日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

【国家の舵輪は】戦前の過ちを繰り返すな~官僚政治の処方箋【政治家の手に】

2006年07月29日 00時25分23秒 | 社会と教育
  さて、もう一度復習です。

  官僚政治の弊害は、①勝手に仕事を作って自己増殖する(●前々回の記事を参照)ことと、②国家政策で致命的な過ちを犯しても責任を取らないこと(●前回の記事参照)です。

  しつこいようですが、大切なので繰り返します。我々が絶対に防がなくてはならないのは②です。なぜなら、①は完全に阻止しようと思うと膨大なコストが生じる上、財政という重石があれば多少なりとも抑制が働くので、致命傷にならないからです。
  ところが、②はどうでしょう。
  官僚というのは、道具に過ぎません。やりたい放題暴れたあげく、国家が外敵に破れ、征服されれば、結局素知らぬ顔で新しい支配者にひざまづくような真似を平気でします。中国の科挙官僚がそうでしたし、前回触れた、我が国の戦時中の「革新官僚」もそうでした。
  これほど良い反省材料があるにも関わらず、戦後の日本人は東条英機や帝国軍人を事後裁判的に断罪し、はては昭和天皇の責任まで追及しようとしました(●こちらのリンクは必見。昭和天皇は中国戦線拡大や英米との開戦には反対していた)。もしかしたら、革新官僚が自らの罪を隠すために、GHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(略称WGIP。詳しくは●こちらのブログを参照)に進んで参加したのかもしれません。そして、そのWGIPのディスインフォメーション(攪乱情報)こそが、日教組教育や反日政党・市民団体の思想的な源だったわけです。
  そうだとすると、GHQの尻馬に乗った革新官僚の生き残りこそ、現代日本をおかしくした戦犯なのではないでしょうか。
  もっとも、済んだことにこだわっていては前に進めません。未だに国内の「親日派」を糾弾する法律など作っているどこかの国と同じ事になってしまいます。それよりも、今後二度と革新官僚のような癌細胞が出てこないように、日本の体質を改めなくてはいけません。
  そこで、以下のような提案をしておこうと思います。

1.「国策は政治家に」を確立

  理由は簡単です。政治家は、国家や国民に対して責任を負っているからです。そのために選挙があり、内閣不信任や解散総選挙が憲法に規定されているのです。
  ところが、官僚が失敗を犯しても、誰が責任を取ったのか全くわかりません。耐震偽装の問題で、姉葉だとか小嶋だとかいう連中は、国会でつるし上げを食らったり、一級建築士資格を奪われたりしたのに、所轄官庁である国土交通省の役人がクビになったという話は全く聞きません。一事が万事、こんな感じです。
  そういう人々に、倫理に訴えて不正を防ぐようなやり方は全く意味がありません。たとえるなら、何回万引きしても、警官が交番で説教しておしまいになるのと同じです。
  だからこそ、政策決定は全て、それが無理なら国家の重要な施策(外交・軍事・教育・移民問題など)については、政治家が全て判断し、その判断について責任を負うべきです。官僚は、それを言われたとおりに処理すればいいというだけです。  
  これを実現するには、国家行政組織法の第1条に、「国家の基本方針の画定並びに実質的な政治判断は、内閣総理大臣並びに国務大臣が行うものとし、行政組織の各構成員はこれに忠実に従わなければならない」という第2項を追加するのです。憲法には、「全体の奉仕者」(15条2項)という曖昧な文言しかないからです。

2.「首相公選制」を導入する

  この制度を導入するのは、内閣がコロコロ変わることによって、政治家側の継続性が無くなることを防ぐためです。満州事変から敗戦までの15年で、16もの内閣が成立したというのは、どう考えても異常です。これでは、官僚に主導権を握られるに決まっています。我が国も、中曽根内閣や佐藤内閣、さらには小泉内閣のような一部の例外を除いて、ほとんどが短命内閣です。これを防ぐには、今の統治システムを修正するしかありません。
  問題は、いわゆる「ねじれ現象」(首相の所属会派と議会の多数派とが異なること)が起こる点です。それを防ぐには、首相公選だけでなく、「内閣不信任」について定めた69条も合わせて改正するしかありません。具体的には、①信任・不信任決議は就任後2年以内はできないものとし、②国会の解職発議の後、国民投票で過半数を獲得する必要があると定める、といった方法が考えられます。
  人気投票に堕するのでは・・・などという憲法学者もいますが、「じゃあ公選大統領制の国の大統領はみんな馬鹿揃いなんですね?」と反論すればいいだけの話です。

3.政策立案は首相官邸で

  これについては、橋本政権のころの行革法案で結構前進しています。(●こちらのリンクを参照)今の国家予算は、財務省原案でも内閣の方針に従わなくてはいけませんし、基本方針も「骨太の方針」といった形で、(内容の当否は別として)打ち出しています。小泉首相が活躍できるフォーマットは、10年ほど前に既に出来ていたのです。
  これを今後はさらに押し進めていくことが必要です。出来るなら、年功序列になっている高級官僚の人事を、完全に内閣総理大臣のものにすることです。そうすれば、●こういう売国奴のような官僚を簡単に排除できます。何度も言いますが、官僚は「道具」なのです。持ち主の寝首を掻くような真似をする「道具」など、さっさと捨てられるようにすべきです。

4.民間のシンクタンクをたくさん作らせる

  これが今回の目玉です。
  狙いは、民間にも、官僚や政府の外郭団体に対抗できるほどの専門知識のある人間をストックしておくことにあります。
  シンクタンクではデータの分析や政策に関するレポートを作ったりしていますが、こういう機関が増えることによって、専門知識を利用できる政治家が増えることになります。地方議会議員や、財力のない自治体には有益な話でしょう。多数の秘書を抱えなくても、政策立案や意識調査、データ分析を外注できるからです。
  今の政治の現場では、政治家が官僚を押さえ込みたくても、実際の資料や専門知識は官僚に分けてもらっているのが現状なのです。よく勉強している●こちらのような議員さんもいらっしゃいますが、個人の努力では限界があるのもまた事実です。その時に、手足となって仕事をしてくれる組織があれば、議員の方は「司令塔」として、もっと幅のある仕事をこなすことができます。
  また、民間シンクタンクが多数できれば、行き場の無くなっている高学歴の無職者(社会科学系のオーバードクターや、司法試験の受験回数を使い果たした法科大学院卒業生など)に、やりがいのある仕事を与えることができるというメリットもあります。福祉だけのシンクタンク、教育だけのシンクタンク、財務や税制だけのシンクタンク、総合的なシンクタンク・・・いろいろな形態があっていいでしょう。重要なのは、公務員になるための試験があまり得意ではないけれど、政治の現場でやりがいのある仕事をしたいという人材を拾うことです。
  そういう場所で実務経験を積むことで、政治家になるための準備を積むこともできますし、昵懇になっている政治家とともに成長しステージを上げていくこともできます。そういうシンクタンクが切磋琢磨していく中で、明日から副大臣になってもいいような人材が育っていくことも期待できます。
  では、どうやってシンクタンクを増やすですが、法律を作って「政策法人」という全く新しい法人組織を認めるというのはどうでしょうか?その際は、税制の優遇や、設立の簡易化といった特典を付けるのです。
  政策法人の利点は、以下の通りです。

  ①NPO(非営利法人)と違い、企画立案・
   データ分析などで営利活動をしてよい
  ②政治家の講演会と違い、契約に基づいて
   政治家をサポートできる
  ③官僚とのコネが無い「未経験者」でも、
   政治の世界に参入できる
  
  ①については、単純に失業対策です。雑誌の特集記事などを請け負ったりしてもいいですし、書籍を販売してもいいでしょう。もっとも、政治言論と関係ない業務は禁止すべきです(特に、脱税に使われないよう、土地や有価証券、高額の耐久消費財は取得したら届出を義務づける)。
  ②については、使えなければ切るという関係でいられるので、「縁故」ではなく「内容」で勝負できる利点があります。既存の後援会組織を利用したい政治家は、そうすればいいだけです。ただし、腐れ縁にならないよう、契約したら政治家側に届け出る義務を負わせるようにするべきです。
  総会屋や右翼団体が暗躍するんじゃないか?という人もいるかもしれませんが、そういう業者と契約しなければいいだけの話です。それに、株式会社だって実態がある会社の方が少ないのです。多少ゴミは混ざっても、役に立てばいいのです。
  法人の活動ですが、別に土・日だけとか休日だけとかでも構わないでしょう。今はインターネットを初めとして情報化が進んでいるのですから、後援会の事務所みたいなハコを持つ必然性もありません。「商談」はホテルのロビーや喫茶店でやればいいのです。一応登録制にすべきですが、その狙いも、政治家になろうとする人間がシンクタンクに簡単にアクセスできるようにすることにあります。
  この制度の一番の利点は③です。私が思い描いているのは、「熱意や人格は立派だし人生経験もあるが、細かい知識はいまいち」な政治家志望の人間と、「表舞台に立つのは苦手だが、知識は抜群」という人間がコンビを組むことで、官僚に対抗できるステートマンが生まれることです。今までは、政治家個人の努力する範囲が広すぎたのですが、政策法人が沢山出来れば、それをうまく活用するという選択肢ができます。
  もちろん、政治家と官僚が対等もしくは政治家優位で付き合うには、官僚だけが国家情報にアクセスできるという現状を変える必要があります。具体的には情報公開法を改正して、①原則情報は開示(ネガティブリスト方式)②非開示事由は公務員側に立証責任を課す③一定期間返答しない場合は、裁判所が開示命令を発する義務を負う④外郭団体にも対象を拡大する、などの条項を盛り込むべきです。
  民主党や共産党も、こういう法案を提出してアピールすれば、少しは普通の国民の支持を得られるはずです。それなのに、そういう具体案を出さないのは、結局自分たちが1970年代の自民党が作ったフォーマットをそのまま利用するつもりだからでしょう。

  こう見てみると、官僚政治で一番恩恵を受けていたのは、「権力や金は欲しいけど、仕事はしたくない(というか、ろくに仕事ができない)」というタイプの政治家(例えば、●この人?なのだということがよく分かります。官僚政治の淘汰には、やる気のある政治家が不可欠です。
  
5.国民が政治家を信じる

  批判をするななどと言いません。むしろ、すぐ上のリンクのような馬鹿(笑)はどんどん非難すべきです。しかし、●こちらの記事でも取り上げましたが、今の日本は国に対して責任を負う立場の人々を軽蔑しすぎです。これは、マスメディアに学生運動の世代が入り込んだ時期があり(要するに「団塊世代」)、そういう連中がメディアの上層部にいるからに他なりません。
  一番良い例が、●こちらの、全く建設的な提案をしない紙屑です。毎日毎日見出しで現政権を誹謗しているくせに、肝心なところはいつも「~という識者の声」「~という国民の声が多数」で逃げています。こんなのを読んでいたら、自分まで無責任な人間になりそうで恐ろしいですね。知らず知らずのうちに日刊ゲ○ダイの見出しや週刊○代の中吊り広告で洗脳されている人は、戦前の翼賛報道で熱狂していた人たちと大差はない、というかもっとヤバイと思うのは私だけでしょうか?

  言ってみれば、国民の間に見られる「丸投げ」体質が、官僚の専横を許す一番の根源になっているのです。政治家は腐っても「国民の代表」(憲法43条)です。それを否定することは、我々自身の否定にもつながるということは、いつでも肝に銘じるべきです。

  さて、硬い話題が続いたので、次回辺り少し肩の力を抜いた記事を上げたいと思います。お楽しみに。

【革新官僚は】なぜ官僚は「無責任」なのか【全員無罪?】

2006年07月14日 03時20分38秒 | 社会と教育
  私が思うに、官僚主義国家の重大な欠点は、「国家に対して役人自身が責任を取らない」という点にあります。

  最初に断っておきますが、私は官僚が「無能」などと言うつもりはありません。有名大学を出て、難関である国家公務員試験に受かった人々が、事務処理能力や記憶力、理解力という点で、そうでない人たちより上だと言うことは間違いありません。
  しかし、忘れてはならないことがあります。官僚はどんなに優秀でも、国家の中では「道具」にすぎないということです。 

  たとえば、中国の王朝と「科挙」(6世紀末から行われている役人登用試験)で選ばれた官僚の関係を考えると分かりやすいです。国家は皇帝とその一族のものです。そして、科挙官僚は、その道具でしかありません。科挙に合格した人間が皇帝になった例はありません。
  しかし、これはそれほど悪いことではないのです。なぜなら、反乱が起こって国家が転覆されても、科挙官僚は処刑されることがほとんどなく、新しい支配者の道具となって働くことができるからです。
  南宋の丞相であった文天祥(詳しくは●こちら)は、侵略者である元と徹底的に戦いましたが、捕まったあと、敵であるフビライ=ハンから出仕するよう要請されています。文天祥は20歳で科挙に合格した天才ですから例外だとしても、きっと同様のフビライの呼びかけ(脅迫?)に応じて、新王朝の政務に携わった官僚もたくさんいたことでしょう。新しい支配者にとって、いかに科挙官僚が貴重な「道具」だったかを示す格好の例です。
  これとは逆に、旧王朝の皇帝やその一族は悲惨です。必ず皆殺しにされ、宮殿は焼かれ、墓まで暴かれてしまいます。それどころか、隋の煬帝のように、生前の本人を辱めるような諡号(しごう)まで付けられてしまうこともありました。(煬帝の「煬」は「あぶる」とか「 あぶって乾かす」という意味があり、人民を火であぶるように搾り取ったことを示している)
  つまり、国家の持ち主である皇帝一家は、どこかで必ずババを引く運命にあるわけですが、科挙官僚は新支配者の顔色さえ窺っておけば、基本的に詰め腹を切らされることはないということです。

  建国以来「天皇家」という王朝は一度も交替したことがない日本ですが、実はこういう科挙官僚のような生き方をした人々がいました。それが「革新官僚」です。

  革新官僚というのは、戦時中にいわゆる総動員体制を作り上げる時重要な役割をした人々を言います(詳しくは●こちら)しかし、ここでは少し意味を広げて、企画院やそれに類する機関で働いていた若手・中堅の官僚という風に考えてみましょう。その多くは、満州国の建国に携わっており、当地での経済統制が成功したため相当自身の手腕に自信を持っていました。
  ちょうど日本が大戦への道を突き進む時代の政治には、一つの特徴があります。それは、総理大臣の在職期間(つまり、内閣の存続期間)が非常に短いということです。満州事変から敗戦までの15年で、実に16もの内閣が成立しています。
  もちろん、当時の内閣は閣内不一致があると解散に追い込まれるという仕組みになっており、軍人が内閣に参加するようになってその傾向が強まったという事情はあります。しかし、それはあくまで二次的な要因でしょう。そもそも、こんなに頻繁に内閣が交替しても、国として機能しているということは、内閣(政治家)以外の連中が国家を運営していたということです。
  つまり、戦争の時代とは、政治家が無力化し、官僚(軍人も広い意味では官僚に当たる)が国家を牛耳った時代でもあったのです。

  重要なのは、こういった人々の思想的バックボーンです。
  ●こちらのサイトに興味深い記述があります。

(以下引用)

  転向した知識人,あるいは幅広い意味での左翼思想の影響を受けた知識人の果たした役割は決定的に大きかったと思う。彼らの一部は企画院などの国家官僚になったものもいる。また,昭和研究会で近衛内閣のブレーンとなったものもいる。満鉄調査部にはプロレタリア文化運動の経験者が多い。これは,最近よく論じられる戦前・戦後の継続の問題にもつながる。ある旧制高校では「マルクス派」の方が多数派だった時期がある。その彼らが戦時から戦後にかけて国家官僚として「統制経済」──戦後改革─―高度経済成長政策をリードしたのである。これは,体制再統合に成功した疑似革命ないし「受動的革命」過程といえるかもしれない。その意味で,戦前に社会科学の洗礼を受けた旧制高校―帝大卒の国家官僚の果たした役割は決定的である。

(引用以上)

  「企画院」というのは、簡単に言えば総動員体制を中心になって作った機関、つまり革新官僚の牙城です。「プロレタリア」と付いていれば、社会主義の活動であることは間違いありません。

  なんと、戦中や戦後間もなく官僚になった人々は、マルクス主義のシンパが多かったというのです。マルクス主義というのは、言うまでもなく社会主義、共産主義の思想です。
  皇国の国体護持・・・などと言い、治安維持法で社会主義者を取り締まっていた時代にですよ。国家を実質取り仕切っていた連中が社会主義者だったというのです。これにはちゃんとした理由があります。

  まず、革新官僚が、純粋培養された「エリート」だったことです。社会主義というのは「完全無欠の机上の空論」です。つまり、マルクスの本の中だけなら、初めから終わりまで何の矛盾もなく世界の仕組みを説明できるということです。革新官僚の多くは旧制中学、いわゆるナンバースクール出身ですから、勉強ばっかりしていて、世間のどろどろした部分のことは全然わかりません。だから、そういう無菌室のような「机上の空論」には弱いのです。(今でも、共産党の「大卒」党員は、東大上がりが多い)
  彼らの性質は、政治家と言うより学者に近いものがあるといってもいいでしょう。だから、完璧で、淀みも歪みもない理想の世界が実現できると信じてしまうわけです。
  もちろん、執務中に「インターナショナル」を歌う馬鹿(笑)はいなかったでしょうが、人為的に理想国家を作り出せるという発想は、革新官僚たちにかなりの影響を与えていたはずです。

  また、軍国主義を標榜する陸軍と利害が一致していたという点も見逃せません。
  陸軍は日露戦争後も一貫して膨張し続けており(パーキンソンの法則を思い出すと良い)、中国やソ連を敵国とした「仕事」を作る必要がありました。かといって大陸で戦線を拡大すれば、当然ながら続々と死者が出ます。それに対する批判を封じ込めるには、全体主義で行くしかないのです。ちょうど、今の北朝鮮や中国、ロシアがそうであるように。
  この全体主義というのは、革新官僚が大好きなマルクス主義=社会主義とも共通する点です。だから、陸軍と革新官僚は、仲良しだったということです。表の主役は軍人さん(陸軍)、裏の主役はお役人(革新官僚)とでもいったところでしょうか。

  しかし、ここで疑問が浮かびます。なぜ日本を一時的に支配した「連合国軍総司令部」(GHQ)は、国家を実質的に運営していた社会主義者の革新官僚を真っ先に始末しなかったのでしょう?
  ここで、一番先に挙げた「道具としての官僚」を思いだしてください。官僚は、新しい支配者に黙って仕えていれば、詰め腹を切らされることはないという特質がありました。
  確かに、革新官僚でも、閣僚経験者やそれに準じる人間(たとえば、戦後首相になった岸信介など)は戦犯ということで公職追放になったりしました。しかし、革新官僚だった人物で、処刑台の露と消えた人物は一人もいないのです。
  もちろん、憎き鬼畜米英に対してテロを起こす革新官僚も、天皇陛下の為に割腹自殺をする革新官僚もいませんでした。それどころか、戦犯となって公職追放になった者以外のほとんどが、戦後も省庁の中でのうのうと生きながらえたのです。
  それも当然でしょう。なにしろ、彼らは、自分の仕事さえ出来れば、主人は誰だろうと構わないのです。

  そういう革新官僚たちが、戦後の日本で、自分たちが夢にまで見た統制された理想国家を作ろうとします。すなわち、戦前に導入された統制経済的システムをそのまま維持・強化していったのです。
  例えば、「地方交付税を通じた所得の再分配」(=地方財政の自主性剥奪)や、「直接金融から間接金融への移行」「直接税中心の税制」といった制度は、現在に至るまで我が国の政治の在り方を根本的に決定しています。そういう仕組みは何も戦後に出来上がったものではなく、戦前にすでに作られていたというから驚きです。また、最近は少しは改善されたものの、業界に対する行政指導は、今でも隠然と影響力を保っています。もちろん、この行政指導に法律上の根拠はありません。役人の独り言と同じであり、本来は聞かなくてもよいはずなのですが・・・。
  極論すれば、戦後日本の仕組みは、戦時経済だったということになります。
  しかし、国民を戦争に巻き込んでおいて、自分たちは理想国家の追求などといい気なものです。陸軍があれだけ満州にこだわったのも、革新官僚が作り上げた「理想郷」だったからこそでしょう。その権益維持のために、一体どれだけの血が流されたか・・・。
  それもこれも、革新官僚やそのエージェントである陸軍軍人に対して、政治の丸投げを許してしまったことが原因なのです。

  革新官僚の戦中戦後を見ていくと、以下のようなことがわかってきます。

 ①革新官僚は、自分の理想とする全体主義国家
  樹立のために、いたずらに戦争を拡大する
  方向を取った

 ②それにもかかわらず、彼らのほとんどは
  戦後も責任を取らず、官僚であり続けた

  ここから出てくる結論は、一つしかありません。それは、「官僚に国家の基本政策を委せてしまうと、結局だれも失敗した責任を取らないという事態が生じる」ということです。

  政治家は誤った国策を採れば選挙で落とされます。そうでなくても、議員辞職など詰め腹を切らされる場面はたくさんあります。最悪の場合、征服した敵国に処刑されます。(正当性はともかく)東京裁判もそうでした。私がキムジョンイルやコキントウだったら、日本を征服した暁には、小泉首相と安倍官房長官あたりは真っ先に銃殺刑です(もちろん、これは誉め言葉)。そういう意味で、政治家は責任を負わざるを得ない立場にあるわけです。
  しかし、官僚はそんなことをしません。いつも舞台裏にいて、政治家を隠れ蓑に、自分たちの(決して減ることのない!)仕事を黙々とこなしていたのです。そして、あまつさえ、鬼畜と称した相手の片棒を担ぐ真似をし、失敗の責任は全部「旧日本軍」と「天皇主権の憲法」に押しつけてしまったというわけです。邪推ですが、戦後のいわゆる「自虐教育」というのも、革新官僚が真の「戦犯」だったという事実を覆い隠すために行われていたのではないかとさえ思えます。  

  そして、重要なのは、これは官僚個人の問題ではないということです。官僚に国策の決定を任せれば、絶対にこうなる運命なのです。彼らは、責任を取る立場にいない以上、リアリズムをもって国民や外敵に向かい合うという行動を取れないからです。

  戦前の日本の暴走を、皇室制度のせいだとか、日本人の集団主義が悪いとか言っている連中が、いかに底の浅い馬鹿か、これでよくお分かりでしょう。

  こういうことを言うと、「お前の言う革新官僚とやらのおかげで、日本経済が復興できたんじゃないか!」という反論が必ずあることでしょう。
  もちろん、そういう「側面もあった」ことは私も否定しません。たとえば、通産省がなければ重化学のコンビナート建設などできなかったでしょうし、そのための資金は大蔵省の命令融資がなければ調達できなかったでしょう。
  しかし、それはあくまで「効率化」段階の話です。もともと日本人が持っている技術の高さや勤勉さがメイド・イン・ジャパンを支えていたのであって、革新官僚の作った制度のおかげでウォークマンや二股ソケットが生まれたわけではありません。
  それに、日本が統制経済的手法で作った工業製品を、誰が買ってくれたのでしょうか?「冷戦」ということで無条件で味方をしてくれていた、アメリカを初めとする西側諸国だったのではありませんか?

  ところが、冷戦が終わった途端、アメリカは「金融を自由化しろ」だの「ビジネスをグローバルスタンダードに合わせろ」だの、無茶苦茶な要求を次々にしてきました。それに対して、革新官僚が作り上げたシステムは、一体どれほど対抗できたというのでしょうか。
  現代の革新官僚たちは、ボーダーレス化した時代に全く太刀打ちできていません。たとえば、1990年3月の大蔵省通達、いわゆる●「総量規制」を初めとする、一連の「バブル退治」のための金融政策によって引き起こされたのは、すさまじい資産デフレでした。法律の解釈のような「机上の空論」が大好きな官僚が前例のないことに挑戦すると、ろくなことにならないという証拠です。(もしかしたら、そういう官僚の性質を知っているどこかの国が、日本企業の株や、日本の土地を買い叩くために入れ知恵をしたのかも知れない
  そして、この資産デフレを招いた大蔵省銀行局の人間が、誰かクビになったという話を私は知りません。官僚は、いつの時代でも責任を負わないのです。


  では、どうすれば戦前のような「やばい」事態を招かずに済むのでしょうか?
  まず思いつくのが、「官僚の倫理観に訴える」ことですが、そんなことをいくらやっても無駄です。官僚が悪人だから、無責任になるのではありません。官僚は道具であって、責任を取る立場にはいないからおかしなことをしてしまうです。

  結論は、次回に譲ることにいたします。

【役人の】「官僚国家」日本ってホント?【天国?】

2006年07月10日 02時32分36秒 | 社会と教育
  よく、テレビや新聞で、(自称)識者が「官僚政治が全ての癌だ」とか「行政の肥大化は日本を滅ぼす」などと言っています。
  それを聞くと、私のような一般人は、公務員が待遇その他恵まれている点に思い至り、「役人を減らせ!」などと、頭が沸騰してしまうものです。しかし、官僚というのは必要だから存在しているはずであって、本当に無駄や癌のかたまりなのでしょうか?
  そこで、今回からシリーズで、我が国の官僚政治について考えてみたいと思います。

  よく言われる官僚政治の弊害は、「役人は要らない仕事まで勝手に作ってしまう」というものです。

 ●パーキンソンの法則という有名な理論があります。イギリスの政治学者パーキンソンによると、官僚制の下では、役目が終わったから仕事がなくなるということはあまりないそうです。それどころか、勝手に仕事を作って組織がどんどん肥大化する傾向にあるということです。

  深刻な具体例(笑)を挙げると、本題に入る前に息が詰まってしまうかもしれません。そこで、まずは●こちらのブログをご覧になってください。
  ・・・本当にいろんな資格があるもんですねぇ。あまりファッションセンスのない私ですが、「ファッション販売能力検定 2級」が気になったのでちょっと調べてみました。
  この資格は、●日本ファッション教育振興会という財団法人が運営しています。どうやら、ショップ販売スタッフの能力を客観的に測定するのが目的なようです。
  その役員の顔ぶれを見てみますと、なるほど・・・と思うことがありました。
  例えば、ある理事は、ファッション教育振興会の前に、財団法人「日本人事行政研究所」の理事を務めています。こちらは、公務員の給料などについての本を出版している財団のようです。
  さらに芋蔓式に●役員人事を開示したPDFを見てみると、この理事さんは元「行政管理事務次官」という経歴だと判明しました。総務省の中で、行政機関の人事に関する仕事をしていたようです。

  しかし、公務員の給与計算とかしていた人が、ファッションの販売のことなんてわかるんでしょうかねぇ?私も営業みたいな真似は仕事の一環でしますが、明日から「洋服の青山」や「タカキュー」に勤めろと言われたら困りますよ。
  そうだとすると、日本ファッション教育振興会の理事職は、ファッション業界のことなど知らなくても務まる仕事だということになるんでしょう。

  もうお分かりですね、上に挙げた理事さんは、要するに「天下り」なのです。

  不況になると資格に人が集まる、ということはよく言われます。私の受けていた司法試験も、バブル崩壊後受験者数がうなぎ登りになりました(注:筆者がバブル崩壊前から受け続けていたわけではない)。
  ファッション販売能力検定はどうかと思って調べてみると、この検定が出来たのは平成8年です。ちょうど、平成不況とか言われていた頃です。

  そして、この検定の「受験者数」がすごいことになっています。

  ●日本ファッション教育振興会のホームページを見てみると、一番下にちぃーさく書いてありますが、平成17年までの10年間で、「延べ166名」がこの検定を受検しているのです。この中でも、「延べ」が要注意です。合格率は意外と低い(初歩の3級で66%。つまり、3人のうち1人は落ちている)ので、再受験者も含めてこの人数ということになります。
  もちろん、日本ファッション教育振興会は他にもいくつか検定をやっていますから、純粋にこの試験だけで「食っている」団体ではないでしょう。しかし、1年当たり20人弱の受験者(しかも再受験までカウント)では、認知度も多寡が知れているはずです。
  そうだとすると、関係のありそうな場所(例えば、ファッションの専門学校)などに「営業」をして、火のないところに煙を立てているとしか考えられません。
  それどころか、財団の理事の中に専門学校の役員らしき肩書の人間がいるところから見ると、完全に専門学校と「グル」になっているとすら思えます。だからこそ、「販売」なのに経済産業省ではなく、文部科学省所轄の財団法人が検定を運営しているのでしょう。
  もともと、日本ファッション教育振興会は、1969年に「日本洋裁技術検定協会」として設立されたものでした。しかし、それが1991年になって寄付行為(民法上の法人が定めなくてはいけない団体運営のルール)を変更して、現在の団体になっています。
  団体から言わせれば、「時代のニーズに合わせて・・・」というところなのでしょうが、ファッション業界の振興など、公務員や財団法人があれこれ仕掛けを打ってやるようなものなのでしょうか?ファッションも販売も、役人の仕事(法律の運用)とはかけ離れているような気がするのですが・・・。
  当たり前ですが、この財団法人は営利事業をやっているわけではありません。運営には文部科学省からの補助金も付いているはずです。財団の理事というのは、給料もそれなりにもらえて、退職金もつきます。それは、多くは税金で賄われているということです。

  こうやって見てくると、有象無象の資格こそ、まさに「パーキンソンの法則」を地で行っているように思えてきます。
  
  しかし、こういう事態が生じるのは、ある程度仕方がないことだと言えます。

  なぜなら、財団法人を使った天下りを監視しようにも、対象となる団体等があまりにも多いからです。冒頭のブログに上がっていただけの膨大な数の資格について、マスコミも、国民も、いちいちフォローしていられないというのが実情でしょう。
  もちろん、同じことは政治家についても言えます。国会議員にしても、天下りはいいことだと思っているわけではないでしょう。しかし、党での会合、委員会、本会議、有権者の陳情など、仕事は本当に膨大です。そこに来て、天下りの状況を日々チェックするなど、事実上不可能です。せいぜい、所轄官庁の役人(将来その財団法人に天下る可能性が非常に高い人間!)を呼んで、存在意義(もちろん、ないとは言わない)を聞くのが精一杯でしょう。
  それに対して、役人の方は、自分の部署の仕事だけやっているわけです。許認可や行政指導を通じて、財団法人側と昵懇(じっこん)になるのも簡単です。どう考えても、天下り先を作る人間の方が有利です。
  このように、現代の国家では、役人が「無駄」「不正」と思われる行為をしていても、チェックすることが構造上困難になっています。いわゆる「行政の肥大化」というやつです。
  小泉首相もいろいろ頑張ったのでしょうが、完全に民営化できたのは「石油公団」くらいです。しかも、その石油公団ですら、廃止するのに●こちらのコラムにあるような苦労があったのです。
  そして、このような苦労は、別に政権与党が変わったからと言って、ゼロになったり軽減されたりするわけではありません。民主党を初めとした野党も、公益法人を整理して税金の無駄を減らすなど、安易に口にすべきではありません。例えば、天下りを禁止する法律を作っても、民間企業をクッションにした場合どうやって追跡調査するのかという問題があります。
  出来ることといえば、せいぜい新たな認可や寄付行為の変更を、大臣(政治家)が止めることくらいです。出来上がってしまった後は、大臣も処理する案件が膨大なので、実態を精査して廃止するのは事実上困難です。
  そのためには、大臣の手足になる副大臣の数をもっと増やすべきでしょう。そういうことからすれば、「若手議員の箔付け」という程度で副大臣の人事をするのは言語道断です。もっとも、これとて星の数ほどある財団法人の実態全てをフォローするのは不可能でしょう。だから、せめて入り口だけでも何とかしてもらいたいものです。
  
  変な言い方ですが、「行政の肥大化」のデメリットは、税金の無駄という面に限られているので、ある意味我慢できなくはありません。税収が増えれば、相対的に無駄の度合いが薄まるからです。また、税金のパイが小さければ、無駄金を配る余裕もなくなります。だから、日本ファッション教育振興会があと10個くらい出来ても(笑)、国家が存立しなくなるということはありません
  ところが、これが、国家の命運を決するような重要な事項の判断となると、話が変わってきます。極端に言えば、「役人に国の舵取りを任せると、国が滅ぶ」のです。
  次回は、官僚主義国家の二つ目の欠点である、「国家に対して役人自身が責任を取らない」という点について詳しく述べたいと思います。

【確かに】公教育はフリーター差別を推進します!?【ユニーク】

2006年07月06日 02時50分29秒 | 社会と教育
  
  みなさんは、学校で教壇に立つ人が、「世の中は全てカネだ。バイトで暮らしている人間はダメな奴だ」と発言したら、どう思いますか?
  どうやら、川崎市はそれと似たようなことをやっているようです。

(以下引用)

 http://www.tokyo-np.co.jp/00/kur/20060702/ftu_____kur_____000.shtml
  
「一生アルバイトをした人と正社員と、給料の差はどれくらいになるか?二百万、二千万、二億。一つ選んで」。答えは平均で約二億円と告げられると「えーっ、そんなに!?」。子どもたちから驚きの声が上がった。

川崎市立小倉小学校の六年生の教室。先月中旬、ビジネス専門学校講師の鳥居徹也さん(40)が、総合学習の時間に講義した。内容は「フリーター・ニートになる前に受けたい授業」。クイズ形式で積極的な発言を促し、テンポの良い語りで子どもらを引き込んでいく。

文部科学省の委託事業として、鳥居さんは昨夏から全国八十以上の中学校と高校を回った。「小学生でも理解できる」と助言され、今年から小学高学年に枠を広げた。「フリーターにはボーナスがない」「退職金がない」。鳥居さんは次々と“損”な例を示した。

ニートについても「親の甘やかし」や「失敗や挫折」などの背景を挙げ、自立に向けた精神的な支えの大切さや、失敗を恐れず努力することの意義を訴えた。


(引用以上)

  教育関係者が、これをよかれと思ってやっていることに、私は怒りを通り越して寒気すら覚えました。少し注釈をつけます。

> 「一生アルバイトをした人と正社員と、
>給料の差はどれくらいになるか?
>二百万、二千万、二億。一つ選んで」。
>答えは平均で約二億円と告げられると
>「えーっ、そんなに!?」。
>子どもたちから驚きの声が上がった。

  鳥居さん、子どもだからと言って嘘を教えてはいけませんよ。(笑)

  企業間の賃金格差や、中途採用があった場合のことを全く考慮に入れていないことを考えてみれば、この主張に穴があるのはすぐにわかります。どうせ子どもだから、裏を取ることもなく信用するだろうと思っていたら大間違いです。
  子どもをなめているという点では、従軍慰安婦が子宮を摘出されるほど酷使されたとか、日本にいる在日朝鮮人は全て強制連行されたとか、嘘ばかり言っている日教組や全教の教員と同じですね。
  
>「フリーターにはボーナスがない」
>「退職金がない」。
>鳥居さんは次々とアルバイトが
>“損”な例を示した。

  お金のことばかりですねぇ。職業の要素は他にもたくさんあるわけですから、いくら何でも単純化しすぎじゃないでしょうか。子どもを話に引き込もうという「工夫」がそれでは、あまりにも情けないというものです。話し手も、それを認める学校側も、ホリエモンと同レベルですね。
  それに、こういう話をする事自体が、「フリーターはダメな人間」という烙印を押す結果になるということを、本人も気づいていないようです。こういう時こそ、日教組の先生方は、あふれる人権感覚を発揮して、「職業に貴賤はない!!」などとこの講師を叱ってほしいものですが。(笑)
  
>ところが、授業後のアンケートで
>「フリーターになってもいいと思った」と
>答えた子がいて、驚いたという。
>鳥居さんが
>「ハンバーガーが百円で食べられるのは、
>安いお金で長時間働いてくれる
>フリーターのおかげ。すべて正社員なら、
>五百円になっちゃうかも」と
>話したのに対して、
>「ハンバーガーが高くなるのは嫌」
>と受け止めたのだ。

  残念ですが、具体例が適当ではありませんね。マクドナルドがハンバーガーを百円で売れているのは、アルバイトが会社の中心だからではありません。マクドナルドは、日本に上陸した1970年代からアルバイトが中心です。ハンバーガーが安くなったのは、デフレなので仕方なくコストを切りつめた結果です。ビジネスの専門学校で教えている割には、物事の分析に全く「ビジネス」感覚がありませんね。
  それに、ファーストフードの会社が、全て正社員にする必然性など全くありません。そんなことをしたら売れなくなってしまうからです。ここにも、このビジネス学校講師の「子どもだからテキトーなことを言っておけばいい」という感覚が窺えます。
  また、子どもが、ハンバーガーが高くなるのは嫌というのを、まるで程度の低い解答とでも言いたげに書いていますが、「灯台もと暗し」もいいところでしょう。講師自身が金銭感覚に訴えてフリーターのデメリットばかり口にしている時点で、この子どもと同レベルだということに気づいていないようです。

>ニートについても「親の甘やかし」や
>「失敗や挫折」などの背景を挙げ、
>自立に向けた精神的な支えの大切さや、
>失敗を恐れず努力することの意義を訴えた。

  一番問題が多いのは、この部分ですね。何がいけないのかというと、ニートが生じる理由に「親の甘やかし」とか「失敗や挫折」を挙げていることです。
  この講師はもとより、彼を招聘した学校側は、子どもの性質について重大な点を見逃しています。それは、子どもは、大人が理屈をこねると、必ずそれをエクスキューズにして、自分の行動を正当化する傾向があるという点です。
  仮に、私がこの授業を聞いた子どもだったら、「自分がニートになったら親が悪いんだ」と思うでしょうし、「失敗や挫折」をしたくないから、何もしないでおこう」と思うでしょうね。子どもというのは、その程度なのです。教えている側は、本音で話しているつもりなのかもしれませんが、子どもを性善説で見ても、いいことは何もありません(「子どもを信じる」ということとは、全く別)。
  少し話はそれますが、マスコミや自称知識人は、自分の話のネタにしたいがために、子どもの行動様式に何でもかんでも意味づけする悪い癖があります。
どうも、そういう連中は、子どもに向かって「自分は理解ある大人だ」ということをアピールしたがっているような気がします。このビジネス講師もそういう類の人間なのかもしれません。
  人の思想信条は自由ですが、少なくとも、実際に子どもと向き合って汗水垂らしている人間がやりにくくなるような俗説を流さないでほしいものです。

  それよりも、もっと頭に来るのが、努力すれば何とかなるという考えがこの講師の言葉からにじみ出てくることです。

  私が一番卑怯だと思う行為は、教育の場にいる人間が、自分の教えていることが無意味なことだと思われないが為に「努力すれば必ず道が開ける」「努力すれば誰でも夢が叶う」と、子どもを洗脳することです。
  私がいつも繰り返し(子どもに対しても)言っていることですが、努力して夢を叶えられる人間は5%もいないのです。●麻生外務大臣も言っていますが、それが「努力しなければいけない」というアジテーションの結末だとしたら、この世の中には絶望しかないということになるでしょう。この講師が自分は成功者だと思っているのか、いまだに努力すれば自己実現できると勘違いしているのか定かではありませんが、「勝ち組」の論理を他人に、あまつさえ子どもに押しつけるのはやめてもらいたいです。

  上のような「努力至上主義」の教育は、高度成長期だから初めて成り立った話です。ボーダーレス化している現代では、一昔前まで簡単に出来た「結婚」や「育児」や「ローンで家を買う」といったことは、なんとなく暮らしていてはまず実現できません。「最近の子どもは夢がない」などと言う馬鹿な大人がいますが、子どもはもしかしたらそういう世の中の困難さを肌で感じ取っているのかもしれません。そうでなくても、一昔前の「ふつうの生活」でなくても、今は何とか(それこそ、フリーターをしてでも)生活していけることは、感じ取っているのではないでしょうか。
  そういう世の中だからこそ、「誰にでもできる努力」に、子どもの目を向け変えるべきです。欲望の充足を通した自己実現を煽れば、ほとんどの人の生きる人生には価値がないことになってしまうからです。
  例えば、犯罪はやらない、親孝行する、できる範囲で人助けをする、やれることはいくらだってあります。収入は少ないけれど、やりがいはあるという仕事をやることもそうでしょう。例えば、葬儀屋さんやゴミ清掃員の人たちがいなかったらどうなるかと考えてみればそういうことはすぐに分かります(葬儀屋さんは結構収入がいいという話は聞きますが・・・)。
  まあ、この方法に唯一弱点があるとすれば、「女にもてない職業は嫌だ」と言われた場合でしょう。こればかりは、女性の方の審美眼に期待するほかありません。(笑)
  それはともかく、本当の職業教育、さらには、人間教育というのは、そういう日の当たらないところを評価することなのではないでしょうか。すぐに子どもたちに伝わらなくても、大人になれば「そうか、あのとき言っていたのはこういうことか。俺の仕事も誰の役に立っているんだろうな」と、思う大人になれるかもしれません(全員がそうであるべきとは言っていないことに注意)。この世の中にある職業は、みんな大なり小なり意味があるからです。

  それを、子どもに受けたいが為に、収入の多寡だけに話を単純化し、最後は言うに事欠いて「努力しろ」。

  ふざけるのもいい加減にしろ!!と言いたくなります。

  穿った見方ですが、学校の教職員(労働組合員)は、こういう話で増えつつあるフリーターの「惨状」を訴え、共産主義革命の準備(笑)をしているのかもしれません。世の中が悪い、格差が悪い、などと言われたら、政府や自民党に対して反感を持たない方がおかしいからです。
  日教組や全教の組合員が、スターや億万長者になれなかった自分を恨む代わりに世の中を恨むことにするのは勝手ですが、子どもまで巻き込むな、と言いたいです。

  最後に、この授業は悪名高き「総合学習」の時間に行われたようです。公立学校ができる「特色がある教育」などこの程度なのだと、義務教育国庫負担金削減に反対したり、教員人事権の市区町村への移譲に賛成している人々は認識しておく必要があるでしょう。
  もし教員人事権を与えられた自治体が●こういう自治体だったらど、いったいどんな「特色ある教育」をするだろうか・・・私だったら、子どもが小学校に上がる前に引っ越します。まあ、その前に子どもを作る方が先ですが。(笑)

【公教育なのに】教員人事権移譲問題について【ユニークさは必要?】

2006年07月03日 00時50分35秒 | 社会と教育
  近頃教育業界で話題になっていることに、「教員人事権の移譲」があります。

  先日も、●こんなニュースが出たばかりです。

(以下引用)

教員人事権は市町村に 都教委が見解まとめる

 東京都教育委員会は22日、都道府県と政令指定都市だけが持つ公立小中学校教職員の人事権をすべての市区町村に移すべきだとの見解をまとめた。文部科学省が教職員人事権を中核市へ移譲するかどうかについて意見照会していたのに対するもので、近く同省に回答する。(以下略)


(引用以上)

  簡単に言えば、東京都は「公立学校の職員の配置は、市区町村が決めるべきだ」と考えているということです。

  近頃、地方自治の分野では、地方分権という言葉がナントカの一つ覚えのように繰り返されています。教員人事権の問題も、当然その文脈で議論されていると考えて良いでしょう。
  要するに、今までは何でもかんでも中央政府が国にとって都合のいいように決めてきたが、それは現代社会の実情に合わなくなっている。そこで、権限を地方に移し、実情にあった政治ができるようにすべきではないか、というものです。
  教員の人事権についても、話の方向性は全く同じです。たとえば、●こちらの記事にもこんなくだりがあります。

>「英語などで特色ある施策を打ち出しても、
>教員の配置が伴わなければ効果がない」
>「政令指定都市並みに人事権も得て責任ある教育を実現したい」
>など中核市を中心に(県教委が人事権を握る半面、
>市教委が教員の服務監督権を持つ二重構造の)見直し論が起きている。

  要するに、「ユニークなことをやろうとしても、その人材がいない。それなら、市区町村が独自に人を取ってもいいという制度にしてくれ」ということです。
  このような動きは、上にあるような中核市(要するに大都市)を中心にすでに「既定路線化」している感すらあります。冒頭の都教委のの答申もそうですし、「構造改革特区」ではすでに400人近くの教員が独自に採用されています。また、●このような取り組みも始まっています。

  では、果たして本当に人事権は市区町村レベルに移譲すべきでしょうか?
  私があれこれ提言をするより、まずは当事者たちが何を言っているのかきちんと分析しておく必要があります。

  まず、反対派にはどういう人たちがいるのかというと、当たり前ですが人事権を持っている道府県の教育行政関係者がいます。金のある自治体とそうでない自治体の間の「人材の適正配分」を盾にしているようです。

  しかし、その主張はあまり信用できません。

  なぜなら、一部の都道府県の教育委員会は、現場レベルでの「サボタージュ」としか思えない動きに対して全く無力だったからです。一番良い例が、広島県の教育委員会でしょう。「日の丸・君が代」に反対する教職員組合に対して、県教育委員会が適切な人事権を発動していれば、●県立世羅高校の校長が自殺することなどなかったはずです。それに、福岡や北海道、沖縄などでは、勤務評定をしないということで道県側と教職員組合が「手打ち」をしていたという実態があります。(詳しくは、●以前の当ブログの記事で)「人材の適正配分」以前に、おまえらの事なかれ主義を直せ!と言ってやりたくなります。

  また、あの日教組も人事権の移譲反対派です。その理由は、●こちらのサイトに出ていますが、言ってることが本当に十年一日です。
  「中核市への給与負担(の移譲)がされるようになれば、当該市と残る県域との間に格差が生じるおそれがある」という主張です。人材の適正配置重視か自治体の自助努力重視かでもめているのに、何を言い出すのかと思えばいきなりカネのことです。本音むき出しで、かえって爽快感すら覚えます。(笑)
  また、「国庫負担制度を口実とした中央集権的教育行政を抜本的に見直し、地方が自主的判断に基づいて行う諸施策について、これを支援する行政への転換を求める」という主張に至っては、人事権の移譲という問題に対する答えになっていません。人の質問の内容すらわかっていないところは、さすが学力崩壊推進派ですね。(証拠は、●この記事ほか多数)。
  どうやら、この団体に建設的な提言を期待する方が間違っているようです。(笑)

  では、推進派である●実践首長会●中央教育審議会の主張は、正当だと言えるでしょうか。

  私が一番引っかかるのは、彼らが実現したいと息巻いている「特色のある教育」という部分です。
  そもそも、公立小・中学校の教育に、「特色」など期待すべきなのでしょうか?
  このブログでも繰り返し書いていますが、公教育の使命は、「社会に出たときに不適合をきたさないための事務処理能力の養成」だと私は考えています。その中身は、「人の話を聞くこと」「我慢すること」「与えられたものを正確にこなすこと」です。それを、多くの分野の基礎となっている9科目の教授を通じて実行するのが、本来の学校の役目です。
  もちろん、人間はロボットではないので、ただ教えれば身に付くというわけではありません。だからこそ、人間が教壇に立って、相手の様子を見ながら教育をしていくわけです。その過程で、教える相手と信頼関係を築いて行かざるをえないということです。
  こういうことを言うと、すぐに「自由な発想」だとか「自主性」とか「創造性」だとか言い出す人間がいます。しかし、そんなものを公教育に期待する方が間違っています。
  公教育は税金の範囲内という制約で、国民として十分社会生活を営めるような人間を育てることが本質なのです。いかに世の中がボーダーレス化しようが、国際化が進もうが、社会の大多数の人間は上に挙げたような能力があれば十分です。「英語教育にもっと力を」などと言う人は、「自分は農家になりたいが、英語は必要か」と質問されたらどう答えるつもりなのでしょう。
  与えられた予算の中で最大限の効果を発揮するには、守備範囲を絞るしかないのです。それなのに、学校というのは知識の伝授以外のいろんなニーズを満たせる素晴らしい場所だという変なイメージがまかり通っています。そのうち、●こういう特色ある学校を作ろうという提言を中教審がし始めそうで怖いです。(笑)
  もうひとつ、私の考えを述べておくとすれば、公教育というのは「子どもが自分では嫌がってやろうとしないことを、なんとか工夫して身につけさせる」というレベルのことだけを守備範囲にすべきです。
  たとえば、九九の計算などは間違いなくそうです。私は七の段や八の段がなかなかできなくて、遅くまで先生に残された記憶があります。他にも、長時間机に座って人の話を聞くこと、先人が残した格調ある日本語を読むこと、都道府県を覚えることなどもそうです。今の学校が、果たしてそういう「本来やるべき事」をきちんと果たせているでしょうか?
  逆に、それ以外の事項、特に、各人の好きだという気持ちが重要な分野は、勉強したい人間が勝手にやればいいのです。それこそが、「規制緩和」であり、「自己責任」です。
  英語を例に取れば、基本的な文法や発音の仕方は知っておけば十分、あとは勝手に各人がやってくださいというだけで十分です。公立学校がやらなくても、大学に入る人は入試というかたちで嫌でも勉強はしなくてはならないわけです。
  そして、そういう受験偏重の現状だからといって、世界経済における日本の地位がどんどん低下しているということもありません。英語が必要だと思った人間が、初等教育で受けた英語力に基づいて「自分で勝手に勉強」して、企業などで活躍しているからです。
  どうも、「特色ある教育を」という話を聞いていると、「下手の横好き」という言葉が頭に浮かんできて仕方がありません。学校の教科書もろくに理解できないのに、派手なデザインの問題集を買いあさったり、宣伝の上手な予備校にカネを出しまくる受験生みたいなものです。そういう受験生は得てしてろくな結果を出せないものです。
  そういう何か新しいことをやれば、首長さんたちには選挙対策や公の場での自慢のネタになるし、ましな人材も確保できます。役人の側も仕事が増えて予算がつくから多いに結構というところなのでしょう。本末転倒もいいところです。

  それでもあえて「特色のある教育」をやりたいのなら、こういう方法もあるという提案をしておきましょう。
  まず、非常勤講師の採用を増やすという方法があります。こうすれば、現行の制度でも特色ある教育は実現可能です。正規の教員でなければダメだ、というのは間違っています。アルバイトを多数採用している民間企業が、特色のあるサービスを提供できないのでしょうか。決してそんなことはないはずです。
  正規の教員を取る場合でも、あくまでその役割は主任的存在に留めるべきです。もちろん、そのためには中途採用が有効な人材確保手段であることは論を待ちません。あるいは、非常勤の「特色ある」教員の中で、優秀な人を昇格させてもいいでしょう。
  人材の育成という点でいえば、民間企業を積極的に使うという手もあります。英会話を教えるなら、今の公立学校の先生たちよりも●こういうところの方が上手なはずです。そういうエッセンスを教えてもらうというのは、公教育にとってもプラスです。
  これに対して、市区町村の論理は、まるで魚の養殖か何かのように、人材育成から人員配置、教育内容の決定や遂行まで、全て自分たち(公務員が)やりますというものです。これこそ「大きな政府」の発想です。郵便局のときによく言われた「民業圧迫」そのものでしょう。
  教育行政に携わる人間は、どうも自分たちは民間企業より高等なことをやっているんだという、妙な自負があるような気がします。それにも関わらず、本当に子どもに必要な基本的能力の育成を怠り、●こういう馬鹿な教員をはびこらせてしまってるのです。「ユニークな教育だって、ちゃんちゃらおかしい」と思うのは私だけでしょうか。
  文部科学省や政府も、人事権を移譲するなら、まず公教育の本分をきちんと達成できているかどうか、評価基準を設けてチェックすべきです。そして、それが守れた自治体だけ人事権を与える方がいいのではないでしょうか。

  どのみち、この分野の「改革」は既定路線になっているようなので、せめて中身が充実してほしいものです。