義経済」・・・どこかの自治体が、ヴェルグルの町のような英断を下してくれないものでしょうか?
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